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第二回 魍魎
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僅か、五十余騎。
生き残ったそれだけを率いて、袙浜の探題城に駆け込んだのは、夜襲を受けた翌日の逢魔が刻の頃だった。
探題城とは、博多の西、鷲尾山に築かれた探題方の城塞である。博多の探題府政庁に対し、探題城は軍事要塞という役割を有していた。
一の丸二の丸と駆け抜け、本丸に至った宮内大夫は、倒れるように馬から降りると、小姓に両脇に抱えられ、奥の広間に担ぎ込まれた。
血塗れの具足を解かれ、全身の傷を確認された。小さな傷は無数にあるが、幸いにも深いものは無い。
「博多を放棄されたのは、懸命なご判断でございました」
家政一切を取り仕切る老執事が、宮内大夫の盃に酒を注ぎながら言った。
「賭けであったがのう」
死力を尽くした奮戦で、原田・筑紫の陣を突破した宮内大夫は、博多を即座に棄てる決断をした。博多は九州探題にとって重要な拠点であるが、その防衛力は皆無に等しい。原田や筑紫が叛いたとなっては、博多への帰還は危険極まりない事だと考えたのだ。事実、博多では離反した御家人が、宮内大夫を待ち構えていたらしい。
「これはお前様」
留守中の報告を肴に酒を飲んでいると、具足姿の清子が現れて言った。清子は、三年前に娶った宮内大夫の正室である。
博多にある屋敷で敗戦の報を受けると、家臣を取りまとめ探題城に入るよう下知したのは、清子だった。また、城下に広がる衵浜の町が思いの外に平静を保っているのも、清子の的確に防備の指揮をしていたからだという。
それを執事の報告で聞いていた宮内大夫は、改めて目の前の女武者を、
(筑前の女子は、何と頼もしき事よ……)
と、思った。
清子は、筑前でも強大な影響力を持つ、鳥飼大宮司家の姫だった。一人でも探題方を得たい父の勧めで夫婦になった、政略結婚である。
「皆は下がりおれ」
清子は執事と小姓を払うと、慇懃に頭を下げた。
「……無事のお帰り、お祝い申し上げます」
「お祝いだと?」
宮内大夫は、盃を進める手を止めた。清子は背筋を伸ばし、一重の細い眼を宮内大夫に向けた。
「これだけの見事な負け戦。生き残っただけでも祝うべきものでございましょう」
清子の皮肉に、宮内大夫は舌打ちで応えた。
「間違うておりますでしょうか?」
梅雨のような、肌にまとわりつく不快な物言いである。清子の言葉は、間違ってはいない。間違っていないが……
(斯様な事態になろうと、この女は変わらぬ)
と、唾棄したい気分に襲われた。
清子は、暗い女だった。醜女ではないが、見栄えもしない。華が無い顔立ちである。性格もそれに見合ったように、陰気臭いものがあり、それでいて口も悪い。故に、夫婦としての関係も、年々冷めたものになりつつある。
「これからお前様は、如何なさるおつもりでございましょうか?」
女が政事に口出しするものではない、とも思ったが、宮内大夫は素直に答える事にした。自分が倒れた場合は、清子が一時なりとて探題方を差配せねばならないのだ。
「さて、まずは建て直しが急務かのう」
そうは言ったものの、どう建て直してよいものか、すぐに方策は浮かびそうにはない。起死回生の大戦で、惨敗を喫したのだ。これから探題方の離反が相次ぐ事も予想される。
「命あっての物種と申しまするが、生きるは死するより難しゅうございます」
「何が言いたい?」
「いっそのこと、宮方に鞍替えなさいませ、お前様」
突然の放言に、宮内大夫は盃を置き清子を一睨みした。
「何を申すか、痴れ者め。我が妻とて言うてはならん事もあるぞ」
怒気を含めて一喝したが、清子は表情は寸分も変わらない。
「足利様が何をして下さりましたか?」
「九州探題という名はあるものの、言わば生け贄、人身御供というものです。足利様の命により九州に残され統治を任された事は、末代まで語るべき名誉でございましょう。ですが、この難治の地にあって、足利様が何をして下さりましたか? 義父上様をご覧下さいませ。何の助力もしないでおいて、統治に失敗したら追放でございますぞ」
「言うな、清子」
「いえ、言わせていただきます。一色党は、九州という虎の檻に入れられた、哀れな小鹿でございます。座して喰われるを待つは、武門の恥というものでは。噂によれば、原田や筑紫も寝返ったご様子。両家と、我が鳥飼の家を頼って、恭順なさいませ」
