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グレイハウンド
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隣でアルバイト仲間の柴崎さんが酔っ払いに絡まれている。彼女はかわいい女の子なのでよくあることだ。ショートカットだけど少し童顔で小柄、だけど出るとこはけっこう出ていて引っ込むところはキュっとしているスタイルの持ち主だ。ホルターネックベストもよく似合う。
当然ながら柴崎さんはお客様相手に表情には出さないけど迷惑そうだ。なんとなく伝わってくる。ちらちらと僕の顔を見てくる。
どうして弱そうな女の子にこういう男は強気に出るのか。
しかも隣に同僚が立っているのに。
僕はとにかく見た目とか雰囲気とかが地味で存在感が薄い。もしかしたらナンパ男は僕がいることすら気付いていない可能性もある。普段からよく「え? いたの?」って言われる。もう慣れたけど。
男はともかく、柴崎さんは俺がいることをちゃんと認識しているからそろそろ助けないと後で文句を言われる。これも仕事だ。フルーツカゴからグレープフルーツを取り出して、それを磨くフリをする。それから乗せて落とした風を装って転がした。それを拾うために二人の間に割って入った。
「失礼しました」
僕は演技が上手いわけじゃないのでわざとらしくなってしまった。このバーのマスターである清さんならもっと上手にやれるんだろうけど。今は席を外しているから仕方ない。
「あ?」
ドスの利いた声だ。
カジュアルとはいえ、一応ここはお洒落なバーなのに。エレガントさが無い。
「今の、ワザとだろ」
「いえいえ。そんなことは」
柴崎さんが迷惑がってるのには気付かないのに、そっちには気付いたことに驚いた。
地味で中肉中背の僕なら脅せば大人しくなると思ったのか、男が僕を睨み付けてくる。さて、どうしよう、と思って居たら今度はテーブル席の方から怒号が聞こえてきた。マスターがいない時に限って問題を起こさないで欲しい。
いや、これでこっちの問題も解決できる。
「少々お待ちください」
カウンターに軽く手をついて飛び越える。もちろんカウンターを踏んだりはしないけど、お行儀は良くない。これは威勢の良かったナンパ野郎を脅すための行動だ。
店内は広くない。数歩でそのまま怒鳴った男に駆け寄る。
中年のおじさんだ。怯えた顔をした若い女性もいるから痴情のもつれ? どうでもいいけど。彼らの足元に尻餅をついている人の背中が見える。突き飛ばされて転んだ、とかそんなとこだ。
怒り顔のおじさんが壁に飾ってあった瓶を取り上げて転がっている男を殴ろうと振り上げるのと同時に間に割って入ってその手を押さえる。危ない、瓶と被害者の頭が割れてしまう所だった。
「何だ、この!」
止められたことに怒ったおじさんが僕を蹴ってよこうとしたから、代わりに軽く身体を捻ってお腹の辺りを蹴り飛ばした。悪いけどスピードとリーチと経験が違う。おじさんは宙を飛んで、そのまま狙い通りソファの上に落ちた。強く蹴ったわけじゃないけど素人相手だ。意表を突いたおかげで怪我も無く綺麗に飛んでくれた。
おじさんの手を離れて宙に放り出された瓶を空中でキャッチして定位置に戻す。
中身は入ってないけど飾ってあるくらいだしビンテージの瓶ぽいから壊したら弁償することになりそう。清さんは優しいからそんなこと言わないかもしれないけど。
振り返って、腰を抜かしている人を見ると二十代後半くらいの若者だった。
「大丈夫ですか?」
呆気にとられた顔をして僕を見ていたけど、間の抜けた「あ、はい」という返事が返ってきたので手を差し出して立たせる。一応一度は立ち上がったものの、力が入らないのか、そのままおじさんの向かいのソファにすとん、と落ちるように座ってしまった。
「お前! 暴行罪だぞ! わかってんのか! 警察呼べ!」
おじさんはソファに座ったまま大声でずっと喚いていた。
……酔ってるなぁ。
このテーブルには何杯か運んだ記憶がある。僕がカウンターに入っていた時には既に彼らは居たから、今までにどのくらい飲んだかわからない。カクテルは飲みやすいからつい杯を重ねがちになってしまうけど、アルコール度数が高いものも多いから本人が思っている以上に酔っ払っていることがあるのはよくあることだけど。
「あんたが手を出そうとしたから蹴られたんだよ。正当防衛だ」
面倒だから、このおじさんを外に放り出そうかなとか考え始めたところで援軍が来てくれた。この店の常連客で、マスターの親しい友人で「けんちゃん」と呼ばれている。粗暴な言葉遣いで、相手を威圧するけど、頼りになる良い人だ。店に入ってきたばかりらしく外套を羽織って居る。無骨なトレンチが様になる、そんな男だ。ずっとおろおろしていた女の人も明らかにほっとした顔をする。
「あんた、誰だよ」
だというのに、酔っ払いおじさんが、けんちゃんさんにも食ってかかった。清さんがいつも「けんちゃん」と呼ぶから僕はなんとなくそこに「さん」を付けて彼のことを「けんちゃんさん」と呼んでいる。一回り以上年上だし、なんとなく敬称を付けた方が良いと思ったから。僕は礼儀正しいので。最初は嫌な顔をされたけど最近は何も言わなくなってくれた。
