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第一幕:彼岸花に呪われた王
1-4:呪いの化身
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ディーンに連れられ、シュトリカがやって来たのは大きい執務室だ。豪奢な彫りがなされた扉を開けるとき、ディーンがこちらを再度見てきたので、うなずく。心臓は早鐘のように脈を速め、体は緊張で固く強張っていた。だが、心の準備はできている。
周囲を警戒しながら、誰もいないことを確認した後、ディーンが扉を開け放つ。
「……陛下」
エンファニオは机の前でうずくまり、美しい面を苦悶で歪めていた。頭を片手で押さえ、歯を食いしばったままで、シュトリカの声に反応すらしない。頬に刻まれた紋様がほの赤く発光しているのを確認し、同時に強い呪いの波動を感じた。
扉を閉めるディーンをよそに、一歩、エンファニオへと近づく。閉ざされていたエンファニオの瞳が開かれ、こちらを見た。その唇がつり上がる。
「来たか、シュトリカ」
優しかった声が、変わり果てていた。低音の響きを持って放たれた言葉には、穏やかさなど少しもなく、こめられているのは嘲り。浮かべた笑みは肉食獣のような獰猛さがあり、とてもエンファニオのものだとは思えない。
これが、陛下のもう一人の人格――そう悟ったシュトリカは、放たれる威圧感に生唾を飲みこんだ。
「俺をどうにかできると思ってきたのだろう? 全く、健気なことだな」
「黙れ。呪いの化身如きが。陛下の御身を返してもらうぞ」
身を乗り出すディーンの横で、シュトリカは大きく息を吸いこんだ。
「ディーンさん……部屋の外に出て、耳を塞いで下さい。わたし、歌いますから」
「……頼むぞ、花枯らし。全ては貴様にかかっている」
悔しげにうなずいたディーンは、紺色のマントを翻して外に出ていく。部屋に残されたのは自分と、汗の玉を伝わせながら不敵に笑うエンファニオだけだ。
エンファニオが机の縁に手をかけ、ふらつきながらも立ち上がる。凛とした様子ではなく、どこか死者めいた動きに心は痛み、だからこそまなじりを決した。
「陛下の中から……出て行って、もらいます」
「お前の可憐な歌を聞けるのはこれで二度目だ、シュトリカ。歌うがいい。俺を抑えこむことができると考えているのならば」
肩で笑うエンファニオに、動揺した様子は見られない。落ち行く逆光が彼の背を包み、全てを黒く塗り潰す。だが、恐れは覚えなかった。闇は友だ。いつも光の当たらぬ場所にいて、夜闇の中で生きてきた。怖さなど微塵もない。
「……エンファニオ=アーベ=ベルカスター」
滔々と、滑らかに名を告げる。両手を広げて腹に力をこめ、シュトリカは歌いはじめた。高音から低音の入れ替わりが激しい歌を。柔らかく、しかし素早い旋律を思い出しながら。
部屋に歌声が響く。と同時に、感じていた威圧感が灼熱のように襲い来る感触を覚えた。呪い返し。直感し、呪いの波動を包むべく声を高らかにする。
「く……」
エンファニオの顔と声が歪む。自分の周囲から、呪いの波動が歌声に押されるようにして引いていく。哀歌から歌を変え、今度は冬の到来を嘆く歌へと移行させた。
花枯らしの力を行使する際、頼れるのは自らの感覚だけだ。エンファニオが持つ魔力ではなく、そこに被ったベールみたいな呪いが薄まる手応えを、シュトリカは確かに感じる。生きた蔦に氷が触れる感触。そこを、見逃さない。
ただエンファニオを思い、歌う。心をこめて。呪いを引き剥がすことだけを考えながら。
刹那、押しても閉ざされていた扉が開く、そんな意識が頭の中によぎる。閃光が走る。もつれていた呪いが、波のように引いていく確固とした感覚が、体中を支配した。
「花、枯らし……」
苦しそうな声が、それでもいつものエンファニオのものに戻っている。静かに歌い終えたシュトリカと、ふらついたエンファニオがその場にくずおれるのは同時のことだった。
