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最終章 狼の贄

最終回 狼の贄②

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「やはり、お前か」

 牢屋敷を出ると、深編笠に野袴の男が立っていた。

「よう。久し振りだな」
「……東馬殿」

 すると、東馬が軽く微笑んだ。
 その笑顔が、何故が清記の胸を突いた。違う。お前は、そんな男ではないはず。寂し気な笑みを浮かべるような男ではないはずだ。

「お前が此処にいて、この惨状を見る限り、親父はもう生きていないのだな」
「……腹を召された」
「そうか」

 東馬は、すっと腰の一刀を抜いた。銘は、高泉典太。切れ味鋭く、身幅で豪壮。その威容故に、魔を払うとも言われている。

「やめてくれ、東馬殿。私はあなたと争いたくはない」
「俺もだ」
「ならば」
「だが、お前は俺の親父を斬った。そして、俺もお前の」
「父は」

 東馬が首肯する。

「誇り高い、剣客であられた」
「父上が敗れたのか」
「念真流。邪剣と呼ぶ者もいるが、俺は崇高さを覚えた」
「……」
「全てを見届けた。長きに渡り、この夜須藩の陰を支えた男の、誇り高き剣の全てを。そして、その念真流を使うお前と、俺は全力で立ち合いたい」
「東馬殿、しかし」
「剣を取れ、清記。俺を失望させるな」

 清記は、腰の扶桑正宗を一瞥した。
 平山家宗家当主に受け継がれる、一族の妖刀。清記も元服した折に、父に与えられた。
 その父が死んだ。敗れて斃れたのだ。剣で生きる以上、それは仕方ない。ましてや、刺客なのだ。だが、信じられぬ。あの父上が。
 清記は、東馬を見据えた。父を斬った男。念真流を破る腕を持つ剣客。そして、曩祖八幡宮での奉納試合で、一度は敗れた相手。

(相手にとって不足ではない)

 清記の闘気が爆発した。東馬がわらう。

「それでいい」

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 相正眼。距離は、四歩ほどである。
 対峙を続けて、どれだけの時が流れたのか。屍の山の中で、清記は東馬と向かい合っていた。
 東馬の構えは、とても端正なものだ。道場剣術で土台を作り、そして実戦経験で磨き上げた、正真正銘の正統派な剣。それは美しいとも思える。
 自分とは違う。東馬に比べれば、世間が言うように念真流など邪剣の類だ。しかし東馬は、父の剣を見て崇高さを覚えた。それほどだったのだ、父の剣は。
 では、自分の剣はどうだ? 東馬の眼には邪剣に映るだろうか。邪剣ならば、それでいい。まだ自分は、父の境地に到底辿りついてはいない。
 互いに、地摺りで一足分近付いた。
 東馬の気が、全身を打つ。すると、耳の奥で何かがぜる音がした。
 凄まじい剣気。そして、いつの間にか東馬の構えが、上段に変化していた。
 どのようにして動いたのか、清記にはわからなかった。東馬の放つ気に集中し過ぎたのか。
 上段に構える東馬に、隙など無かった。どう戦うのか。跳ぶか、跳ばぬか。その迷いが、恐怖を大きくした。
 やはり勝てない。一度は負けた相手。そして、父すら破った相手なのだ。
 念真流の秘奥。しかし、父は東馬に対して使ったはずだ。東馬も、全てを見届けたと言った。もし使えば、必ず破られる。
 ここで死ぬのか。思えば、本当の意味で負ける事など考えもしなかった。誰と戦おうが、勝敗の先にあるものは考えなかった。
 しかし、東馬は違う。自分にこの男が斬れるとは、どうしても思えないのだ。
 恐怖。歯の根が震える。それを噛み締める事で、何とか抑えた。
 志月の顔が、不意に浮かんだ。死にたくない。父の顔。笑っていた。勝ちたい。東馬に勝ちたい。そう思った時、何かが弾けた。
 光が見えた。清記は後ろへ跳んでいた。東馬の構えが、正眼に戻っていた。
 何を仕掛けたのだ。そう思う。何も見えなかった。ただ、光を感じただけだ。

「躱したな。流石だ」

 だが、清記は顔に生温いものを感じた。
 血だった。斬られたのか。しかし、立っている。痛みもない。

疾風はやての太刀。技巧を凝らしたが、お前には通じぬか」

 東馬が笑った。そんな気がした。よくはわからない。そう思った時には、清記は跳んでいたのだ。
 やはりこれしかない。いや、そう思う前に、身体が反応していた。
 虚空で扶桑正宗を振り上げる。落鳳。寂滅への一手。幾代を重ね、生き血を啜って生まれし一族の邪剣。破られるのなら、それでいい。邪剣と共に生き、そして滅びる。それが念真流の、飼い慣らされた狼の末路なのだ。

「何だ、これは」

 東馬の声が聞こえた。驚いている。
 そうなのか。
 父は、跳んでいなかったのだ。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 立っていた。
 振り下ろした扶桑正宗は、地面に突き刺さっていた。
 足元には東馬。その身体は頭蓋から二つに両断され、驚いた顔で斃れていた。
 勝ったとは、思えなかった。ただ生き延びた、という感慨だけがある。
 額の傷に手拭いを当てた。深々と斬られたかと思っていたが、実際は薄いもので血も殆ど止まっていた。
 清記は扶桑正宗を仕舞うと、牢屋敷を出た。
 廉平がいた。声を掛けずに、その前を通り過ぎた。追ってくる気配はない。
 たった一人、舎利蔵峠を降りていく。この道は、志月が待つ家へと繋がっている。
 夕暮れ。山は日が暮れるのが早い。既に、闇が背後まで迫っている。
 義父と親友を斬った。この事は、藩の秘事である。いくら志月と言えど、明かす事は出来ない。
 これからは、誰にも言えぬくらい罪を背負い、俺は志月といずれ生まれる子を愛していかねばならないのか。
 だがこれで、人としての幸せ、人として生きていく事を諦められる。主税介が言う、狼として生きていく覚悟というものが出来たのだ。
 清記は、足を止めて空を見上げた。暮れゆく空に月が出ていた。愛してくれた父が死んだ。導いてくれた義父は殺した。目標だった親友は斃した。吼えたいが、声は出なかった。涙も出なかった。
 これからは、復讐である。ただ一心に、復讐である。飼い慣らされた走狗いぬを演じながらも、虎視眈々と機会を窺わなければならない。犬山梅岳。あの男だけは、いつかこの牙で噛み殺す。
 父と義父、そして弟と親友。妻と生まれてくる子は、その為の贄となったのだ。この血脈に宿る、狼の贄に。

〔狼の贄 了〕


<あとがき>
皆様、最後まで読んでいただき誠にありがとうございます。
この作品は「天暗の星」を底本に、分解・再構成をした作品です。文量自体も2倍以上の長編となりました。
お陰で清記の息子が主役の「狼の裔」とは世界観や設定で齟齬が出てしまいましたが、いずれそれは再び書き直したいと思っていますが、皆さま読みたいですか?
個人的には、清記が直衛丸と組んで犬山梅岳を失脚させる、「贄」と「裔」の間の作品も書きたいな、と。それで念真流サーガは三部作って感じで。

ともあれ、最後まで読んでいただいた皆様、ありがとうございました。
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