女性が「え?」と小さな声を出した。そりゃそうだろう、けんちゃんの見た目は相当厳つい。どう見ても喧嘩を売っちゃいけない相手だ。
「あんたが呼んだんじゃないか。警察だよ」
懐から何か手帳らしきものを見せて、すっと引っ込める。けんちゃんさんが警察官なのは事実だ。でも、勤務中以外は警察手帳は携帯していないはずなので似たような何かを出してのフェイクだろう。この人はそういうことをごく自然にやる。普段から悪党を相手にしているだけに、肝の据わりぐわいが一般人と違う。やっと相手にしちゃいけない人に噛みついたことに気付いて酔っ払いのおじさんの顔がさーっと青くなっていった。
「言っとくけど、こいつ、今ので十%くらいしか実力出してねえぞ。相手が悪りぃわ」
「そんなに出してないです」
思わず訂正した。
相手は酔っ払いだ。僕がそんなに真面目に喧嘩するはずが……。
「黙ってろ」
低い声で言われて「はい」と引き下がった。
僕は腕を買われてこの店のガードマンとして雇われている身だ。バイトだけど。
眼鏡を外して胸ポケットに入れると後はけんちゃんさんに任せてカウンターに戻る。お客さんにやらせることじゃないけど、けんちゃんさんはもう身内みたいなものだ。
ああいう手合いの相手も慣れて居るだろう。
出て行った時とは逆にちゃんと入り口からカウンターの中にはいると、ナンパ野郎が僕の顔を見た途端に「なんでもないっす」と小声で言いながらそそくさと店の外に出て行った。うん、わかってもらえてよかった。
その背中を見送った後、柴崎さんが俺の方に視線を向けてふぅとため息をついた。
「何?」
「どうせ好きになるなら、強いし、ちゃんと大学行ってるし、継君みたいな子なら良かったのにとは思うけど、継君には絶対好かれたくないって思ってたとこ」
「なんで?」
僕の見た目はものすごく地味だけど、それは可もなく不可もなくっていうレベルだと自認している。イケメンに目を引かれるのと同様に、不細工でも記憶には残る。僕の顔は人の記憶には残らない。特徴がなさ過ぎて。
「継君、好きになる人の趣味がものすごく悪いじゃないの」
柴崎さんは見た目でどうこう言ったわけじゃなかった。
「心外。清さんとかに言われたら納得するけど、柴崎さんに言われたくない」
柴崎さんの好きな人は紛うことなきドクズだ。
そして、僕が愛している人も同レベルのろくでなし。
僕たちは甲乙付けがたい趣味の悪さをしている。
「おい、お会計だ」
二人で顔を見合わせてため息をついていたら、けんちゃんさんに呼ばれたので、慌てて柴崎さんにオーダー表を見せてもらって喧嘩をしていた人達の元に出向く。お支払いいただくのはなかなかの金額だ。腰を抜かしていた男性の分も、始終オタついていた女性の分も合わせておじさんがお支払いをしてくれた。
現役警察官に絞られてすっかり酔いが冷めておじさんは一回り小さくなっている。けんちゃんさんが手早くまとめてくれたんだろう。
もったいない、ここはせっっかうのバーで、柴崎さんは男の趣味は悪いけどカクテル造りの腕はなかなかだからおいしいはずなのに。
酒は飲んでも飲まれるな、だ。
結局なんでいざこざがあったのかわからないままだったけど、気まずそうな三人が店から出ていくと、けんちゃんさんがいつものカウンター席に向かう。右手だけで器用に外套を椅子に掛けると、静まり帰っていた店内で他の客達もざわざわと会話を再開し始める。
いつも通り、けんちゃんさんが柴崎さんに「スコッチ&ソーダ」と告げる。かっこつけた言い方だが、ただのハイボールだ。清さんに矯正される前はやっぱりけんちゃんさんは「ハイボール」と言っていたそうだ。ちなみにバーのハイボール……もとい「スコッチ&ソーダ」は居酒屋と違って氷にも手間を掛けるからひと味違う。清さんだったら常連さんには、さらに+αしてくる。
僕はサンドイッチしか作れないので、カクテル作りは柴崎さんにお任せして、とりあえずグラスを手にして磨いて仕事をしているフリをする。手持ち無沙汰になったのは観察眼に優れたけんちゃんさんにはバレバレだから、僕にむかって話しかけてきた。
「明日、会うんだろ?」
「なんで知ってるんです?」
「キヨに聞いた」
デートの日程とか人に話すもんじゃないなぁ。清さんもなんで警察の人なんかに言っちゃうかな。世間話ついでに話しただけなのに。
「心配してんだろ。お節介だからな」
僕の心の内を読んだようにけんちゃんさんが言った。会いに行く人が人でなしだから、かな。
柴崎さんがテーブルに琥珀色のグラスを置く。
「グレイハウンド」
グラスを手に取ってけんちゃんさんが珍しくハイボール以外のカクテルを注文した。日本ではブルドックとも言われているカクテルだ。ウォッカとグレープフルーツで作る酒で、縁に塩を飾ればソルティ・ドッグになる。
「俺の奢りでそいつに」
グラスを持った指を一本だけ伸ばして僕を指さす。
「キヨにも言っておいたが、俺は何も心配は要らねえと思ってる。おまえは強い」
にやりと笑ってグラスに口を付ける。
たしかに、喧嘩の強さだけには自信があるけど。
「なんでグレイハウンドなんです?」
「猟犬だろ」
柴崎さんがグレープフルーツを半分に切る。爽やかな香りが広がった。