数十分は歌い続け、喉は張りつくようだ。だが、気にせずエンファニオの下へ駆け寄る。
「陛下……陛下。大丈夫、ですか」
しゃがれた声で問いかけながら、シュトリカが静かに肩に手を置こうとしたときだ。
「……シュトリカ」
強い力で片手を握られた。びくりとする。未だ頭を上げないエンファニオの顔を、そっと覗きこんでみた。紫の瞳はどこか虚ろで、しかし、右頬にあった彼岸花の紋様が消えている。その事実に、思わず安堵の笑みを浮かべた。
「……ありがとう、シュトリカ。とても気分がいい……こんな晴れやかな気持ちになるのは、半年ぶりかもしれない」
「陛下、戻られたんですね。よかった、本当に……」
「全て君のおかげだ。君がいなければ私はあのままだっただろう。まさに奇跡だ」
放たれる声も、柔らかさを取り戻している。微笑みも、また。嬉しさがこみ上げてきて、思わず目を潤ませた。瞳を拭おうと手を引っこめようとしたが、エンファニオが阻止するように、片手を離してはくれない。
「奇麗な歌だったよ。ずっと聞いていたいくらいだった」
エンファニオが握る自分の手の甲、そこに優しく口付けを落とされて、シュトリカは慌てた。なめらかな唇の感触に、心臓が跳ね上がる。
「へ、陛下、手を。離して……下さい……」
ささくれた指にまで唇が及んだものだから、身を縮ませ、こいねがう。こんな手は、高貴な方が触れていいものではない。ましてや唇でなんて。
「ああ、すまない。喜びが大きかったものだからね」
ようやく手を離してくれたエンファニオへ、曖昧にうなずいた。
「ディーンさんを呼びましょう? とても心配してました」
「……そうだね。彼にも迷惑をかけた。それにサミーも。随分部屋を汚してしまったから」
立ち上がって見てみれば、すみれ色の絨毯には羊皮紙が散乱し、本までもが散らばっていた。呪いを抑えこむため、エンファニオは必死に、意志だけで抵抗していたのだろう。シュトリカは内心、よく耐えたものだと、芯の強さを賞賛した。
「ディーン、もう入ってくれても構わない」
同じく立ったエンファニオが声を上げると、待機していたと思しきディーンが入ってくる。マントの裾が破れていた。大方、切れ端を耳に入れ、花枯はながらしの歌に耐えたのだろう。
「ご無事か、陛下」
「ああ。シュトリカのおかげだ」
「そうか……それは何より。よくやったな、花枯らし。いや、シュトリカ嬢」
「い、いえ、わたしはできることをしただけですから」
はじめてディーンに褒められ、どこかくすぐったい気持ちになる。
これで、自分の役割は終わりだ。たった半日程度のことだが、忌まれるべき歌で人を救えた、そのことへの歓喜が大きい。奇跡、といわれるのもこれが初だ。今までは力を使っても、怖気をこめた瞳で見られていただけだったから。
「失礼致します、皆々様」
喜びに心を温めていたシュトリカを我に返したのは、サミーの声だった。サミーはワゴンを押しながら部屋に入り、シュトリカと同じく、安堵したように口の端をつり上げた。
「上手くいったご様子ですね。陛下の御身を、このサミー、案じておりました」
「ご苦労、サミー。茶をくれるかな。それと菓子も。君のことだ、用意しているはず」
「承知致しました」
「シュトリカ、ディーン。隣の談話室で話をしよう」
シュトリカ、そしてディーンはうなずく。多分、褒美についての話だろうと推測した。欲しいものなんて、まだ何一つ思いつかないのだが。
エンファニオたちに連れられてやって来た談話室は広く、窓が開け放たれている。そこからは連なる鉱山が見え、いつの間にか灰色の雲を多くした空が広がっていた。
エンファニオとディーンが当然のようにソファに座り、少しまごついた後、シュトリカは机を挟んで、向かい合わせのソファに腰かける。ふかふかで、どうにも座り慣れない。
あとからやって来たサミーが窓を閉めようとしたとき、あの瑠璃色の小鳥が飛びこんできた。そして驚いたことに、エンファニオではなくシュトリカの肩に止まる。
「おや、ペクに好かれたようだね」
「ペク……? この鳥の名前ですか?」
「そうだよ。なかなかに人見知りが激しい鳥なんだけれど。君は特別みたいだ」
小鳥、ペクがまた頭頂をすり寄せてきた。愛らしい姿に頭を指先で撫でる。それを確認したのか、サミーがようやく窓を閉めた。
「それにしても、ここまで上手くいくとは思いませんでしたな。陛下がご無事で何より」
「ありがとうディーン。……さて、今後のことなんだけれどね、シュトリカ。まず君には、もう少しここに滞在してもらう」
「え……で、でもわたしの役目は、もう終わりじゃあ」
「君は令嬢としてここにいる。連れてきてまだ、数週も経ってはいない。仲違いをして追い出した、とするにも、いささか早すぎる。私の体面に付き合ってもらう形になるけれど」
「ふむ。ではその間に、シュトリカ嬢への報奨を集めよ、ということですかな」
「さすがはディーン、その通り。問題はシュトリカ、君が何を望むかということだね」
「わたしの望み……」
無意識に、蝶の胸飾りに手をやった。そういえば、とひんやりとした手触りで思い出す。
母はあまり、自らのことを語らない人だった。自分と同じ金髪と緑の目を持つ、美しい人だと記憶にはある。生まれや育ちはベルカスターとだけしか聞いていない。父は? それも不明だ。だが、そんな母の教育は正しい礼法に則ったものだった。
歌に花枯らしの力があると知ったときも、慌てず騒がず、ただ受け止めてくれた母。一体、何者なのだろう。謎の母と自分の出生。心の故郷が、やけに気になった。
「あの……よ、よければ、母の出自を知りたいです」
「ご母堂の? ああ、確か君は幼いときに、あの雑技団に拾われたらしいね」
「はい。知りたいのは……実の母のことなんです」
「確かにシュトリカ嬢の作法は、基礎がしっかりできておられました。それもお母君に教えられたものだとか」
サミーが入れてくれた茶を飲み、カップを置いてうなずく。しゃがれた喉に優しい茶だ。
「何か手がかりになるようなものはあるか? 名や、ものは?」
「名前は、シーカです。姓はわかりません。あとは……この胸飾りだけです」
焼き菓子が置かれた机の端へ、胸飾りを差し出す。硝子玉と青銅でできた飾りを手に取ったディーンが、片眉を器用に跳ね上げた。
「これは、ただの硝子玉ではないぞ。あの鉱山の鉱石でできたものだな。細工も精緻だ。ただの町人が持てる代物ではない」
「そ、そんなに高価なものなんですか?」
「貴族ならば持てるだろうが……紋様は、処女神フェレネのものか。母君の生まれは?」
「ベルカスターです……」
「不思議だね。ベルカスターの貴族が持つなら、軍神ゾーレの紋様を入れるのが普通だけれど。ディーン、それも含めて調べてくれるかな」
「承知。しばしお時間を頂けるならば。シュトリカ嬢、これは返しておくぞ」
「は、はい。よろしくお願いします」
再び胸飾りをドレスにつけながら、シュトリカは気が気でない。母の秘密を暴くような真似をしているのではないか、そんな思いが駆け巡る。
「サミー、今日の夕食は久しぶりに肉が食べたいんだけれど。用意はできるだろうか」
「……ございます。調理させましょう」
一瞬、サミーが怪訝な顔をしながらうなずいたものだから、思わず小首を傾げる。
「珍しいですな、陛下が肉を所望されるとは」
「体力の衰えを回復させたくてね。シュトリカ、君も夕食を一緒にするように。君は、私が見初めた令嬢なのだから」
「わ、わかりました」
「ペク、いい加減こっちにおいで」
小鳥は主人の命を聞かなかった。シュトリカから離れまいとするように、柔らかい頭頂を何度もすり寄せてくる。
「すっかり君の魅力に取り憑かれたのかな、ペクは。そうだ、シュトリカ。ここに滞在している間、君がペクの面倒を見てくれないだろうか。鳥籠や餌も用意させるから」
「で、でもこの子に何かあったら……」
「私よりたくましいよ、ペクは。私も構ってやれなかったからね、気分を損ねたんだろう」
それを肯定するようにペクが鳴いて、エンファニオは苦笑を漏らす。それを見たシュトリカは自然と微笑んでいた。
陛下が元に戻って、本当によかった――そんな思いで胸を満たしながら。
周囲を警戒しながら、誰もいないことを確認した後、ディーンが扉を開け放つ。
「……陛下」
エンファニオは机の前でうずくまり、美しい面を苦悶で歪めていた。頭を片手で押さえ、歯を食いしばったままで、シュトリカの声に反応すらしない。頬に刻まれた紋様がほの赤く発光しているのを確認し、同時に強い呪いの波動を感じた。
扉を閉めるディーンをよそに、一歩、エンファニオへと近づく。閉ざされていたエンファニオの瞳が開かれ、こちらを見た。その唇がつり上がる。
「来たか、シュトリカ」
優しかった声が、変わり果てていた。低音の響きを持って放たれた言葉には、穏やかさなど少しもなく、こめられているのは嘲り。浮かべた笑みは肉食獣のような獰猛さがあり、とてもエンファニオのものだとは思えない。
これが、陛下のもう一人の人格――そう悟ったシュトリカは、放たれる威圧感に生唾を飲みこんだ。
「俺をどうにかできると思ってきたのだろう? 全く、健気なことだな」
「黙れ。呪いの化身如きが。陛下の御身を返してもらうぞ」
身を乗り出すディーンの横で、シュトリカは大きく息を吸いこんだ。
「ディーンさん……部屋の外に出て、耳を塞いで下さい。わたし、歌いますから」
「……頼むぞ、花枯らし。全ては貴様にかかっている」
悔しげにうなずいたディーンは、紺色のマントを翻して外に出ていく。部屋に残されたのは自分と、汗の玉を伝わせながら不敵に笑うエンファニオだけだ。
エンファニオが机の縁に手をかけ、ふらつきながらも立ち上がる。凛とした様子ではなく、どこか死者めいた動きに心は痛み、だからこそまなじりを決した。
「陛下の中から……出て行って、もらいます」
「お前の可憐な歌を聞けるのはこれで二度目だ、シュトリカ。歌うがいい。俺を抑えこむことができると考えているのならば」
肩で笑うエンファニオに、動揺した様子は見られない。落ち行く逆光が彼の背を包み、全てを黒く塗り潰す。だが、恐れは覚えなかった。闇は友だ。いつも光の当たらぬ場所にいて、夜闇の中で生きてきた。怖さなど微塵もない。
「……エンファニオ=アーベ=ベルカスター」
滔々と、滑らかに名を告げる。両手を広げて腹に力をこめ、シュトリカは歌いはじめた。高音から低音の入れ替わりが激しい歌を。柔らかく、しかし素早い旋律を思い出しながら。
部屋に歌声が響く。と同時に、感じていた威圧感が灼熱のように襲い来る感触を覚えた。呪い返し。直感し、呪いの波動を包むべく声を高らかにする。
「く……」
エンファニオの顔と声が歪む。自分の周囲から、呪いの波動が歌声に押されるようにして引いていく。哀歌から歌を変え、今度は冬の到来を嘆く歌へと移行させた。
花枯らしの力を行使する際、頼れるのは自らの感覚だけだ。エンファニオが持つ魔力ではなく、そこに被ったベールみたいな呪いが薄まる手応えを、シュトリカは確かに感じる。生きた蔦に氷が触れる感触。そこを、見逃さない。
ただエンファニオを思い、歌う。心をこめて。呪いを引き剥がすことだけを考えながら。
刹那、押しても閉ざされていた扉が開く、そんな意識が頭の中によぎる。閃光が走る。もつれていた呪いが、波のように引いていく確固とした感覚が、体中を支配した。
「花、枯らし……」
苦しそうな声が、それでもいつものエンファニオのものに戻っている。静かに歌い終えたシュトリカと、ふらついたエンファニオがその場にくずおれるのは同時のことだった。
数十分は歌い続け、喉は張りつくようだ。だが、気にせずエンファニオの下へ駆け寄る。
「陛下……陛下。大丈夫、ですか」
しゃがれた声で問いかけながら、シュトリカが静かに肩に手を置こうとしたときだ。
「……シュトリカ」
強い力で片手を握られた。びくりとする。未だ頭を上げないエンファニオの顔を、そっと覗きこんでみた。紫の瞳はどこか虚ろで、しかし、右頬にあった彼岸花の紋様が消えている。その事実に、思わず安堵の笑みを浮かべた。
「……ありがとう、シュトリカ。とても気分がいい……こんな晴れやかな気持ちになるのは、半年ぶりかもしれない」
「陛下、戻られたんですね。よかった、本当に……」
「全て君のおかげだ。君がいなければ私はあのままだっただろう。まさに奇跡だ」
放たれる声も、柔らかさを取り戻している。微笑みも、また。嬉しさがこみ上げてきて、思わず目を潤ませた。瞳を拭おうと手を引っこめようとしたが、エンファニオが阻止するように、片手を離してはくれない。
「奇麗な歌だったよ。ずっと聞いていたいくらいだった」
エンファニオが握る自分の手の甲、そこに優しく口付けを落とされて、シュトリカは慌てた。なめらかな唇の感触に、心臓が跳ね上がる。
「へ、陛下、手を。離して……下さい……」
ささくれた指にまで唇が及んだものだから、身を縮ませ、こいねがう。こんな手は、高貴な方が触れていいものではない。ましてや唇でなんて。
「ああ、すまない。喜びが大きかったものだからね」
ようやく手を離してくれたエンファニオへ、曖昧にうなずいた。
「ディーンさんを呼びましょう? とても心配してました」
「……そうだね。彼にも迷惑をかけた。それにサミーも。随分部屋を汚してしまったから」
立ち上がって見てみれば、すみれ色の絨毯には羊皮紙が散乱し、本までもが散らばっていた。呪いを抑えこむため、エンファニオは必死に、意志だけで抵抗していたのだろう。シュトリカは内心、よく耐えたものだと、芯の強さを賞賛した。
「ディーン、もう入ってくれても構わない」
同じく立ったエンファニオが声を上げると、待機していたと思しきディーンが入ってくる。マントの裾が破れていた。大方、切れ端を耳に入れ、花枯はながらしの歌に耐えたのだろう。
「ご無事か、陛下」
「ああ。シュトリカのおかげだ」
「そうか……それは何より。よくやったな、花枯らし。いや、シュトリカ嬢」
「い、いえ、わたしはできることをしただけですから」
はじめてディーンに褒められ、どこかくすぐったい気持ちになる。
これで、自分の役割は終わりだ。たった半日程度のことだが、忌まれるべき歌で人を救えた、そのことへの歓喜が大きい。奇跡、といわれるのもこれが初だ。今までは力を使っても、怖気をこめた瞳で見られていただけだったから。
「失礼致します、皆々様」
喜びに心を温めていたシュトリカを我に返したのは、サミーの声だった。サミーはワゴンを押しながら部屋に入り、シュトリカと同じく、安堵したように口の端をつり上げた。
「上手くいったご様子ですね。陛下の御身を、このサミー、案じておりました」
「ご苦労、サミー。茶をくれるかな。それと菓子も。君のことだ、用意しているはず」
「承知致しました」
「シュトリカ、ディーン。隣の談話室で話をしよう」
シュトリカ、そしてディーンはうなずく。多分、褒美についての話だろうと推測した。欲しいものなんて、まだ何一つ思いつかないのだが。
エンファニオたちに連れられてやって来た談話室は広く、窓が開け放たれている。そこからは連なる鉱山が見え、いつの間にか灰色の雲を多くした空が広がっていた。
エンファニオとディーンが当然のようにソファに座り、少しまごついた後、シュトリカは机を挟んで、向かい合わせのソファに腰かける。ふかふかで、どうにも座り慣れない。
あとからやって来たサミーが窓を閉めようとしたとき、あの瑠璃色の小鳥が飛びこんできた。そして驚いたことに、エンファニオではなくシュトリカの肩に止まる。
「おや、ペクに好かれたようだね」
「ペク……? この鳥の名前ですか?」
「そうだよ。なかなかに人見知りが激しい鳥なんだけれど。君は特別みたいだ」
小鳥、ペクがまた頭頂をすり寄せてきた。愛らしい姿に頭を指先で撫でる。それを確認したのか、サミーがようやく窓を閉めた。
「それにしても、ここまで上手くいくとは思いませんでしたな。陛下がご無事で何より」
「ありがとうディーン。……さて、今後のことなんだけれどね、シュトリカ。まず君には、もう少しここに滞在してもらう」
「え……で、でもわたしの役目は、もう終わりじゃあ」
「君は令嬢としてここにいる。連れてきてまだ、数週も経ってはいない。仲違いをして追い出した、とするにも、いささか早すぎる。私の体面に付き合ってもらう形になるけれど」
「ふむ。ではその間に、シュトリカ嬢への報奨を集めよ、ということですかな」
「さすがはディーン、その通り。問題はシュトリカ、君が何を望むかということだね」
「わたしの望み……」
無意識に、蝶の胸飾りに手をやった。そういえば、とひんやりとした手触りで思い出す。
母はあまり、自らのことを語らない人だった。自分と同じ金髪と緑の目を持つ、美しい人だと記憶にはある。生まれや育ちはベルカスターとだけしか聞いていない。父は? それも不明だ。だが、そんな母の教育は正しい礼法に則ったものだった。
歌に花枯らしの力があると知ったときも、慌てず騒がず、ただ受け止めてくれた母。一体、何者なのだろう。謎の母と自分の出生。心の故郷が、やけに気になった。
「あの……よ、よければ、母の出自を知りたいです」
「ご母堂の? ああ、確か君は幼いときに、あの雑技団に拾われたらしいね」
「はい。知りたいのは……実の母のことなんです」
「確かにシュトリカ嬢の作法は、基礎がしっかりできておられました。それもお母君に教えられたものだとか」
サミーが入れてくれた茶を飲み、カップを置いてうなずく。しゃがれた喉に優しい茶だ。
「何か手がかりになるようなものはあるか? 名や、ものは?」
「名前は、シーカです。姓はわかりません。あとは……この胸飾りだけです」
焼き菓子が置かれた机の端へ、胸飾りを差し出す。硝子玉と青銅でできた飾りを手に取ったディーンが、片眉を器用に跳ね上げた。
「これは、ただの硝子玉ではないぞ。あの鉱山の鉱石でできたものだな。細工も精緻だ。ただの町人が持てる代物ではない」
「そ、そんなに高価なものなんですか?」
「貴族ならば持てるだろうが……紋様は、処女神フェレネのものか。母君の生まれは?」
「ベルカスターです……」
「不思議だね。ベルカスターの貴族が持つなら、軍神ゾーレの紋様を入れるのが普通だけれど。ディーン、それも含めて調べてくれるかな」
「承知。しばしお時間を頂けるならば。シュトリカ嬢、これは返しておくぞ」
「は、はい。よろしくお願いします」
再び胸飾りをドレスにつけながら、シュトリカは気が気でない。母の秘密を暴くような真似をしているのではないか、そんな思いが駆け巡る。
「サミー、今日の夕食は久しぶりに肉が食べたいんだけれど。用意はできるだろうか」
「……ございます。調理させましょう」
一瞬、サミーが怪訝な顔をしながらうなずいたものだから、思わず小首を傾げる。
「珍しいですな、陛下が肉を所望されるとは」
「体力の衰えを回復させたくてね。シュトリカ、君も夕食を一緒にするように。君は、私が見初めた令嬢なのだから」
「わ、わかりました」
「ペク、いい加減こっちにおいで」
小鳥は主人の命を聞かなかった。シュトリカから離れまいとするように、柔らかい頭頂を何度もすり寄せてくる。
「すっかり君の魅力に取り憑かれたのかな、ペクは。そうだ、シュトリカ。ここに滞在している間、君がペクの面倒を見てくれないだろうか。鳥籠や餌も用意させるから」
「で、でもこの子に何かあったら……」
「私よりたくましいよ、ペクは。私も構ってやれなかったからね、気分を損ねたんだろう」
それを肯定するようにペクが鳴いて、エンファニオは苦笑を漏らす。それを見たシュトリカは自然と微笑んでいた。
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