M属性 ~嗚呼、あなたに踏まれたい~

高谷正弘

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第六章 会戦

百七十八夜 マナスル

「ねえジャーラフ、いるの――~? ねえったら――~!」
「かっ閣下! 危のうございます、どうかご無理なさらないでください!」
「ん~……ちょっと見てくるわ」
「閣下ァ――っ!?」
 マナスル伯爵は家令が止めるのも聞かず、監視用の窓から身を乗りだす。意外な素早さでスルリと天に消えた。
 そこは主塔の屋根。
 三角錐でできており、通常なら上り下りですら恐怖する場所。風を切る音を耳にするだけで、肌寒さが増していた。
「あっジャーラフ、やっぱりいた~! 気配を消してないからいると思ったんだ、んもう~返事してよね」
 沈む太陽がポツリと人影を浮かばせる。
 ウェーブのかかった黒髪と猫の耳が揺れ、漆黒のマントがはためいていた。
「にしても怖っ! よくこんなところで黄昏れていられるわねえ」
「……周辺に異常はありません、なんのご用ですかマナスル卿」
 マナスル伯爵は屋根にへばりつき、恐々と下を見下ろす。
 ジャーラフは振り向きもせずに慎ましく答える。その態度や口調で拗ねているとわかるのは、彼女の姉だけだったろう。
 だがマナスル伯爵にヘソを曲げているわけではない。
「今夜は満月でしょ、定時連絡の準備をしておくから執務室に来てもらえるかな。伝書バトもあるけど、長文はまだ難しくって」
「……わかりました」
 ジャーラフは軽く顎を引き了承を伝える。
 しかし瞳は一点を見つめたまま動かず、夕日が左の頬だけを照らし出す。そこはお気に入りの場所だった。
 地平線のはるか遠くには新王都があり、ヴィ―ラ殿下がおわすのだ。
 マナスル伯爵は風にあおられる髪を押さえ、やさしく目を細める。

「『アユム卿はリグ公爵を探して、モルディブの樹海に向かっている』――って、二人の消息はそれっきり、こうまで音沙汰なしだと心配よね」
 ビクリと猫の耳が跳ねた。
 十一月に行商人づてで新王都へともたらされた便り。それより約三か月が経ち、二月になっても続報は届かない。
 マナスル伯爵はジャーラフの隣に座ると、同じく地平線を眺める。
「実際に樹海へ行ったかどうかわからないけど、アユムなら大丈夫よ。もし魔獣と争いになっても、国家存亡危機バジリスクに匹敵する魔獣なんてそうはいないんだから」
「だっだけどモルディブの樹海には、多くの魔獣がいてるっていうじゃないか! そんなとこをあのバカがいつもの調子で行動すれば、魔獣が束になって襲って……っボクは殿下がおわす西を見てただけだ! あんにゃバカどうでもいい!」
 ジャーラフがやっと顔を上げ、牙をむいて叫ぶ。屋根を叩くのは辛うじて耐え、いっそう影を落として膝に顔をうずめる。
 こっちは北だけど――マナスル伯爵は突っこみたいのをギリ耐えた。
 ここからは霊山モルディブが薄く影を帯びて見える。得難き「力」であっても、ふもとに広がる樹海まではとらえられない。
「アユムを『あのバカ』扱いできる子も、そうはいないでしょうねえ」
「だからアユムは関係にゃいって! あっあいつが盗賊に斬り殺されようと魔獣に食われようと、知ったことか!」
 ジャーラフが目を伏せたまま叫ぶ。
 揺れる気持ちがどこから来るのか、認識不足な感情を持てあましていた。
「アユムは大丈夫、ちゃんと帰ってきた・・・・・んだから」
 どこで何をしていようと、今度もきっと帰ってくる――。
「えっ……帰って、きた?」
 暗闇の中で小さな光が灯り、ジャーラフが振り向く。
 マナスル伯爵ははるか遠くに視線を向けていた。それは地平線を越え空を越え、悠遠の彼方までを映す瞳。
 未来へ語り継がれる、物語のその先へと――。
「マナスル卿それは……えっと、M属性の『予感』ですか?」
 ボクはこの方を、どれだけ知っているんだろう。
 啓いたときにプラーナさまの勧めで、「風舌ふうぜつ」の使い方を教わった。亜人なのにマナスルの領主をしていて、市民や使用人から批判を聞いたことがない。
 複数の発光を絡ませ、激しい光を放つ妙な方。
「信じて待ちましょう」
 ほほえむ横顔にすら違和感がつきまとう。
 ――底が見えない、それは殿下にも似た「理解不能」な畏怖ではなかったか。

