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承安3年(1173年)
八条院と池殿と小松殿
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道中に多少のごたごたも有りましたが、私たちは琵琶湖を右に見ながら近江国(滋賀県)を無事に抜け、瀬田の橋を渡り、源矢田判官代義清 殿に出迎えを受けたのです。
「ようこそ巴御前、遠路はるばるようこそご上洛を」
そして彼の案内で無事京の都に到着しました。
「ここが京の都ですか……まずは、八条院様に義仲様を蔵人として迎えていただいたお礼も兼ねて、絹織物などの寄進をさせていただきたいのですが」
「わかりました、手配いたしましょう。
そんなことを話しつつ私たちは道を進みます。
鴨川の川べりに建てられた掘っ立て小屋には貧しい人々が住みついているようですね。
貧しい人々は京内南東部にや都の端の鴨川などに密集して住みでいるようです。
京の都は保元の乱と平治の乱、更には群盗による被害が拡大し荒廃がいまでも進行しているようです。
鴨川を渡り八条大路を西に入ると、藤原氏のような上流貴族の宅地が見えてきて景観が一変しました。
身分の高そうな者が乗っているであろいう牛車が路地をいきかいます。
暫く進むと八条院東堂御所が見えて参りました。
「噂に聞く以上に広大な御所でございますな」
この御所の主である八条院暲子内親王は鳥羽天皇の皇女で、母はその長期であった美福門院(皇后の藤原得子)様でございます。
近衛天皇は同母弟、崇徳・後白河両天皇は異母兄であり、甥の二条天皇の准母となったほか、以仁王とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)らを養育し、また八条院は全国に二百数十箇所に及ぶ荘園がを持ち女院の管領下にあって八条院領と呼ばれ、後白河院や平清盛もおいそれと手出しを出来ない財力と権力を持っていました。
しかしながら、八条院はかなり鷹揚な人柄の女性皇族であったらしくおよそ身辺の雑事について指示することが無く、女房たちを思いのままに自由にさせ、塵が積もった御所の中で、女房がちぐはぐな衣装を着ても気に留めなかったと言われています。
八条院の院判官代であり院別当を補佐して細々とした庶務を処理する役目の矢田判官代義清がわが父と懇意であったのはありがたいことでありました。
御所の入り口を義清殿の顔をもって通過すると控えの間でしばらく待った後に、御所の庭に案内されました。
私は庭の玉砂利の上で平伏ししばし待ちます。
「八条院の女院様、ご出御」
女官の声とともに御簾の向こうで衣擦れの音がかすかに聞こえました。
「信濃権守中原中三兼遠が娘、巴。
絹反物と紫のご寄進」
「うむ、寄進を許す」
「は、まことにありがたき次第でございます」
私は額を玉砂利につけて更に頭を下げたのでした。
「何やら面白い女人のようどすなあ」
寄進した品が殿上に下げられると、また衣擦れの音が響き気配はさりました。
「ふう、なんとかなりましたね」
八条院への拝謁が終わると西の対屋へ私たちは案内されました。
さて、八条院への拝謁がかなったのは幸いですが、可能ならば平家の非主流派の方々ともあっておきたいところですね。
さて、今現在における平家の非主流派とは誰でしょうか。
まずは、清盛の弟であり後に鎌倉の頼朝に使えることになった池殿こと平頼盛。
清盛に必ずしも従わず独自の動きを見せていた頼盛は政治的な失脚もしており、それが後に平家の都落ちに従わなかった理由でもありました。
また、この方は諏訪の領主でもあり、八条院とは、邸宅も接していて、八条院の乳母は源国房の娘で宰相局と呼ばれていたが、頼盛は宰相局の娘で八条院女房の大納言局を妻に迎えています。
また、意外かもしれませんがもう一人は平清盛の長男の重盛とその息子達です。
彼らは京の小松谷というところに屋敷を構えて住んでいたので小松殿と呼ばれています。
重盛は重盛に対する評価は僧の慈円が「イミジク心ウルハシク」と愚管抄に示していたりもします。
温厚・誠実な人柄で後白河院の信任も厚く、教養があり冷静な判断力の持ち主として知られ、武士の頭領としても大変有能な文武両道の人で、軍事面を長男の重盛にかなり頼っていたようです。
しかし、重盛の母の父親は高階 基章は正六位相当の官職である右近衛将監に就いていた身分が低い者であり、しかも、重盛の母は早く亡くなりました。
