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2巻
2-1
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私――クリスティーナ・ウィンクラーには前世の記憶がある。
それによると、私の生きるこの世界は乙女ゲーム『蒼穹の輪舞』の舞台で、自分に与えられた役割は、ゲームのヒロインであるソフィア・アーメントの恋敵、王太子アレクシス・シュタイアートの婚約者として登場する「悪役令嬢」だった。
私がその記憶を取り戻したのは、全てが終わった後。まさに王太子殿下より婚約破棄を言い渡された瞬間であり、既に物語はアレクシスルートでのハッピーエンドが確定していた。
私は絶望した。価値なき者として打ち捨てられる未来が途方もなく恐ろしく、そして、どうしようもなく悔しかった。
けれど、だからこそ、抗うことができたのかもしれない。
父であるウィンクラー公爵に王立学園の退学を突き付けられ、どこぞの条件の悪い男のもとに嫁げと命じられた時、私は形振り構わないことを決めた。蔑まれ、厭われようと、私は……私だけは、自分の生を諦めるわけにはいかない。
父との交渉の末、「首席であり続けること」を条件に、私は王立学園を卒業するまでの猶予期間を得る。その条件は、同時に私自身の目標でもあった。
しかし、当然のこと、学園に私の味方はいなかった。
一つ年上の王太子が学園を卒業した後も、彼の最愛であるソフィアを害した事実は残る。特に、彼女が尊き前王家の血を引くことが判明した後は、その正当性を盾に、私への当たりは苛烈さを増した。
そんな中でもたらされた二つの出会いが、私の人生を大きく変える。
図書館で出会った二人、トリシャとウェスリーの存在が私の心を温め、そして、トリシャの兄、タールベルク辺境伯であるフリードの存在があったからこそ、私は――
第一章 聖なる夜を越えて
「え……? 聖夜祭に、私が出席するのですか?」
「そうだ」
学園の寮に現れた家の遣いに連れられて戻ったウィンクラーの邸。秋の剣術大会以来となる面会で、父から告げられた内容に困惑を覚える。
「それは……、許されるのでしょうか?」
己の貴族令嬢としての評価はいまだ地に落ちた状態。王宮主催の大夜会である聖夜祭に姿を見せれば、ウィンクラーとしては要らぬ誹りを受けることになる。
それを案じての問いに、父は淡々と答えた。
「本来なら、タールベルク伯にお前を伴ってもらいたいところだが、この季節、伯は領地を離れられんという。ならば、致し方あるまい。ユリウスの同伴を許す。お前だけでも顔を出してこい」
「フリード様の代わりに、お兄様と……」
春に出会った己とフリードの関係には、いまだ明確な名がついていない。互いに想い合う仲であり、彼からは婚姻の申し込みも受けたが、父は、婚約を二家間の内々のものに留め置いている。
王太子殿下の不興を買って婚約を破棄された己が北の雄であるタールベルク家当主と早々に婚約を結び直すことは、王家への翻意を疑われかねない。それを案じての保留であるが、そんな中で、父が己とフリードを夜会へ出したがった理由はなんだろうかと考える。
「……春には婚姻だ」
父の確定的な物言いに、一瞬、躊躇ってから「はい」と答える。
「ウィンクラーとタールベルクの縁組ともなれば、それなりの準備が必要だ。が、如何せん、北の地は遠い。いくら伯の名が知れ亘ろうと、王都での立ち位置はいまだ盤石とは言えん」
父の言わんとしたことが分かり、「なるほど」と首肯する。
フリードが王都の剣術大会で優勝を飾ったのが、一月前。国王陛下より直接お褒めの言葉を頂き、彼の武勇はいまだ王都の社交界を賑わせてはいるが、北の辺境――魔物討伐最前線の長という立場にある彼は、早々に領地へ帰還してしまった。
社交界での地位を確立するための絶好の機会であっただけに、父は不満らしいが、それでも――かの地の護りを考え、その不満を口にすることはなかった。
(フリード様が出てこられない以上、代わりに表に立つのが私の役目……)