 マナスル卿……あなたは、いったい――。



「熱っちいんだよ! このトカゲ野郎――っ!!」
「ヴォ――!」
 雨がそぼ降る町の中で、ウールドが鉄のクワを振り上げる。
 炎のトカゲがたたき潰されると、トカゲの形を保ったまま崩れて消えた。残り火が雨にあおられ、蒸気となって白く立ちのぼる。
「そういやあトカゲ野郎は火の精霊だって、エルフのねーちゃんが言ってたっけ。なるほど『炎生えんじょう』で変換された、薪とよく似てらあ」
 眉根を寄せ鉄の鍬を握りなおす。
 火に包まれる建物から、焼け落ちた跡から。そこかしこから炎のトカゲが現れ、双眸の瞳を怪しく光らせていたのだ。
「とはいえキリがねえ、いったい何匹いやがるんだ!」
 鎮火の手助けにならない雨雲を、忌々しく睨みつけた。
 ――サラマンダーは炎におおわれた巨大なトカゲである。全身には斑点があり、尻尾の先まで入れると大人の身長を越えた。
 町の冬越し用に蓄えていた薪おき場で、火災が発生する。
 慌てて消火に駆けつけた町民は、炎の中から現れた魔獣に驚愕した。居合わせた・・・・・傷の男がたたきのめし、喝采が上がる。
 しかし数か所からあがる煙に歓声は消えた。
 ウールドが手当たり次第退治していっても、いっこうに数が減らない。延焼した建物から、新たなサラマンダーが生まれていたのだ。
「炎の攻撃は効かねえってんだから、色男がこっち・・・だったらやばかったな」

