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さほど弱くない
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数週間休んでいた大学にようやく顔を出せるようになったが、その胸の内は憂鬱でいっぱいだった。
「お、ようやく来た。さびしかったぞ~!」
よくつるむ同じゼミ仲間二人のうち一人にそう言われ肩を強めに叩かれた時、ようやくホッと胸を撫で下ろす。
「ちゃんと講義ノートとってあげたからな」
「ごめん、ありがと」
当然ながら、あの状況では大学もバイトも休まざるえなかった。
急なバースの転換により体調は安定しなかった。それに加えて薬こそ飲んでいたが副作用も強かったため、ついに諦めたのだ。
つまりΩになることを受け入れた形となる。
しかしそう簡単に割り切る事ができれば苦労なんてしない。
「……」
「な、なんだよ」
もう一人の男。相変わらず肥満系オタクの彼はジッと奏汰を見つめている。
あからさまなそれに、思わず身がまえる。
彼らは当然βだ。発情期ですらないΩのフェロモンに目の色を変えることはないだろう。
しかし嫌でたまらないのだ。
Ωとなったことで受けるであろう差別や好奇の目が。
だが、予想は大きく外れた。
「お前には布教したい推しと推し作品がたんまりいる」
「へ?」
一瞬で頭が『?』一色になる。
「これはすべて沼るぞ」
「??」
「損はさせん」
「???」
「だからこれからもちゃんと大学に来い、わかったな?」
「!」
普段は他人を心配するどころか気にかける素振りもない男の言葉に奏汰は驚いた。
だがそれにかまうことなく、やれ今をときめく新人のバーチャルアイドルがいるだとか今期のアニメは豊作だとか。
嬉々として(もっさりのびた前髪からは伺い知れないが) 語り出す姿に困惑する。
「ほら、そろそろ行こうぜ」
見かねたのかもう一人が割って入る。
「朝イチの講義、遅刻するとめんどくさいだろ」
「あ、うん」
そういえばそうだったかもしれない。
歩き出した三人。
「……」
すれ違う学生達の中で数人、眉をひそめ立ち止まり振り返る。
ヒソヒソと何事か言葉を交わしてこちらをみる者たちもいた。
奏汰は小さくため息をついた。
βから転換してΩになった現実が胸を重くさせる。
やはり、わかる者にはわかるのだろう。
「奏汰ちゃん!」
「おい奏汰」
気にするだけ損だと自分に言い聞かせている奏汰に対して、二人が同時に名前を呼ぶ。
そして。
「後でうちのカノジョの話、聞いてよ。この前プレゼントしたバッグ、速攻オークションで売られたんだけど。これってヒドくない!?」
「親からの仕送り、すべて投げ銭になって詰んだから金貸してくれ」
いっせいに話し始めた内容はとんでもないものだったが、彼は自然と笑顔になった。
「まったく、しょうがないな」
こうやって変わらず接してくれる人もいるのだから。
※※※
だがしかし美談だけで終わらないのが現実。
「悪いけどもう、君をシフトに入れることが出来ない」
店長の牧蔵 琴音は通常営業のクールさで言い放つ。
「それは僕が……Ωになったからですか」
診断書は提出した。だから覚悟はしていたのだが、実際に言われるときついものがある。
「まあ、そうだね」
変なおためごかしを言わないのがある意味誠実かもしれない。
「Ωの子をホールに出すわけにはいかないし、裏方はもう人手足りてるから」
トラブル回避のためなのは容易に想像できる。明良だって入ってからずっとホールに回されることはなかった。
ストーカーや性被害、中にはフェロモンにあてられたなどの理不尽なクレームも有り得る。
それがわかっているからこの解雇に素直に頷くしかなかったのだ。
「わかりました」
短くそう答えて、頭を下げる。
「制服はクリーニングしてまた持ってきます」
努めて冷静に言った。
少しでも何か余計なことを考えれば冷静じゃいられなくなるような気がしたから。
さっさと事務所を出る。
更衣室に寄り予備に置いておいた制服を引っ掴んで、ロッカーをこころなしか強く閉めた時だった。
「あー、やっぱり金城くんだ」
かけられた声に振り返る。
「佐倉さん」
ふるゆわ、という言葉がぴったりの少女が立っていた。
「ひさしぶりー。身体もう大丈夫ぅ?」
佐倉 絵里、奏汰とおなじ大学生に見えるが実は二十代後半のフリーターだ。
そのバイト歴の長さからか、店長である佐倉は彼女に色々と仕事を任せることが多い。