春には婚姻。それを可能にするためには、今、動き出しておかねばならない。
まずは、人前に出ること。
聖夜祭に出席すれば、間違いなく針のむしろだが、ここで己が引きこもり続けても後手に回るばかり。その負担はいずれフリードに降りかかる。
「承知しました。お兄様にエスコートをお願いします」
無表情に「ああ」と頷いて返した父が、言葉を続ける。
「聖夜祭用に、服を新調しろ。……春に向けての服もだ。婚姻式の衣装も、併せて発注していい」
「……ありがとう、ございます」
思わぬ言葉に、返事が一拍遅れる。
確かに、春に式を挙げるためには、ウェディングドレスの製作は急務。むしろ、今からでは遅いくらいなのだが、父が許したということは公爵家の力を用いて良いということ。であれば、式には十分間に合うだろう。
(……結婚式。ウェディングドレス、か)
事務的な話とはいえ、急に動き出した自身の結婚準備に戸惑う。フリードとの婚姻を心待ちにする想いに嘘はないが、正直、それどころではない現状、いまだ実感が持てない。
覚束ない自身の先に思いを馳せていると、父に名を呼ばれた。
視線を向けた先で、父が厳しい表情を浮かべている。
「……時に、お前の目から見て、リッケルト侯爵家のテレーゼとはどういう娘だ?」
「は……?」
脈絡のない問いに、考える前に口から音が漏れていた。父の眉間の皺が深くなる。
「……リッケルトからユリウスに、娘を嫁がせたいとの申し出が来ている」
「っ!? まさか、そのお話を受けるおつもりですか?」
驚いて尋ねると、父はフンと鼻を鳴らして答えた。
「まぁ、当代はどうしようもない愚物だが、次代には、多少、期待が持てる。今のウィンクラーにとって、悪い話ではない」
「それは……」
父が言う「今」とは、己の周囲から、所謂、取り巻きをしていた令嬢たちが離れてしまった現状を指す。ウィンクラーの分家を始め、公爵家に嫁ぐに相応しい者たちを己の傍に置いてユリウスとの接触を持たせ、彼自身に気に入る相手を選ばせる。それが元々の父の考えだった。
それが、己の周囲から人が離れてしまったため、計画が頓挫した。もちろん今でも、ユリウスが望めば──よほど無茶な相手でない限り、婚姻を結ぶことは可能だろう。
ただ、本人にその気がない。と言うよりも、いまだ、よほど無茶な相手――ソフィア・アーメントを忘れられずにいる。
(本当、何をやっているんだか……)
呆れを含んだ嘆息は胸の内にしまう。自身の立場を分かっているはずのユリウスが、ここまで片恋を引きずるとは。
このままでは、彼にとって最悪な結末を迎えることになるだろう。そして、己にとっても、テレーゼは決して望ましい義姉とは言えない。彼女に対する嫌悪感を隠さず、父の問いに答えた。
「……テレーゼ様は、一言で言えば、性根の腐った救いようのないお嬢様です」
「ふん。当代譲りというわけか」
「はい。淑女としての教養やマナーに問題はありませんので、公爵夫人としてそつなくこなすとは思います。ですが、それはあくまで表向き。お兄様とは相容れないでしょうし、邸の者たちも受け入れ難いかと……」
「なるほど。……だが、まぁ、飼い殺す分には問題ないということだな」
不穏な言葉に思わず閉口する。父は思った以上にこの婚姻に乗り気なようで、不安が募る。
「あの、お父様、何故、リッケルトなのでしょうか? 家格で劣るとも、お兄様に相応しい方は他に大勢いらっしゃいます。わざわざ、テレーゼ様を選ばずとも……」
こちらの問いに一拍置いて、父が口を開く。
「プルーク侯爵家が、ソフィア・アーメントの後見に名乗り出た。あの娘を養女とし、王家へ嫁がせるつもりでいる」
「そういう、ことですか……」
それは、ウィンクラーにとってもリッケルトにとっても、あまり望ましくない事態だ。リッケルトにとっては、同列の侯爵家から王太子妃――次代の王妃が出ることになる。現在、わずかにプルークを凌ぐ彼らにとっては大きな痛手となる。
(それを、政敵である我が家と手を組んで巻き返そうというわけね……)
ウィンクラーとしても、己を排して王太子妃に納まるソフィアのバックに侯爵家がつくとなると、多少の用心が必要になる。相手が男爵家ならば問題なかったが、侯爵家となると、その影響力は大きい。間違いなく、プルーク家の存在感、発言力は増すだろう。