「トカゲが数匹かたまってる! 誰か手を貸してくれ――!」
「ちくしょう、よくも家を焼いてくれたなっ!!」
「どっどうすんだよ、このままじゃ寝る場所もなくなっちまう……っ」
 町民が農具を手にサラマンダーを攻撃する。
 だが傷ついたサラマンダーが炎を食べる・・・・・と、体が再生していく。そのきりのない徒労に、汗と力が抜け落ちてしまう。
 自分たちの町が燃えるのを、ただ網膜に映していた。
「ウヴォォ!」
「――ひっ!?」
 燃えさかる建物の二階から、サラマンダーが緑の毒液を吐く。
 突っ立っていた町民の頭上に降りそそぎ、頭を抱えてへたりこんだ。だが一向に落ちてくる様子はなく、恐る恐る顔を上げる。
 雨に濡れた漆黒のマントが、目の前で毒液を遮っていた。
「ちっ……こいつも毒を吐くのか、嫌な記憶がよみがえらあ」
 バジリスクと違って、引火性じゃないだけマシか――。
 マントにじわじわと毒液がにじみ、くすぶって大穴を開ける。こりゃあダメだとウールドは脱いで放り捨てた。
 雑草が異臭を放ち溶けていく、バジリスクの毒ほどではないが見劣りはしない。
「おいってめえら、なにをあきらめてんだ!」
 手近のサラマンダーを鉄のクワで殴り飛ばし、狼が遠吠えを上げた。
 群れの仲間ではなくとも、町民の意識が引きつけられる。
「ブルってんじゃねえぞ、てめえらの町だろうが! てめえらで守んなかったら、どんなツラして妻や子をその手に抱きしめるつもりだ!」
 ウールドの体の内・・・から、淡い光がうっすらと立ちのぼっていく。
 国家存亡危機の魔獣を殴り飛ばす、巨人が顕現していた。
「力が湧かねえんなら前だけ向け! 睨みつけて叫んでみろ! 俺は最後までやりきったと、ふんぞり返ってる誰かさんに怒鳴ってやれ!!」
「……っ!」
「くそっちくしょう! ちくしょう――!」
「おっ俺だってえ……っ!!」
 町民の目に生気が戻る。
 震える手で農具を握りしめ、鳴らす奥歯を噛みしめた。我知らずサラマンダーに向かい踏み出していく。
「その意気だ……てめえら燃えてるそばで戦うな、トカゲ野郎が息を吹き返す! どうにか俺んとこに引っ張ってこい!」
「おおうっ!!」
「雨は期待できねえ、桶に水を汲んで消火しろ! 農具で燃えてる家をぶっ壊せ、これ以上燃え広がるよりゃマシだ!」
「わかった――!」
「トカゲ野郎は火の精霊だ、水に弱え! 女は子供を連れて対岸まで避難してろ、川を渡っちゃこれねえ!」
「はっはい!」
 魔獣を物ともしない膂力、発している異様な気配――町民を統率してしまえる、覇気のこもった声。
 狼の雄たけびが波紋となって町に広がっていく。
「おらあ――っ『邪土じゃどう』!」
 ウールドが毒を無視してサラマンダーを殴り潰す。
 突いた地面に見慣れない文様が浮かび、淡く発光する。妙な光沢を放つ流動体がわき上がり、装甲となって張りついていく。
 鉄のガントレットが雨を弾き、銀の被膜が舞い跳んだ。
「てめえら堂々と胸を張れ! 一匹残らず町からたたき出すぞ――――っ!!」
「おおおお――――っっ!!」


 ☆


「おう、今日も元気に煙がのぼってるねえ」
 広大な農地に線を引き、街道が街の市門まで続いている。盗賊風の男が鉄のクワを肩に、ノンビリと歩いていた。
 マナスルに隣接して、監視塔と思しき奇妙な塔が建っていたのだ。
「トクリー窯の威容を見上げると、マナスルに帰って来たって実感がすらあ」
 一年前は荒涼としていた耕作地も、領民が増え華やかになっている。麦が小さな緑の葉を覗かせ、ほのかに輝いていた。
 元王都の面影を残す街に笑顔があふれ、行商人が列をなしている。