グレイハウンドは元々、足が速くヨーロッパでは貴族だけが飼うことを許されていた由緒正しき猟犬だ。
絞った果汁の香りが心地良い。さらにそれを柴崎さんがシェイクする。
ショットカクテルだからアルコール度数は強い。だけどシェイクして空気を孕むとグレイハウンドは格段に優しい味になる。グレープフルーツの独特の甘さと目を覚ますような柑橘系の香りの強い酒だ。
「仕事で悪党が善良な一般市民をいたぶってる様を散々見てるからな。全く嫌になる。だから期待してんだよ。おまえみたいな庶民顔の奴があのゴロツキを追い詰めていくのを」
どんな期待ですか、それ。追い詰めているつもりはないし。
「このままあいつが外に出たら、また同じ事になる。いや、もっと酷いことになるだろうな」
けんちゃんさんの笑みが深くなる。
僕もそれは、そう思う。
だけど、桜庭君はゴロツキって感じの人じゃないんだけど。見た目だけは。
「けんちゃんさん、これのカクテル言葉って知ってます?」
「さぁ、どうだかな」
ぶっきらぼうな物言い。知らなかったら、この人ははっきりそう言う。ハイボールばっかり頼むくせに、そういうのを知ってるところ、この人は案外ロマンチストだ。僕を心配してくれているのは清さんだけじゃない。
勤務中だけど、せっかくなので小さなグラスに入ったグラスを傾けて一気に飲み干した。
僕が桜庭君とあったのは中学生の時。ただのクラスメイトだった。
背が少し低くて、クラスの中ではずば抜けて整った顔をしていた。西洋の彫刻家が作った天使の像みたいだと思ったものだ。祖母にあたる人がロシア人らしいとか、そんな話も聞いた。確かに肌の色も髪の色も薄く、瞳も日本人のものとは違う儚げな色をしていた。
僕はその頃から全然目立たず、クラスの中に溶け込んで中の中くらいの成績をとって、無難な学校生活を送っていたから目立つ彼とは接点がなかった。ただ見ていただけ。運動神経には自信もあるし、やろうと思えば運動部で目立つこともできたろうけど、それもしなかった。
逆に桜庭君はその容姿が悪目立ちをして、早々にちょっと悪い先輩達に目をつけられていた。使える、と思われたんだろう。事実、その通りだった。その容姿に惹かれる人は男女問わず、大人にも多かった。噂話を聞く限りそういうことみたいだ。
クラスで少し浮いていたこともあり、嫌煙されている先輩方と連み始めたからいつの間にか本当に教室の中に彼の居場所はなくなっていた。役に立つを思ってくれる先輩方を慕うのは当然だ。見た目が天使でも中身はただの中学生なんだから。犯罪ギリギリの行為をさせられていたとかなんとか。そんな話がまことしやかに語られていた。
あまり学校には来ていなかったけど、何故か時々は教室に来ていたことは僕も覚えている。校則違反のピアスをしてつまらなそうな顔で授業を聞いている横顔も端正だった。
とにかく僕とは縁が無かった。その頃の僕は彼のことをただ「綺麗な同級生」としか見ていなかったし、特別な感情は持っていなかった。関わりたくないと思っていた。地味で目立たないことは僕のアイデンティティでもある。
きちんと品行方正だった僕はごく普通の中くらいの公立高校に進学し、桜庭君は成績も内申も芳しくなかったから当然別の高校に行ってそれっきりになるはずだった。進学してからは彼の存在も忘れていた。
だけど、この店でアルバイトを始めたその日、僕は彼と再会した。
桜庭君は当然僕の存在など気付かなかったしテーブルにカクテルを運んでも同級生だったことなんて思い出しもしなかった。あの頃のまま、ものすごくきれいな青年になっていて、ただでさえ薄い髪を脱色してほとんど銀髪になっていたけど、似合っていた。そんなことをしたら大抵の人は胡散臭くてチャラくなるのに、違和感が無い。
ピアスの数は増えていて、指には悪趣味な指輪をしていたのに、それでもやっぱり彫刻像が動き出したかのように美麗だった。変な柄のシャツを着ていたのに、趣味の悪い四角い靴を履いていたのに、品の無いサングラスをポケットに刺していたのに、僕は目を奪われた。儚げに見えた。
あの時、僕は桜庭君に恋をした。
音が消えて、桜庭君だけしか見えなくなったあの時に。
おかしなものだ。知っているはずの人なのに、僕は一目惚れをした。
地味で目立たず存在感の無い僕が、なんだってこんな人に心を奪われたのか。
彼が店に踏み込んだ警察に逮捕されたのもその日のことで、僕は近くにいるのになかなか会えない遠距離みたいなおかしな片恋を始めることになってしまった。
少年漫画を三冊買う。決まりで差し入れできるのは三冊までだ。喜んで貰えるといいんだけど。すぐに読み終わってしまうとは思うけど、本は苦手だって言ってたし読みやすそうな児童文学を持っていくとバカにされたと感じてしまう可能性もある。今は面白くて大人が夢中になるような児童文学もいろいろあるのに。その辺り、しっかりコンプレックスらしい。
桜庭君の罪は違法薬物の所持だ。初犯でも無く、その薬物を販売するつもりでの所持だったことから五年の懲役が言い渡された。本人もそういうお薬を楽しんでいたようでフラッシュバックがおこったりして治療もしているとか。
刑務所の高い壁の切れ目から中に入って、受付で差し入れの品を預ける。書籍の類いは検閲が入る。せっかくのバトルシーンとか真っ黒に塗りつぶされたりしないかちょっと心配だけど、どこが黒塗りになるのか基準は僕にはわからない。
