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第二幕 あなたのせい
2-1.帰る場所などなく
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シュテインにはじめて抱かれた日から、四日が経つ。トゥトゥナは用意された巫女の服を着て皇領市を一人、歩いていた。
白を基調にした街並みは美しく整っているが、今日はあいにくの曇り空だ。灰色の空を見上げていれば、知らずのうちに気分も落ち込む。風も少し、強い。
――ケープを羽織ってくればよかったかしら……。
薄紫の服は肩と胸元が大きく開いている。足はふくらはぎが出るように切りこみが入れられており、動きやすいが少し露出が多めだと感じた。
しかし、周りにいる巫女も同じような装いをしている。談笑しながらトゥトゥナの横を過ぎ去る巫女たちは、もう慣れているのか、恥ずかしげな様子すらない。
――気にしているのは私だけね。
空を仰ぐことをやめ、手元の羊皮紙に目を移す。それには買うものが書かれている。
トゥトゥナが館から外出するのは、これがはじめてだ。買い物をイスクに頼まれた。馬車に撥ねられるのではないか、と事故死のことも頭によぎった。けれど体面としては自分はシュテインの巫女。トアとしてシュテインに尽くさねばならない。
簡単な祝詞はすでに頭に入っている。祈祷の仕方も。朝と昼は館でトアとして本を読み、または儀式を習い、夜はトゥトゥナという名で女を捧げる日々。体はイカリソウを主にした滋養のお茶や食事で疲れてはいないが、精神的な疲労は否めない。
――早く買い物をしてしまわなければ……。
消沈する気持ちを振り払い、買う品物を確かめた。果物だ。イスクが記載してくれた地図によると、店は少し入り組んだ場所にある。
サンダルで石畳を踏みつつ、辻馬車などに轢かれないよう歩道を慎重に歩いた。途中、魚や肉を焼く香ばしい香りが鼻を刺激するも、朝食を取ったあとだ。それに気持ちが重く、食欲などわいてこない。
くねった坂道を上がり、ようやく指定された店先まで辿り着いたのだが。
「あら……?」
休み、と書かれたプレートが入口にかけられている。困ってしまった。他の店など知らない。どうしようかと迷っていると、店の横にある館から神官が出てきた。トゥトゥナは思い切って話しかけてみる。
「すみません、ちょっとよろしいでしょうか」
「何かお困りごとですか」
「この近くに、他に果物を売っている場所はありますか? ここが休みのようで」
「ああ、風邪を引いたと休んだようですね。それなら……」
神官は丁寧に違う店を教えてくれた。少し遠いが、歩きで行けない距離ではない。
「ありがとうございました、助かります」
「当然のことをしたまでです。聖龍神のご加護があらんことを」
「あなたにも。よき一日でありますように」
聖職者同士の言葉を投げ合い、トゥトゥナは早速教えてもらった店へと赴く。
――ただの真似事ね。
慈悲、純潔、勤勉。それらを美徳とするザインズール聖龍神の教えには、全く自分が当てはまらないように感じた。なのに、巫女として振る舞うなんておかしいにもほどがある。シュテインだってそうだろう。
勤勉さはともかく、日々淫蕩の限りを尽くす龍皇候補。彼がなぜトゥトゥナに執着するのかはわからないが、いずれ飽きられもするはずだ。そうなれば自分はきっと、死ぬ。
風の冷たさと想像した死に震えつつも、教えてくれた店までなんとか辿り着いた。
先程の店とは違って少し大きめの店舗には、様々な果物が並んでいる。巫女もいるし神官も多く、繁盛していた。
林檎と桃、杏やイチジクなど指定されたものを選んで篭に入れる。支払いを済ませて店を出た。元来た道を戻ろうとして、しかしいくつか曲がる角を間違えてしまう。
迷った。完全に道を間違えたことに気付き、トゥトゥナは一人ため息を漏らした。
――この歳で道に迷うだなんて……。
情けなくなる。頼りの地図は、シュテインの館と最初に訪れた店の部分までしかない。篭を抱え、仕方なく大通りに出てみようと決めた。歩きだして数分経ったとき、妙に視線がこちらへ注がれていることを察する。
――何……かしら?
