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拉致かもしれない?
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崎坂の流れるような手口に絶句していた篠井は、腕を引かれるままによろよろと、玄関口まで連れて来られた。
建物の外は傘も役に立たないような横殴りの雨だ。崎坂が開いた大きな傘の中へ、肩を抱くように引き寄せられる。
「……行くよ」
そう耳元で合図されると同時に、教職員用の駐車場へと走らされた。飛んできた雨粒が顔に当たって眼がしぱしぱする。けれど肩を掴む崎坂の手がきちんと誘導してくれるから、きっと今なら眼を瞑っていても迷いなく走れるだろう。
遠隔キーに反応した彼の愛車が、返事をするように数度ライトを光らせた。あまり車に詳しくない篠井ですらわかった。昨今の女性たちが彼氏の理想的愛車として選びそうな、有名な海外メーカーのSUVだ。
「篠井くん、大丈夫? 濡れてない?」
そう言いながら崎坂は助手席のドアを開き、押し込めるように篠井をシートへ乗せた。そして自分も反対側へ回ると、車外で傘についた雨粒を振り払ってから、運転席へ乗り込む。
「……はい。俺はそんなに」
「そっか。よかった」
崎坂が微笑みながらエンジンをかける。同時にスピーカーから、ゆったりとした洋楽が小さく流れ出した。音の輪郭が夜の闇に溶けてしまうような、甘く優しい曲だ。何だか崎坂の声や口調のようだとも思う。
「……音楽ってぜんぜん詳しくなくて、ジャンルとかわかんないんですけど、こういうの落ち着いてて好きかも」
思わずそう呟けば、運転席の崎坂が柔らかく微笑む。
「そっか。こういう雰囲気が好きなら、『チルアウト・ミュージック』とかで探すと、洋楽も邦楽もいろいろ見つかると思うよ」
篠井が知らない単語に固まっている間に、車体はゆっくりと滑るように発進した。とりあえず崎坂は聴いている音楽もいちいち大人っぽくて、オシャレが爆発していることは理解できた。
「おうちはどっち方面?」
「××区です」
「了解」
フロントガラスへ降り注ぐ大粒の雨は、左右に触れたワイパーに拭われ、最終的には窓の端を小さな滝のように流れて消える。
「それにしてもすごい雨だな。こんな日の残業なんて、篠井くん不運だったね」
「……いつも車通勤なんですか」
「ああ、今日は夜から雨がすごいって天気予報で見てたから。自転車で来る時も多いよ」
「自転車?」
「気持ちがいいし、運動になるんだ」
「へえ……」
そうやって自己管理をしてこその、彼のスタイルのよさなのだろう。同時に自分が真っ先に思い浮かべてしまったような、いわゆるママチャリ的自転車では絶対ないな、ということも察せられた。
篠井には日頃から運動する習慣なんてない。ひどく運動神経が悪いわけではないが、社会人になってからは、慣れない仕事やひとり暮らしのための雑事でいっぱいいっぱいだった。わざわざ身体を動かそうなんて気にはなれず、そのまま今に至る。
崎坂とは年が少し離れていることもあるけれど、つくづく見た目も性格も、共通点をまったく見出せなかった。
だいたい崎坂はアラフォー独身とはいえ、女子学生にも、事務や食堂や購買なんかの女性職員にも、何なら構内に出入りする営業や業者の女性にだって、とにかくモテまくっている。彼女のひとりやふたりいないわけがない。
何しろ職場が同じというだけの、挙動不審で面白みもない同性事務員、つまり篠井にですらこんなに優しくしてくれる男だ。一般的に結婚を意識しがちな年齢でまだ独身なのも、きっとよりどりみどりすぎて焦っていないからだろう。
地味で、モテないコミュ障で、ただ力量不足によって恋人ができないだけの篠井とは大違いだ。
「あ、ちなみに夕飯は食べた?」
「えっと、……はい」
「何食べたの?」
「えっ」
「ね、教えて?」
「う、その……残業中に、メロンパンを……」
「えっ!? それ、夕飯って言わないよね!?」
篠井の返答へ声のボリュームを上げた崎坂に対し、一瞬びくっと肩を揺らしてしまった。
「……ざ、残業確定だなってわかった時、購買が閉まる直前……で、……慌てて飛び込んだら、それしかなくて……」