現在の平家の実質的な頭領である清盛は三男の宗盛に嫡家を継がせたいと考えているようです。
清盛は、義妹建春門院の子である高倉天皇を盛りたてて15歳の徳子を入内させ、まだ11歳の高倉の后になった徳子が男子を生むように祈願し、何度も厳島詣でに出かけ、7年後に願いが叶って男子が誕生すると、早期に高倉天皇に譲位させて、孫を天皇の位につけました。
母の徳子とその息子の安徳天皇を補佐するには、やはり同じ時子腹の息子である宗盛が平家の頭領である方が、後ろ盾としても安心だと清盛は考えているようです。
「平家の血を受け継ぐ天皇の実現」は清盛には権力掌握の第一歩であったのですから。
また、宗盛を嫡男にするのは時子の願いでもあり、更に宋に留学経験のある時子の兄の時忠の影響力もかなり強いものです。
そうなると母の後ろ盾のない重盛はもはや立場がありません。
政治や軍事の名目的な頭領である重盛は清盛と後白河院の間で板挟みになって大きく苦しんでいたようです。
自らの意思を封じ込めつつも平氏と朝廷の間で調整役に回らざるを得ない立場が「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と言わせたといいます。
中原が信濃の有力者の娘を義仲様の便女として関係を繋いだように、この時代は婚姻関係による外戚の存在感が大きく母系制的な色彩の強い平安時代末期において重盛は支えてくれる有力な親族を持たなかったため、彼はその才能によってのみでその地位を維持していました。
いっそ無能であれば出家するなどで政治や軍事の世界から遠ざかれたのでしょうが……さらに同母弟の基盛が早くに死去していることも、孤立を深める要因になったとようです。
さて、私達中原一族と平家小松家、以仁王、藤原氏らには姻戚関係があります。
我が父兼遠の母は楊梅流藤原敦兼の娘で、その姉妹の孫娘は、後白河法皇に仕えた京極の局と呼ばれる女性。
その娘が平家の嫡孫維盛の妻であり我々中原と小松家は女系を通して繋がっているのです。
さらに、京極の局の義妹が重盛の妻です。
なんとかうまくつなぎをつけたいところですね。
重盛は小松家が平家の嫡流となるためには、高倉天皇、安徳天皇と対峙する以仁王を担ぎ出すという方法も考えるでしょう。
宗盛ら平家の主流派を排除し、小松家を平家の嫡家として存続させることを選択するならば私達中原と手を組む可能性あります。
我々が頼朝とつぶしあいをする間は重盛と宗盛で内輪もめを続けていてほしいものです。
「ようこそ巴御前、遠路はるばるようこそご上洛を」
そして彼の案内で無事京の都に到着しました。
「ここが京の都ですか……まずは、八条院様に義仲様を蔵人として迎えていただいたお礼も兼ねて、絹織物などの寄進をさせていただきたいのですが」
「わかりました、手配いたしましょう。
そんなことを話しつつ私たちは道を進みます。
鴨川の川べりに建てられた掘っ立て小屋には貧しい人々が住みついているようですね。
貧しい人々は京内南東部にや都の端の鴨川などに密集して住みでいるようです。
京の都は保元の乱と平治の乱、更には群盗による被害が拡大し荒廃がいまでも進行しているようです。
鴨川を渡り八条大路を西に入ると、藤原氏のような上流貴族の宅地が見えてきて景観が一変しました。
身分の高そうな者が乗っているであろいう牛車が路地をいきかいます。
暫く進むと八条院東堂御所が見えて参りました。
「噂に聞く以上に広大な御所でございますな」
この御所の主である八条院暲子内親王は鳥羽天皇の皇女で、母はその長期であった美福門院(皇后の藤原得子)様でございます。
近衛天皇は同母弟、崇徳・後白河両天皇は異母兄であり、甥の二条天皇の准母となったほか、以仁王とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)らを養育し、また八条院は全国に二百数十箇所に及ぶ荘園がを持ち女院の管領下にあって八条院領と呼ばれ、後白河院や平清盛もおいそれと手出しを出来ない財力と権力を持っていました。
しかしながら、八条院はかなり鷹揚な人柄の女性皇族であったらしくおよそ身辺の雑事について指示することが無く、女房たちを思いのままに自由にさせ、塵が積もった御所の中で、女房がちぐはぐな衣装を着ても気に留めなかったと言われています。
八条院の院判官代であり院別当を補佐して細々とした庶務を処理する役目の矢田判官代義清がわが父と懇意であったのはありがたいことでありました。