水色の服を着た巫女たち、そして通りすがる神官たちが、トゥトゥナを見てさっと目を逸らす。まるで異端児を見るかのような目付きに、思わず唾を飲みこんだ。
さっさと帰ろう――そう改めて決めるも、向けられる視線は鋭い。嫌な感じがする。
早足になった、その直後だった。
立派な藍色の馬車が不意に横に止まり、トゥトゥナは思わず肩を跳ね上げた。
「トア。こんなところで何をしているのかね」
「ヴィシュ卿……?」
馬車を見上げた自分に声をかけてきたのは、ギュントだ。頭を慌てて下げる。
「こちらの区画に来るとは……リシュ卿は何を教えているのか」
「え?」
苦々しい物言いに、おずおずと顔を上げた。ギュントが中から扉を開けてくれる。
「失敬、こちらの話だ。その様子だと道にでも迷ったか」
「は、はい。お恥ずかしい話ですが」
「……途中まで送ろう。乗りたまえ」
「ですが……」
「これは善行というもの。気にせず乗りたまえ、話したいこともある」
「あ、ありがとうございます」
馭者が馬から下り、馬車への階段を降ろしてくれる。こちらを見て何かをささやき合う衆人をよそに、トゥトゥナはそそくさと馬車へ身をくぐらせた。ダリエの姿は、ない。
ギュントと対面で座ったのを見てか、馭者が馬を走らせる。
「助かりました、ヴィシュ卿」
「ここの区画は、保守派が住む区画。水色の石畳に囲われている部分は皆、そうだ」
「あ……」
巌のような面持ちのギュントに言われ、トゥトゥナはようやく、自分が来てはいけない場所に立ち入ったのだと理解した。
確か、シュテインにも言われたことがある。革新派と保守派は絶賛、水面下での戦いを繰り広げていると。中立派の票を会得するための根回しなども行われているとも。
「出かけるときは市全体の地図を見た方がよいだろう。次からは気をつけなさい」
「はい、そうします……」
思い返せば、水色や藍色の服を着ていたものが多かった気がする。確かに異端視されてもおかしくない場所に自分はいたのだ。ギュントが助けてくれてよかった、と感じる。
「我ら派閥に巫女や神官を巻き込むことは避けたかったのだが、亀裂は生じる一方でな。肩身の狭い思いをさせてしまっておる。詳しくはリシュ卿に聞くことだ」
「はい、わかりました」
「……ふむ、君は思った以上に正直だな」
「お褒めにあずかり光栄です」
「それでは正直ついでに、実際のところはどうなのかね」
「何がでしょうか?」
「スネーツ男爵の告発状の件だ」
ギュントの言葉に、思わず篭を落としそうになった。ギュントの目は厳しい。
「あれは本当のことだったのかね」
「……違います。私は……村の方に、捨て子だったところを拾われただけですので」
「ふしだらに男爵を誘った、というのも嘘だと?」
「はい。その、男爵は私が夫がいるにも関わらず、関係を持てと迫って来ました。話は、逆です」
ギュントは何も言わない。見定めるようにトゥトゥナを見つめ続けている。
トゥトゥナの内心は冷や汗ものだった。魔女とわかれば、裁判が、と死を連想させる単語ばかりが浮かぶ。必死で泣き出しそうに微笑み、頭を振った。
「男爵閣下に誤解だと伝えたいです。私は魔女では……ありません」
嘘をつくのが苦しい。自分がやって来たこと、医者として村で過ごしたことを否定するのは、自ら思い出を汚すようで辛かった。
「伝えることは無理であろう。スネーツ男爵は失脚した」
「え……」
嘆息するギュントに、思わず惚けた声が漏れる。今、ギュントはなんと言ったのだろう。だが詳しいことを聞こうとする前に、ギュントが鷹揚に右手を振った。
「まあ、それは構わん。こちらの話でもあるのだから。それより巫女としての生活はどうかね」
「……とても充実しています。知らないことを知るのは、楽しいので」
「勤勉は美徳なり。よかろう、その調子で神殿でも励みたまえ」
「はい、そうします」
半分嘘が混じった言葉で、聖職者として立派だと思えるギュントを騙すのは心苦しい。そう思い、トゥトゥナは話題を変えた。
「そう言えば、神殿にはダリ……いえ、ルノがいるのですよね?」
「彼女もまた勤勉で清廉、信仰心に厚い。巫女の見本と言えるな。見習うべきことがたくさんあろう」
「そうですね……」
ダリエ。トゥトゥナの夫を思いながら、巫女になったもの。アロウスへの未練を断ち切るためにここに来たのだろうか。彼女を見習うには、あまりにも自分は汚れすぎた。