そこから殺風景な接見室に通される。最初は本当にドラマと同じだと感動したけどもう慣れてしまった。
パイプ椅子に腰掛けてしばらく待つと、透明なアクリル板の向こうの部屋のドアが開いて同席のための警察官と一緒に桜庭君が入ってきた。僕の顔がほころぶのがわかった。桜庭君は中学生の頃と変わらぬ仏頂面だ。それでも綺麗だけど。髪は短く刈り上げられているし、いかにもなジャージを着ているけどやっぱり惚れ惚れするほどの美貌だ。
銀髪も似合っていたけど、今の明るい茶色がやっぱり一番似合う。
立ち上がって警察の方に会釈する。
薬物に関する罪で服役する人は接見禁止のこともあるらしいので、弁護士でも家族でもないのに接見ができる僕は運が良かった方だろう。
もうここに通い始めて三年になる。桜庭君には残念ながら模範的なところはないそうなのであと二年はこうやって会うことになる。出てきたところで薬物の治療は続くだろう。中毒性の低い大麻ならともかく、覚醒剤は一生後遺症に悩むことになる凶悪な麻薬だ。
「また来たのか」
行儀悪く透明な壁を挟んで僕の向かいの椅子に座った桜庭君が呆れたように言う。
「うん。来た」
声に出さずに「どうして」と唇が動く。
「僕って人間に慣れてもらわないと困るからね」
ちっと舌打ちが聞こえた。
桜庭君のご両親は甘くない。というか、普通の人だ。とっくに彼は勘当されている。というか桜庭君から逃げた。世間の冷たい目にも耐えられず、彼のお兄さんは婚約していたお嬢さんから破談を言い渡されたそうだ。
刑務所に入る前に連んでいた仲間は助けてはくれない。彼には出所したら住むところがない。行くところの無い人が住む施設である更生保護施設はあるけれど、それよりは僕の家の方が良いんじゃないかと持ちかけているところだ。聞けば出所後、友人の家に転がり込む人は少なくないそうだし。
残念ながら今のところ僕と彼は友人ですらないから、まず友達になろうと努力しているところだ。
僕の両親は他界しているし、家主の祖父は海外にいる。そこそこ広い一戸建てに一人暮らしの状態だ。部屋は空いてる。
「自分が何言ってんのかわかってんのか?」
「もちろん?」
首を傾げるとまた舌打ちが聞こえた。
桜庭君、本当に少し本を読んだ方が良い。語彙を身につけるためにも。舌打ちされても何も分からないし、傷つくだけだ。
「俺はお前を殺そうとしたんだぞ?」
「そうだね」
だからなんだと言うんだろう。
初バイトのあの日、桜庭君と再会した日、逮捕劇の騒動の中でパニックを起こした彼は僕に向かって短刀、いわゆるドスってやつを構えて僕に向かってきた。麻薬中毒者にはありがちなことだそうだ。ちなみに僕はかすり傷一つ負わなかったから殺人未遂は彼の罪状には載ってない。面倒くさそうだから無かったことにしてもらった。大罪がついてしまったら桜庭君の出所も遅くなるだろうし。だいたい薬物による錯乱であって、僕に恨みがあるわけじゃない。あの時点で恨みを買うはずがない。なにせ同級生なのに覚えられていなかったし、視界にすら入ってなかった。あの時まで地味な僕は彼の中で風景でしかなかった。
銃刀法所持違反は罪状に乗っかったかもしれない。詳しくは知らない。
桜庭君はどこでそんな物を手に入れたのか。
本格的に暴力団と関わる前に警察に保護して貰ったのは不幸中の幸いだ。そんなとこに行ってしまったら僕の手の届かない存在になってしまう。
「君が僕を殺せるはずない」
僕は強いから。
「昨日バイト先でカクテルを奢ってもらったんだよ。グレイハウンドっていうやつなんだけど。居酒屋だとウォッカにグレープフルーツを混ぜるだけだけど、うちのはちゃんとグレープフルーツをその場で搾ってシェイクもする本格的なやつ」
桜庭君が訝しげな顔をする。
「カクテルには、グレイハウンドはメジャーなカクテルだからカクテル言葉っていうのがあるんだ。花言葉みたいなもの」
「だから?」
「側で見守っていたいっていう意味を込めて――あなたを守りたい、なんだよ」
桜庭君が目を見張る。
さっきから、一言も発してない同席の警察官もなんとも言えない顔をしている。
自分でも支離滅裂なことを言ってるのはわかってるよ。自分を殺そうとした人間に対して「守りたい」なんて。確かに僕は被害者だけど、実際は何も傷ついていないし失ってもいない。それに引き換え加害者の桜庭君は何もかも失った。無論彼の自業自得だけど、家族も、家も、仲間も全部。
「それで思ったんだよね。僕なら君を守れる。だから安心していい」
にっこりと微笑む。
「俺は……お前を…………!」
桜庭君が小さく震えている。苛立たしそうに睨み付けられる。
殺そうとした人間に守られるなんて屈辱なのかい?でも、いくらイキったところで麻薬でラリっているならともかく君に人は殺せない。そんな度胸は君には無い。そして、君みたいな小さな人間が、罪人に対する世間の風当たりに耐えられるとは思えない。
「喧嘩の仕方くらいなら教えてあげられると思うよ?」
そう言うと桜庭君の瞳がはっきりと揺らいだ。
君が少しクラスで浮いたくらいで、不良の先輩方の誘惑に流されたりしたのは、強さに憧れたからでもあるんだろう?
