『深夜の侵入者』

小川敦人

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「深夜の侵入者 ー 友情の始まりと富士山の約束」

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『深夜の侵入者』

東の空に富士山が見える。
もう何年も前になる、高校時代の古い友人の英二が「この橋から見える富士山はめちゃでかい」といったことを思い出した。
彼とはもう60年の付き合いになる。出会いはまったく予期していなかった事がきっかけとなる。
英二は野球部、私は水泳部。
夏のある日、野球部の練習終わりにユニフォームを着たまま夜の闇に紛れてプールに入ったことから、見つけたのは私。
英二のほか3人がプールに入っていた。
当時、私は水泳部の主将として、プールの管理を任されていた。
夜間の無断使用は厳禁。見つけた時は正直、腹が立った。
しかし、彼らの姿には何か魅かれるものがあった。
汗と泥にまみれた野球のユニフォームを着たまま、まるで子供のように無邪気にはしゃぐ姿。
特に英二の表情が印象的だった。厳しい練習の疲れを水に流すように、満面の笑みを浮かべていた。
「おい、何してるんだ」と声をかけると、4人は凍りついたように動きを止めた。
月明かりに照らされた彼らの顔には、まるで悪戯がばれた小学生のような困惑の色が浮かんでいた。
英二が代表して前に出てきた。
「すまない。暑くて、どうしても我慢できなくて...」
その言葉に嘘はなかった。その夏は特別に暑かった。
連日35度を超える猛暑が続き、野球部の練習は地獄のようだったと聞いていた。
彼らの行動を完全に正当化することはできないが、理解できないわけでもなかった。
「明日、朝一番で掃除に来い」
そう言って、私は彼らを見逃してやることにした。
翌朝、予想通り4人は定刻より早く現れ、黙々とプールの清掃を始めた。
その真摯な態度に、昨晩の怒りは完全に消えていた。
作業の後、英二が私に話しかけてきた。「昨日は本当にすまなかった。でも、あのプールに入った時の気持ちよさは忘れられない」
その言葉をきっかけに、私たちは意気投合した。
英二は野球の話を、私は水泳の話をした。スポーツは違えど、共通する悩みや喜びがあることを知った。
そして何より、お互いの真摯さに惹かれあった。
それから私たちは、放課後に会うようになった。
野球部と水泳部の練習時間は違ったが、終わる時間を調整して待ち合わせをした。
学校からの帰り道、よく寄り道をした。特に思い出深いのは、古い陸橋から見る富士山だった。
「見ろよ、この富士山。めちゃでかいだろ?」
英二はいつもそう言って、夕暮れに染まる富士山を指差した。
確かに、その橋からの眺めは特別だった。山の稜線が夕焼けに溶け込み、まるで天と地が交わるような神秘的な光景。
その美しさは、今でも鮮明に覚えている。

私たちの関係が更に深まったのは、ある春の日のことだった。
英二が野球の試合で負けて落ち込んでいた時、私は同じ図書委員をしていた加藤美咲を紹介した。
彼女は明るく温かな性格で、誰とでも自然に打ち解けることができる女性だった。
「よお、お前さ、美咲ちゃんのこと、どう思う?」
私は何気なく英二に聞いてみた。彼は少し赤くなって、「可愛いな」とぽつりと言った。
高校球児らしからぬ恥ずかしそうな表情が、今でも忘れられない。
それからというもの、英二は図書室に頻繁に顔を出すようになった。
野球部の練習が終わると、汗も流さずに図書室に直行する日もあった。
美咲は最初は戸惑っていたようだったが、次第に英二の一生懸命な姿に心を開いていった。
「おい、今度の日曜日、美咲と映画に行くんだ」
ある日、英二は満面の笑みでそう報告してきた。私は心からの祝福とともに、少しばかりの寂しさも感じていた。
今まで二人で過ごしていた時間が、これからは変わっていくのだろうと。
しかし、その心配は杞憂だった。英二は相変わらず私との時間も大切にしてくれた。
むしろ、美咲という存在が加わったことで、私たちの関係はより深いものになっていった。
恋愛の悩みを打ち明けられる相手がいることは、お互いにとって心強かった。

高校3年の秋、英二は野球の推薦で地方の大学に進学することが決まった。
私は東京の大学を目指していた。別々の道を歩むことになったが、それは私たちの友情の終わりではなかった。
大学生になっても、休暇で帰省するたびに会った。
相変わらずの陸橋で、変わらぬ富士山を眺めながら、それぞれの生活を語り合った。
英二は体育教師になり、地元の高校で野球部の顧問を務めることになった。
私は東京で会社員として働き始めた。

「俺、美咲と結婚するよ」
大学を卒業して間もない頃、英二からその報告を受けた。
場所は言うまでもなく、あの富士山の見える橋の上だった。
夕暮れの富士山を背景に、彼は照れくさそうに、でも確かな声でそう告げた。
結婚式では、私が主賓として祝辞を述べた。二人の出会いの場に立ち会えた者として、この結婚を心から祝福した。
美咲は純白のドレス姿で、英二は新郎らしからぬ緊張した表情で。
その姿を見ながら、あの夜のプールでの出会いからここまでの道のりを思い返していた。
そして時は流れ、英二と美咲の間には二人の子供が授かった。
長男の健一は父親譲りの野球少年に育ち、次女の麻衣は母親似の優しい性格を持つ女の子に成長した。
子供たちは私のことを「おじさん」と呼び、まるで本当の親戚のように慕ってくれた。
休日には、英二の家族と一緒に過ごすことも多かった。バーベキューをしたり、子供たちと公園で遊んだり。
そんな時、英二と美咲が見せる幸せそうな表情を見るたびに、あの日、美咲を紹介して本当に良かったと思った。
「おじさん、パパが言ってたよ。おじさんがいなかったら、ママと出会えなかったって」
ある日、麻衣がそう言ってくれた時は、思わず目頭が熱くなった。
友情とは、時として人生を大きく変える力を持つものなのだと、改めて実感した瞬間だった。