(そういうことなら、もう、これは私の範疇外、ね……)
一応、テレーゼを知る身として意見を求められたのだろうが、後は、家と――辛うじて、ユリウスの問題だ。
できれば、身内にテレーゼのような人間を抱えたくないというのが本音だが、こちらは家を出る身。残念ながら、ここでの己の抵抗は意味を成さない。後はもう、ユリウスが彼女を拒み、父を黙らせるだけの代案を用意してくれることを願うのみだ。
自然と、口から諦念のため息が零れ落ちた。
◇ ◇ ◇
迎えた聖夜祭当日。ウィンクラーの力を存分に用いて仕立てた夜会服に身を包み、私はユリウスと二人、公爵家の馬車に揺られていた。
ユリウスの胸に刺された生花の薔薇――その薄いピンクの色味に、誰かの姿を連想せずにはいられない。
その妄執のような未練を笑えないのは、己自身がフリードの瞳の色を全身に纏うから。
彼との婚約を公にしていない現状、この色の意味に気付く者などいないというのに――
「降りるぞ」
物思いに耽る内、会話もないまま王宮に到着した。
ユリウスに促され、車寄せに止まった馬車から降り立つ。義務として差し出された手にエスコートされ、会場に足を踏み入れた。
(……すごい人の数、ね)
年の終わり、その最後を締めくくる「聖夜祭」は、新たな年の訪れと共にお迎えする精霊たちを称えるもの。国中から王侯貴族が集まるこの日は、王宮の大広間でさえ狭く感じるほど、多くの人で溢れ返っていた。
(これが年をまたいで続くんだから、やっぱり、かなりしんどいかな……)
しかも、己は歓迎されない存在。着いた途端に帰りたいと願ってしまう。
だが、実際に逃げ出すわけにもいかず、兄妹そろって陛下への挨拶を済ませる。親しく言葉を掛けてくださる陛下に、これは父の仕込みだろうかと考えつつ、こんな日まで出仕している父の不在を詫びて御前を退いた。
途端、ユリウスは何も言わずに傍を離れていく。向かう先を目で追うと、案の定、アレクシス殿下とその隣にいるソフィアたちと合流した。
アレクシス殿下も去年までは、陛下と並んで壇上から夜会を眺めるだけだったが、今夜はホールに下りてきている。ソフィアとの挨拶回りのためか、「それとも」と考えていた視線の先で、殿下がソフィアの手を引いて、広間の中央へ向かった。
(……ああ、やっぱり)
広間中央、手に手を取り合った二人が、音楽に合わせて踊り出す。
踊り出しがぎこちなかったソフィアも、すぐに殿下の動きに合わせてステップ踏めるようになった。そんな二人の様子を黙って見つめる。
(……踊れるようになったのね)
表情から硬さのとれた彼女の動きは、傍から見ても優雅なものだった。
それほど裕福でない男爵家出身の彼女はダンスを習うような環境になく、また、彼女の在籍する魔術科にダンスの授業はない。そんな彼女が、他の令嬢と比較しても遜色ないほど踊れるようになったのは、王太子妃教育のおかげ、そして、彼女の努力の賜物だろう。
(大変ね……)
無感動にそう思う。
同じ苦労をした身としては、彼女の努力を労うべきなのだろう。だが、それが彼女の選択、望んでそこにいるのだから、当然の努力だとしか思えない。
(……やっぱり、どこまで行っても、私は『悪役』ね)
彼女の成長は認めても、ろくな感想が湧いてこないことに自嘲する。
周囲の注目を集める二人に背を向け、さっさとこの場に見切りをつけることにした。ユリウスに置いていかれた以上、挨拶回りは一人で行うしかない。
(とはいえ、これは、結構ハードかも……)
そう予想した通り、ユリウスという分かりやすい公爵家のバックがないため、挨拶回りはなかなかに厳しいものとなった。
そもそもが未婚の令嬢。それがエスコートもなしにうろついているのだ。成人済みとはいえ、挨拶できる範囲などたかが知れている。
父と繋がりのあるご婦人方に声を掛け、多少のお小言をもらって、当たり障りのない返事で殊勝に頷いてみせる。
彼女たちが見ているのは己ではなく、身に纏う贅を凝らした夜会服だ。公爵家がまだ己を切り捨てていないと示せれば、今日のところはそれで良し。
