彼だけが結婚に熱心だった

黒猫子猫

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運の尽き

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 ティナの背筋から滝のような汗が流れる。硬直している間に、ヴェルークは彼女の腕を掴み振り向かせると、扉に身体を押し付けた。無論顔の両脇に腕をつき、逃げ道を完全に塞いでいる。

 驚くべき手際の良さである。

「なんの事――――」
「俺の伴侶になると言った事も、当然思い出しただろうな?」

 艶然と笑う彼に、ティナは目を丸くした。そうだっただろうかと一瞬考えたが、

「いいえ、言ってない! それは絶対に言ってないわ!」
と、断言する。この男は、どさくさに紛れて何を認めさせようとしているのだ。ティナは真っすぐに彼を見返して、更に告げた。

「ただ、兵に連れてこられた貴方を見て、『私の騎士にしたい』と言っただけよね? それがどうして結婚にまでなるのよ」
「…………。よく解釈すれば、そうなるだろう」
「ならないわよ!」

 かつて、ティナの祖国は隣接するルーフス王国に攻め寄せられ、滅びの日を迎えた。王家に連なる者はことごとく抹殺され、唯一生き残っていたのは、まだ十八歳だったティナ一人だった。

 ティナが最後の一人になってしまったのは、非力な少女だからでも、大事に守られていたからでもない。

 我先にと逃げてしまった王族達に見捨てられて置き去りにされ、そんな彼らを彼女からも見限ったからだ。
 王都には大勢の騎士たちがいた。民がいた。彼らを置いて逃げる事などできるわけがない。

 だから、ティナは己の非力と無力さに苛まれながらも、祖国のために戦ってくれた騎士達の徹底抗戦の象徴として、最後まで王宮に留まった。

 そして、誰もいなくなった。

 四方を敵兵に囲まれ、ティナを守る騎士はいなくなった。逃げ損ねた王女だと敵将は嘲笑い、『最後に一つ望みをかなえてやろう』と告げた。

 単なる戯れだったのだろう。非力な王女をより貶めるためのものだったのだろう。ただ、ティナは決して顔に出さなかったが、人生の最後にこんな喜びを得て良いのだろうかとさえ思いながら、告げた。
 
『彼を私の騎士にしたいわ。一緒にいさせて』

 ティナは敵軍の中で、一人の虜囚を見つけていた。

 相当抵抗したらしく、全身は薄汚れて傷だらけだったし、手足は鎖で拘束されていた。よく見れば美しい顔をした青年だったが、その眼は極めて獰猛で、敵兵達だけでなくティナへの敵意をも滲ませていた。まるでこの世の全てを嫌悪しているような目だった。

 彼を捕えた敵将は、その堂々とした佇まいから名のある将兵かと思い込んでティナの前に連れてきたようだったが、ティナに対しても敵意しかない鋭い眼差しを向けてきたから、到底自国の兵とは思えなかった。

 だが、ティナは彼を求めた。

 何もかも失ってしまった自分に、守られてばかりだった最期の王女にも、出来ることがあると信じたからだ。
 敵将は武器も持たない虜囚を一人解放した所で問題ないだろうと、彼を解き放った――――。


 その後の事も、ティナは今も鮮明に覚えていた。拘束が解かれた瞬間、ヴェルークが大暴れして、敵軍を恐怖のどん底に落とした事もだ。
 そして今、かつて凶悪な本性を晒した男は、眼前で虫も殺さぬ好青年の皮を被り、ティナの伴侶になろうと迫ってきている。

 そんな彼に、ティナは心の底から言いたい。

「だいたい貴方、こんな所で何をしているのよ」
「お前の伴侶になろうとしているだけだ」

 何をいまさらと言わんばかりの彼に、ティナは頭を掻きむしりたくなった。

「出来るわけないわ」
「俺をお前の騎士にしただろう? その権利はあるはずだ」

 ティナはぐっと言葉に詰まる。祖国では《騎士》に対する地位は高く、特に王女の護衛を務める騎士ともなると高い功績を挙げれば、婚姻を許される事だってあった。

 それを逆手に取られたティナだが、あまりに身分が違うだろうと言いたい。

「無いわ。記憶を取り戻した以上、貴方と結婚はできない。婚約は解消よ!」

 とうとう言ってやったと思ったティナだが、ヴェルークは冷然と笑った。

「それはもう無理だな」
「どうして!」

「お前には俺しかいない」
「…………っ」

「それに、俺に甘やかされるのに慣れている。今更、一人で生きていけるはずがない」
「そ……そんな事は……っ」

 真っ赤になったティナだが、否定しきれない。今朝だって食事を完食している女である。

「そして、これだ」

 ヴェルークは少し体を離すと、すかさず逃れようとしたティナの腕を掴み、彼女の手の甲を眼前に突き出した。

 そこに刻まれていたのは、あの竜の紋章だった。

 絶句するティナに、ヴェルークは笑みを浮かべながら、手の甲の上に愛おし気に口づけた。

「これがある以上、お前がどこに行っても俺には分かる」
「貴方の仕業だったのね……! 消して!」
「無理だ」

 平然と言い切って冷たく笑うヴェルークを、ティナは軽く睨みつけ、彼の手から腕を引き抜いた。そして、前よりも少しばかり濃くなった気がする紋様を見据えた。

 彼は不可能だと嘯いたが、今までだって時が過ぎれば薄くなって消えていたのだ。絶対に何か手段があるはずだ。一刻も早く、その手段を見つけて、彼と縁を切らなければならない。

 ヴェルークは優しい好青年などではない。

 彼の本性は、そんなものでは無い事をティナは知っていた。現にもう既に容赦のなさが、垣間見えている。

 もしも、故郷が滅んでいなかったら、全員から反対されていただろう。誰も祝福してはくれないだろう。

「お願いよ」
「諦めろ。俺の手を取ったのが、お前の運の尽きだ」

 ヴェルークは冷然と答え、態度を変える兆しがない。

 彼だけが、この結婚に熱心だった。
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