「何を申すか。一色党は坂東武者ぞ。足利将軍家に叛けぬわ」
「では、この劣勢を挽回する策が、お前様にあるのですか? それとも、義父上様のように九州からお逃げあそばされますか?」
「清子よ。ぬしが寝返りを勧めるは、実家の事があるからではないか?」
そう訊くと、清子は素直に頷いた。
清子の父であった鳥飼長門は、足利将軍家とも縁のある探題方だったが、その長門が死に、嫡男の太郎左衛門が継ぐと、宮方に寝返っていた。
「勿論、鳥飼の事もございますが、お前様が心配なのでございます」
「ほう、儂を心配するか」
「……」
「俄かには信じ難いが」
その言葉に、一重の細く沈んだ眼から、ほろりと涙が零れ落ちた。
「偽りではございませぬ」
「すまぬ。言い過ぎた。許せ」
「私は、お前様を失う事が怖いのです」
「清子」
宮内大夫は立ち上がり、清子を抱き締めていた。そして、腕の中でも背筋を伸ばしたままの清子の愛情を、宮内大夫はこの時初めて理解した。
(不器用なのじゃ、この女は)
そして、自らの不明を恥じた。勝手も作法も違う関東武士に嫁ぎ、実家とは敵味方となった清子の孤独を、宮内大夫は陰気として片付けていたのだ。そして、この命の行方を案ずる気持を、疑ってしまった。
「すまぬ、清子。だが、良きに計らう故、暫しの我慢じゃ」
◆◇◆◇◆◇◆◇
清子が下がり、広間で一人になった宮内大夫は、筑前全域を描いた地図を広げて、暫く沈思に耽った。地図を眺めていると、見えてくるものもある。
地図の上に、肴の炒った豆を置いていく。探題城には、盃。西に原田。南に筑紫。東に、鳥飼や立花。四囲を囲まれている状況である。
「健気でございますなぁ」
部屋の隅。声がした。目を凝らすと、黒装束の男が、闇から浮かび上がる。
「盗み聞きとは、悪趣味な奴だの」
「それが我々の活計でございますので、何卒ご容赦を」
と、籠った低い笑い声が聞こえた。
「草野右京亮か」
「左様」
右京亮は、そう答えると覆面を外した。まだ若い。見た目は三十そこそこだが、父の代から時折雇われ、その頃から顔は変わらない。少なくとも、四十路は越えているはずだ。
「足利の将軍様も御舎弟との争いの折、南都帝に寝返っております。一色殿が寝返った所で何程の事がございましょうか」
「貴様も恭順を説くか」
「いいやいいや。乱世は我々の銭の種。ただ、流石は鳥飼大宮司の姫君。奥方様も中々の知恵者と思いましてのう」
宮内大夫は鼻を鳴らし、盃に酒を満たした。
「しかし、九州探題が自棄酒とは感心しませぬのう」
「煩い奴じゃ」
「まぁ、お気持ちは判ります。此度の戦は、烏丸というお公家に敗れたのですから、しかも相手は寡兵……」
「寡兵? それはどういう事じゃ」
身を乗り出して訊くと、右京亮が意外そうな表情を浮かべた。
「ご存知ない?」
頷く。すると、右京亮はバツが悪そうに苦笑した。
「宮方の兵力は、探題方の少なくとも同等、或いはそれ以下というのが本当の所ですな。この九州の大部分を領するとは言え、小さな叛乱を幾つも抱えております。各地に軍を展開する宮方に、三万という軍勢を投入する余裕はござるまい。詰まる所、これは宮方の乾坤一擲の賭けであったという事になります」
「いや、確かに相手は大軍。何度もそう報告を受け、我が目で三万の軍勢を確認しておる」
「そこが烏丸の策略でございますな。旗差し物などで密かに数を増やし、味方にも三万と偽っていたのでしょう。そして今では寝返りを吸収し、三万に膨れております。公家ながら、中々どうして」
「右京亮よ。その報せを掴んでいたのなら、儂に知らせるべきであろう」
「生憎でございますが、一色様は我々草野組ではなく、安く愚鈍な忍び衆をお雇いになられました。つまり、知らせる義務はございませぬ。浮羽忍は銭こそ全て故」
「うぬ」
その一言に怒り、宮内大夫は盃を右京亮に投げつけた。しかし、右京亮は頭を傾ける事でそれを躱し、不敵な笑みを浮かべた。後方に盃が転がっている。
「浮羽忍とは、魍魎が如き輩か」
「ですが、この策を知ったのは、一色様が夜襲を受ける直前。知らせようにも間に合う事はございませんでした。我々とて、してやられたのです」
「それほどの男か。烏丸公知という鉄漿は」
