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3巻
3-2
しおりを挟む「選ばなくてもいいってさ。アレはただの選択肢。トリシャはトリシャの好きなようにすればいい」
「そう……」
浮かない顔で俯く彼女を見下ろす。
濃い睫毛に縁取られた瞳に溜まる水滴に、徐々に怒りが湧いてきた。
(なんで、『嫌だ』って言わないの?)
明らかに不安がっているのに。拒絶しているのに。
彼女の口から「否」の言葉は出てこない。
半ば受け入れようとしている彼女に、理不尽だと分かっていても怒りが抑えきれない。
「……トリシャ、言えないなら、俺が代わりにフリード様に断ってこようか?」
昔から、領主であるフリードがトリシャに何かを強制することはなかった。
婚姻だってそうだ。
辺境という土地柄、タールベルクでは「家格の釣り合う相手」を探すことさえ難しい。だからこそ、「トリシャが望むように」と、フリードだけでなく辺境の皆が願ってきたのだ。
トリシャがゆるゆると首を横に振った。
「駄目よ。私だって領主の妹だもの。家のためにできることをしなくちゃ」
「っ! そんなの誰も望んでないよ!」
物分かりのいい言葉に、冷静さを失う。
「陛下の下命を気にしてるの? そんなの、フリード様のせいなんだし、言えば断ってくれるよ」
フリードは明らかにトリシャの婚約を嫌がっていた。
彼よりもう少し現実的なクリスティーナの本心は見えないが、彼女とてトリシャの不幸を望むとは思えない。
トリシャが顔を上げた。碧い瞳でじっと見上げてくる。
「ウェスリーも分かっているでしょう? 昔とは違うわ。タールベルクは変わった。ううん。これからもっともっと変わっていくはずよ」
「トリシャ……」
返事に窮し、視線を逸らした。
彼女の静かな声が追ってくる。
「転移網の構築にはお金が掛かるし、開発に関わる魔導師だって集めなくちゃいけない」
「それは……」
否定できないことが歯がゆかった。
確かに、タールベルクは変革の時にある。それも良い方向に。
変革を実現するために主君夫妻が奔走していることも承知していた。金や魔導師の問題だけではない。国中を網羅する転移陣の構築には各地の領主の協力が必須で、王家との繋がりも蔑ろにはできない。
貴族家に生まれた娘であれば、家のための婚姻を結ぶのは必然。模範的な臣下であれば、主家の良縁を望み尽力するのが道理だろう。
だが――
「……クリスティーナ様が言ってただろう? トリシャは好きな人と結婚すればいいんだよ」
「そう、だね……」
トリシャがクシャリと顔を歪めて笑った。全く、嬉しそうじゃない顔で。
「お義姉様まで私に甘くなってしまって……、本当に困っちゃうわ」
「トリシャ?」
「魔法も使えない。お母様のように剣が振るえるわけでもない。……タールベルクのために、お兄様やお義姉様のために、私に何ができると思う?」
泣きそうな顔で笑う彼女に、なんと答えればいいのか分からない。
――トリシャはトリシャのままでいいんだ。
心からそう思うが、それはきっと彼女の望む答えではない。
涙を堪えた彼女が笑う。
「私、ちゃんと考えてみる。考えて必要なら、お見合いも受けてみるつもりだよ」
「……そっか」
それ以外、返す言葉が見つからなかった。
沈黙が続き、逃げ出したくなったその時、トリシャが「ねぇ」と小さく声を上げた。
「……どんな人を選べばいいか、一緒に考えてくれる?」
「っ……!」
口から飛び出しそうになった暴言を、なんとか呑み込む。
「ごめん、今は忙しいから!」
そう言い捨てて、トリシャに背を向けた。
今、自分はどんな顔をしているだろう。
彼女を怯えさせずにいられる自信がなかった。