店で捕まったあの日、襲いかかってきた桜庭君をねじ伏せて警察に突き出したのは僕だ。腕っぷしの強さしか取り柄はない僕は、その力で生まれて初めてできた人を咎人にした。
桜庭君が口を開き掛けてまた噤む。綺麗な人はどんな表情をしても綺麗だ。
接見時間は十五分しかない。
震えている桜庭君をただ見つめている内に時間になってしまった。また扉の奥に彼が去って行く。
ドアの向こうに消える瞬間、桜庭君が振り返って僕を見た。何かを言いたいのに上手く言葉が出ない、そんな感じだ。
今までこんなことはなかった。
思わずパイプ椅子から立ち上がると、ギシリと音が鳴った。
もしも、中学生だったあの頃に僕が彼をあの不良グループから助けていたのなら結果は変わっていただろうか。僕は強い。上級生と言っても相手はたかが中学生。相手の人数が数人だったとしても負けるはずはなかった。
だけど、あの時は興味がなかった。お互いに風景の一部でしかなかった。
「もっと前に好きになっていたら良かったのかな」
今日は彼の人生の脇役として登場するくらいには昇格しただろうか。少なくても彼にとって、僕は風景ではなくなった。
彼が個々を出るまであと二年。
その間に僕たちの間に何かしらの関係性を築けたら……。
目を閉じる。視界から彼が消えた瞬間を思い出して脳裏に刻む。あの時聞けなかった言葉を次に会う時には聞くために。
当然ながら柴崎さんはお客様相手に表情には出さないけど迷惑そうだ。なんとなく伝わってくる。ちらちらと僕の顔を見てくる。
どうして弱そうな女の子にこういう男は強気に出るのか。
しかも隣に同僚が立っているのに。
僕はとにかく見た目とか雰囲気とかが地味で存在感が薄い。もしかしたらナンパ男は僕がいることすら気付いていない可能性もある。普段からよく「え? いたの?」って言われる。もう慣れたけど。
男はともかく、柴崎さんは俺がいることをちゃんと認識しているからそろそろ助けないと後で文句を言われる。これも仕事だ。フルーツカゴからグレープフルーツを取り出して、それを磨くフリをする。それから乗せて落とした風を装って転がした。それを拾うために二人の間に割って入った。
「失礼しました」
僕は演技が上手いわけじゃないのでわざとらしくなってしまった。このバーのマスターである清さんならもっと上手にやれるんだろうけど。今は席を外しているから仕方ない。
「あ?」
ドスの利いた声だ。
カジュアルとはいえ、一応ここはお洒落なバーなのに。エレガントさが無い。
「今の、ワザとだろ」
「いえいえ。そんなことは」
柴崎さんが迷惑がってるのには気付かないのに、そっちには気付いたことに驚いた。
地味で中肉中背の僕なら脅せば大人しくなると思ったのか、男が僕を睨み付けてくる。さて、どうしよう、と思って居たら今度はテーブル席の方から怒号が聞こえてきた。マスターがいない時に限って問題を起こさないで欲しい。
いや、これでこっちの問題も解決できる。
「少々お待ちください」
カウンターに軽く手をついて飛び越える。もちろんカウンターを踏んだりはしないけど、お行儀は良くない。これは威勢の良かったナンパ野郎を脅すための行動だ。
店内は広くない。数歩でそのまま怒鳴った男に駆け寄る。
中年のおじさんだ。怯えた顔をした若い女性もいるから痴情のもつれ? どうでもいいけど。彼らの足元に尻餅をついている人の背中が見える。突き飛ばされて転んだ、とかそんなとこだ。
怒り顔のおじさんが壁に飾ってあった瓶を取り上げて転がっている男を殴ろうと振り上げるのと同時に間に割って入ってその手を押さえる。危ない、瓶と被害者の頭が割れてしまう所だった。
「何だ、この!」
止められたことに怒ったおじさんが僕を蹴ってよこうとしたから、代わりに軽く身体を捻ってお腹の辺りを蹴り飛ばした。悪いけどスピードとリーチと経験が違う。おじさんは宙を飛んで、そのまま狙い通りソファの上に落ちた。強く蹴ったわけじゃないけど素人相手だ。意表を突いたおかげで怪我も無く綺麗に飛んでくれた。
おじさんの手を離れて宙に放り出された瓶を空中でキャッチして定位置に戻す。
中身は入ってないけど飾ってあるくらいだしビンテージの瓶ぽいから壊したら弁償することになりそう。清さんは優しいからそんなこと言わないかもしれないけど。
振り返って、腰を抜かしている人を見ると二十代後半くらいの若者だった。
「大丈夫ですか?」
呆気にとられた顔をして僕を見ていたけど、間の抜けた「あ、はい」という返事が返ってきたので手を差し出して立たせる。一応一度は立ち上がったものの、力が入らないのか、そのままおじさんの向かいのソファにすとん、と落ちるように座ってしまった。
「お前! 暴行罪だぞ! わかってんのか! 警察呼べ!」
おじさんはソファに座ったまま大声でずっと喚いていた。
……酔ってるなぁ。
このテーブルには何杯か運んだ記憶がある。僕がカウンターに入っていた時には既に彼らは居たから、今までにどのくらい飲んだかわからない。カクテルは飲みやすいからつい杯を重ねがちになってしまうけど、アルコール度数が高いものも多いから本人が思っている以上に酔っ払っていることがあるのはよくあることだけど。
「あんたが手を出そうとしたから蹴られたんだよ。正当防衛だ」
面倒だから、このおじさんを外に放り出そうかなとか考え始めたところで援軍が来てくれた。この店の常連客で、マスターの親しい友人で「けんちゃん」と呼ばれている。粗暴な言葉遣いで、相手を威圧するけど、頼りになる良い人だ。店に入ってきたばかりらしく外套を羽織って居る。無骨なトレンチが様になる、そんな男だ。ずっとおろおろしていた女の人も明らかにほっとした顔をする。
「あんた、誰だよ」
だというのに、酔っ払いおじさんが、けんちゃんさんにも食ってかかった。清さんがいつも「けんちゃん」と呼ぶから僕はなんとなくそこに「さん」を付けて彼のことを「けんちゃんさん」と呼んでいる。一回り以上年上だし、なんとなく敬称を付けた方が良いと思ったから。僕は礼儀正しいので。最初は嫌な顔をされたけど最近は何も言わなくなってくれた。
女性が「え?」と小さな声を出した。そりゃそうだろう、けんちゃんの見た目は相当厳つい。どう見ても喧嘩を売っちゃいけない相手だ。
「あんたが呼んだんじゃないか。警察だよ」
懐から何か手帳らしきものを見せて、すっと引っ込める。けんちゃんさんが警察官なのは事実だ。でも、勤務中以外は警察手帳は携帯していないはずなので似たような何かを出してのフェイクだろう。この人はそういうことをごく自然にやる。普段から悪党を相手にしているだけに、肝の据わりぐわいが一般人と違う。やっと相手にしちゃいけない人に噛みついたことに気付いて酔っ払いのおじさんの顔がさーっと青くなっていった。
「言っとくけど、こいつ、今ので十%くらいしか実力出してねえぞ。相手が悪りぃわ」
「そんなに出してないです」
思わず訂正した。
相手は酔っ払いだ。僕がそんなに真面目に喧嘩するはずが……。
「黙ってろ」
低い声で言われて「はい」と引き下がった。
僕は腕を買われてこの店のガードマンとして雇われている身だ。バイトだけど。
眼鏡を外して胸ポケットに入れると後はけんちゃんさんに任せてカウンターに戻る。お客さんにやらせることじゃないけど、けんちゃんさんはもう身内みたいなものだ。
ああいう手合いの相手も慣れて居るだろう。
出て行った時とは逆にちゃんと入り口からカウンターの中にはいると、ナンパ野郎が僕の顔を見た途端に「なんでもないっす」と小声で言いながらそそくさと店の外に出て行った。うん、わかってもらえてよかった。
その背中を見送った後、柴崎さんが俺の方に視線を向けてふぅとため息をついた。
「何?」
「どうせ好きになるなら、強いし、ちゃんと大学行ってるし、継君みたいな子なら良かったのにとは思うけど、継君には絶対好かれたくないって思ってたとこ」
「なんで?」
僕の見た目はものすごく地味だけど、それは可もなく不可もなくっていうレベルだと自認している。イケメンに目を引かれるのと同様に、不細工でも記憶には残る。僕の顔は人の記憶には残らない。特徴がなさ過ぎて。
「継君、好きになる人の趣味がものすごく悪いじゃないの」
柴崎さんは見た目でどうこう言ったわけじゃなかった。
「心外。清さんとかに言われたら納得するけど、柴崎さんに言われたくない」
柴崎さんの好きな人は紛うことなきドクズだ。
そして、僕が愛している人も同レベルのろくでなし。
僕たちは甲乙付けがたい趣味の悪さをしている。
「おい、お会計だ」
二人で顔を見合わせてため息をついていたら、けんちゃんさんに呼ばれたので、慌てて柴崎さんにオーダー表を見せてもらって喧嘩をしていた人達の元に出向く。お支払いいただくのはなかなかの金額だ。腰を抜かしていた男性の分も、始終オタついていた女性の分も合わせておじさんがお支払いをしてくれた。
現役警察官に絞られてすっかり酔いが冷めておじさんは一回り小さくなっている。けんちゃんさんが手早くまとめてくれたんだろう。
もったいない、ここはせっっかうのバーで、柴崎さんは男の趣味は悪いけどカクテル造りの腕はなかなかだからおいしいはずなのに。
酒は飲んでも飲まれるな、だ。
結局なんでいざこざがあったのかわからないままだったけど、気まずそうな三人が店から出ていくと、けんちゃんさんがいつものカウンター席に向かう。右手だけで器用に外套を椅子に掛けると、静まり帰っていた店内で他の客達もざわざわと会話を再開し始める。
いつも通り、けんちゃんさんが柴崎さんに「スコッチ&ソーダ」と告げる。かっこつけた言い方だが、ただのハイボールだ。清さんに矯正される前はやっぱりけんちゃんさんは「ハイボール」と言っていたそうだ。ちなみにバーのハイボール……もとい「スコッチ&ソーダ」は居酒屋と違って氷にも手間を掛けるからひと味違う。清さんだったら常連さんには、さらに+αしてくる。
僕はサンドイッチしか作れないので、カクテル作りは柴崎さんにお任せして、とりあえずグラスを手にして磨いて仕事をしているフリをする。手持ち無沙汰になったのは観察眼に優れたけんちゃんさんにはバレバレだから、僕にむかって話しかけてきた。
「明日、会うんだろ?」
「なんで知ってるんです?」
「キヨに聞いた」
デートの日程とか人に話すもんじゃないなぁ。清さんもなんで警察の人なんかに言っちゃうかな。世間話ついでに話しただけなのに。
「心配してんだろ。お節介だからな」
僕の心の内を読んだようにけんちゃんさんが言った。会いに行く人が人でなしだから、かな。
柴崎さんがテーブルに琥珀色のグラスを置く。
「グレイハウンド」
グラスを手に取ってけんちゃんさんが珍しくハイボール以外のカクテルを注文した。日本ではブルドックとも言われているカクテルだ。ウォッカとグレープフルーツで作る酒で、縁に塩を飾ればソルティ・ドッグになる。
「俺の奢りでそいつに」
グラスを持った指を一本だけ伸ばして僕を指さす。
「キヨにも言っておいたが、俺は何も心配は要らねえと思ってる。おまえは強い」
にやりと笑ってグラスに口を付ける。
たしかに、喧嘩の強さだけには自信があるけど。
「なんでグレイハウンドなんです?」
「猟犬だろ」
柴崎さんがグレープフルーツを半分に切る。爽やかな香りが広がった。
グレイハウンドは元々、足が速くヨーロッパでは貴族だけが飼うことを許されていた由緒正しき猟犬だ。
絞った果汁の香りが心地良い。さらにそれを柴崎さんがシェイクする。
ショットカクテルだからアルコール度数は強い。だけどシェイクして空気を孕むとグレイハウンドは格段に優しい味になる。グレープフルーツの独特の甘さと目を覚ますような柑橘系の香りの強い酒だ。
「仕事で悪党が善良な一般市民をいたぶってる様を散々見てるからな。全く嫌になる。だから期待してんだよ。おまえみたいな庶民顔の奴があのゴロツキを追い詰めていくのを」
どんな期待ですか、それ。追い詰めているつもりはないし。
「このままあいつが外に出たら、また同じ事になる。いや、もっと酷いことになるだろうな」
けんちゃんさんの笑みが深くなる。
僕もそれは、そう思う。
だけど、桜庭君はゴロツキって感じの人じゃないんだけど。見た目だけは。
「けんちゃんさん、これのカクテル言葉って知ってます?」
「さぁ、どうだかな」
ぶっきらぼうな物言い。知らなかったら、この人ははっきりそう言う。ハイボールばっかり頼むくせに、そういうのを知ってるところ、この人は案外ロマンチストだ。僕を心配してくれているのは清さんだけじゃない。
勤務中だけど、せっかくなので小さなグラスに入ったグラスを傾けて一気に飲み干した。
僕が桜庭君とあったのは中学生の時。ただのクラスメイトだった。
背が少し低くて、クラスの中ではずば抜けて整った顔をしていた。西洋の彫刻家が作った天使の像みたいだと思ったものだ。祖母にあたる人がロシア人らしいとか、そんな話も聞いた。確かに肌の色も髪の色も薄く、瞳も日本人のものとは違う儚げな色をしていた。
僕はその頃から全然目立たず、クラスの中に溶け込んで中の中くらいの成績をとって、無難な学校生活を送っていたから目立つ彼とは接点がなかった。ただ見ていただけ。運動神経には自信もあるし、やろうと思えば運動部で目立つこともできたろうけど、それもしなかった。
逆に桜庭君はその容姿が悪目立ちをして、早々にちょっと悪い先輩達に目をつけられていた。使える、と思われたんだろう。事実、その通りだった。その容姿に惹かれる人は男女問わず、大人にも多かった。噂話を聞く限りそういうことみたいだ。
クラスで少し浮いていたこともあり、嫌煙されている先輩方と連み始めたからいつの間にか本当に教室の中に彼の居場所はなくなっていた。役に立つを思ってくれる先輩方を慕うのは当然だ。見た目が天使でも中身はただの中学生なんだから。犯罪ギリギリの行為をさせられていたとかなんとか。そんな話がまことしやかに語られていた。
あまり学校には来ていなかったけど、何故か時々は教室に来ていたことは僕も覚えている。校則違反のピアスをしてつまらなそうな顔で授業を聞いている横顔も端正だった。
とにかく僕とは縁が無かった。その頃の僕は彼のことをただ「綺麗な同級生」としか見ていなかったし、特別な感情は持っていなかった。関わりたくないと思っていた。地味で目立たないことは僕のアイデンティティでもある。
きちんと品行方正だった僕はごく普通の中くらいの公立高校に進学し、桜庭君は成績も内申も芳しくなかったから当然別の高校に行ってそれっきりになるはずだった。進学してからは彼の存在も忘れていた。
だけど、この店でアルバイトを始めたその日、僕は彼と再会した。
桜庭君は当然僕の存在など気付かなかったしテーブルにカクテルを運んでも同級生だったことなんて思い出しもしなかった。あの頃のまま、ものすごくきれいな青年になっていて、ただでさえ薄い髪を脱色してほとんど銀髪になっていたけど、似合っていた。そんなことをしたら大抵の人は胡散臭くてチャラくなるのに、違和感が無い。
ピアスの数は増えていて、指には悪趣味な指輪をしていたのに、それでもやっぱり彫刻像が動き出したかのように美麗だった。変な柄のシャツを着ていたのに、趣味の悪い四角い靴を履いていたのに、品の無いサングラスをポケットに刺していたのに、僕は目を奪われた。儚げに見えた。
あの時、僕は桜庭君に恋をした。
音が消えて、桜庭君だけしか見えなくなったあの時に。
おかしなものだ。知っているはずの人なのに、僕は一目惚れをした。
地味で目立たず存在感の無い僕が、なんだってこんな人に心を奪われたのか。
彼が店に踏み込んだ警察に逮捕されたのもその日のことで、僕は近くにいるのになかなか会えない遠距離みたいなおかしな片恋を始めることになってしまった。
少年漫画を三冊買う。決まりで差し入れできるのは三冊までだ。喜んで貰えるといいんだけど。すぐに読み終わってしまうとは思うけど、本は苦手だって言ってたし読みやすそうな児童文学を持っていくとバカにされたと感じてしまう可能性もある。今は面白くて大人が夢中になるような児童文学もいろいろあるのに。その辺り、しっかりコンプレックスらしい。
桜庭君の罪は違法薬物の所持だ。初犯でも無く、その薬物を販売するつもりでの所持だったことから五年の懲役が言い渡された。本人もそういうお薬を楽しんでいたようでフラッシュバックがおこったりして治療もしているとか。
刑務所の高い壁の切れ目から中に入って、受付で差し入れの品を預ける。書籍の類いは検閲が入る。せっかくのバトルシーンとか真っ黒に塗りつぶされたりしないかちょっと心配だけど、どこが黒塗りになるのか基準は僕にはわからない。
そこから殺風景な接見室に通される。最初は本当にドラマと同じだと感動したけどもう慣れてしまった。
パイプ椅子に腰掛けてしばらく待つと、透明なアクリル板の向こうの部屋のドアが開いて同席のための警察官と一緒に桜庭君が入ってきた。僕の顔がほころぶのがわかった。桜庭君は中学生の頃と変わらぬ仏頂面だ。それでも綺麗だけど。髪は短く刈り上げられているし、いかにもなジャージを着ているけどやっぱり惚れ惚れするほどの美貌だ。
銀髪も似合っていたけど、今の明るい茶色がやっぱり一番似合う。
立ち上がって警察の方に会釈する。
薬物に関する罪で服役する人は接見禁止のこともあるらしいので、弁護士でも家族でもないのに接見ができる僕は運が良かった方だろう。
