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治承3年(1179年)
緑茶と綿花の栽培そして近畿動乱・南都炎上
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機内では山本義経・柏木義兼兄弟が挙兵し北陸と平安京を結ぶ物流拠点である琵琶湖を占拠し、北陸から都へ上る年貢を差し押さえました。
更に園城寺の僧兵達も近江源氏と手を結び、その連合軍は一時平安京を占拠する勢いを見せ京の都に迫りました。
さらにはこの反乱に若狭国の在庁官人が同意の動きを取り、若狭から近江、山城の補給線は完全に寸断されていました。
それに対して平家は反撃に転じ、高倉上皇から近江寺社勢力に対して謀反人追討の院宣が発せらました。
2日に平知盛が追討に向かい6日に行なわれた戦闘では知盛らによって近江源氏が打ち破られたのです。
この戦に敗れた兵の多くは美濃へ逃れて抵抗を続けるました。
そして平家は園城寺内の反乱軍に同意した僧兵たちにも攻撃を加え、その結果園城寺の一部が炎上したのです。
そして、大和の悪僧に対しては重衡を派遣しました、もともと平治の乱の後、大和国が清盛の知行国になった際に清盛は南都寺院が保持していた旧来の特権を無視して大和全域において検断を行ったのですが、これに対して南都寺院側は強く反発したのです。
特に聖武天皇の発願によって建立されて、以後鎮護国家体制の象徴的存在として歴代天皇の崇敬を受けてきた東大寺と藤原氏の氏寺であった興福寺は、それぞれ皇室と摂関家の権威を背景とし、また大衆(だいしゅ)と呼ばれる僧侶集団が元来自衛を目的として結成していた僧兵と呼ばれる武装組織の兵力を恃みとして、これに反抗していました。
ですが、治承3年(1179年)11月に発生した治承三年の政変で皇室と摂関家の象徴ともいえる治天の君後白河法皇と関白松殿基房が清盛の命令によって揃って処罰を受けると、彼らの間にも危機感が広がり、治承4年(1180年)5月26日の以仁王の挙兵を契機に園城寺や諸国の源氏とも連携して反平氏活動に動き始めたのです。
そして以仁王の挙兵が鎮圧された後の6月、平氏は乱に関わった園城寺に対する朝廷法会への参加の禁止、僧綱の罷免、寺領没収などの処分を行いました。
興福寺はこの時の別当玄縁が平氏に近い立場をとっており、興福寺内部に平氏との和平路線をとる勢力が現れた事により、園城寺ほど厳しい処分はされなかったのですが、近江攻防で園城寺や興福寺の大衆が近江源氏らの蜂起に加勢し、それによって平氏は12月11日に平重衡が園城寺を攻撃して寺を焼き払うと、いよいよ矛先は興福寺へと向くことになるのです。
清盛はまず妹尾兼康に兵500を付けて奈良に派遣しました。
清盛は兼康に対して出来るだけ平和的な方法での解決を指示して軽武装で送り出したのですが、南都の大衆は兼康勢60余人の首を切り、猿沢の池の端に並べるという挙に出て兼康は命からがら帰京し、清盛を激怒させたのです。
大衆の行動は興福寺の平氏に対する敵意の大きさを物語る出来事でしたが、結果的には興福寺攻撃に対する公卿たちの反対を封じ込め、興福寺への大軍派遣の大義名分を与える事になったのです。
清盛は12月25日には息子の重衡を総大将として4000の兵を向かわせ、これに対して南都大衆も般若寺と奈良坂に堀を築き、兵700で固めたのです。
27日に重衡らも兵を2手に分けて木津方面より侵攻、大衆も木津川沿岸や奈良坂・般若寺などで抵抗を続けたため、全体的に平氏軍有利ながらも決着が付来ませんでした。
28日に入ると、平氏軍は奈良坂と般若寺を占拠して本陣を般若寺内に移し、その夜、重衡は僧坊等を焼き払うために火をかけたのですが折からの強風により奈良の主要部を巻き込む大火災が発生、興福寺・東大寺などの有力な寺院が焼け落ちて多数の僧侶や避難していた住民など、数千人が焼死したといわれます。
特に東大寺は金堂(大仏殿)など主要建築物の殆どを失い、中心から離れた法華堂と二月堂・転害門・正倉院以外は全て灰燼に帰するなど大打撃を蒙り、興福寺でも三基の塔の他、金堂・講堂・北円堂・南円堂など38の施設を焼いたと言われています。