いわゆるバイトリーダーなのだが、本人はその事をとくに鼻にかけるわけでも嫌がるわけでもないので後輩からも慕われていた。
かくいう奏汰も世話になってきたこともあり、今でも頭が上がらないのだが。
「クビにされたんだって?」
どうしてそれを、と聞くより先。
「よかったー、これでようやくジャマ者がいなくなる」
「えっ」
可愛らしい声に毒が交じる。
予想外の言葉に奏汰は固まった。
「ぶっちゃけさぁ、ほんとウザかったんだよね。金城くんもあのΩも。って、アンタもΩになったんだっけ」
「さ、佐倉さ――」
「やっぱりね、Ωはいらないっていうかぁ。ムカつくんだよねー」
そこで彼女が深いため息をつく。もちろんいつもと変わら無邪気そうな笑顔で、だ。
「どーせαに媚び売って楽して生きていくんでしょ? いいよね、アンタらは」
「そんな」
「……ほらそうやってすぐ被害者ヅラする」
キッ、と睨みつけられた。
「尻拭いさせられるこっちの身にもなれっつーの」
「す、すいません」
たしかにそうかもしれない。
Ωがヒートによりまとまった休暇をとらなければならないのは法律で決められており、事業者や学校はそれを守っている。
しかしその間、フォローをしなければならない存在がいることも忘れてはいけない。
絵里の気迫と言葉にうつむく奏汰。しかしそれを見た彼女の気は、おさまるどころか加虐心が加速したようで。
「あーあ、いいよねぇ。こうやって弱者気取っていれば、実際は大きな顔していられて」
「……」
「だいたいなんで使えないクセに社会に出てくんのかなー」
かろうじて笑顔はたもっているものの、ドロドロとした感情がふきだして止まらくなっているようだ。
「こちとら就職失敗して、フリーターしてるっていうのにね」
自嘲気味に笑いながらも目元が冷たい。
「ま、いいけど♡」
取ってつけたとはこのこと。いいとも思っていないし、なんならいまだ敵意むき出しだ。
とはいえ彼女自身、これが完全なる八つ当たりだというのはよく理解しているのだろう。
だからといって一度表に出した感情をおさめるのは非常に難しいもので。
坂道を転がり始めた石塊がどんどん速度を出していくかのごとく、怒りが噴出していく。
「だから店長にも言ったんだよね。Ωなんて雇わない方がいいって」
一分の隙もなく施されたメイク。ナチュラル風なそれが思い切り歪むのを奏汰は何も言い返すことも出来ず見つめていた。
「んで結局、妊娠しちゃうし。つーか知ってる? 店長ったら、あんなやつでもクビにしないって最初言ってたんだよ? あの人も甘すぎるよね。そもそもΩのクセに生意気なの。店長にちょっと優しくされて調子のって、男だけじゃなくて女にも媚び媚びでウザすぎるわ。結局αなら何でもいいんだよね、Ωって」
どうやら明良がバイトを辞めさせられたのは、前から彼を良く思っていなかった彼女の進言もあったらしい。
店長である牧蔵はαでありながら、彼のことをそれとなく気にかけていたのは後に聞いた話。
「店長に迷惑かけるとかマジ無理、死んで欲しいくらい」
絵里が牧蔵のことを慕っているのは知っていた。
いつでも連勤するし、休んでいても呼んで欲しいと何度も彼女に言っていたのも聞いた事がある。
大学生の頃からアルバイトしていて付き合いも長く、バイト先の上司というより姉のような態度だった。
そんな彼女は、唇をキュッと噛んでから。
「あたしだったらあの人にあんな苦労かけさせないのに」
吐き捨てるように言い踵を返す。
「はやく消えろや、このビッチが」
という捨て台詞を残して立ち去った。
「……」
ずっと明るくニコニコとした先輩だった。なのでここまでの憎悪と敵意を向けられるなんて微塵も思っていなかったのだ。
奏汰はショックで鼓動が早まる心臓を落ち着けようと胸をおさえた。
「いやでも、これ僕が悪いのかよ」
たしかにショックだ。だが納得はしていない。
「いやいやいや」
やはりとばっちりだし理不尽だろうと結論づけた。それでも。
「凹むなぁ」
大きな音を立て更衣室のドアがしまった後の、ビリビリと空気が震える感覚に首をすくめて呟いた。
「あーあ」
Ωの風当たりの強さは想定内だが、だからといって傷つかないわけでもなく。しかしここで涙を流すほどか弱くはない。
――帰るか、と心なしか重くなった肩に顔をしかめながら足を踏み出した時。
無遠慮なノックと共に再び更衣室のドアが開く。
「入るよ」
ノックの意味など微塵もない様子で、今度は牧蔵が入ってきた。