御所の入り口を義清殿の顔をもって通過すると控えの間でしばらく待った後に、御所の庭に案内されました。
私は庭の玉砂利の上で平伏ししばし待ちます。
「八条院の女院様、ご出御」
女官の声とともに御簾の向こうで衣擦れの音がかすかに聞こえました。
「信濃権守中原中三兼遠が娘、巴。
絹反物と紫のご寄進」
「うむ、寄進を許す」
「は、まことにありがたき次第でございます」
私は額を玉砂利につけて更に頭を下げたのでした。
「何やら面白い女人のようどすなあ」
寄進した品が殿上に下げられると、また衣擦れの音が響き気配はさりました。
「ふう、なんとかなりましたね」
八条院への拝謁が終わると西の対屋へ私たちは案内されました。
さて、八条院への拝謁がかなったのは幸いですが、可能ならば平家の非主流派の方々ともあっておきたいところですね。
さて、今現在における平家の非主流派とは誰でしょうか。
まずは、清盛の弟であり後に鎌倉の頼朝に使えることになった池殿こと平頼盛。
清盛に必ずしも従わず独自の動きを見せていた頼盛は政治的な失脚もしており、それが後に平家の都落ちに従わなかった理由でもありました。
また、この方は諏訪の領主でもあり、八条院とは、邸宅も接していて、八条院の乳母は源国房の娘で宰相局と呼ばれていたが、頼盛は宰相局の娘で八条院女房の大納言局を妻に迎えています。
また、意外かもしれませんがもう一人は平清盛の長男の重盛とその息子達です。
彼らは京の小松谷というところに屋敷を構えて住んでいたので小松殿と呼ばれています。
重盛は重盛に対する評価は僧の慈円が「イミジク心ウルハシク」と愚管抄に示していたりもします。
温厚・誠実な人柄で後白河院の信任も厚く、教養があり冷静な判断力の持ち主として知られ、武士の頭領としても大変有能な文武両道の人で、軍事面を長男の重盛にかなり頼っていたようです。
しかし、重盛の母の父親は高階 基章は正六位相当の官職である右近衛将監に就いていた身分が低い者であり、しかも、重盛の母は早く亡くなりました。
現在の平家の実質的な頭領である清盛は三男の宗盛に嫡家を継がせたいと考えているようです。
清盛は、義妹建春門院の子である高倉天皇を盛りたてて15歳の徳子を入内させ、まだ11歳の高倉の后になった徳子が男子を生むように祈願し、何度も厳島詣でに出かけ、7年後に願いが叶って男子が誕生すると、早期に高倉天皇に譲位させて、孫を天皇の位につけました。
母の徳子とその息子の安徳天皇を補佐するには、やはり同じ時子腹の息子である宗盛が平家の頭領である方が、後ろ盾としても安心だと清盛は考えているようです。
「平家の血を受け継ぐ天皇の実現」は清盛には権力掌握の第一歩であったのですから。
また、宗盛を嫡男にするのは時子の願いでもあり、更に宋に留学経験のある時子の兄の時忠の影響力もかなり強いものです。
そうなると母の後ろ盾のない重盛はもはや立場がありません。
政治や軍事の名目的な頭領である重盛は清盛と後白河院の間で板挟みになって大きく苦しんでいたようです。
自らの意思を封じ込めつつも平氏と朝廷の間で調整役に回らざるを得ない立場が「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と言わせたといいます。
中原が信濃の有力者の娘を義仲様の便女として関係を繋いだように、この時代は婚姻関係による外戚の存在感が大きく母系制的な色彩の強い平安時代末期において重盛は支えてくれる有力な親族を持たなかったため、彼はその才能によってのみでその地位を維持していました。
いっそ無能であれば出家するなどで政治や軍事の世界から遠ざかれたのでしょうが……さらに同母弟の基盛が早くに死去していることも、孤立を深める要因になったとようです。
さて、私達中原一族と平家小松家、以仁王、藤原氏らには姻戚関係があります。
我が父兼遠の母は楊梅流藤原敦兼の娘で、その姉妹の孫娘は、後白河法皇に仕えた京極の局と呼ばれる女性。
その娘が平家の嫡孫維盛の妻であり我々中原と小松家は女系を通して繋がっているのです。
さらに、京極の局の義妹が重盛の妻です。
なんとかうまくつなぎをつけたいところですね。
重盛は小松家が平家の嫡流となるためには、高倉天皇、安徳天皇と対峙する以仁王を担ぎ出すという方法も考えるでしょう。
宗盛ら平家の主流派を排除し、小松家を平家の嫡家として存続させることを選択するならば私達中原と手を組む可能性あります。
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