走狗(いぬ)の名は

筑前助広

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第十回 逆撃

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 焦りはない。決して、自分は焦ってはいないのだと、為松は鬱蒼とした茂みの中で、自分に言い聞かせていた。
 人の顔も目を凝らさなければわからないほど、闇が濃くなった時分。為松は、牛込の済松寺を囲む雑木林の中で、じっと息を潜めていた。
 目の前には、武家屋敷。石滝典礼が江戸に上った時に使う屋敷である。
 この場所は、嘉穂屋の片腕である滑蔵に教えられた。裏も取れて、その情報が誤りではない事もわかった。
 そして今夜、この屋敷で何かが行われる。昨日から、人の出入りが激しいのだ。その多くが、酒や食料を運び込んでいる。今日は魚を乗せた大八車が、屋敷に入っていった。
 魚というものは、その日のうちに食わねば悪くなる。そうすると、動きがあるのは今日に違いないと、為松は睨んだ。

(しかし、誰だろうか……)

 三河にいる典礼が、江戸に来たのか。上州粕川を発ったという話は次郎八から聞いたが、到着には早過ぎるという気がする。かと言って、主が不在の屋敷で宴会などするだろうか? とも思う。
 この動きを次郎八に伝えるべきか為松は、一瞬だけ迷った。もし伝えれば、次郎八が自ら探索に出るだろう。いくらか動けるようになったとはいえ、万全ではない次郎八を外に出したくはなかった。それに、これぐらいの探索ならば、自分一人で十分だ。
 屋敷の表門には、見張りが二人。昨日までは夕暮れ前までは一人で、この時分になると屋敷の中に引き下がる。つまりは、いつもと違う事の証左だった。

「何でも、急に大切なお客様がいらっしゃるよう事になったらしいですよ」

 これは棒手振りの恰好なりをして、屋敷から出てきた青菜売りを捕まえて訊いた話だった。
 為松は乾物商になり、

「この屋敷では買ってくれそうか?」

 などと訊くと、教えてくれたのだった。
 出入りの者に話を聞く事は、当然ながら危険も伴う。典礼に、こちらの動きを悟られる事もあるのだ。事実として、先日は無理に動いたせいで、嘉穂屋に知られる羽目になってしまった。

(しかし、それでも……)

 と、思うところが強い。名誉挽回でもあるし、何より次郎八に恩返しがしたかった。
 次郎八は、抜け忍となって追われていた自分を救ってくれた。そして嘉穂屋に引き合わせ、熊本藩と話を付けてくれるように頼んでくれた。それによって多額の借金を背負ったが、次郎八は相棒にしてくれて分け前も与えてくれた。そんな次郎八には、返せきれないほどの恩がある。
 才之助は不憫だと思うが、正直どうでも良かった。阿芙蓉と酒に溺れていた兄貴と慕う恩人が、見知らぬ少女の為にそれらを断った。そして、命を賭している。それが為松には嬉しかった。こうでなければ、次郎八ではない。今助けなくて何が弟分かと、為松は思ったのだ。
 ふと、駕籠舁きの掛け声が聞こえてきた。為松は、藪に隠れて息を殺した。
 駕籠舁きの二人を除けば、護衛は三人。どれも武士だ。
 あの駕籠に乗った人間が、今回の件と何か関りがある。直感でそう思った。臭うのだ。恐らく、あの中の男がこの件の鍵を握っている。
 表門が開き、駕籠は屋敷の中へ消えていった。

(動くべきか……)

 為松の中に、迷いが生じた。忍び込んで、客の顔を確認する。それがわかるだけで、攻め口も広がりそうではある。
 焦らずにじっくりと動けば、忍び込むのも可能だ。焦らなければ、それだけでいいのだ。

(もう同じ過ちは犯さねぇ)