烏丸は、公家でも身分が低い、事務方の官人だった。それが〔かの親政〕を契機に、その実務能力を買われ、要職に抜擢。南北に朝廷が別れると、南都帝に従って宮様の側近となり、共に九州へ下向。宮様の傍にあり、巧みな令旨戦略と軍才を以て、九州に確固たる地位を築き上げた知恵者である。
宮内大夫は父の代から、この男にしてやられてきた。だが、それは父の眼を通しての事であった。しかし九州探題となった今、烏丸を直接の敵として対すると、物の怪のような恐ろしさを覚える。
「この烏丸に、菊池肥後守。宮方とは、何とも強い敵よ」
「一色様。肥後守は自ら〔菊池駒武者〕と称する猛者。西国随一の武辺者ですが、戦場以外では物の役に立ちませぬ。真なる敵は、烏丸公知でございましょう」
確かに、肥後守が政事に関して名が出る事は少ない。戦しか興味の無い男、という噂もある。
「肥後守と烏丸。この二者が仲違いすればよいのでございますが、あの二人は義兄弟のように信頼しております。この地獄のような今世には珍しき事」
宮方の両輪たる肥後守と烏丸の関係については、宮内大夫も何度か探らせていた。両者は個人的な付き合いの他に、一族で縁組を重ねて両家の結びつきを固いものにしている。
「烏丸を始末すべきですな。かの公家さえ消えれば、万事やりやすうなりますぞ」
「ほう。魍魎が如き輩が、雇われておらぬのに進言するか」
「勿論、その刺客は我々草野組が請け負いますし、それなりの銭も頂戴致します。しかし、これは我々に過分な銭で重用して下さった、先代への義理が半分。もう半分は、我々すら欺いた烏丸への復讐半分、という所でしょうか」
「欲と義理か。人間らしゅうてよい。わかった。烏丸を見事消してみよ」
「御意」
右京亮が恭しく平伏すると、そのまま後退りし、闇の中に消えた。
翌日、兵庫の討死が探題城に伝えられた。
奥の部屋では兵庫の妻が泣きじゃくり、清子が傍に付いて慰めている。それもあってか、城中は何処か沈んだ雰囲気の中にあった。
勿論、掛ける言葉は無い。自分を守る為に死んだのだ。
兵庫は父の庶子であるが、武勇に優れた優しい男だった。白拍子の母を持つ故か、身分に拘らない性格で、下々にも好かれていた。そうした人柄を宮内大夫は愛し、家来として傍に仕えさせていた。それ故に死んだ。
弟は、三人いる。身分低き庶子を含めれば、その数は判わからない。多くいる弟の内の、一人が死んだ。宮内大夫はそう思う事にして、踵を返した。
生き残ったそれだけを率いて、袙浜の探題城に駆け込んだのは、夜襲を受けた翌日の逢魔が刻の頃だった。
探題城とは、博多の西、鷲尾山に築かれた探題方の城塞である。博多の探題府政庁に対し、探題城は軍事要塞という役割を有していた。
一の丸二の丸と駆け抜け、本丸に至った宮内大夫は、倒れるように馬から降りると、小姓に両脇に抱えられ、奥の広間に担ぎ込まれた。
血塗れの具足を解かれ、全身の傷を確認された。小さな傷は無数にあるが、幸いにも深いものは無い。
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「賭けであったがのう」
死力を尽くした奮戦で、原田・筑紫の陣を突破した宮内大夫は、博多を即座に棄てる決断をした。博多は九州探題にとって重要な拠点であるが、その防衛力は皆無に等しい。原田や筑紫が叛いたとなっては、博多への帰還は危険極まりない事だと考えたのだ。事実、博多では離反した御家人が、宮内大夫を待ち構えていたらしい。
「これはお前様」
留守中の報告を肴に酒を飲んでいると、具足姿の清子が現れて言った。清子は、三年前に娶った宮内大夫の正室である。
博多にある屋敷で敗戦の報を受けると、家臣を取りまとめ探題城に入るよう下知したのは、清子だった。また、城下に広がる衵浜の町が思いの外に平静を保っているのも、清子の的確に防備の指揮をしていたからだという。
それを執事の報告で聞いていた宮内大夫は、改めて目の前の女武者を、
(筑前の女子は、何と頼もしき事よ……)
と、思った。
清子は、筑前でも強大な影響力を持つ、鳥飼大宮司家の姫だった。一人でも探題方を得たい父の勧めで夫婦になった、政略結婚である。
「皆は下がりおれ」
清子は執事と小姓を払うと、慇懃に頭を下げた。
「……無事のお帰り、お祝い申し上げます」
「お祝いだと?」
宮内大夫は、盃を進める手を止めた。清子は背筋を伸ばし、一重の細い眼を宮内大夫に向けた。
「これだけの見事な負け戦。生き残っただけでも祝うべきものでございましょう」
清子の皮肉に、宮内大夫は舌打ちで応えた。
「間違うておりますでしょうか?」
梅雨のような、肌にまとわりつく不快な物言いである。清子の言葉は、間違ってはいない。間違っていないが……
(斯様な事態になろうと、この女は変わらぬ)
と、唾棄したい気分に襲われた。
清子は、暗い女だった。醜女ではないが、見栄えもしない。華が無い顔立ちである。性格もそれに見合ったように、陰気臭いものがあり、それでいて口も悪い。故に、夫婦としての関係も、年々冷めたものになりつつある。
「これからお前様は、如何なさるおつもりでございましょうか?」
女が政事に口出しするものではない、とも思ったが、宮内大夫は素直に答える事にした。自分が倒れた場合は、清子が一時なりとて探題方を差配せねばならないのだ。
「さて、まずは建て直しが急務かのう」
そうは言ったものの、どう建て直してよいものか、すぐに方策は浮かびそうにはない。起死回生の大戦で、惨敗を喫したのだ。これから探題方の離反が相次ぐ事も予想される。
「命あっての物種と申しまするが、生きるは死するより難しゅうございます」
「何が言いたい?」
「いっそのこと、宮方に鞍替えなさいませ、お前様」
突然の放言に、宮内大夫は盃を置き清子を一睨みした。
「何を申すか、痴れ者め。我が妻とて言うてはならん事もあるぞ」
怒気を含めて一喝したが、清子は表情は寸分も変わらない。
「足利様が何をして下さりましたか?」
「九州探題という名はあるものの、言わば生け贄、人身御供というものです。足利様の命により九州に残され統治を任された事は、末代まで語るべき名誉でございましょう。ですが、この難治の地にあって、足利様が何をして下さりましたか? 義父上様をご覧下さいませ。何の助力もしないでおいて、統治に失敗したら追放でございますぞ」
「言うな、清子」
「いえ、言わせていただきます。一色党は、九州という虎の檻に入れられた、哀れな小鹿でございます。座して喰われるを待つは、武門の恥というものでは。噂によれば、原田や筑紫も寝返ったご様子。両家と、我が鳥飼の家を頼って、恭順なさいませ」
「何を申すか。一色党は坂東武者ぞ。足利将軍家に叛けぬわ」
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「清子よ。ぬしが寝返りを勧めるは、実家の事があるからではないか?」
そう訊くと、清子は素直に頷いた。
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「勿論、鳥飼の事もございますが、お前様が心配なのでございます」
「ほう、儂を心配するか」
「……」
「俄かには信じ難いが」
その言葉に、一重の細く沈んだ眼から、ほろりと涙が零れ落ちた。
「偽りではございませぬ」
「すまぬ。言い過ぎた。許せ」
「私は、お前様を失う事が怖いのです」
「清子」
宮内大夫は立ち上がり、清子を抱き締めていた。そして、腕の中でも背筋を伸ばしたままの清子の愛情を、宮内大夫はこの時初めて理解した。
(不器用なのじゃ、この女は)
そして、自らの不明を恥じた。勝手も作法も違う関東武士に嫁ぎ、実家とは敵味方となった清子の孤独を、宮内大夫は陰気として片付けていたのだ。そして、この命の行方を案ずる気持を、疑ってしまった。
「すまぬ、清子。だが、良きに計らう故、暫しの我慢じゃ」
◆◇◆◇◆◇◆◇
清子が下がり、広間で一人になった宮内大夫は、筑前全域を描いた地図を広げて、暫く沈思に耽った。地図を眺めていると、見えてくるものもある。
地図の上に、肴の炒った豆を置いていく。探題城には、盃。西に原田。南に筑紫。東に、鳥飼や立花。四囲を囲まれている状況である。
「健気でございますなぁ」
部屋の隅。声がした。目を凝らすと、黒装束の男が、闇から浮かび上がる。
「盗み聞きとは、悪趣味な奴だの」
「それが我々の活計でございますので、何卒ご容赦を」
と、籠った低い笑い声が聞こえた。
「草野右京亮か」
「左様」
右京亮は、そう答えると覆面を外した。まだ若い。見た目は三十そこそこだが、父の代から時折雇われ、その頃から顔は変わらない。少なくとも、四十路は越えているはずだ。
「足利の将軍様も御舎弟との争いの折、南都帝に寝返っております。一色殿が寝返った所で何程の事がございましょうか」
「貴様も恭順を説くか」