胸を痛めるトゥトゥナは、ゆっくりと馬車が止まったことに気付いた。
「ここからまっすぐ行けばリシュ卿の館に辿り着く。早めに帰るとよい」
「本当にありがとうございます、ヴィシュ卿」
淡々としたギュントの言葉に、トゥトゥナは微笑む。馬車から降り、再び頭を下げた。
「聖龍神の加護があらんことを」
「痛み入ります」
トゥトゥナの返事にうなずき、ギュントは馬車を走らせて去っていった。
――リシュ卿とは大違いね。
篭を下げて歩き出しつつ、そんなことを思う。
徳を固めて体現したような姿、物言い。少し顔は険しいが、自制に満ちていると思えばそれも納得できた。
周りを見れば、白色の石畳ばかりの場所だった。ここには見覚えがある。今度は間違えずに館への道のりを進んだ。
しばらく進むと館が見えてくる。警備の神官兵がいた。そしてイスクも明後日の方向を向いて腕を組んでいる姿を確認できた。
イスクがこちらに気付き、少し大股で駆け寄ってくる。
「遅かったな、トア殿」
「すみません、道に迷ってしまって」
「地図を描いておいたが?」
「お店が休みだったんです……他のお店に行ったら、間違えた場所に出て。ヴィシュ卿に途中まで送っていただきました」
微笑むと、イスクが黒い目をすがめた。それから、はあ、と小さくため息をつく。
「トア殿、ヴィシュ卿は敵対している勢力のお一人。あまり深入りするのは」
「ご、ごめんなさい」
「いや、無事ならそれで何よりだ。ただ、そのことはリシュ様に言わない方がいいな」
「……そうですね。言うつもりはありません」
「リシュ様がすでに帰ってきておられる。食事の準備を手伝って欲しい」
「わかりました」
うなずき、二人で館へと入っていく。
――そう言えば、スネーツ男爵が失脚したと言っていたわね。
それはどういうことだろう。今、ドルナ村近辺の地方を治めているのは一体誰かも聞きそびれた。
――帰れる、かしら。隙を見て。
だが、イスクからもらえる金は多分、辻馬車でもドルナ村に帰るには足りないだろう。歩いて、とも思ったが、一人旅の支度などできそうにもない。
ヴィシュ卿に助けをと考えがよぎるが、シュテインに言われた言葉がよみがえる。
イスクをそっとうかがう。彼をはじめとする神官兵にはどう考えても隙などなかった。見張りがいるなら余計、自分とシュテインの関係性を知られたくはない。
結局逃げ場も、帰る場所もトゥトゥナにはなかった。
白を基調にした街並みは美しく整っているが、今日はあいにくの曇り空だ。灰色の空を見上げていれば、知らずのうちに気分も落ち込む。風も少し、強い。
――ケープを羽織ってくればよかったかしら……。
薄紫の服は肩と胸元が大きく開いている。足はふくらはぎが出るように切りこみが入れられており、動きやすいが少し露出が多めだと感じた。
しかし、周りにいる巫女も同じような装いをしている。談笑しながらトゥトゥナの横を過ぎ去る巫女たちは、もう慣れているのか、恥ずかしげな様子すらない。
――気にしているのは私だけね。
空を仰ぐことをやめ、手元の羊皮紙に目を移す。それには買うものが書かれている。
トゥトゥナが館から外出するのは、これがはじめてだ。買い物をイスクに頼まれた。馬車に撥ねられるのではないか、と事故死のことも頭によぎった。けれど体面としては自分はシュテインの巫女。トアとしてシュテインに尽くさねばならない。
簡単な祝詞はすでに頭に入っている。祈祷の仕方も。朝と昼は館でトアとして本を読み、または儀式を習い、夜はトゥトゥナという名で女を捧げる日々。体はイカリソウを主にした滋養のお茶や食事で疲れてはいないが、精神的な疲労は否めない。
――早く買い物をしてしまわなければ……。
消沈する気持ちを振り払い、買う品物を確かめた。果物だ。イスクが記載してくれた地図によると、店は少し入り組んだ場所にある。
サンダルで石畳を踏みつつ、辻馬車などに轢かれないよう歩道を慎重に歩いた。途中、魚や肉を焼く香ばしい香りが鼻を刺激するも、朝食を取ったあとだ。それに気持ちが重く、食欲などわいてこない。
くねった坂道を上がり、ようやく指定された店先まで辿り着いたのだが。
「あら……?」
休み、と書かれたプレートが入口にかけられている。困ってしまった。他の店など知らない。どうしようかと迷っていると、店の横にある館から神官が出てきた。トゥトゥナは思い切って話しかけてみる。
