39 / 77
承安3年(1173年)
平重盛と癪と枇杷の葉療法
しおりを挟む
さて、私はしばらく薬院の運営を続けました。
朝に湯船を洗い、竜骨車で水を汲み入れ、黒く塗った竹筒で温め、薪で風呂釜を沸かすというのは存外重労働かつ太陽が出ていないと十分温まらないので、天気が悪い日は基本休業としていました。
そんなある日、侍風の男が連なって薬院を訪ねてきたのです。
「お前がこの薬院の長か?」
私は訳がわからないながら、答えます。
「はい、私がこちらの施設の長の巴ともうします、何かございましたでしょうか?」
男たちは顔を見合わせた後、私に告げました。
「話が主、平重盛様がお前をお呼びだ。ついてきてもらおう」
うむむ、どういう意味の呼び出しでしょうか?。
治安を乱したとかでいきなり捕らえられるようなことも勿論ないとはいえませんが……。
この時点の重盛は京都の警備を頼盛と共に任され、ている京都における最高責任者であったはずです。
私は男たちに連れられ、六波羅小松谷の屋敷までやってきました。
六波羅は、北は五条大路から南は七条大路、 西は鴨川東岸から東は東山麓に及ぶ広大な地域であり、 古代からの葬送地、鳥辺野に隣接する地でその入口にあたります。
六波羅小松谷は山科に抜ける道筋の、東国や伊勢平氏の本拠地伊勢・伊賀への玄関口に当たる場所です。
屋敷の中央にある寝殿の庭へと私はつれられます。
さてどうしたものかと考えつつも、最悪の展開を想像して、額にじわりと汗が滲んできました。
『くく、そのように緊張しなくても大丈夫とは思うがな』
貴狐天王は含み笑いで私の側に居ますが、この方がそう言っているということは恐らく大丈夫なのでしょう。
私が玉砂利のしかれた庭に座ると、私を連れてきた男が屋敷の方に声を投げました。
「お待たせしました、重盛様、頼盛殿の言っておいた薬院の長を連れてまいりました」
玉砂利の上で平伏し、私はこの屋敷の主人が出てくるのを待ちました。
そして衣擦れの音と主に人がやってきて私に声をかけたのです。
「ふむ、お前が頼盛殿の孫娘の胸病みを治療したという薬師か。
ふむそのままでは話もできぬ
面をあげよ。」
私はその言葉に顔を上げて、声の主を見ました。
彼の息子の平維盛は平家一の美男であると言われていますが、父親も十分美男だと言えそうです。
しかしながら、心労のせいなのか目の下には隈ができている様子が伺えます。
平重盛は父である平清盛を軍事的、政治的によく補佐し、平家の大黒柱である清盛の跡継ぎと目されていました。
しかしながら重盛は清盛と後白河の間に立たされたため、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と呟いたとされ、『愚管抄』でも重盛は「トク死ナバヤ(早く死にたいものだ)」と生きることに望みを失った言葉を残したとされていますね。
ちなみに太郎焼亡と呼ばれる大火災の時に重盛の屋敷も燃えてなくなっています。
「ふむ、よくきてくれた、お前が死病である胸病みを治した話は本当か」
「完治するには一年二年かかるとは思いますが、命はとりとめられたと考えております」
ふむ、と彼は少し考えたあと。
「ならば、私の体を診療して病を治してほしい」
といってきました。
「それは構いませぬが、具体的にはどのような症状でしょうか?」
彼の言うことにはみぞおちから左にかけての鈍い痛み、胸の凭れる感じ、吐き気や
倦怠感・息切れ・ふらつき、めまいなどの貧血症状などだそうで……
「なるほど、重盛様のご病気は心労による胃の腫瘤による癪でありましょうな」
「うむ、それはわかっているのだ、どうすれば治るのかを問うておる」
私は少し考えたあと答えます。
「一番良いのは心労のない状態に重盛様がなることでございます。
が、現状の立場では無理でございましょう」
私に言葉にに彼はうなずきました
「うむ」
まあ、政治や軍事をほうり投げることができるならこんなことになっていませんからね。
「では、私の指示にしたがっていただけますでしょうか」
すこしうろたえたように彼は聞いてきました。
「う、うむ……具体的にはどのような方法なのだ?」
彼の問には私は淡々と答えます
「湯殿による入浴と食事管理と枇杷の葉や種を治療に用います」
「枇杷?」
彼が聞いてきたことに私は淡々と答えます。
「はい、枇杷の葉や果実の種子に優れた薬効があることは、