人生の岐路に立つたびに、私たちは相談し合った。
結婚、子育て、仕事の転機。どんなときも、率直な意見を言い合える関係だった。
時には厳しい言葉を投げかけることもあったが、それも互いを思う気持ちがあってこそだった。
そして今、定年を過ぎた私たちは、まだあの頃と同じように富士山を眺めている。
英二の髪は白くなり、私の背も少し曲がってきた。でも、心の中にある友情は、あの夏の夜のように清々しいままだ。
時々、あの夜のことを思い出す。もし私が彼らを厳しく叱り、校長に報告していたら。
もし英二が素直に謝罪せず、反抗的な態度をとっていたら。
ほんの些細な出来事が、違う方向に転がっていたかもしれない。
人生とは不思議なものだ。予期せぬ出会いが、かけがえのない絆を生む。
あの夜、月明かりに照らされたプールサイドで、私たちは知らぬ間に人生の大切な一頁を開いていた。
「おい、最近の富士山、なんかいつもより大きく見えないか?」
先日、英二からそんな電話があった。相変わらずの調子で、まるで高校生の頃のように。
私は思わず笑みがこぼれた。明日も、あの橋から富士山を眺めよう。きっと、いつもより少し大きく見えるはずだ。


思えば、人生の困難に直面するたびに、英二の存在は私の大きな支えとなっていた。
会社での昇進を断られた時も、最愛の母を看取った時も、妻との離婚を決意した時も。
英二は常に私の傍にいて、時に励まし、時に叱り、そして時には黙って酒を酌み交わしてくれた。
「おまえな、人生って案外、生きづらいもんだよな」
ある夜、英二がぽつりとそう言った。私たち二人で飲んでいた居酒屋は、いつものように街の喧騒から少し外れた場所にあった。
歳を重ねるごとに、静かな場所で飲むことが多くなっていた。
「ああ、その通りだ」
私もグラスを傾けながら答えた。確かに人生は生きづらい。
思い通りにならないことばかりで、理不尽なことも多い。若い頃は、年を重ねれば何もかもうまくいくようになると思っていた。
しかし実際は、年齢を重ねても新たな困難が次々と現れる。それは終わりのない連鎖のようだった。
「でもな」と英二は続けた。
「あの夜、お前がプールで俺たちを見つけてくれて、本当に良かったと思うよ」
その言葉に、私は思わず笑みがこぼれた。確かに、あの夜の出来事は、私たちの人生における大きな転換点だった。
単なる規則違反の現場確認が、これほど深い絆につながるとは、誰が予想できただろう。
「美咲との出会いも、子供たちの誕生も、全部お前のおかげだ」
英二の言葉には、深い感謝の念が込められていた。
私は少し照れくさくなって、
「そんな大げさなことを」と言い返した。
しかし心の中では、この友情が私の人生にもたらした豊かさを、しみじみと感じていた。
定年後、私たちはよく二人で散歩をするようになった。
いつもの橋まで歩いて、富士山を眺めながら、これまでの人生を振り返る。
時には健一や麻衣も一緒に来て、四世代で富士山を眺めることもある。そんな時、私は不思議な気持ちになる。
あの夜、月明かりに照らされたプールサイドで始まった友情が、こんなにも大きな広がりを持つことになるとは。
人生の予測不可能性と、そこから生まれる素晴らしい出会いの可能性。それを実感させてくれる瞬間だ。
「なあ」と英二が言った。
「人生って、まんざらでもないよな」
その言葉に、私は深くうなずいた。確かに人生は生きづらい。
でも、この60年の友情が教えてくれたことがある。
それは、困難や苦しみの中にも、かけがえのない喜びや感動が存在するということ。
そして、それを分かち合える友がいることの素晴らしさ。
今では私たちも80代を迎え、体力は衰え、記憶力も落ちてきた。
でも、あの夏の夜の記憶だけは、今でも鮮明に残っている。
プールに映る月の光、水しぶきの音、そして何より、少年のような無邪気な笑顔を浮かべていた英二の表情。
最近、英二と二人で写真アルバムを見返すことが増えた。
高校時代の野球部と水泳部の集合写真、英二と美咲の結婚式の写真、子供たちの成長を記録した数々の写真。
それらは単なる記録ではなく、私たちの人生の証だった。
「写真を見ていると、人生の山あり谷ありが全部宝物みたいに思えてくるよ」
英二のその言葉に、私も同感だった。確かに、全てが順風満帆だったわけではない。
むしろ、困難の方が多かったかもしれない。でも、それら全てが今の私たちを作り上げている。
そして、その道のりを共に歩んできた友がいることが、何よりの財産なのだ。
「おい」と英二が声をかけてきた。
「明日も富士山、見に行かないか?」
その提案に、私は迷わず頷いた。明日も、私たちは古い陸橋まで歩いていこう。
そこから見える富士山は、きっと今日よりも少し大きく見えるはずだ。
なぜなら、それは単なる山の風景ではなく、私たちの60年の友情が織りなす物語の一部なのだから。
人生は確かに生きづらい。でも、こうして振り返ってみると、まんざらでもない。
むしろ、その生きづらさの中にこそ、かけがえのない出会いと絆が存在する。
それを教えてくれたのは、あの夏の夜のひょんな出会いと、その後に続く60年の歳月だった。
「ありがとうな」
私たちは同時にそう言って、互いに顔を見合わせて笑った。
これからも二人で、この富士山を眺め続けよう。
きっとそれは、私たちの永遠の青春の証となるはずだ。



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