「すみません、ちょっとよろしいでしょうか」
「何かお困りごとですか」
「この近くに、他に果物を売っている場所はありますか? ここが休みのようで」
「ああ、風邪を引いたと休んだようですね。それなら……」
神官は丁寧に違う店を教えてくれた。少し遠いが、歩きで行けない距離ではない。
「ありがとうございました、助かります」
「当然のことをしたまでです。聖龍神のご加護があらんことを」
「あなたにも。よき一日でありますように」
聖職者同士の言葉を投げ合い、トゥトゥナは早速教えてもらった店へと赴く。
――ただの真似事ね。
慈悲、純潔、勤勉。それらを美徳とするザインズール聖龍神の教えには、全く自分が当てはまらないように感じた。なのに、巫女として振る舞うなんておかしいにもほどがある。シュテインだってそうだろう。
勤勉さはともかく、日々淫蕩の限りを尽くす龍皇候補。彼がなぜトゥトゥナに執着するのかはわからないが、いずれ飽きられもするはずだ。そうなれば自分はきっと、死ぬ。
風の冷たさと想像した死に震えつつも、教えてくれた店までなんとか辿り着いた。
先程の店とは違って少し大きめの店舗には、様々な果物が並んでいる。巫女もいるし神官も多く、繁盛していた。
林檎と桃、杏やイチジクなど指定されたものを選んで篭に入れる。支払いを済ませて店を出た。元来た道を戻ろうとして、しかしいくつか曲がる角を間違えてしまう。
迷った。完全に道を間違えたことに気付き、トゥトゥナは一人ため息を漏らした。
――この歳で道に迷うだなんて……。
情けなくなる。頼りの地図は、シュテインの館と最初に訪れた店の部分までしかない。篭を抱え、仕方なく大通りに出てみようと決めた。歩きだして数分経ったとき、妙に視線がこちらへ注がれていることを察する。
――何……かしら?
水色の服を着た巫女たち、そして通りすがる神官たちが、トゥトゥナを見てさっと目を逸らす。まるで異端児を見るかのような目付きに、思わず唾を飲みこんだ。
さっさと帰ろう――そう改めて決めるも、向けられる視線は鋭い。嫌な感じがする。
早足になった、その直後だった。
立派な藍色の馬車が不意に横に止まり、トゥトゥナは思わず肩を跳ね上げた。
「トア。こんなところで何をしているのかね」
「ヴィシュ卿……?」
馬車を見上げた自分に声をかけてきたのは、ギュントだ。頭を慌てて下げる。
「こちらの区画に来るとは……リシュ卿は何を教えているのか」
「え?」
苦々しい物言いに、おずおずと顔を上げた。ギュントが中から扉を開けてくれる。
「失敬、こちらの話だ。その様子だと道にでも迷ったか」
「は、はい。お恥ずかしい話ですが」
「……途中まで送ろう。乗りたまえ」
「ですが……」
「これは善行というもの。気にせず乗りたまえ、話したいこともある」
「あ、ありがとうございます」
馭者が馬から下り、馬車への階段を降ろしてくれる。こちらを見て何かをささやき合う衆人をよそに、トゥトゥナはそそくさと馬車へ身をくぐらせた。ダリエの姿は、ない。
ギュントと対面で座ったのを見てか、馭者が馬を走らせる。
「助かりました、ヴィシュ卿」
「ここの区画は、保守派が住む区画。水色の石畳に囲われている部分は皆、そうだ」
「あ……」
巌のような面持ちのギュントに言われ、トゥトゥナはようやく、自分が来てはいけない場所に立ち入ったのだと理解した。
確か、シュテインにも言われたことがある。革新派と保守派は絶賛、水面下での戦いを繰り広げていると。中立派の票を会得するための根回しなども行われているとも。
「出かけるときは市全体の地図を見た方がよいだろう。次からは気をつけなさい」
「はい、そうします……」
思い返せば、水色や藍色の服を着ていたものが多かった気がする。確かに異端視されてもおかしくない場所に自分はいたのだ。ギュントが助けてくれてよかった、と感じる。
「我ら派閥に巫女や神官を巻き込むことは避けたかったのだが、亀裂は生じる一方でな。肩身の狭い思いをさせてしまっておる。詳しくはリシュ卿に聞くことだ」
「はい、わかりました」
「……ふむ、君は思った以上に正直だな」
「お褒めにあずかり光栄です」
「それでは正直ついでに、実際のところはどうなのかね」
「何がでしょうか?」
「スネーツ男爵の告発状の件だ」
ギュントの言葉に、思わず篭を落としそうになった。ギュントの目は厳しい。