「あ、もう帰りますから」
「ちがう。別に文句を言いに来た訳じゃない」
先制した言葉もあっさり否定される。
「これを渡して欲しい」
「え、誰に……って御祝儀?」
淡い黄色を基調としたそれは、よくある祝儀袋とは違っていた。
デフォルメされたクマのイラストと共に印刷されているのは『ご出産祝い』という文字。
もちろんフォントも丸っこく、どこかポップである。
「これって」
「堂守に。退職金も込みだと伝えて」
本人のクールさとは真反対の可愛らしい祝儀袋を片手に、奏汰は少し唖然とした。
「店長」
「彼のことも全部、私が悪かった」
うつむいた彼女の顔はよく見えない。
「佐倉の、君に対する暴言だって私のせいだ」
「……」
「あの子は昔から思い詰めやすいところがあってね」
二人はどうやら付き合っているらしい。
その中で牧蔵はα、絵里はΩである事や彼女がいつまでもフリーターであることが悩みの原因になっていたというわけだ。
「特にΩに対する敵意がひどくて」
恐らく絵里は恋人の子供が産みたいのだろう、と奏汰は漠然と思った。
同じ女性同士ではΩでない限り、子どもを成すことはできない。
「でも大卒でこんな、しがない居酒屋の店長やってるαによくついてきてくれる子なんだ」
「そうだったんですか」
「まったく情けないね。愛想尽かされても文句言えない」
「それは違うんじゃないかな」
「え?」
思わず否定の言葉が口からついて出ると、彼女が驚いたように目を見開く。
「少なくても彼女は店長のことを愛してるっぽいし、だから僕は怒られたんですよ」
店長に迷惑かけるなってね、と奏汰は肩をすくめてみせた。
「まずちゃんと気持ち伝えてみたらどうですか」
「気持ち、か……」
「そう。人間はエスパーじゃないんで、せっかく言葉があるんだから」
「……」
「って、僕が言うことじゃないかもだけど」
さすがに店長に説教するのはまずかったか。しかしもう辞めるのだし良いか、なんて呑気に考えていると。
「金城」
考え込むような静かな声。
「ありがとね。たしかに伝えなきゃ分からないか」
どこかスッキリとした表情だった。
そして彼女は大股で、更衣室の出口まで歩きだす。
「じゃ、悪いけど御祝儀はわたしといて」
「もちろん」
たのんだ、とうなずいた彼女はふと足を止めて考え込むように黙る。そしてこちらに振り返った。
「……プロポーズするには指輪ってやっぱり必要かな」
「知りませんよ」
この人もたいがいだな、と奏汰は少し呆れた。
「お、ようやく来た。さびしかったぞ~!」
よくつるむ同じゼミ仲間二人のうち一人にそう言われ肩を強めに叩かれた時、ようやくホッと胸を撫で下ろす。
「ちゃんと講義ノートとってあげたからな」
「ごめん、ありがと」
当然ながら、あの状況では大学もバイトも休まざるえなかった。
急なバースの転換により体調は安定しなかった。それに加えて薬こそ飲んでいたが副作用も強かったため、ついに諦めたのだ。
つまりΩになることを受け入れた形となる。
しかしそう簡単に割り切る事ができれば苦労なんてしない。
「……」
「な、なんだよ」
もう一人の男。相変わらず肥満系オタクの彼はジッと奏汰を見つめている。
あからさまなそれに、思わず身がまえる。
彼らは当然βだ。発情期ですらないΩのフェロモンに目の色を変えることはないだろう。
しかし嫌でたまらないのだ。
Ωとなったことで受けるであろう差別や好奇の目が。
だが、予想は大きく外れた。
「お前には布教したい推しと推し作品がたんまりいる」
「へ?」
一瞬で頭が『?』一色になる。
「これはすべて沼るぞ」
「??」
「損はさせん」
「???」
「だからこれからもちゃんと大学に来い、わかったな?」
「!」
普段は他人を心配するどころか気にかける素振りもない男の言葉に奏汰は驚いた。
だがそれにかまうことなく、やれ今をときめく新人のバーチャルアイドルがいるだとか今期のアニメは豊作だとか。
嬉々として(もっさりのびた前髪からは伺い知れないが) 語り出す姿に困惑する。
「ほら、そろそろ行こうぜ」
見かねたのかもう一人が割って入る。
「朝イチの講義、遅刻するとめんどくさいだろ」
「あ、うん」
そういえばそうだったかもしれない。
歩き出した三人。
「……」
すれ違う学生達の中で数人、眉をひそめ立ち止まり振り返る。
ヒソヒソと何事か言葉を交わしてこちらをみる者たちもいた。
奏汰は小さくため息をついた。
βから転換してΩになった現実が胸を重くさせる。
やはり、わかる者にはわかるのだろう。
「奏汰ちゃん!」
「おい奏汰」
気にするだけ損だと自分に言い聞かせている奏汰に対して、二人が同時に名前を呼ぶ。
そして。
「後でうちのカノジョの話、聞いてよ。この前プレゼントしたバッグ、速攻オークションで売られたんだけど。これってヒドくない!?」
「親からの仕送り、すべて投げ銭になって詰んだから金貸してくれ」
いっせいに話し始めた内容はとんでもないものだったが、彼は自然と笑顔になった。
「まったく、しょうがないな」
こうやって変わらず接してくれる人もいるのだから。
※※※
だがしかし美談だけで終わらないのが現実。
「悪いけどもう、君をシフトに入れることが出来ない」
店長の牧蔵 琴音は通常営業のクールさで言い放つ。
「それは僕が……Ωになったからですか」
診断書は提出した。だから覚悟はしていたのだが、実際に言われるときついものがある。
「まあ、そうだね」
変なおためごかしを言わないのがある意味誠実かもしれない。
「Ωの子をホールに出すわけにはいかないし、裏方はもう人手足りてるから」
トラブル回避のためなのは容易に想像できる。明良だって入ってからずっとホールに回されることはなかった。
ストーカーや性被害、中にはフェロモンにあてられたなどの理不尽なクレームも有り得る。
それがわかっているからこの解雇に素直に頷くしかなかったのだ。
「わかりました」
短くそう答えて、頭を下げる。
「制服はクリーニングしてまた持ってきます」
努めて冷静に言った。
少しでも何か余計なことを考えれば冷静じゃいられなくなるような気がしたから。
さっさと事務所を出る。
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「あー、やっぱり金城くんだ」
かけられた声に振り返る。
「佐倉さん」
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いわゆるバイトリーダーなのだが、本人はその事をとくに鼻にかけるわけでも嫌がるわけでもないので後輩からも慕われていた。
かくいう奏汰も世話になってきたこともあり、今でも頭が上がらないのだが。
「クビにされたんだって?」
どうしてそれを、と聞くより先。
「よかったー、これでようやくジャマ者がいなくなる」
「えっ」
可愛らしい声に毒が交じる。
予想外の言葉に奏汰は固まった。
「ぶっちゃけさぁ、ほんとウザかったんだよね。金城くんもあのΩも。って、アンタもΩになったんだっけ」
「さ、佐倉さ――」
「やっぱりね、Ωはいらないっていうかぁ。ムカつくんだよねー」
そこで彼女が深いため息をつく。もちろんいつもと変わら無邪気そうな笑顔で、だ。
「どーせαに媚び売って楽して生きていくんでしょ? いいよね、アンタらは」
「そんな」
「……ほらそうやってすぐ被害者ヅラする」
キッ、と睨みつけられた。
「尻拭いさせられるこっちの身にもなれっつーの」
「す、すいません」
たしかにそうかもしれない。
Ωがヒートによりまとまった休暇をとらなければならないのは法律で決められており、事業者や学校はそれを守っている。
しかしその間、フォローをしなければならない存在がいることも忘れてはいけない。
絵里の気迫と言葉にうつむく奏汰。しかしそれを見た彼女の気は、おさまるどころか加虐心が加速したようで。
「あーあ、いいよねぇ。こうやって弱者気取っていれば、実際は大きな顔していられて」
「……」
「だいたいなんで使えないクセに社会に出てくんのかなー」
かろうじて笑顔はたもっているものの、ドロドロとした感情がふきだして止まらくなっているようだ。
「こちとら就職失敗して、フリーターしてるっていうのにね」
自嘲気味に笑いながらも目元が冷たい。
「ま、いいけど♡」
取ってつけたとはこのこと。いいとも思っていないし、なんならいまだ敵意むき出しだ。
とはいえ彼女自身、これが完全なる八つ当たりだというのはよく理解しているのだろう。
だからといって一度表に出した感情をおさめるのは非常に難しいもので。
坂道を転がり始めた石塊がどんどん速度を出していくかのごとく、怒りが噴出していく。
「だから店長にも言ったんだよね。Ωなんて雇わない方がいいって」
一分の隙もなく施されたメイク。ナチュラル風なそれが思い切り歪むのを奏汰は何も言い返すことも出来ず見つめていた。