粗方の挨拶が済んだところで、壁の花を決め込むことにした。
本音は、さっさと帰宅したいのだが、一緒に来たユリウスが「帰る」と言わなければ帰れない。それに、万が一にもあるかもしれない、「クリスティーナ・ウィンクラーへの挨拶」を受けるために、この場にい続けることを選んだ。
(よく考えたら、初めての体験よね……)
夜会で、自身の周りに誰もいないという状況。殿下の婚約者であった頃には、ひっきりなしに挨拶に訪れる人間がいて、殿下のいない時でも必ず「友人」に囲まれていた。
婚約破棄後には、社交から完全に遠ざかっていたため、壁の花にさえなれていなかったが。
──寂しい。
寂しいし、心許ない。
学園でも同じ状況なのにどうしてと考えて、この場にはトリシャたちがいないのだと気が付いた。デビュー前の彼女が、この場にいないのは当然なのに。
知らぬ間に随分と二人の存在に救われていたらしいと自覚して、大広間の片隅で小さく笑った。
◆ ◆ ◆
(まったく、愚かで浅ましい……)
聖夜の夜会場。
周囲から向けられる女たちの視線が疎ましい。
男に阿る以外の会話はできぬのかと、私は会話には早々に厭いた。
やはり、アレクシス殿下のもとへ戻ろうと、周囲への挨拶もそこそこに立ち去ろうとする。が、またしてもうんざりする声に呼び止められた。
「これはこれは、イェルク殿!」
父との繋がりがそこそこにある、無視はできない子爵家当主の声に、一応の挨拶を返す。
「……ハバード卿。ご無沙汰しております」
「貴殿もご健勝そうで何より! ご活躍は聞き及んでおります。先ほどミューレン伯にご挨拶をさせていただきました、いやぁ、貴殿のようなご子息を持って、お父上も鼻が高いでしょうな!」
「……過分な評価、恐れ入ります」
「いやいや、何を謙遜される必要がありますか! 殿下の覚えめでたいイェルク殿がいらっしゃれば、ミューレン家は百年先まで安泰! 繁栄を約束されたも同然でしょう!」
底の浅い世辞に辟易するも、「期待に添えるよう精進する」と返し、殊勝な態度で頭を下げる。形ばかりの言葉に満足したらしい男は頷いて、傍らに立つ少女をこちらに押し出した。
「ところで、イェルク殿。これは私の娘で、今年がデビューなのです。娘は昔から貴殿に憧れておりましてな。どうでしょう、デビュー祝い代わりに、娘と踊っていただけぬだろうか?」
そう言って、こちらが返事をするより先に自分の娘を促す。
「ほら、レイシア。ご挨拶を」
「……初めまして、イェルク様。レイシア・ハバードでございます」
楚々とした態度で初々しい挨拶をする少女の頬が薔薇色に染まる。生憎、その姿を「愛らしい」と思えるような神経はとうに持ち合わせていないが、笑みを作って手を差し出した。
「私でよろしければ。……レイシア嬢、踊っていただけますか?」
「はいっ!」
少女の手を取って歩き出す。そのまま、広間中央で踊る者たちの輪に加わったが――
(……鬱陶しい)
先ほどから、こちらを追う視線がある。それは、腕の中で一心に見上げてくる少女のものでも、彼女の前に自身が袖にした女たちからのものでもない。
己が会場に入った時よりずっと向けられている視線は、これだけの人の中に在っても間違いようのない、ある意味、慣れ切ったもの。
視界の端に、ハシバミ色の髪が映った。
─―カトリナ・ヘリング。
湿度の高い元婚約者の視線に、内心で舌打ちする。
婚約当初から鬱々としていた女とは、漸く、縁が切れたはずだったのだが――
(本当にしぶとい女だ。一人では何もできない無能のくせに……)
権力にすり寄り、甘い汁を吸おうとする寄生虫のような女。クリスティーナの悪行の尖兵として共に叩き潰したはずが、気付けば、ソフィアという新たな宿主に取り付いていた。
ソフィアの度量の大きさ――自身に害をなした相手さえ受け入れる精神は嫌いではない。が、今回ばかりは相手が悪かった。
ソフィアがカトリナとの友情を願い、殿下が「害なし」と判断したため放置しているが、何かを期待して纏わりつく視線が忌々しい。
(ウィンクラーの庇護を失ったヘリング家に価値などないと、何故、分からない?)