「あれは本当のことだったのかね」
「……違います。私は……村の方に、捨て子だったところを拾われただけですので」
「ふしだらに男爵を誘った、というのも嘘だと?」
「はい。その、男爵は私が夫がいるにも関わらず、関係を持てと迫って来ました。話は、逆です」
ギュントは何も言わない。見定めるようにトゥトゥナを見つめ続けている。
トゥトゥナの内心は冷や汗ものだった。魔女とわかれば、裁判が、と死を連想させる単語ばかりが浮かぶ。必死で泣き出しそうに微笑み、頭を振った。
「男爵閣下に誤解だと伝えたいです。私は魔女では……ありません」
嘘をつくのが苦しい。自分がやって来たこと、医者として村で過ごしたことを否定するのは、自ら思い出を汚すようで辛かった。
「伝えることは無理であろう。スネーツ男爵は失脚した」
「え……」
嘆息するギュントに、思わず惚けた声が漏れる。今、ギュントはなんと言ったのだろう。だが詳しいことを聞こうとする前に、ギュントが鷹揚に右手を振った。
「まあ、それは構わん。こちらの話でもあるのだから。それより巫女としての生活はどうかね」
「……とても充実しています。知らないことを知るのは、楽しいので」
「勤勉は美徳なり。よかろう、その調子で神殿でも励みたまえ」
「はい、そうします」
半分嘘が混じった言葉で、聖職者として立派だと思えるギュントを騙すのは心苦しい。そう思い、トゥトゥナは話題を変えた。
「そう言えば、神殿にはダリ……いえ、ルノがいるのですよね?」
「彼女もまた勤勉で清廉、信仰心に厚い。巫女の見本と言えるな。見習うべきことがたくさんあろう」
「そうですね……」
ダリエ。トゥトゥナの夫を思いながら、巫女になったもの。アロウスへの未練を断ち切るためにここに来たのだろうか。彼女を見習うには、あまりにも自分は汚れすぎた。
胸を痛めるトゥトゥナは、ゆっくりと馬車が止まったことに気付いた。
「ここからまっすぐ行けばリシュ卿の館に辿り着く。早めに帰るとよい」
「本当にありがとうございます、ヴィシュ卿」
淡々としたギュントの言葉に、トゥトゥナは微笑む。馬車から降り、再び頭を下げた。
「聖龍神の加護があらんことを」
「痛み入ります」
トゥトゥナの返事にうなずき、ギュントは馬車を走らせて去っていった。
――リシュ卿とは大違いね。
篭を下げて歩き出しつつ、そんなことを思う。
徳を固めて体現したような姿、物言い。少し顔は険しいが、自制に満ちていると思えばそれも納得できた。
周りを見れば、白色の石畳ばかりの場所だった。ここには見覚えがある。今度は間違えずに館への道のりを進んだ。
しばらく進むと館が見えてくる。警備の神官兵がいた。そしてイスクも明後日の方向を向いて腕を組んでいる姿を確認できた。
イスクがこちらに気付き、少し大股で駆け寄ってくる。
「遅かったな、トア殿」
「すみません、道に迷ってしまって」
「地図を描いておいたが?」
「お店が休みだったんです……他のお店に行ったら、間違えた場所に出て。ヴィシュ卿に途中まで送っていただきました」
微笑むと、イスクが黒い目をすがめた。それから、はあ、と小さくため息をつく。
「トア殿、ヴィシュ卿は敵対している勢力のお一人。あまり深入りするのは」
「ご、ごめんなさい」
「いや、無事ならそれで何よりだ。ただ、そのことはリシュ様に言わない方がいいな」
「……そうですね。言うつもりはありません」
「リシュ様がすでに帰ってきておられる。食事の準備を手伝って欲しい」
「わかりました」
うなずき、二人で館へと入っていく。
――そう言えば、スネーツ男爵が失脚したと言っていたわね。
それはどういうことだろう。今、ドルナ村近辺の地方を治めているのは一体誰かも聞きそびれた。
――帰れる、かしら。隙を見て。
だが、イスクからもらえる金は多分、辻馬車でもドルナ村に帰るには足りないだろう。歩いて、とも思ったが、一人旅の支度などできそうにもない。
ヴィシュ卿に助けをと考えがよぎるが、シュテインに言われた言葉がよみがえる。
イスクをそっとうかがう。彼をはじめとする神官兵にはどう考えても隙などなかった。見張りがいるなら余計、自分とシュテインの関係性を知られたくはない。
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