我ながら何だか言い訳めいた口調になった。相手のリアクションに委縮し、何か怒らせるようなことをしたんじゃないかと不安になり、余計にしどろもどろの反応をして呆れられる。いつもの自分のパターンではあった。
けれど胸の片隅にはそれだけでは済まない、モヤモヤした違和感が生まれていた。
「あ、あの、でもいっつもこんなふうじゃなくて……」
「あー、……うん。ごめん。責めてるわけじゃないからね。びっくりしただけ。それに僕がしつこく訊いたから、言ってくれたのにね」
「いえ……」
頭の回転があまり速くないことを自認している篠井は、フロントガラスに当たって流れる雨をぼんやり眺めた。そうして少し考え込んで、自分は崎坂に後ろめたさを感じているのだと気づいた。
先日、篠井の昼食がおにぎりふたつだと言った時、崎坂は心配してあれもこれもと自分の弁当のおかずを譲ってくれた。差し出されるすべてが美味しくて遠慮なく頬張る篠井を、崎坂は眼鏡越しの垂れ目を細めて見つめていた。
それなのに、今日の食生活はさらに悪化していると思われただろう。不可抗力とはいえ知られたくはなかった。
自立している社会人なのにそんな心配をされるなんて、恥ずかしい気持ちもある。
「まあ、でもそれなら、お腹に余裕はあるでしょ?」
「……へ?」
ちょうど赤信号に掴まった。運転席の崎坂を見れば、にっこりとこちらへ微笑んでいる。薄暗い車内で、追い打ちのように小首を傾げる悪戯っぽい仕草が、やたらと艶っぽく見えてドキッとした。
「ね? 僕、ご飯まだだから。何か食べに行こ」
「え、……えええ!?」
「何がいいかな。和洋中ならどの気分?」
「あっ、えー……と……」
夕飯を食べに行こう、という誘いに篠井はまだ返答もしていなかった。しかしあっという間に決定事項にされている。そもそも車で送ってくれると提案された時も、なんなら最初に崎坂の研究室へ引っ張り込まれた時も、そんな片鱗は見えていた。
崎坂は基本的に見た目通りの紳士だ。包容力があるし細かいことを気遣ってくれる。下っ端事務員の篠井に対してもゆったりと心地よい声で喋り、口調だって年輩ぶった圧など感じられない。
けれどどうやら崎坂は、こうと決めたらわりと強引に自分のペースへ巻き込む性格らしい。
これまで篠井に対し発揮されたその特性は、どれも崎坂の我儘などではなく、篠井にとって有難い提案ばかりだ。けれど問答無用だったことには違いなかった。
崎坂のスペックだから許される行動なのか。もしくはそんな振る舞いも含め、「女子は引っ張ってくれる男性が好き(ただしそれをやってサマになる、エスコート上手なイケメンに限る)」的なところでモテオーラを強化しているのか。
ぐるぐると考えたところで、やっぱり人種カテゴリーが違いすぎてよくわからない、という結論に辿り着いてしまう。
とりあえず篠井には到底できない芸当だ。それだけは深く理解できた。
「篠井くん?」
「は、はいっ」
「訊き方、ざっくりしすぎたかな?」
黙りこくってしまった篠井に、崎坂は少し困った声音で問いかけてきた。
「もしかして、お腹ぜんぜん空いてない? 残業後で疲れてるだろうし、ご飯なんか行きたくないなら……」
「い、いえ! そういうわけじゃ……」
寂しげな声で篠井を気遣う言葉に、思わず否定してしまった。嫌なわけではないし、正直嬉しい。そんな自分の気持ちには気づいている。ただ、この怒涛の展開に戸惑っていただけだ。
「そっか。ならよかった」
「……はい」
「あ、和洋中って言ったけど、焼肉なら一応韓国料理で本格的なカレーならインドだね。タイやベトナムのエスニックって選択肢もあるし」
「うーん……」
「もしくは別方向のアプローチで、肉と魚ならどっちが食べたい? 主食は米か麺かパンか、でもいいよ。……どう? ヒントもらえそう?」
「え、えっと……それで言うなら……」
「うんうん」
「さっきパン食べたし、米……?」
「そうか。おっけ。こってりとさっぱりならどっち? お腹と相談してみて」
「……こってりすぎない方が、いいかも、です」
篠井はすぐ言葉につかえてしまうから、たどたどしい会話ではあった。それでも家族や長い付き合いの友人以外に、こうしてちゃんと自分の希望を伝えられることはめずらしい。ましてや年上の、立場だって違う人なのに、だ。
たぶん最大の理由は、矢継ぎ早に選択肢を与えられたことだ。篠井がこういう時すぐ口にしてしまう「何でもいいです」を言う隙がなかった。
「じゃあ、和食かな。好き嫌い、そんなにないって言ってたもんね?」
「はい」
「僕の気に入ってるお店でいい?」
「はい……」
誘導に従って頷くことしかできなかったけれど、それがありがたかった。篠井はこういう時に提案できる店の情報なんて、さっぱり持ち合わせがない。
一般企業の営業職とかなら、いざという時用の店を知る機会もあるのだろう。しかし篠井は内勤業務の大学職員で、毎日職場の隅っこで大人しく過ごしている。
プライベートの交友関係だってよく言えば少数精鋭数。学生時代に篠井と同じく陰キャグループに属していたような、数名の男子のみだ。洒落た空間を窮屈に思うようなタイプばかりだから、キラキラリア充とは程遠い。社会人になってからたまに集まるのも、疲れたリーマン御用達の雑然とした飲み屋や、どこにでもあるフランチャイズの居酒屋とかだ。
もし可愛い彼女でもできれば、こんな自分でも必死にリサーチするかもしれない。けれど残念ながら、今の篠井にその心配はなかった。
別に悔しくなんかない、と心の中でそっと悪態をついた。
目的の店は都心の小さな建物で、専用駐車場もないとのことだった。スムーズな運転で最寄りのコインパーキングに駐車する。
崎坂が先に運転席から降りて雨傘を広げた。しっとりと濡れた夜の闇と、雨でぼやけた街灯や道路沿いの看板の明かりに、その長身の姿が映える。同性として妬ましいほどかっこよかった。
映画かドラマか、もしくは美しいポートレートでも見ているようだ。正直一瞬、見とれてしまった。
「篠井くん?」
「あっ、はい……!」
我に返ってもたもたとシートベルトを外している間に、回り込んできた崎坂が助手席のドアを開けた。ルーフに被せるように傘を差しかけられる。
「あ、俺も折り畳み傘持ってるんですけど……」
「行くつもりのお店はすぐそこだから。この方が早いよ」
結局また一本の傘で男ふたりが肩を寄せ合って、少しだけ弱まった雨脚の中を急ぐ。着いた先はこぢんまりと雰囲気のいい、二階建ての料理屋だった。
ふたり連れなので一階のカウンター席でもよかったけれど、悪天候で客入りも少ないからと、二階のゆったりと座れるグループ客用の座敷席へ通された。
建物の外は傘も役に立たないような横殴りの雨だ。崎坂が開いた大きな傘の中へ、肩を抱くように引き寄せられる。
「……行くよ」
そう耳元で合図されると同時に、教職員用の駐車場へと走らされた。飛んできた雨粒が顔に当たって眼がしぱしぱする。けれど肩を掴む崎坂の手がきちんと誘導してくれるから、きっと今なら眼を瞑っていても迷いなく走れるだろう。
遠隔キーに反応した彼の愛車が、返事をするように数度ライトを光らせた。あまり車に詳しくない篠井ですらわかった。昨今の女性たちが彼氏の理想的愛車として選びそうな、有名な海外メーカーのSUVだ。
「篠井くん、大丈夫? 濡れてない?」
そう言いながら崎坂は助手席のドアを開き、押し込めるように篠井をシートへ乗せた。そして自分も反対側へ回ると、車外で傘についた雨粒を振り払ってから、運転席へ乗り込む。
「……はい。俺はそんなに」
「そっか。よかった」
崎坂が微笑みながらエンジンをかける。同時にスピーカーから、ゆったりとした洋楽が小さく流れ出した。音の輪郭が夜の闇に溶けてしまうような、甘く優しい曲だ。何だか崎坂の声や口調のようだとも思う。
「……音楽ってぜんぜん詳しくなくて、ジャンルとかわかんないんですけど、こういうの落ち着いてて好きかも」
思わずそう呟けば、運転席の崎坂が柔らかく微笑む。
「そっか。こういう雰囲気が好きなら、『チルアウト・ミュージック』とかで探すと、洋楽も邦楽もいろいろ見つかると思うよ」
篠井が知らない単語に固まっている間に、車体はゆっくりと滑るように発進した。とりあえず崎坂は聴いている音楽もいちいち大人っぽくて、オシャレが爆発していることは理解できた。
「おうちはどっち方面?」
「××区です」
「了解」
フロントガラスへ降り注ぐ大粒の雨は、左右に触れたワイパーに拭われ、最終的には窓の端を小さな滝のように流れて消える。
「それにしてもすごい雨だな。こんな日の残業なんて、篠井くん不運だったね」
「……いつも車通勤なんですか」
「ああ、今日は夜から雨がすごいって天気予報で見てたから。自転車で来る時も多いよ」
「自転車?」
「気持ちがいいし、運動になるんだ」
「へえ……」
そうやって自己管理をしてこその、彼のスタイルのよさなのだろう。同時に自分が真っ先に思い浮かべてしまったような、いわゆるママチャリ的自転車では絶対ないな、ということも察せられた。
篠井には日頃から運動する習慣なんてない。ひどく運動神経が悪いわけではないが、社会人になってからは、慣れない仕事やひとり暮らしのための雑事でいっぱいいっぱいだった。わざわざ身体を動かそうなんて気にはなれず、そのまま今に至る。
崎坂とは年が少し離れていることもあるけれど、つくづく見た目も性格も、共通点をまったく見出せなかった。
だいたい崎坂はアラフォー独身とはいえ、女子学生にも、事務や食堂や購買なんかの女性職員にも、何なら構内に出入りする営業や業者の女性にだって、とにかくモテまくっている。彼女のひとりやふたりいないわけがない。
何しろ職場が同じというだけの、挙動不審で面白みもない同性事務員、つまり篠井にですらこんなに優しくしてくれる男だ。一般的に結婚を意識しがちな年齢でまだ独身なのも、きっとよりどりみどりすぎて焦っていないからだろう。
地味で、モテないコミュ障で、ただ力量不足によって恋人ができないだけの篠井とは大違いだ。
「あ、ちなみに夕飯は食べた?」
「えっと、……はい」
「何食べたの?」
「えっ」
「ね、教えて?」
「う、その……残業中に、メロンパンを……」
「えっ!? それ、夕飯って言わないよね!?」
篠井の返答へ声のボリュームを上げた崎坂に対し、一瞬びくっと肩を揺らしてしまった。
「……ざ、残業確定だなってわかった時、購買が閉まる直前……で、……慌てて飛び込んだら、それしかなくて……」
我ながら何だか言い訳めいた口調になった。相手のリアクションに委縮し、何か怒らせるようなことをしたんじゃないかと不安になり、余計にしどろもどろの反応をして呆れられる。いつもの自分のパターンではあった。
けれど胸の片隅にはそれだけでは済まない、モヤモヤした違和感が生まれていた。
「あ、あの、でもいっつもこんなふうじゃなくて……」
「あー、……うん。ごめん。責めてるわけじゃないからね。びっくりしただけ。それに僕がしつこく訊いたから、言ってくれたのにね」
「いえ……」
頭の回転があまり速くないことを自認している篠井は、フロントガラスに当たって流れる雨をぼんやり眺めた。そうして少し考え込んで、自分は崎坂に後ろめたさを感じているのだと気づいた。
先日、篠井の昼食がおにぎりふたつだと言った時、崎坂は心配してあれもこれもと自分の弁当のおかずを譲ってくれた。差し出されるすべてが美味しくて遠慮なく頬張る篠井を、崎坂は眼鏡越しの垂れ目を細めて見つめていた。
それなのに、今日の食生活はさらに悪化していると思われただろう。不可抗力とはいえ知られたくはなかった。
自立している社会人なのにそんな心配をされるなんて、恥ずかしい気持ちもある。
「まあ、でもそれなら、お腹に余裕はあるでしょ?」
「……へ?」
ちょうど赤信号に掴まった。運転席の崎坂を見れば、にっこりとこちらへ微笑んでいる。薄暗い車内で、追い打ちのように小首を傾げる悪戯っぽい仕草が、やたらと艶っぽく見えてドキッとした。
「ね? 僕、ご飯まだだから。何か食べに行こ」
「え、……えええ!?」
「何がいいかな。和洋中ならどの気分?」
「あっ、えー……と……」
夕飯を食べに行こう、という誘いに篠井はまだ返答もしていなかった。しかしあっという間に決定事項にされている。そもそも車で送ってくれると提案された時も、なんなら最初に崎坂の研究室へ引っ張り込まれた時も、そんな片鱗は見えていた。
崎坂は基本的に見た目通りの紳士だ。包容力があるし細かいことを気遣ってくれる。下っ端事務員の篠井に対してもゆったりと心地よい声で喋り、口調だって年輩ぶった圧など感じられない。
けれどどうやら崎坂は、こうと決めたらわりと強引に自分のペースへ巻き込む性格らしい。
これまで篠井に対し発揮されたその特性は、どれも崎坂の我儘などではなく、篠井にとって有難い提案ばかりだ。けれど問答無用だったことには違いなかった。
崎坂のスペックだから許される行動なのか。もしくはそんな振る舞いも含め、「女子は引っ張ってくれる男性が好き(ただしそれをやってサマになる、エスコート上手なイケメンに限る)」的なところでモテオーラを強化しているのか。
ぐるぐると考えたところで、やっぱり人種カテゴリーが違いすぎてよくわからない、という結論に辿り着いてしまう。
とりあえず篠井には到底できない芸当だ。それだけは深く理解できた。
「篠井くん?」
「は、はいっ」
「訊き方、ざっくりしすぎたかな?」
黙りこくってしまった篠井に、崎坂は少し困った声音で問いかけてきた。
「もしかして、お腹ぜんぜん空いてない? 残業後で疲れてるだろうし、ご飯なんか行きたくないなら……」
「い、いえ! そういうわけじゃ……」
寂しげな声で篠井を気遣う言葉に、思わず否定してしまった。嫌なわけではないし、正直嬉しい。そんな自分の気持ちには気づいている。ただ、この怒涛の展開に戸惑っていただけだ。
「そっか。ならよかった」
「……はい」
「あ、和洋中って言ったけど、焼肉なら一応韓国料理で本格的なカレーならインドだね。タイやベトナムのエスニックって選択肢もあるし」
「うーん……」
「もしくは別方向のアプローチで、肉と魚ならどっちが食べたい? 主食は米か麺かパンか、でもいいよ。……どう? ヒントもらえそう?」
「え、えっと……それで言うなら……」
「うんうん」
「さっきパン食べたし、米……?」
「そうか。おっけ。こってりとさっぱりならどっち? お腹と相談してみて」
「……こってりすぎない方が、いいかも、です」
篠井はすぐ言葉につかえてしまうから、たどたどしい会話ではあった。それでも家族や長い付き合いの友人以外に、こうしてちゃんと自分の希望を伝えられることはめずらしい。ましてや年上の、立場だって違う人なのに、だ。
たぶん最大の理由は、矢継ぎ早に選択肢を与えられたことだ。篠井がこういう時すぐ口にしてしまう「何でもいいです」を言う隙がなかった。
「じゃあ、和食かな。好き嫌い、そんなにないって言ってたもんね?」
「はい」
「僕の気に入ってるお店でいい?」
「はい……」
誘導に従って頷くことしかできなかったけれど、それがありがたかった。篠井はこういう時に提案できる店の情報なんて、さっぱり持ち合わせがない。
一般企業の営業職とかなら、いざという時用の店を知る機会もあるのだろう。しかし篠井は内勤業務の大学職員で、毎日職場の隅っこで大人しく過ごしている。
プライベートの交友関係だってよく言えば少数精鋭数。学生時代に篠井と同じく陰キャグループに属していたような、数名の男子のみだ。洒落た空間を窮屈に思うようなタイプばかりだから、キラキラリア充とは程遠い。社会人になってからたまに集まるのも、疲れたリーマン御用達の雑然とした飲み屋や、どこにでもあるフランチャイズの居酒屋とかだ。
もし可愛い彼女でもできれば、こんな自分でも必死にリサーチするかもしれない。けれど残念ながら、今の篠井にその心配はなかった。
別に悔しくなんかない、と心の中でそっと悪態をついた。
目的の店は都心の小さな建物で、専用駐車場もないとのことだった。スムーズな運転で最寄りのコインパーキングに駐車する。
崎坂が先に運転席から降りて雨傘を広げた。しっとりと濡れた夜の闇と、雨でぼやけた街灯や道路沿いの看板の明かりに、その長身の姿が映える。同性として妬ましいほどかっこよかった。
映画かドラマか、もしくは美しいポートレートでも見ているようだ。正直一瞬、見とれてしまった。
「篠井くん?」
「あっ、はい……!」
我に返ってもたもたとシートベルトを外している間に、回り込んできた崎坂が助手席のドアを開けた。ルーフに被せるように傘を差しかけられる。
「あ、俺も折り畳み傘持ってるんですけど……」
「行くつもりのお店はすぐそこだから。この方が早いよ」
結局また一本の傘で男ふたりが肩を寄せ合って、少しだけ弱まった雨脚の中を急ぐ。着いた先はこぢんまりと雰囲気のいい、二階建ての料理屋だった。
ふたり連れなので一階のカウンター席でもよかったけれど、悪天候で客入りも少ないからと、二階のゆったりと座れるグループ客用の座敷席へ通された。
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