「ウェスリー!?」
呼び止める声を無視して部屋を飛び出す。扉を閉め、足早に廊下を進んだ。
曲がり角で現れた人影とぶつかりそうになり、咄嗟に身を引く。視線が交わり、相手が僅かに眉をひそめた。
「あら、酷い顔。トリシャに振られた?」
「やめてくださいよ。縁起でもない」
クリスティーナの軽口に、グシャグシャの気持ちが更に掻き乱される。
冷静な答えなんて返せそうにない。
彼女の横をすり抜けると、背後から澄んだ声が響いた。
「ウェスリー。貴方も、『欲しいもの』はちゃんと望んで」
言いたいことはあったが、結局、振り向くことなくその場を後にした。
彼女の言葉に込められた優しさは痛いほど伝わっている。
それでも駄目だ。動けない。
(トリシャが、俺を望んでくれない限り……)
臆病で情けない。卑怯者だと分かっていても、彼女を失う恐怖には打ち克てなかった。
せめて、トリシャの想いが自分に向いていれば――
だが、ずっとそばにいたからこそ分かる。
彼女が己に向けるのは親愛。せいぜいが、家族としての愛情だ。そんな相手に、この胸の奥に渦巻く恋情――醜く焦がれる想いを明かせるわけがない。
(……格好悪いな)
知らず自嘲が漏れた。
今この瞬間も、トリシャに選ばれる見知らぬ誰かに嫉妬している。そんな自分の愚かさを、彼女にだけは絶対知られたくなかった。
◇ ◇ ◇
――トリシャの件もあるから、一週間ほど滞在するわ。
そう義姉が宣言したのは昨夜のこと。
「自分も残る」と大騒ぎする兄を、彼女は問答無用で領地に送り返した。
そうして――女神のごとき神々しさで、学園に向かう私とウェスリーを見送ってくれたのが今朝の話だ。
大好きな義姉の王都滞在。本当なら、弾む気持ちを抑えきれないほどなのに。
(あー、もぉっ!)
学園の図書館。その最奥で、誰もいないのをいいことに大きなため息を零す。
(どうして、ウェスリーにあんなこと言っちゃったんだろう)
――どんな人を選べばいいか、一緒に考えてくれる?
私を甘やかすことにかけては兄に引けをとらないウェスリー。気乗りしない見合いを断ってくれるという彼の気遣いを突っぱねて、自ら「やる」と宣言したのに。
直後、怖くなって彼を頼った。
最悪だ。自分が恥ずかしくて情けない。
(……絶対、怒ってたよね)
昨日から口数の少ないウェスリーは、今朝、学園に通う馬車の中でもずっと黙り込んでいた。
彼のことだ、私の本音なんてきっとお見通しなんだろう。
最後の最後、勇気がなくてウェスリーに甘えた私の本音。
――ウェスリーならきっと止めてくれる。
(……はぁ、もう。本当、最低)
放っておくとどこまでも落ち込んでいく気分。それを追い払うため、目の前のことに集中することにした。
大きく息をついて顔を上げる。棚に並ぶ本の背表紙に目を走らせた。
並ぶのは魔法学の専門書の数々。どれもこれも題名からして難解ですぐに気持ちが折れそうになる。
せめて、中身が想像できる本はないか。
視線を大きく上に向け、頭上の本を眺める。
その中に『術理幾何学入門』の文字を見つけた。
(……『入門』なら)
自分にも読めるかもしれない。
期待を込めて伸ばした手は、しかし、本の下部をなぞるだけ。背が足りず、ギッチリと隙間なく詰め込まれた本は引っぱり出せそうにない。
それだけで、もう駄目だった。
(なんで。私、なんでこんなに何もできないんだろう……)
届かなければ踏み台を持ってくればいい。
『術理幾何学』なんて未知の領域に拘る必要もない。
他に本はいくらでもあるのに、馬鹿みたいに悲しくなって下を向く。目の奥が熱くなるのをグッと我慢していると、不意に背後から人の気配を感じた。
(ウェスリー……?)