「――んなわけで北西の町からトカゲ野郎を追い払った。神さんに声が届いたのか途中で豪雨になって、燃え広がるのをようやく食い止めれた」
 あいつはいつも遅えんだよな――。
 マナスル城の執務室に領主と因果伯が集結していた。
 ヴィーラ殿下へ上申する最終確認だが、椅子の配置はバラバラである。きっちり壁沿いに座る者、ど真ん中で堂々と足を組む者、離れの椅子で我関せずの者。
 貴族にあるまじき性質を如実に表していた。
「焼け残った家に同居すりゃあ、しばらくは暮らしていける。だが春んなる前に、建築する職人と資金を頼むわ領主さん」
「わかりました」
 鉄のクワを手に組んだ足を揺らし、ウールドが悪びれもせず要望を突きつける。
 毎度のことなのかマナスル伯爵は憤るでもなく、口元を緩ませ軽く了承した。
「家屋の延焼は抑えられたのですね、なによりです」
「サラマンダーの毒は? 皆さんは無事だったんですか!?」
 ラヴィが背筋をただし安堵する。横に座っていたトリコナーが勢い立ち上がり、食い気味で町民を案じた。
 状況次第ではそのまま走り出したかもしれない。
 ケガした奴はいたが、トリの坊主に頼むほどでもねえ――ウールドが肩をすくめ口角を上げると、やっと緊張を解く。
 よかったとひと息つき、胸をなでおろしていた。
「しっかし薬草が欲しいから掘ってこいって話だったよな。なんで俺なんだと首をひねってたが……そういうこと・・・・・・だったわけだ」
 M属性の「予感」――ウールドが離れて座る赤毛の幼女を盗み見る。
 聞えているのかいないのか、アカーシャは蝋板ろうばんを離さない。探究部屋から借りた写本コデックスを、一心不乱に模写していた。
 細い金属棒の持ち方に上達度がうかがえる。
「にしても回りくどいしめんどくせえ、もっとハッキリ伝えちゃダメなんかい」
「ダメだから遠回しに頼んでいるんですよ。M属性に対しての認識をあらためると申したはずです、察する努力をなさい」
「へいへい――~」
 ラヴィのお説教にウールドが口を尖らし、使わなかった鉄の鍬で頬をかく。
 何やら考えていたトリコナーが、薬草ではありませんがと手を打つ。
「サラマンダーの体には薬効があると文献にあります、食べれば媚薬になるとも。崩れて消えてしまったのなら、迷信だったのでしょうねえ」
 さらに強壮剤に催淫剤に脱毛剤、そして劇薬の原料にもなったはず――。
 指折り数えて残念そうに肩を落とした。上げられた薬効の内容は、とても町民の安否を気遣っていた姿とそぐわない。
 ブツブツと吟味する美少年の横顔に、突っこんでいいのかと顔を見合わせる。

「――僕は北の森に出没した、盗賊の噂・・・・を調査しに行きました。とはいえ運が悪く・・・・魔獣に遭遇し、未確認とあいなりました」
 申し訳ございません――。
 頭を下げるバクティ卿に、マナスル伯爵は苦笑を隠せずにうなずく。
 やや芝居がかってはいたが、集った者たちは察する・・・努力を怠らなかった。
「んでそっちはどんな魔獣だったんだ?」
「スケルトンだ、司祭の説教もミサも施されなかった亡骸なきがらを、悪魔が奪ったのだ。どうにか罪を重ねることなく、御霊を慰めることはできたが……」
 甲冑を身につけている者が多かった。
 戦場からさまよってきたのか、身に覚えがある境遇に胸がうずく。バクティ卿の愁いを帯びた表情に残るのは、哀悼か孤独か。
「亡くなっても神に許されず剣を佩くなんて、まさに煉獄だね」
「バクティ卿の炎によって浄化され、永遠の苦悩が清められていることでしょう」
 同じ魔獣に連なってはいても、アンデットには別格の哀れさがあった。
 俺がそっちに行ったらやばかったな――ウールドは声に出さず、心の中で赤毛の頭をポンポンとなでる。
「そしてスケルトンを統率するがごとく、騎士が……デュラハンが現れた」
 バクティ卿が声をつまらせ、さらなる惨禍を告げた。
 ――デュラハンは首のない騎士の妖精である。
 首のない黒馬を駆り死を予言した。死人の出る家の近くに出現し、命を刈り取る死神としても伝えられている。
 けっして逃れられない死期は、命ある者の因果ともいえよう。
 従士スケルトンをまとめ、陣頭に立つ騎士デュラハンの軍団。
 相対した瞬間、バクティ卿の瞳が揺れていた。かつてくつわをならべた皆の雄姿を、カティーナ騎士団の雄姿を重ねていたのだ。
「なんだ色男、未練たらたらだなあ」
「ちょっ……餓狼!」
「まったくだな」
 ラヴィが弾けて止める間もなく、バクティ卿は自嘲に口を歪める。
 お説教が始まると固唾をのんだが、二人のやりとりに言葉を失う。
「そう気張るなって、おめえはなんでもかんでも溜めこんじまうんだから」
「わかったわかった」
 ウールドの軽口に相づちを返して笑う。それはあきらめによる見切りではなく、長年の友に接した気楽さではなかったか。
 個別で行動する因果伯も、一か所に滞在することで様々な変化が起きていた。