インドでお釈迦様が書かれた経典のひとつ「大般涅槃経」()の中にも
記されておりびわの葉を無憂扇、びわの木を大薬王樹()と呼んでたたえるとされています。
「無憂扇」とは、どんな病の憂いも癒す扇のような葉で「大薬王樹」は、薬草の王様のような木の意味がございます。
大陸でも「肺熱を排降して化痰止咳し、胃熱を清降して止嘔し、煩喝を除く静粛肺胃の薬物(肺などの呼吸器の炎症や異常を鎮め、痰や咳を治したり、胃の炎症や異常を鎮めて吐き気や嘔吐を治し胃腸の不快症状を取り除いたりする、肺や胃によく効く薬)と記されております。
聖武天皇のお妃様である光明皇后が、貧しい病苦の人々を収容して医療を施す、施薬院を建てたときにもびわの葉による治療が行われていたようです」
「う、うむ、そうであったか」
ちなみに枇杷は、バラ科の植物で、梅や杏、桃、桜などの仲間です。
高さはおよそ10メートルほどになり、葉は濃い緑色で大きく、長い楕円形をしており、表面にはつやがあり、裏には産毛があります、そして、その大きな葉陰に楽器の琵琶に似た形をした一口大の多くの甘い実がなり、黄橙色に熟すのです。
枇杷の実も果実として美味しいです。
毎年11月~1月の寒い季節に花をつけ、目立たない花ではあるけれどもかぐわしい香りを持ち、梅雨の頃から夏にかけて熟す生命力旺盛な植物です。
さて、私は重盛の許可を得て屋敷の中に薬院と同じような湯殿を作り、びわの葉を袋に詰めて煮出してその煮出し湯を葉と一緒に風呂に入れたものに彼を入らせます。
「うむ、コレはとても気持ちが良いな……」
また、食事には、水を入れた大豆を細かくすり潰しそれを搾っておからと豆乳に分け、豆乳を煮て、海水を入れ、型箱に流し込んで固めて水にさらし豆腐を作り、それと動物の乳と麦と玄米の合わせた水粥を主なものとします。
「ふむ、これはよいな、むねがもたれぬ」
また、ビワの葉を直接患部に貼る方法も用います。
色の濃い古いビワの葉を選んで採取し、表のツルツルした面を表にして寝床にビワの葉を敷き並べ、その上に布を敷いて横になると、体温によりビワの葉が温められて薬効成分が少しずつ皮膚から浸透し、痛みがとれたりします。
「うむ、この上で寝ると痛みが軽くなる、不思議なものだ」
さらにはビワの葉の茶を作ります。
ビワの生葉2~3枚を摘み取り表面に生えている毛をヘチマたわしなどでこすって取り除き、きれいに水洗いしたあと、風通しの良いところに干し、生乾きのうちに細かく刻む。
それをもう一度干してカラカラになるまで乾燥させるそれを水に加え、とろ火で水が3分の2から半分くらいになるまで煮詰め漉してつくります。
「うむむ、コレは苦いな……」
「それは我慢してください、良薬は口に苦しと申します」
「うむ……」
それを2週間ほど続けた所……
「おお、痛みが消えたぞ」
どうやら完治とは言わなくても症状は改善したようです。
「ふむ、そなたの知識は大したものだな。
どうだ、私に仕えてみぬか?」
その言葉を聞くのは2回目ですね。
誘いには私は申し訳ないという表情で答えます。
「申し訳ございません、私には信濃に残してきたものがおります。
それに都の空気は田舎者の私にはあまり合わないようでございます」
重盛は少し気落ちしたようですが、彼も私に執着をしているようでもないようです。
「ふむ、残念だが仕方あるまい」
私は頭を下げ
「は、申しわけございません。
もし、また体調が悪くなったり、大火で屋敷が失われた際には、信濃の善光寺参りをなさってその後松本の中原の屋敷をお尋ね下さい。
そのときにはまたお力にならせていただきます」
「うむ、わかった、いずれ機会があれば訪れさてもらうとしよう」
「信濃は空気も澄んでおりますし、のどかな田舎ですので療養には良い場所でございます」
私は豆腐の作り方を重盛のおつきのものに伝えて毎日食べるように言付けました。
そして屋敷をでると、矢田義清殿の屋敷に戻りました。
平氏の反主流の二人につてもできましたし、本日休んだら八条院様に所に行き、讃岐へ向かう旨を伝えて京を出立するといたしましょう。
朝に湯船を洗い、竜骨車で水を汲み入れ、黒く塗った竹筒で温め、薪で風呂釜を沸かすというのは存外重労働かつ太陽が出ていないと十分温まらないので、天気が悪い日は基本休業としていました。
そんなある日、侍風の男が連なって薬院を訪ねてきたのです。
「お前がこの薬院の長か?」
私は訳がわからないながら、答えます。