「んで結局、妊娠しちゃうし。つーか知ってる? 店長ったら、あんなやつでもクビにしないって最初言ってたんだよ? あの人も甘すぎるよね。そもそもΩのクセに生意気なの。店長にちょっと優しくされて調子のって、男だけじゃなくて女にも媚び媚びでウザすぎるわ。結局αなら何でもいいんだよね、Ωって」
どうやら明良がバイトを辞めさせられたのは、前から彼を良く思っていなかった彼女の進言もあったらしい。
店長である牧蔵はαでありながら、彼のことをそれとなく気にかけていたのは後に聞いた話。
「店長に迷惑かけるとかマジ無理、死んで欲しいくらい」
絵里が牧蔵のことを慕っているのは知っていた。
いつでも連勤するし、休んでいても呼んで欲しいと何度も彼女に言っていたのも聞いた事がある。
大学生の頃からアルバイトしていて付き合いも長く、バイト先の上司というより姉のような態度だった。
そんな彼女は、唇をキュッと噛んでから。
「あたしだったらあの人にあんな苦労かけさせないのに」
吐き捨てるように言い踵を返す。
「はやく消えろや、このビッチが」
という捨て台詞を残して立ち去った。
「……」
ずっと明るくニコニコとした先輩だった。なのでここまでの憎悪と敵意を向けられるなんて微塵も思っていなかったのだ。
奏汰はショックで鼓動が早まる心臓を落ち着けようと胸をおさえた。
「いやでも、これ僕が悪いのかよ」
たしかにショックだ。だが納得はしていない。
「いやいやいや」
やはりとばっちりだし理不尽だろうと結論づけた。それでも。
「凹むなぁ」
大きな音を立て更衣室のドアがしまった後の、ビリビリと空気が震える感覚に首をすくめて呟いた。
「あーあ」
Ωの風当たりの強さは想定内だが、だからといって傷つかないわけでもなく。しかしここで涙を流すほどか弱くはない。
――帰るか、と心なしか重くなった肩に顔をしかめながら足を踏み出した時。
無遠慮なノックと共に再び更衣室のドアが開く。
「入るよ」
ノックの意味など微塵もない様子で、今度は牧蔵が入ってきた。
「あ、もう帰りますから」
「ちがう。別に文句を言いに来た訳じゃない」
先制した言葉もあっさり否定される。
「これを渡して欲しい」
「え、誰に……って御祝儀?」
淡い黄色を基調としたそれは、よくある祝儀袋とは違っていた。
デフォルメされたクマのイラストと共に印刷されているのは『ご出産祝い』という文字。
もちろんフォントも丸っこく、どこかポップである。
「これって」
「堂守に。退職金も込みだと伝えて」
本人のクールさとは真反対の可愛らしい祝儀袋を片手に、奏汰は少し唖然とした。
「店長」
「彼のことも全部、私が悪かった」
うつむいた彼女の顔はよく見えない。
「佐倉の、君に対する暴言だって私のせいだ」
「……」
「あの子は昔から思い詰めやすいところがあってね」
二人はどうやら付き合っているらしい。
その中で牧蔵はα、絵里はΩである事や彼女がいつまでもフリーターであることが悩みの原因になっていたというわけだ。
「特にΩに対する敵意がひどくて」
恐らく絵里は恋人の子供が産みたいのだろう、と奏汰は漠然と思った。
同じ女性同士ではΩでない限り、子どもを成すことはできない。
「でも大卒でこんな、しがない居酒屋の店長やってるαによくついてきてくれる子なんだ」
「そうだったんですか」
「まったく情けないね。愛想尽かされても文句言えない」
「それは違うんじゃないかな」
「え?」
思わず否定の言葉が口からついて出ると、彼女が驚いたように目を見開く。
「少なくても彼女は店長のことを愛してるっぽいし、だから僕は怒られたんですよ」
店長に迷惑かけるなってね、と奏汰は肩をすくめてみせた。
「まずちゃんと気持ち伝えてみたらどうですか」
「気持ち、か……」
「そう。人間はエスパーじゃないんで、せっかく言葉があるんだから」
「……」
「って、僕が言うことじゃないかもだけど」
さすがに店長に説教するのはまずかったか。しかしもう辞めるのだし良いか、なんて呑気に考えていると。
「金城」
考え込むような静かな声。
「ありがとね。たしかに伝えなきゃ分からないか」
どこかスッキリとした表情だった。
そして彼女は大股で、更衣室の出口まで歩きだす。
「じゃ、悪いけど御祝儀はわたしといて」
「もちろん」
たのんだ、とうなずいた彼女はふと足を止めて考え込むように黙る。そしてこちらに振り返った。
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