 かつて、為松は熊本藩の忍びであった。大江党おおえとうと呼ばれ、父も祖父も忍びとして働いていた。忍びである事に何の疑問も抱かずに育ち、修行を重ねて一端に働けるようになった。そんな自分が抜け忍となったのは、失敗が原因だった。
 とある大名屋敷に忍び込んだ時、焦りから瓦を踏み抜いて罠に掛かってしまった。それが発端となって、同行した仲間が四人も死ぬ羽目にもなってしまったのだ。
 当然ながら、この不始末に対する責任を負わなければならない。その事が頭を過ぎった時、為松は逃げ出していた。
 その事は、次郎八には伝えていない。嘉穂屋にも口止めをしていて、全てが嫌になったとだけ言っている。
 為松は、意を決して動き出した。
 屋敷の正面を割けるように迂回し、川に面した西側から屋敷に侵入した。
 塀を飛び越え、するすると屋根に上った。母屋のちょうど宴会が行われている部屋の辺りだろう。屋根板を外し、天井裏へするすると侵入した。
 こうまでするのは、久し振りだった。昔を思い出す。忍びだった頃。為松ではなく、柏木兵六かしわぎ ひょうろくと呼ばれていた頃。
 注意深く、はりを進む。この暗さ。埃っぽさ。全てが懐かしい。緊張で胸が高鳴っているが、焦っていない。焦れば終わりだ。何度もそう言い聞かす。
 声が聞こえた。笑っていた。明らかに酒宴をしている雰囲気はある。
 典礼は戻ったのか? 典礼の代わりに指図をしている者がいるのか? 或いは、典礼の後ろについている、裏の首領おかしらか?
 どちらにせよ、知れば動き方が変わってくる。典礼を探っている、嘉穂屋にも恩を売れるかもしれない。

(よし、ゆっくりとだ)

 梁から天井板に手を伸ばす。ゆっくり、少しだけだ。
 光。目を突いた。酒宴の光景。上座にいる男。商人風。その時、天と地が反転した。
 景色がゆっくりと回っていく。床が抜けたのだ。
 衝撃。視界に、自分を見下ろす男の顔があった。それは、何処かで見た事がある顔だった。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 血が臭った。
 鉄臭く鼻にまとわりつくような、それでいて嗅ぎ慣れた、禍々しい臭い。
 それが鼻腔を突くと、次郎八は忍刀を手に跳び起きていた。
 まだ夜である。刻限はわからないが闇は深い。

「才之助」

 隣りに寝ていた才之助を、足の先で小突いて起こす。眠そうではあったが、この異常さをすぐに理解したようだ。

「追っ手が、とうとう嗅ぎ付けたようだ。逃げるぞ」
「はい」

 嘉穂屋と会って、四日後だった。こうなる前に、早く場所を変えていればよかった。嘉穂屋と縁がある寺院だからと、安心し過ぎたのかもしれない。
 下手を打った。抜け忍の頃であれば、こうしたヘマはしなかった。やはり、衰えたのだ。しかし、後悔は生き延びてからする事だ。
 その時、次郎八の部屋へ入る襖や障子が一斉に開け放たれた。
 内にも外にも逃げられず、挟撃される格好だった。抜き身を手にした武士たちが、なだれ込んでくる。十名はいるだろうか。艶めかしい白刃の光が、闇の中で唯一映えていた。

「何者だ、貴様ら」
「理子様を返してもらおう」

 武士の中の一人が答えた。
 全員が、顔を覆面で覆っている。着ている物は様々で、寄せ集めという印象があるが、だからと言って隙があるわけではない。全員が玄人だ。

「はいそうですか、と従うと思うのか?」
「従わぬというのなら致し方ない」

 そう言うと、武士がこちらに何かを放った。重量感のある音と共に、布団の上に転がる。激しく損傷した、為松の首だった。
 才之助が、悲鳴を挙げる。その肩を次郎八は抱き寄せた。

「おのれ」

 片手で、忍刀を抜き払い構える。次郎八に呼応するかのように、武士たちも構えた。

「やめよ」

 襲撃者を制するように、後方から声がした。武士の一団は刀を下ろすと、通り道を作るように左右に分かれた。
 現れたのは、総髪の武士だった。覆面はしていない。歳は三十ほどであろうか。冷血漢を思わせる、蛇のような面立ち。着ている物は、仙斎茶の小袖と濃紺の袴。小綺麗に着こなしてはいるが、主持ちには到底見えない。この者も、典礼に雇われた浪人か。