もうここに通い始めて三年になる。桜庭君には残念ながら模範的なところはないそうなのであと二年はこうやって会うことになる。出てきたところで薬物の治療は続くだろう。中毒性の低い大麻ならともかく、覚醒剤は一生後遺症に悩むことになる凶悪な麻薬だ。
「また来たのか」
行儀悪く透明な壁を挟んで僕の向かいの椅子に座った桜庭君が呆れたように言う。
「うん。来た」
声に出さずに「どうして」と唇が動く。
「僕って人間に慣れてもらわないと困るからね」
ちっと舌打ちが聞こえた。
桜庭君のご両親は甘くない。というか、普通の人だ。とっくに彼は勘当されている。というか桜庭君から逃げた。世間の冷たい目にも耐えられず、彼のお兄さんは婚約していたお嬢さんから破談を言い渡されたそうだ。
刑務所に入る前に連んでいた仲間は助けてはくれない。彼には出所したら住むところがない。行くところの無い人が住む施設である更生保護施設はあるけれど、それよりは僕の家の方が良いんじゃないかと持ちかけているところだ。聞けば出所後、友人の家に転がり込む人は少なくないそうだし。
残念ながら今のところ僕と彼は友人ですらないから、まず友達になろうと努力しているところだ。
僕の両親は他界しているし、家主の祖父は海外にいる。そこそこ広い一戸建てに一人暮らしの状態だ。部屋は空いてる。
「自分が何言ってんのかわかってんのか?」
「もちろん?」
首を傾げるとまた舌打ちが聞こえた。
桜庭君、本当に少し本を読んだ方が良い。語彙を身につけるためにも。舌打ちされても何も分からないし、傷つくだけだ。
「俺はお前を殺そうとしたんだぞ?」
「そうだね」
だからなんだと言うんだろう。
初バイトのあの日、桜庭君と再会した日、逮捕劇の騒動の中でパニックを起こした彼は僕に向かって短刀、いわゆるドスってやつを構えて僕に向かってきた。麻薬中毒者にはありがちなことだそうだ。ちなみに僕はかすり傷一つ負わなかったから殺人未遂は彼の罪状には載ってない。面倒くさそうだから無かったことにしてもらった。大罪がついてしまったら桜庭君の出所も遅くなるだろうし。だいたい薬物による錯乱であって、僕に恨みがあるわけじゃない。あの時点で恨みを買うはずがない。なにせ同級生なのに覚えられていなかったし、視界にすら入ってなかった。あの時まで地味な僕は彼の中で風景でしかなかった。
銃刀法所持違反は罪状に乗っかったかもしれない。詳しくは知らない。
桜庭君はどこでそんな物を手に入れたのか。
本格的に暴力団と関わる前に警察に保護して貰ったのは不幸中の幸いだ。そんなとこに行ってしまったら僕の手の届かない存在になってしまう。
「君が僕を殺せるはずない」
僕は強いから。
「昨日バイト先でカクテルを奢ってもらったんだよ。グレイハウンドっていうやつなんだけど。居酒屋だとウォッカにグレープフルーツを混ぜるだけだけど、うちのはちゃんとグレープフルーツをその場で搾ってシェイクもする本格的なやつ」
桜庭君が訝しげな顔をする。
「カクテルには、グレイハウンドはメジャーなカクテルだからカクテル言葉っていうのがあるんだ。花言葉みたいなもの」
「だから?」
「側で見守っていたいっていう意味を込めて――あなたを守りたい、なんだよ」
桜庭君が目を見張る。
さっきから、一言も発してない同席の警察官もなんとも言えない顔をしている。
自分でも支離滅裂なことを言ってるのはわかってるよ。自分を殺そうとした人間に対して「守りたい」なんて。確かに僕は被害者だけど、実際は何も傷ついていないし失ってもいない。それに引き換え加害者の桜庭君は何もかも失った。無論彼の自業自得だけど、家族も、家も、仲間も全部。
「それで思ったんだよね。僕なら君を守れる。だから安心していい」
にっこりと微笑む。
「俺は……お前を…………!」
桜庭君が小さく震えている。苛立たしそうに睨み付けられる。
殺そうとした人間に守られるなんて屈辱なのかい?でも、いくらイキったところで麻薬でラリっているならともかく君に人は殺せない。そんな度胸は君には無い。そして、君みたいな小さな人間が、罪人に対する世間の風当たりに耐えられるとは思えない。
「喧嘩の仕方くらいなら教えてあげられると思うよ?」
そう言うと桜庭君の瞳がはっきりと揺らいだ。
君が少しクラスで浮いたくらいで、不良の先輩方の誘惑に流されたりしたのは、強さに憧れたからでもあるんだろう?
店で捕まったあの日、襲いかかってきた桜庭君をねじ伏せて警察に突き出したのは僕だ。腕っぷしの強さしか取り柄はない僕は、その力で生まれて初めてできた人を咎人にした。
桜庭君が口を開き掛けてまた噤む。綺麗な人はどんな表情をしても綺麗だ。
接見時間は十五分しかない。
震えている桜庭君をただ見つめている内に時間になってしまった。また扉の奥に彼が去って行く。
ドアの向こうに消える瞬間、桜庭君が振り返って僕を見た。何かを言いたいのに上手く言葉が出ない、そんな感じだ。
今までこんなことはなかった。
思わずパイプ椅子から立ち上がると、ギシリと音が鳴った。
もしも、中学生だったあの頃に僕が彼をあの不良グループから助けていたのなら結果は変わっていただろうか。僕は強い。上級生と言っても相手はたかが中学生。相手の人数が数人だったとしても負けるはずはなかった。
だけど、あの時は興味がなかった。お互いに風景の一部でしかなかった。
「もっと前に好きになっていたら良かったのかな」
今日は彼の人生の脇役として登場するくらいには昇格しただろうか。少なくても彼にとって、僕は風景ではなくなった。
彼が個々を出るまであと二年。
その間に僕たちの間に何かしらの関係性を築けたら……。
目を閉じる。視界から彼が消えた瞬間を思い出して脳裏に刻む。あの時聞けなかった言葉を次に会う時には聞くために。
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