しかし、これにより平家は仏敵の汚名を被ることにより機内の寺社勢力の多くを敵に回してしまいました。
更に園城寺の僧兵達も近江源氏と手を結び、その連合軍は一時平安京を占拠する勢いを見せ京の都に迫りました。
さらにはこの反乱に若狭国の在庁官人が同意の動きを取り、若狭から近江、山城の補給線は完全に寸断されていました。
それに対して平家は反撃に転じ、高倉上皇から近江寺社勢力に対して謀反人追討の院宣が発せらました。
2日に平知盛が追討に向かい6日に行なわれた戦闘では知盛らによって近江源氏が打ち破られたのです。
この戦に敗れた兵の多くは美濃へ逃れて抵抗を続けるました。
そして平家は園城寺内の反乱軍に同意した僧兵たちにも攻撃を加え、その結果園城寺の一部が炎上したのです。
そして、大和の悪僧に対しては重衡を派遣しました、もともと平治の乱の後、大和国が清盛の知行国になった際に清盛は南都寺院が保持していた旧来の特権を無視して大和全域において検断を行ったのですが、これに対して南都寺院側は強く反発したのです。
特に聖武天皇の発願によって建立されて、以後鎮護国家体制の象徴的存在として歴代天皇の崇敬を受けてきた東大寺と藤原氏の氏寺であった興福寺は、それぞれ皇室と摂関家の権威を背景とし、また大衆(だいしゅ)と呼ばれる僧侶集団が元来自衛を目的として結成していた僧兵と呼ばれる武装組織の兵力を恃みとして、これに反抗していました。
ですが、治承3年(1179年)11月に発生した治承三年の政変で皇室と摂関家の象徴ともいえる治天の君後白河法皇と関白松殿基房が清盛の命令によって揃って処罰を受けると、彼らの間にも危機感が広がり、治承4年(1180年)5月26日の以仁王の挙兵を契機に園城寺や諸国の源氏とも連携して反平氏活動に動き始めたのです。
そして以仁王の挙兵が鎮圧された後の6月、平氏は乱に関わった園城寺に対する朝廷法会への参加の禁止、僧綱の罷免、寺領没収などの処分を行いました。
興福寺はこの時の別当玄縁が平氏に近い立場をとっており、興福寺内部に平氏との和平路線をとる勢力が現れた事により、園城寺ほど厳しい処分はされなかったのですが、近江攻防で園城寺や興福寺の大衆が近江源氏らの蜂起に加勢し、それによって平氏は12月11日に平重衡が園城寺を攻撃して寺を焼き払うと、いよいよ矛先は興福寺へと向くことになるのです。
清盛はまず妹尾兼康に兵500を付けて奈良に派遣しました。
清盛は兼康に対して出来るだけ平和的な方法での解決を指示して軽武装で送り出したのですが、南都の大衆は兼康勢60余人の首を切り、猿沢の池の端に並べるという挙に出て兼康は命からがら帰京し、清盛を激怒させたのです。
大衆の行動は興福寺の平氏に対する敵意の大きさを物語る出来事でしたが、結果的には興福寺攻撃に対する公卿たちの反対を封じ込め、興福寺への大軍派遣の大義名分を与える事になったのです。
清盛は12月25日には息子の重衡を総大将として4000の兵を向かわせ、これに対して南都大衆も般若寺と奈良坂に堀を築き、兵700で固めたのです。
27日に重衡らも兵を2手に分けて木津方面より侵攻、大衆も木津川沿岸や奈良坂・般若寺などで抵抗を続けたため、全体的に平氏軍有利ながらも決着が付来ませんでした。
28日に入ると、平氏軍は奈良坂と般若寺を占拠して本陣を般若寺内に移し、その夜、重衡は僧坊等を焼き払うために火をかけたのですが折からの強風により奈良の主要部を巻き込む大火災が発生、興福寺・東大寺などの有力な寺院が焼け落ちて多数の僧侶や避難していた住民など、数千人が焼死したといわれます。
特に東大寺は金堂(大仏殿)など主要建築物の殆どを失い、中心から離れた法華堂と二月堂・転害門・正倉院以外は全て灰燼に帰するなど大打撃を蒙り、興福寺でも三基の塔の他、金堂・講堂・北円堂・南円堂など38の施設を焼いたと言われています。
しかし、これにより平家は仏敵の汚名を被ることにより機内の寺社勢力の多くを敵に回してしまいました。
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