静かに隣に立った人影に慌てて顔を上げる。
果たして、期待した彼の姿はそこになく――
「ほら。コレでいいか?」
「え……?」
無愛想にこちらに本を差し出すのは学園の教師だった。
魔導師の証であるローブに、お世辞にも整っているとは言えない癖のある茶色の髪。そこから覗く翠色の瞳がこちらを見下ろしている。
「……なんだ、この本じゃなかったのか?」
「あ! いえ、この本です!」
反射的に手を伸ばし、彼から本を受け取った。
(なんだか、あの時みたい)
初めて義姉と出会った時。
義姉になる前のクリスティーナも、「本意じゃない」と言わんばかりの態度でそっけない優しさを示してくれた。それがたまらなく嬉しくて、彼女と話をしてみたい、仲良くなりたいと願ったのだ。
心臓がドキドキと音を立て始めた。
勇気を振り絞って一歩を踏み出した時のことを思い出す。仏頂面を晒す教師に向かって勢い良く頭を下げる。
「ありがとうございます、ボルツ先生!」
「……そんで、トリシャ・タールベルク。淑女科のお前がなんでそんな本に手を出してる? 魔法科に転科でもするつもりか?」
ボルツの言葉に慌てて首を横に振った。
「ち、違います! ただ、あの、ちょっと、興味があったと言いますか……」
渡された本を胸の内にギュッと抱え込む。「魔法の素養もないくせに」と、言われたわけでもないのに羞恥を覚えた。
ボルツの温度のない目が直視できずに顔を伏せる。頭の上から、興味なさげな「ふーん」という声が聞こえた。
「興味があるのは結構なことだが、お前にそれは早いだろ」
そう言って、二、三歩横に動いた彼が、本棚に手を伸ばす。手にした本を「ほれ」と言ってこちらに差し出した。
「先にこっちだな、魔法力学。初歩の初歩だから、読めんことはないだろうが、分からないところがあれば――」
言いかけた彼はハッとして口を閉じる。手にした本を引っ込め、気まずげに顔を逸らした。
「まぁ、俺には関係ない話だな。余計なお世話だった」
「いえ! あの、助かります。両方、両方とも読んでみます!」
ボルツの手から本を奪い、もう一度礼を言う。
なんとも言えない奇妙な顔を浮かべた彼は、本を持っていた手で前髪を掻き上げた。そのままガシガシと髪を掻き乱して、ボソリと呟く。
「……好きにしろ」
「はい、好きにします!」
答えると、ボルツはまた奇妙な表情を浮かべた。苦しいような、痛みに耐えるような。
彼の表情の意味が分からず、内心で首をひねる。
彼の口から「あー」という意味のない言葉が溢れ、意を決したといわんばかりの目がこちらを向いた。
「トリシャ・タールベルク」
「はい!」
「……お前、アレ見たか?」
彼の言う「アレ」が分からず、返事に困る。
それが伝わったのだろう。盛大なため息を吐いた彼が不機嫌に告げる。
「見合いの釣書だ」
「えっ!?」
端的に言われたが、なんのことだか分からぬほど鈍感にはなれなかった。先ほどまで、まさにそのことで悩んでいたのだから。
(で、でも、まさかボルツ先生の口からお見合いの話を聞くなんて……)
らしからぬという言葉がピッタリ来る彼だが、ここでそれを口にするというのはつまり――
「……ボルツ先生も、我が家に縁談を申し込んでくださったのですか?」
ここで、「私に」と言うほど自惚れるつもりはない。
ただ、ボルツは実力一つで男爵位を得、王立学園の教師に成り上がった人物だ。彼がタールベルクの力を必要とするとは思えない。
ボルツの真意が読めずにいると、彼はまたガシガシと自身の髪を掻き乱した。
「その様子じゃ、まだ見てないんだな?」
「す、すみません」
「いや、いい……」
「いい」と言いつつ、彼の表情は優れない。
釣書を放置している自分の非礼に、改めて肝が冷えた。
「も、申し訳ありません、先生! 帰宅次第、すぐに目を通します! 返事は兄を通して必ず……!」
「いいから、待て」
焦るこちらを、ボルツが片手を上げて制する。逡巡する様子を見せた彼は、硬い表情で告げた。
「……クリスティーナはなんて言っている?」
「え? 義姉ですか?」
「そうだ。俺の釣書、というか、俺についてだな。『こいつはやめとけ』って言われなかったか?」
謙遜なのか自虐なのか。
首を横に振ることで彼の言葉を否定する。
「そうか……」
ボソリと零した彼が、「だったら」と告げた時、不意に私の名を呼ぶ声が聞こえた。
「トリシャ」
「ウェスリー!」
本棚の陰から現れた幼馴染は、私が一人でないと知ると、瞬時に険しい表情を浮かべた。ボルツに対し警戒の眼差しを向ける。
しかし、警戒するだけでそれ以上は動かなかった。