毒にも薬にもならぬのだ。カトリナが再び己の婚約者に据えられることは、万が一にもないというのに。
「……あの、イェルク様? 私、何かご気分を害してしまいましたか?」
カトリナへの苛立ちが表情に出てしまっていたらしい。腕の中の少女が眉尻を下げ、困り顔で見上げてくる。
あからさまなその媚態を見下ろして、ゆるく笑ってみせた。
「失礼しました。お美しいご令嬢を相手に、少々、緊張しているようです」
「まぁ!」
口先だけの賛辞に、少女は簡単に喜びを表す。
カトリナとの婚約解消以降、彼女のような未婚の少女たち、若しくはその親からすり寄られる機会が増えた。
女性に対する欲がないわけではなく、いずれは、ミューレン家に相応しい相手を娶るか、婿入り先を見つけるつもりではいる。
だが、今は婚姻などの面倒にかかずらう気になれない。
(何よりも、殿下の側近として身を立てることが優先。婿入りなどできずとも、問題はない)
他家の次男、三男が婿入り先が見つからず苦労しているという話はよく耳にする。だが、自分なら婚家の力などなくとも実力で成り上がれると自負しているし、爵位を得る自信もある。
それに、一応とはいえ、婚約者がいる間は身を慎んでいたのだ。カトリナから解放された今、しばらくは好きにさせてほしいというのが本音。享楽に耽るつもりも、身を持ち崩すつもりもないが、女性とはほどほどの関係でいたい。
曲が終わると同時にもう一曲をねだる少女を父親に返し、引き留められる前にその場を後にした。
同じような年頃の娘たちの誘いを無難に躱す内に、背後から伸びてきた手がこちらの腕に触れる。反射的に振り返ると、艶のある笑みを浮かべた婦人と視線が絡んだ。
「……今晩は、イェルク様」
黒髪の妖艶な美女は某子爵家の未亡人。
閨の教育で一夜を過ごしたことのあるその人は、腕に触れていた手に軽く力を込め、濃く長い睫毛を伏せた。更に一歩を詰めた彼女が囁く。
「ねぇ、イェルク様。私、酔ってしまったみたい。……少し、付き合ってくださる?」
「……私でよろしければ」
聖夜祭の夜は長い。閑暇なひと時を潰すべく、彼女の誘いに乗った。
婦人の手を取り、大広間を出る。彼女に導かれるまま、王宮の一角、遠方から訪れる招待客用の宿泊棟に歩を進めた。
そこには「お遊び」のための部屋がいくつかあり、王宮に伝手さえあれば、部屋の鍵を入手できる。彼女もその鍵を持つのだろうと、黙って宿泊棟の階段を上り始めたところで、背後から無粋に呼び止められた。
「イェルク様!」
今度こそ、舌打ちが漏れる。振り向かずとも、声の主が分かってしまう。
うんざりしながら、階段途中で振り返り、階下を見下ろす。
「……私に何か?」
不機嫌を隠さずに問うと、呼び止めた声の主――カトリナ・ヘリングがたじろいだ。
「……その、私、イェルク様にお伝えしたいことが……。できれば二人きりで……」
そう口にし、カトリナは己に寄り添う婦人にチラリチラリと視線を向ける。「言わずとも分かってくれ」と言わんばかりのその態度に、深く嘆息した。
(……なんのことはない、ただの嫉妬か)
身を弁えない女の鬱陶しさに、苛立ちのまま言葉を吐き捨てる。
「お断りします。私は貴女の話など聞きたくありません」
「っ! イェルク様、お願いです。ほんの少しだけ、お時間を……」
「ハッ! 冗談でしょう? 貴女の姿を目にするだけで不快なんです。話を聞く時間など一秒たりともありません。即刻、私の視界から消えてください」
己の拒絶に、カトリナが目を見開き、表情を歪める。目から涙が溢れ出そうになっているのを見て、彼女に背を向けた。
これ以上、醜悪なものを見たくない。
再び上り始めた階段の途中、己の腕にぶら下がる婦人がクスクスと忍び笑いを漏らす。捨て置かれる惨めな女に対する嘲笑。なんとも言えない不快な響きが、妙に耳に残った。
◆ ◆ ◆
―─もう、いい。もう、疲れた……
かつての婚約者が去っていく後ろ姿を見送ることができず、視線を床に落とす。
彼を引き留められなかった。最後の、本当に最後の、勇気であり、希望であったのに。
失敗した以上、私に残された道は一つしかない。後はもう、命じられたことに粛々と従うだけ。
踵を返し、もと来た通路を戻る。扉を潜ると、夜会場は先ほどまでと変わらぬ光に満ちていた。それが、より一層、自分を惨めな気分にさせる。
目に溜まったたままの涙を拭うと、碧色のドレスが視界に映った。
(……クリスティーナ様)
どこにいても見つけてしまう。気付けば目で追ってしまう。
拭った涙がまた込み上げそうになった。
かつて、私の世界はイェルクとクリスティーナの二人でできていた。その二人を失って、私の世界、私の居場所はもうどこにもない。
彼女の視線の先を追い、そこにある集団を見つけて唇を噛む。
失うものなどもう何もない。なのに、卑怯で臆病な自分は、まだ傷つくことを恐れている。
だから、心を殺して、思考を止めて、彼女の視線の先へ向かう。そこで、私に課せられた役目を果たすために。
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