「はい、私がこちらの施設の長の巴ともうします、何かございましたでしょうか?」
男たちは顔を見合わせた後、私に告げました。
「話が主、平重盛様がお前をお呼びだ。ついてきてもらおう」
うむむ、どういう意味の呼び出しでしょうか?。
治安を乱したとかでいきなり捕らえられるようなことも勿論ないとはいえませんが……。
この時点の重盛は京都の警備を頼盛と共に任され、ている京都における最高責任者であったはずです。
私は男たちに連れられ、六波羅小松谷の屋敷までやってきました。
六波羅は、北は五条大路から南は七条大路、 西は鴨川東岸から東は東山麓に及ぶ広大な地域であり、 古代からの葬送地、鳥辺野に隣接する地でその入口にあたります。
六波羅小松谷は山科に抜ける道筋の、東国や伊勢平氏の本拠地伊勢・伊賀への玄関口に当たる場所です。
屋敷の中央にある寝殿の庭へと私はつれられます。
さてどうしたものかと考えつつも、最悪の展開を想像して、額にじわりと汗が滲んできました。
『くく、そのように緊張しなくても大丈夫とは思うがな』
貴狐天王は含み笑いで私の側に居ますが、この方がそう言っているということは恐らく大丈夫なのでしょう。
私が玉砂利のしかれた庭に座ると、私を連れてきた男が屋敷の方に声を投げました。
「お待たせしました、重盛様、頼盛殿の言っておいた薬院の長を連れてまいりました」
玉砂利の上で平伏し、私はこの屋敷の主人が出てくるのを待ちました。
そして衣擦れの音と主に人がやってきて私に声をかけたのです。
「ふむ、お前が頼盛殿の孫娘の胸病みを治療したという薬師か。
ふむそのままでは話もできぬ
面をあげよ。」
私はその言葉に顔を上げて、声の主を見ました。
彼の息子の平維盛は平家一の美男であると言われていますが、父親も十分美男だと言えそうです。
しかしながら、心労のせいなのか目の下には隈ができている様子が伺えます。
平重盛は父である平清盛を軍事的、政治的によく補佐し、平家の大黒柱である清盛の跡継ぎと目されていました。
しかしながら重盛は清盛と後白河の間に立たされたため、「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と呟いたとされ、『愚管抄』でも重盛は「トク死ナバヤ(早く死にたいものだ)」と生きることに望みを失った言葉を残したとされていますね。
ちなみに太郎焼亡と呼ばれる大火災の時に重盛の屋敷も燃えてなくなっています。
「ふむ、よくきてくれた、お前が死病である胸病みを治した話は本当か」
「完治するには一年二年かかるとは思いますが、命はとりとめられたと考えております」
ふむ、と彼は少し考えたあと。
「ならば、私の体を診療して病を治してほしい」
といってきました。
「それは構いませぬが、具体的にはどのような症状でしょうか?」
彼の言うことにはみぞおちから左にかけての鈍い痛み、胸の凭れる感じ、吐き気や
倦怠感・息切れ・ふらつき、めまいなどの貧血症状などだそうで……
「なるほど、重盛様のご病気は心労による胃の腫瘤による癪でありましょうな」
「うむ、それはわかっているのだ、どうすれば治るのかを問うておる」
私は少し考えたあと答えます。
「一番良いのは心労のない状態に重盛様がなることでございます。
が、現状の立場では無理でございましょう」
私に言葉にに彼はうなずきました
「うむ」
まあ、政治や軍事をほうり投げることができるならこんなことになっていませんからね。
「では、私の指示にしたがっていただけますでしょうか」
すこしうろたえたように彼は聞いてきました。
「う、うむ……具体的にはどのような方法なのだ?」
彼の問には私は淡々と答えます
「湯殿による入浴と食事管理と枇杷の葉や種を治療に用います」
「枇杷?」
彼が聞いてきたことに私は淡々と答えます。
「はい、枇杷の葉や果実の種子に優れた薬効があることは、
インドでお釈迦様が書かれた経典のひとつ「大般涅槃経」()の中にも
記されておりびわの葉を無憂扇、びわの木を大薬王樹()と呼んでたたえるとされています。
「無憂扇」とは、どんな病の憂いも癒す扇のような葉で「大薬王樹」は、薬草の王様のような木の意味がございます。
大陸でも「肺熱を排降して化痰止咳し、胃熱を清降して止嘔し、煩喝を除く静粛肺胃の薬物(肺などの呼吸器の炎症や異常を鎮め、痰や咳を治したり、胃の炎症や異常を鎮めて吐き気や嘔吐を治し胃腸の不快症状を取り除いたりする、肺や胃によく効く薬)と記されております。