いつもそうだ――
ウェスリーが私に対して過保護なのは間違いない。
でも、兄と違い、最後には必ず「私の意志」を尊重してくれる。
(最初は反対しても、『お願い』すれば、絶対に聞いてくれるんだよね)
今も、ボルツへ警戒心を向けたまま、私の出方を静かに待っている。ここで私が「先に帰って」と頼めば、きっと彼は素直に受け入れるだろう。
ぼんやり考え込んでいると、ボルツの嘆息が聞こえた。
彼が口を開く。
「あの女が何を考えてるのかは知らんが、俺も腹を括るしかないみたいだな」
「ボルツ先生……?」
何に対して「腹を括る」のか。
尋ねることを躊躇するほど、彼の顔からは表情が抜け落ちていた。
「さっきの件だが、前向きに検討してくれ」
ボルツの視線が、私の持つ本に注がれる。
「……金も地位もないが、俺は魔導師だ。魔法に関してなら、お前が求めるもんを与えてやれる」
それだけ言うと、彼はクルリと背を向けた。こちらが答えに迷ううちに、彼は足音一つ立てずにその場を後にする。
遠ざかる背中を見送っていると、ウェスリーが隣に並ぶ気配がした。
「……トリシャ。『さっきの件』って何?」
「うん……」
前を向いたまま、曖昧に返事を濁す。
ボルツの姿は既に本棚の向こうへ消えていた。
彼はどんな思いで「前向きに」と言ったのだろう。その言動から、彼自身が見合いを望んでいるとは思えなかった。
疑念を抱きつつ、彼が最後に残した言葉が妙に耳にこびりついて離れない。
(……私が求めるもの)
頭の中で、何度もぐるぐると反芻した。
◆ ◆ ◆
背中に視線を感じたまま、図書館を後にする。一歩、建物の外に踏み出すと、明るい日差しに目を焼かれた。
片手を翳し、射すような陽を遮ったところで、ここに来た当初の目的――目当ての本を手にしていないことに気づく。
だが、今更戻る気にはなれない。
そのまま日向を歩き続けた。
(……クソッ)
内心で零す舌打ちは無様な自分に対するもの。
先ほどの自身の言動に対する後悔だった。
なぜ、あんなことを言ってしまったのか。
きっと、心の準備もなく、件の少女と出会ったのが悪かった。最近の己を苛む悩みのタネ。
(トリシャ・タールベルク……)
自らの意思で彼女との見合いを望んだわけではない。
一回り以上年下の、しかも、学園の生徒。身分には天と地ほどの差がある。おまけに彼女の義姉は因縁の相手クリスティーナ・タールベルクだ。
本来なら、釣書を送ったところで一笑に付されて終わる。
それを期待してもいた。
だが、その期待が叶わぬことも覚悟していた。
――オズワルド・ボルツ、お前に頼みがある。
脳裏に蘇る声。
何度も悔やんだあの日の出来事を思い出す――
「……王太子自ら一介の教師に頼みとは。はてさて、一体どのような大命を任されるのでしょうか?」
呼び出された王宮。向かいに座る男の傲慢な瞳に、内心でため息を吐く。
(……やられたな)
王宮から学園に届いた召喚状。「教師の派遣」という名目と、記された召喚主の名に、つい引き受けてしまったのが運の尽き。
待っていたのは、想い人であるソフィア・アーメント一人ではなかった。
彼女の隣に婚約者である王太子アレクシス・シュタイアートの姿を見た時点で、嫌な予感を抱いていた。
それが、彼の第一声で確信へ変わる。
続く言葉を聞きたくない。
逃げ出したい思いで視線をアレクシスの隣へ向けた。
ソフィアと目が合う。
その瞬間、彼女の瞳に涙が溢れた。
「ソフィア――」
「ボルツ先生、お願い! アレクシスのお願いを聞いてあげて!」
目に湛えた涙をポロリと零し、彼女が頭を下げる。
その姿に、口にしかけた言葉を呑み込んだ。
「元気にしていたか」、「王宮で困っていることはないか」、「自分が力になれることはないか」、それから、「もう、許してくれたのか」と。
聞きたいことはたくさんあった。
だが、彼女の態度に、どれ一つ口にすることができない。
代わりに、王太子の尊大な声が告げる。
「ボルツ、お前にタールベルクとの縁を結んでもらいたい」
「タールベルク? 縁というのはまさか……」
過ったのは婚姻の二文字。
自身がまだ平民だった頃、「爵位を得る最も手っ取り早い手段」としていくつもの縁談が舞い込んだ。そのどれにも「諾」と答えることなく今の地位を築いたのは己の密かな誇り。
だというのにまさか――
「トリシャ・タールベルク。フリードの妹だ。幸運なことに、未だ婚約者がいない。お前には彼女と婚姻してもらう」
「ご冗談をっ!」
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