「生きていたか、庭師の次郎八」

 男が言った。声だけで、この男が右手小指の仇だとわかった。

「あの時の野郎か」
佐生中馬さそう ちゅうまという名前がある。ただの浪人に過ぎぬが、覚えていてもらろうか」

 佐生という男からは、一切の闘気を感じられなかった。この男は、思っている以上の使い手なのかもしれない。

「しかし、ただの庭師と思っていたが、それは表の顔というわけだったか。どうりで私の斬撃を躱せたわけだな」
「人様をこそこそ調べるとは趣味が悪いな」
「それはお前も同じであろうよ」

 そう言うと、佐生は転がる為松に目をやった。
 目は閉じ切らず、口からはだらりと舌が出ている。鋸の類で首を断ったのか、切り口が千切れたようになり、臓器に繋がる筋や管が伸びていた。

「こちらを探っていたのだよ。それで捕まえて、聞き出したわけだ。中々強情な奴でな。どんなに責めても口を割らぬ」
「貴様」
「だが、最後は吐いたよ。泣きながら、命乞いをしてなぁ。最後は『殺してくれ、殺してくれ』と懇願していた」

 安っぽい挑発だった。為松の死を愚弄する佐生への怒りはあるが、それで我を忘れるほど青くもない。

「次郎八、娘を渡せ。凄腕のお前を相手にして、無駄な犠牲は出したくはない」
「それは一度断ったはずだがな」
「それほど、その娘に義理があるのかね?」
「あるさ」

 今度は、才之助に佐生は目をやった。

「理子様、一つご提案があります」
「提案?」
「ええ。取引と申しましょうか。何も悪い話ではございません」

 次郎八にしがみついていた才之助が、次郎八と目を見合わせた。

「もし、あなたが私どもと一緒に来てくださるのなら、その男には危害を加えませぬ。今後も、一切関わりません」
「もし、従わぬと言ったら?」
「即座に殺します。あなたの目の前で」

 佐生が断言した。

「私の一声で、それは可能です。多少の犠牲は出るでしょうが、次郎八が死ぬのは確かでしょう。そして、もう一つ。あなたが自害などしても、私は次郎八を殺します」
「やめろ。俺はどうなってもいいんだ。お前を守り抜く」

 次郎八の言葉に、才之助が俯いた。何かを必死に考えている仕草だ。

「理子様。我々はあなたに危害は加えませんよ。あなたは我が主の、大事な奥方になるのですから」

 次郎八にしがみついていた、才之助の手が離れた。

「やめろ」

 と、言う前に才之助が一歩踏み出す。手を伸ばす。しかし、それは何も掴まなかった。

「流石は理子様だ。典礼様が仰っていた通り、ご聡明であられる」

 佐生が才之助に手を伸ばし引き寄せたが、才之助がその手を払った。

「無礼者。わたしは、石滝家の姫であるぞ」

 思わぬ一喝と口調の変化に、流石の佐生も目を丸くした。それは呆然と立ち竦む次郎八も同じだった。

「佐生とやら。この者の命を取らぬのは、本当まことであろうな?」
「勿論でございます。武士に二言はございませぬ」
「わかった。では、わたしを叔父のもとへ連れて行け。もし次郎八に手出しをしようものなら、石滝の名にかけて容赦はせぬぞ」
「はっ」

 才之助に気圧されたのか、佐生が黙礼で応え、手下に連れて行くように命じた。 

「才之助、戻ってこい」

 次郎八が声を挙げた時、後ろから組み付かれた。
 才之助は振り向きもせずに、部屋を後にする。なおも叫ぼうとする口を、手拭いで塞がれた。意識が緩慢になる。毒なのか? という疑問が浮かぶ前に、全てが暗くなった。
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