「いいやいいや。乱世は我々の銭の種。ただ、流石は鳥飼大宮司の姫君。奥方様も中々の知恵者と思いましてのう」
宮内大夫は鼻を鳴らし、盃に酒を満たした。
「しかし、九州探題が自棄酒とは感心しませぬのう」
「煩い奴じゃ」
「まぁ、お気持ちは判ります。此度の戦は、烏丸というお公家に敗れたのですから、しかも相手は寡兵……」
「寡兵? それはどういう事じゃ」
身を乗り出して訊くと、右京亮が意外そうな表情を浮かべた。
「ご存知ない?」
頷く。すると、右京亮はバツが悪そうに苦笑した。
「宮方の兵力は、探題方の少なくとも同等、或いはそれ以下というのが本当の所ですな。この九州の大部分を領するとは言え、小さな叛乱を幾つも抱えております。各地に軍を展開する宮方に、三万という軍勢を投入する余裕はござるまい。詰まる所、これは宮方の乾坤一擲の賭けであったという事になります」
「いや、確かに相手は大軍。何度もそう報告を受け、我が目で三万の軍勢を確認しておる」
「そこが烏丸の策略でございますな。旗差し物などで密かに数を増やし、味方にも三万と偽っていたのでしょう。そして今では寝返りを吸収し、三万に膨れております。公家ながら、中々どうして」
「右京亮よ。その報せを掴んでいたのなら、儂に知らせるべきであろう」
「生憎でございますが、一色様は我々草野組ではなく、安く愚鈍な忍び衆をお雇いになられました。つまり、知らせる義務はございませぬ。浮羽忍は銭こそ全て故」
「うぬ」
その一言に怒り、宮内大夫は盃を右京亮に投げつけた。しかし、右京亮は頭を傾ける事でそれを躱し、不敵な笑みを浮かべた。後方に盃が転がっている。
「浮羽忍とは、魍魎が如き輩か」
「ですが、この策を知ったのは、一色様が夜襲を受ける直前。知らせようにも間に合う事はございませんでした。我々とて、してやられたのです」
「それほどの男か。烏丸公知という鉄漿は」
烏丸は、公家でも身分が低い、事務方の官人だった。それが〔かの親政〕を契機に、その実務能力を買われ、要職に抜擢。南北に朝廷が別れると、南都帝に従って宮様の側近となり、共に九州へ下向。宮様の傍にあり、巧みな令旨戦略と軍才を以て、九州に確固たる地位を築き上げた知恵者である。
宮内大夫は父の代から、この男にしてやられてきた。だが、それは父の眼を通しての事であった。しかし九州探題となった今、烏丸を直接の敵として対すると、物の怪のような恐ろしさを覚える。
「この烏丸に、菊池肥後守。宮方とは、何とも強い敵よ」
「一色様。肥後守は自ら〔菊池駒武者〕と称する猛者。西国随一の武辺者ですが、戦場以外では物の役に立ちませぬ。真なる敵は、烏丸公知でございましょう」
確かに、肥後守が政事に関して名が出る事は少ない。戦しか興味の無い男、という噂もある。
「肥後守と烏丸。この二者が仲違いすればよいのでございますが、あの二人は義兄弟のように信頼しております。この地獄のような今世には珍しき事」
宮方の両輪たる肥後守と烏丸の関係については、宮内大夫も何度か探らせていた。両者は個人的な付き合いの他に、一族で縁組を重ねて両家の結びつきを固いものにしている。
「烏丸を始末すべきですな。かの公家さえ消えれば、万事やりやすうなりますぞ」
「ほう。魍魎が如き輩が、雇われておらぬのに進言するか」
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「欲と義理か。人間らしゅうてよい。わかった。烏丸を見事消してみよ」
「御意」
右京亮が恭しく平伏すると、そのまま後退りし、闇の中に消えた。
翌日、兵庫の討死が探題城に伝えられた。
奥の部屋では兵庫の妻が泣きじゃくり、清子が傍に付いて慰めている。それもあってか、城中は何処か沈んだ雰囲気の中にあった。
勿論、掛ける言葉は無い。自分を守る為に死んだのだ。
兵庫は父の庶子であるが、武勇に優れた優しい男だった。白拍子の母を持つ故か、身分に拘らない性格で、下々にも好かれていた。そうした人柄を宮内大夫は愛し、家来として傍に仕えさせていた。それ故に死んだ。
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「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
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