聖武天皇のお妃様である光明皇后が、貧しい病苦の人々を収容して医療を施す、施薬院を建てたときにもびわの葉による治療が行われていたようです」
「う、うむ、そうであったか」
ちなみに枇杷は、バラ科の植物で、梅や杏、桃、桜などの仲間です。
高さはおよそ10メートルほどになり、葉は濃い緑色で大きく、長い楕円形をしており、表面にはつやがあり、裏には産毛があります、そして、その大きな葉陰に楽器の琵琶に似た形をした一口大の多くの甘い実がなり、黄橙色に熟すのです。
枇杷の実も果実として美味しいです。
毎年11月~1月の寒い季節に花をつけ、目立たない花ではあるけれどもかぐわしい香りを持ち、梅雨の頃から夏にかけて熟す生命力旺盛な植物です。
さて、私は重盛の許可を得て屋敷の中に薬院と同じような湯殿を作り、びわの葉を袋に詰めて煮出してその煮出し湯を葉と一緒に風呂に入れたものに彼を入らせます。
「うむ、コレはとても気持ちが良いな……」
また、食事には、水を入れた大豆を細かくすり潰しそれを搾っておからと豆乳に分け、豆乳を煮て、海水を入れ、型箱に流し込んで固めて水にさらし豆腐を作り、それと動物の乳と麦と玄米の合わせた水粥を主なものとします。
「ふむ、これはよいな、むねがもたれぬ」
また、ビワの葉を直接患部に貼る方法も用います。
色の濃い古いビワの葉を選んで採取し、表のツルツルした面を表にして寝床にビワの葉を敷き並べ、その上に布を敷いて横になると、体温によりビワの葉が温められて薬効成分が少しずつ皮膚から浸透し、痛みがとれたりします。
「うむ、この上で寝ると痛みが軽くなる、不思議なものだ」
さらにはビワの葉の茶を作ります。
ビワの生葉2~3枚を摘み取り表面に生えている毛をヘチマたわしなどでこすって取り除き、きれいに水洗いしたあと、風通しの良いところに干し、生乾きのうちに細かく刻む。
それをもう一度干してカラカラになるまで乾燥させるそれを水に加え、とろ火で水が3分の2から半分くらいになるまで煮詰め漉してつくります。
「うむむ、コレは苦いな……」
「それは我慢してください、良薬は口に苦しと申します」
「うむ……」
それを2週間ほど続けた所……
「おお、痛みが消えたぞ」
どうやら完治とは言わなくても症状は改善したようです。
「ふむ、そなたの知識は大したものだな。
どうだ、私に仕えてみぬか?」
その言葉を聞くのは2回目ですね。
誘いには私は申し訳ないという表情で答えます。
「申し訳ございません、私には信濃に残してきたものがおります。
それに都の空気は田舎者の私にはあまり合わないようでございます」
重盛は少し気落ちしたようですが、彼も私に執着をしているようでもないようです。
「ふむ、残念だが仕方あるまい」
私は頭を下げ
「は、申しわけございません。
もし、また体調が悪くなったり、大火で屋敷が失われた際には、信濃の善光寺参りをなさってその後松本の中原の屋敷をお尋ね下さい。
そのときにはまたお力にならせていただきます」
「うむ、わかった、いずれ機会があれば訪れさてもらうとしよう」
「信濃は空気も澄んでおりますし、のどかな田舎ですので療養には良い場所でございます」
私は豆腐の作り方を重盛のおつきのものに伝えて毎日食べるように言付けました。
そして屋敷をでると、矢田義清殿の屋敷に戻りました。
平氏の反主流の二人につてもできましたし、本日休んだら八条院様に所に行き、讃岐へ向かう旨を伝えて京を出立するといたしましょう。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜
岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!???
そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。
改造空母機動艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。
そして、昭和一六年一二月。
日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。
「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる