『11円の青春 ~昭和44年、僕とコレダと仲間たち~』

小川敦人

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「牛乳瓶一杯の冒険 ―55円ガソリンが繋いだ海への道―」

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『11円の青春 ~昭和44年、僕とコレダと仲間たち~』

## 1. 思い出の始まり

昭和44年10月。秋の陽が西に傾き始めた午後、運転免許試験場の駐車場に私はいた。手の平に汗をかきながら、電光掲示板を注視していた。受験番号が赤く光った。合格だ
心臓が高鳴るのを感じながら、私は深々と頭を下げた。一発試験での合格。やっと手に入れた自分だけの「自由への切符」。当時、自動二輪免許に小型、中型、大型の区別などなかった。一つの免許でどんなバイクにも乗れる時代だった。
翌日、実家の玄関に父が座り込んでいた。
「俺の若い頃も、バイクが欲しくて仕方なかったよ」父は珍しく昔話を始めた。「だが、お前の爺さんが猛反対してな。結局あきらめた」
「今度の日曜日、見に行かないか」
私の言葉に、父は少年のような笑顔を見せた。
週末、私と父は地元の中古バイク屋を巡った。いくつか候補があったが、どれも私の貯金では手が届かない。失意のうちに最後の店に立ち寄ったとき、店の奥で埃をかぶった一台のバイクが目に入った。
「あれはいくらですか?」私が尋ねると、店主は首をかしげた。
「あぁ、あのコレダか。三万円だが、長いこと置きっぱなしでな。エンジンの調子も悪いし…」
帰り道、父が思いがけない言葉を口にした。
「半分、出してやろうか」
しかし、それでも私の貯金では足りなかった。そこで思い切って中学時代の親友・佐藤に相談してみることにした。彼は既に就職して一年目。休日には愛車のホンダドリームで走り回る日々を送っていた。
「おい、中村。コレダ250TMか。いいバイクだぞ」
私が状況を説明すると、佐藤は考え込んだ。
「そうだな…あの店主、俺の叔父さんの知り合いなんだ。ちょっと話してみるよ」
次の日、佐藤から電話があった。
「いいニュースだ。五千円でいいって」
「え?どうして?」

「まあ、いろいろとな」彼は笑った。「これなら君でも乗りこなせるさ」
こうして私は「コレダ250TM」を五千円で手に入れることになった。きっと情に流されたのだろう、店主は大幅値引きに応じてくれたのだ。
私の初めてのMYバイクは漆黒の塗装で、ところどころに傷があったが、私にとってはこの世で一番美しいものだった。エンジンを掛けた時の振動が全身に伝わり、どこへでも行ける気分に浸った。

## 2. 友情のキャブレター

修理と調整に追われた最初の1か月。学校から帰るなり、裏庭でコレダと向き合う日々が続いた。
「またいじってるのか」
母の声に振り向くと、心配そうな顔で立っていた。手に握られたタオルと水筒。
「少し休みなさい」
黙って受け取り、一気に水を飲み干した。冷たい水が喉を通り、汗ばんだ体を内側から冷やしていく。
「ありがとう」
母はただ微笑み、家に戻っていった。彼女は私の趣味に理解を示してくれなかったが、それでも黙って支えてくれた。今思えば、それが一番の応援だったのかもしれない。
学校では「バイク野郎」と呼ばれるようになった。女子からの視線が冷たくなる一方で、男子の中にはバイクに興味を持つ者も増えた。中でも同じクラスの興津と村上は、よく裏庭に顔を出すようになった。
「おい、中村。キャブレターの調子悪いんじゃないか?」興津が言った。「ちょっと見せてみろよ」
彼は機械いじりの天才だった。父親が自動車整備工場を経営していて、幼い頃から工具に触れて育ったという。好奇心旺盛で、時に危なっかしい性格だが、機械の調子を見る目だけは確かだった。
「これ、エアスクリューの調整がおかしいぞ。混合気が濃すぎる」
興津の手で、コレダのエンジン音はより滑らかになった。
「すげぇな、興津」
「当たり前だ。俺の血はガソリンで出来てるからな」
彼は満足気に笑った。
村上は寡黙だが、記憶力が抜群だった。バイク雑誌を読みふけり、様々なモデルのスペックを暗記している。実家は八百屋で、いつも野菜の匂いがした。
「コレダ250TMは最高速度が110km/h、乾燥重量は145kg、排気量は247cc…」
「お前、それ全部覚えてるのか?」私が驚くと、村上は少し照れたように笑った。
「暇つぶしさ」
三人で過ごす放課後が増えていった。それぞれの個性が混じり合い、やがて「悪友」と呼び合うほどの仲になった。彼らもバイクを手に入れた。興津はカワサキ125、村上はヤマハYA-1の中古だった。

## 3. 約束の海へ

梅雨が明け、夏の暑さが本格化した七月の終わり。授業中、興津が小さな紙切れを私の机に滑らせてきた。
「海に行こう」
たったそれだけの言葉だったが、心が躍った。
三人で計画を練った。目的地は片道約80kmの湘南海岸。朝早く出発して、夕方までに帰ってくる予定だった。食料は村上が、地図は私が、工具は興津が準備することになった。
「お前、タンデムシートあるんだから、誰か女の子誘えよ」興津がからかった。
「馬鹿言うな。誰が乗りたがるんだよ」
実際は、憧れの香田さんを誘う勇気がなかっただけだ。
待ちに待った日曜日。朝五時、集合場所の駅前に三台のバイクが集まった。
「よく眠れたか?」村上が訊いた。
「全然だ」私は正直に答えた。「興奮して三時間も寝てないよ」
「俺もだ」興津が笑った。「でも、疲れなんて感じないぜ」
出発前の最終確認。興津がエンジンオイルをチェックし、村上が地図で経路を確認した。私は燃料メーターを見たはずだった…はずだった。
朝霧の立ち込める道を、私たちは走り出した。先頭は地元に詳しい興津、中央が私、最後尾は村上という隊列。最初は緊張していたが、次第に走るリズムを掴み、会話するように並走した。
「おーい、調子はどうだ?」
興津の声が風を切って届く。
「ばっちりだ!」
私は親指を立てて応えた。コレダのエンジン音が心地よく響き、鼓動のように感じられた。
途中の休憩所で、三人はカップラーメンとおにぎりを食べた。
「海って、どんな感じなんだろうな」村上が呟いた。
「お前、海に行ったことないのか?」興津が驚いた表情で聞いた。
村上は恥ずかしそうに首を振った。「田舎の子だからな」
「俺も三年前に修学旅行で行っただけだよ」私も告白した。
「じゃあ、今日は特別な日になるな」
興津の言葉に、私たちは顔を見合わせて笑った。
再び道を走り出して1時間ほど経った頃だった。突然、コレダのエンジンが不規則に動き始めた。
「ちくしょう、なんだこれ…」
スロットルを開けても反応が鈍い。そして次の瞬間、完全にエンストした。勢いよく前につんのめり、後ろに乗っていた興津が私の背中にぶつかった。
「おい、大丈夫か?」
村上が慌てて停車し、駆け寄ってきた。
私はメーターを見て愕然とした。燃料計が「E」を指している。ガス欠だった。
「確認したはずなのに…」
「たぶん、メーターが壊れてるんだよ」興津が言った。「古いバイクはよくあることさ」
三人で道端に座り込み、対策を話し合った。
「この辺りにガソリンスタンドはあるのか?」
村上が地図を広げるが、見当たらない。
「俺が行ってくる」興津が立ち上がった。「村上のバイクに乗せてもらう」
「待て」私は周囲を見回した。「何か容器が必要だ」
少し離れた農家の納屋の前に、使われなくなった牛乳瓶が置いてあるのが見えた。許可を得て借り、興津と村上はガソリンスタンドへ向かった。
一人残された私は、道端の草の上に寝転がり、青い空を見上げた。夏の雲が流れていく。どこか遠くで蝉の声。時間が緩やかに流れているように感じた。
約15分後、二人が戻ってきた。
「どうだった?」
「信じられないぜ」興津が牛乳瓶を見せた。「これで11円だってよ」
「11円?」
「ああ、リッター55円だから」
私たちは顔を見合わせて笑った。たった11円のガソリンが、この旅の命綱になったのだ。
コレダにガソリンを注ぎ、エンジンをかける。心配していた通り、メーターは正確ではなかった。タンクにはまだ少し残っていたはずだが、予備のガソリンがあれば安心だった。
「よし、行くぞ!」
再び走り出した三台のバイク。風を切る感覚がより鮮やかに感じられた。約1時間後、視界が開け、青い海が広がった。
「うわぁ…」
思わず声が漏れた。太陽の光を反射して輝く海面。打ち寄せる波の音。潮の香り。すべてが新鮮だった。
村上は靴を脱ぎ、素足で砂浜を歩いた。その表情には、子供のような無邪気さがあった。
「初めての海はどうだ?」興津が訊いた。
「言葉にできないよ」村上は満面の笑みで答えた。
私たちは海辺で弁当を開き、缶ジュースで乾杯した。
「これからも、こうして一緒に旅がしたいな」
私の言葉に、二人もうなずいた。

## 4. 時の流れの中で

それから半世紀以上の月日が流れた。あの日から私たちは何度も一緒に旅をした。九州、北海道、時には四国まで。バイクは何度か乗り換えたが、旅への情熱は変わらなかった。
「おい、中村。昔のこと覚えているか?」
老人ホームのデイルームで、興津が話しかけてきた。彼の髪は白くなり、背も少し曲がったが、目の輝きは昔のままだった。
「ああ、よく覚えているさ」
村上は五年前に亡くなった。彼はあのツーリングの翌年、私のバイクで事故起こした。そのときコレダも廃車になった。最後まで静かな性格だった村上だが、バイク雑誌のコレクションは誰にも負けなかった。
「あの頃は良かったな」興津が懐かしそうに言った。「ガソリン代だって、今みたいに馬鹿高くなかった」
「そうだな。当時は55円だったっけ?」
「ああ。牛乳瓶一杯で11円だったな」
私たちは笑った。
「でも、給料も安かったぞ」私は言った。「高卒の初任給が2万円ちょっとだった」
「そうか?」興津が首をかしげた。「でも、給料は9倍以上になったのに、ガソリンは3.5倍程度しか上がってないらしいぞ」
「そうなのか?」
「ああ。息子が教えてくれた。給料の方が遥かに伸びているんだとよ」
「へえ…」
「でもな」興津は真剣な表情になった。「数字だけじゃわからないものがある。あの頃の11円のガソリンで走った道の価値はな」
私は黙ってうなずいた。彼の言うとおりだ。統計では測れない、青春の価値がある。
「あのコレダ、写真はまだあるか?」
「ああ、大事に取ってあるよ」私は答えた。「事故の後、写真だけが残った」
財布から取り出したのは、色あせた一枚の写真。黒いコレダの前で、若かった私と興津と村上が笑っていた。
「孫に話したんだ」興津が言った。「三台のバイクと11円のガソリンの話をな」
「何て言っていた?」
「バカにされたさ」興津は声を上げて笑った。「『おじいちゃん、嘘つかないの』ってな」
私も笑った。確かに信じがたい話かもしれない。55円のガソリン。5千円のバイク。しかし、それが私たちの青春だった。
「来週の日曜日、ちょっとドライブしないか?」興津が提案した。「もちろん、車でだがな」
「いいね」私は笑顔で答えた。「海に行こうか」
「ああ、村上も連れていってやろう」
彼は胸ポケットから小さな写真立てを取り出した。そこには村上の笑顔があった。
「きっと喜ぶさ」
窓の外では、若者たちがスマートフォンを見ながら歩いていた。彼らにも、いつか思い出すような青春があるのだろうか。
私と興津は、また手にしたカフェオレを飲みながら、半世紀前の海への道を思い出していた。
ガソリン価格は3.5倍になり、給料は9倍以上になった。数字では比較できるが、私たちの思い出の価値は計れない。
「おい」興津が小さな声で言った。「実は息子が古いバイクを集めていてな。先日、コレダ250と同じモデルが手に入るかもしれないって言ってたんだ」
私の目が輝いた。
「本当か?」
「ああ。もし手に入ったら、乗せてやるよ」
「冗談だろ?もう俺たちは乗れないさ」
「バカ言うな」興津は真剣な顔で言った。「後ろに乗せてもらうんだよ。息子にな」
私たちは再び笑った。老人ホームのデイルームに、若かりし日の興奮が蘇ったような気がした。
窓の外では、夕日が西に傾き始めていた。あの日と同じように。
「あの頃に戻れるなら、何がしたい?」興津が訊いた。
考える必要もなかった。
「ただ、あの道をもう一度走りたいな」
「ああ、俺もだ」
私たちは静かにうなずき合った。
今でも時々、夢で見ることがある。黒いコレダに乗り、興津と村上と共に走る夢を。風を切り、エンジン音を聞きながら、約束の海へと向かう三人の姿を。
それは、たった11円のガソリンで走った、かけがえのない思い出の道だった。

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