「それにしてもさ、魔獣が出没したのは北西の町と北の森だよね。前回の予か……えっと騒がしかった・・・・・・のも北だった、なんだか偏ってない?」
 トリコナーも遠回しが苦手なのか、咳払いして意見を求める。
 全員の意識がピクリと反応し、それを言うのかと息をのむ。
「まあどこぞで魔獣が戦って、縄張り争いが活性化したんだろうな」
 ウールドは鉄のクワに顎を乗せ、天井を眺めてとぼけた。
「冬の間際だったか、霊山の方向で世界樹が立ちのぼったと噂が広まった。魔獣の出没報告が頻発するようになったのは、それ以降だ」
 バクティ卿は腕を組み、王国の情勢を共有する。
「ヴィーラ王国にとって、なにか由々しき事態が起こったのでしょうね」
 ラヴィは見当もつかないと首を振り、錫杖を握りしめた。
 アカーシャは蝋板ろうばんから顔を上げ、手紙の送り主を思い浮かべる。
「フフッ……」
 誰もが「彼の少年」の名を出さないので、マナスル伯爵は笑いをこらえた。
 にわかに静寂が場を支配する。喉元まで来た言葉をのむべきか吐き出すべきか、決心がつかぬまま視線だけがさまよう。
「ああもう……っあの野郎、今度は何をしやがったんだ!」
 ウールドが耐え切れず、鉄の鍬に叫ぶ。
 それは一年前に少年が製作した鍬。用途がわからないと新王都から送ってきた、「バールのようなもの」だった。
 
「まっまあまあ、まだアユムが関係してるとは……」
「トリプティー卿、誰もアユム卿だとは申しておらんよ」
 トリコナーのはぐらかしに、バクティ卿が鋭い突っこみを入れる。
「アユム意外に誰がこんなことできるってんだ! モルディブの樹海に出っ張って魔獣どもを引っ掻き回すなんざ、殿下でも難しいだろ!」
 一応は肩を持ったトリコナーだったが、二人に迫られ白旗を上げた。
「ヴィーラ殿下が信頼のおけるペールを、護衛につけたとおっしゃっています。ですが素性を明かしてはいないようですね、それで彼を諭すのは難しいかと」
 ラヴィも肩入れをあきらめ、一年前の騒動を振り返る。
 諸侯に嫌みな視線を受けても、側溝を掘りお風呂を作り前代未聞昼食会を開き、バジリスクに単身立ち向かった少年。
 破天荒を地でいく彼を、誰が説き聞かせることができよう。
「確かに因果伯みぶんを明かさず、アユムを止めろってのはきついもんがある。ペールは以前の行商人姿が板についちまってるし」
 アユムが樹海に入る前に、無理やり取り押さえっちまえばよかったのに――。
 そう憤るな卿とは違うのだと、バクティ卿が仲間をかばう。
「何やらこみいった状況だったらしい。ペールラァサ卿は北東の村の出身だった、四年前の魔獣暴走スタンピードで啓き、爵位を拝命したと聞いたが」
「誰もが貴方あなたみたいに、自由には振る舞えないんですよ。ええそのようですわね、普段も予備人員として王都の北を巡回していたようです」
 悪かったな――と、ウールドが口内でもらす。
「ゆえにより慎重になったのだろう」
「例の『娘』、ですわね?」
 ラヴィの問いにバクティ卿は理解をしめす。
 騎士を体現した姿に、疑惑の強さが覇気となって表れていた。

「北東の村に、ルーシーなる娘はいなかった」

「にもかかわらず、村人は住民と認め疑ってすらいなかったそうだ。違和感が残る『娘』から、少しでも正体を隠したかったのだろう」
 守備を一任された北東の村を、バクティ卿は生涯忘れることはできない。
 あの惨劇の中にペールラァサ卿もいたのではないか。意味のない妄想に失笑し、頭を振って息を吐く。
「モルディブの樹海に向かうと、村人に報告を託したのを最後に……か」
 以降連絡は完全に途絶えている。
 行き先は魔獣が徘徊するモルディブの樹海。仲間は無事だと虚勢を張ろうとも、何が起こるかわからない常軌を逸した世界。
 まだ見ぬ地に、ウールドは思いを巡らせた。
「それにしても……今はカルブンクルスでしたか、なんだか因縁の街ですわね」
 生まれ育った街の話に、アカーシャの手が止まっている。
 侯爵による廃位を目論んだ反乱事件。マナスルに滞在している因果伯の六名中、五名までが魔獣暴走スタンピードに関わっていた。
 彼らとて人生の変更を余儀なくされたのだ。
「ジャーラフがいっしょに北へ、カルブンクルスへ着いて行くべきだったって……口にはしないけどずっと後悔しているわ」
 マナスル伯爵が自分のこととして悔恨する。その場に自分がいればとの思いも、あったのかもしれない。
 ひとつだけ空席の椅子が、執務室の空気を寂しくさせていた。

「――それに活性化しているのは、魔獣だけではありませんわ」
 ラヴィがマナスル伯爵に意識を飛ばすと、「どうぞ」と了承される。
「皆さんが騒ぎ・・を治めに出ていた間の件です。プールヴァ帝国の密偵がマナスルに潜入し、トクリー窯を探っていた形跡があります」
「プールヴァ帝国の!?」
「そいつは確かなんかい」
「密偵」が表した語句に、国家の要が見過ごせないと食いつく。
「ええ……どうにか数人を捕縛し、『力』で確認いたしました。ですがこのごろ、とみに多くなっています」
「あんだけ目立つ塔だからなあ、密偵も放っておくわけにはいかんか。つっても、武器や兵器を作ってるわけじゃないんだが」
「むしろ領民の笑顔のためなんだけどね」
「それは事情を知っているからだな、他国からすれば奇妙な塔でしかない。探りを入れるのは当然ともいえる」
「危険な塔じゃないんです~っていっても、信じちゃくれないわよねえ」
 要人を招いて側溝やお風呂を説明しても、理解してもらえるのだろうか。むしろ裏があるのではと、さらに不信感が増すのではないか。
 見通しが立たない状況に、ウールドは鉄のクワを睨んで眉をひそめる。
「なんだか、きな臭くなってきやがったなあ」



『握手……相手と友好をしめす挨拶と言われてます』
 ジャーラフが北に向かい手を差し出す。
 何度も繰り返し慣れてしまったしぐさが、より胸の穴を開けさせた。今日もまた主塔の屋根に夕日が射し、左頬を染めている。
 待つのは慣れたはずだった、いつも屋根にのぼり連絡を待っていた。
 姉からの、プラーナさまからの。それなのに単なる護衛対象だった彼の不在が、どうしてこんなにも辛いのか。
 明るい笑い声が一切色あせず、猫の耳に残っている。
「――っ!?」
 内心とは別に猫の耳が鋭く反応し、国境に複数の気配を察知した。種族としての能力であり、只人には到底達しえない感覚。
 屋根の上で危なげなく立ち上がり、目を閉じて意識を集中する。
 東からマナスルに向かい進んで来る集団の「カルマ」――それは行商人の光とは明らかに違う、意志のある敵意を発していた。
 そのなかに、天と地を「繋ぎ」まっすぐ立ちのぼる光が視える。
「この光りは……だって、この光りは――」
 アリエナイ光景に、ジャーラフは呆然と立ち尽くしていた。
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