37 / 49
四月二十七日(水)昼過ぎ 源氏山頂上
しおりを挟む
「素晴らしい!頂上に到着でーす」
宇佐見が勢いよく菜々美の手を引いた。
「痛っ」
抵抗も空しく、菜々美はそのまま見晴台の方へ連れて行かれた。
歩くたびに心地よい風が吹いてくる。
見渡せば、海と新緑が目の前に広がった。
身体が震えた。
日差しは強いのに、風が冷たいせいだろうか。
菜々美はしばらく遠くの景色ばかり眺めていた。
そこへ、後ろから賑やかな声がした。振り返ると、一番最初に出会った二人の高齢女性が登り切ったようだった。
「あぁ、気持ち良い」
二人で肩を叩き合いながら菜々美の前を通り過ぎた。
そして、やはり会釈をされた。
菜々美も慌てて頭を下げる。
「リスカちゃん、こっちへいらっしゃい」
宇佐見に呼ばれて、菜々美は木のベンチに腰を掛けた。
「どうですか?今の気分は?」
わざとらしくマイクを向ける真似をした。
「疲れた」
菜々美の反応に宇佐見がつまらなそうな顔をした。
「それじゃ、質問変えましょう。どうですか?ウサちゃんと遠足に来た気分は?」
「別に」
宇佐見が困ったように笑う。
「せっかく連れて来たのになあ」
「頼んでないもん」
「ここ、二年生の秋の遠足で来るはずだった場所でしょう?」
菜々美は宇佐見を見つめた。
――。
次第に自分の心が汚れていくのがわかった。
「何それ、そういうことだったの」
「ん?どういうことかな」
「とぼけないでよ。私に同情したんでしょ?」
菜々美は宇佐見を睨みつけた。
登校拒否になったのは去年の秋だ。
ちょうど鎌倉遠足の直前だった。
しかし、宇佐見は首をかしげて笑う。
「おかしなことばっかり言うねえ。オレは別にリスカちゃんが鎌倉遠足に行きたがっているから連れてきたわけじゃないし、だいたいメチャクチャ登るのイヤがったじゃん。同情って何さ」
菜々美は何か言い返そうと言葉を探したが、上手く言えそうになかった。
そして、結局ひとこと、
「ウザい」
と小さな声で振り絞った。
「それ口癖?ウサって呼ばれるみたいで、一瞬オレってばドキドキするんだけどさ」
宇佐見が菜々美の鼻をつまんだ。
「何よっ」
手を振り払う。
「私をからかわないでって言ってるでしょ」
「良いねえ、その悔しそうな顔。でも、今の中学生じゃ、この程度なのかなあ。なるほど、思春期の女の子は難しいね」
宇佐見は何か考え込む顔をした。
「でも、可愛いから許しちゃう」
宇佐見は菜々美の頭を撫でた。
わけがわからない。
どうして、この男は関わろうとするのだ。
そして、どうして、自分はこんなに腹が立つのだ。
菜々美は頭の内側から物凄い熱を感じた。
低く、呻いた時。
「切りたくなっちゃった?」
宇佐見が数センチのところまで顔を寄せた。
さっきまでと違い、口元だけに笑みをたたえた真剣な眼差しだった。
「遠慮しなくて良いよ?」
「……指図しないで」
「聞いているだけだよ。人の話は良く聞くもんだ」
宇佐見の表情は変わらない。
――何で、そんな顔するの?
淡い茶色の瞳が微笑んだ。
「切ったら絶対に痛いのに、それと引き換えにでも欲しい何かがあるんだろうね。それがわからないから、みんな辛いのかもね」
菜々美は自分の行動すら説明がつけられない。
切ったら安心する。
生きてるって実感湧く。
でも死にたくなる。
消したくなる。
そしてまた切る。
どうして。
私は――。
菜々美は下を向いた。
食いしばった歯の隙間から、嗚咽が漏れる。
突然、両方の頬に大きな手が添えられた。
「そうそう。少しずつ少しずつ」
何を言っているんだ。
そんな言葉じゃわかるわけがない。
「……ウザいんだよ」
「わかってるよ。ごめんね」
宇佐見はそれ以上は語らず、両手に力を込めた。
ひしゃげた菜々美の顔を見て、異国顔の男が笑った。
「わはは、頬っぺたフワフワだね!超ラブリー」
両手を離して、宇佐見は持ってきた鞄を膝の上に置いた。
菜々美のことなど気にする様子もない。
「何、よ」
「お話は終わりでーす。ウサちゃんはお腹が減りました」
そのあっけらかんとした顔に、菜々美は妙な怒りが湧いた。
「じゃあ、リスカやるから、カッター貸して」
宇佐見は一瞬だけ真顔に戻ったが、すぐに怪しい目で菜々美を見つめた。
「申し遅れましたが、使用料はカッター一つにつき、キス一回です」
「は?」
「さあ、いかがいたします?今のお時間なら、たったキス一回でカッター使いたい放題のチャンス!制限時間は残り五分です。ささ、お急ぎ下さい!」
「バカみたい。それだったら家に帰ってからやるもん」
「残り三十分です」
「増えてるし!もういいってば!」
完全にからかわれている。
本当に腹が立ってきた。
「キス一回も耐えられないなら、カッターへの想いなんて大したことないじゃない」
可愛いなあと宇佐見は微笑んだ。
「もうその話はやめてよ」
「どうしてさ。オレは盛り上がって来たのに」
「いいから、やめて」
「ふっふっふ。これからリスカちゃんはカッターを見るたびに、キスという単語が頭に浮かぶんだ。愉快愉快」
菜々美はショルダーバッグを投げつけようと構えたが、それより先に膝の上へ弁当箱が置かれた。
「続きは、お食事の後でね」
宇佐見が温かいお茶を入れて菜々美に差し出した。
手に取ると、宇佐見は菜々美の頬を軽く叩いた。
「からかってごめんね。沈んだ顔より怒った顔の方がまだ良いと思ったんだ」
その優しい笑みを見ていられなくて、菜々美は弁当に目を落とした。
「これ、ウサちゃんが作ったの?」
宇佐見はおにぎりを口にくわえたまま何か曖昧に答えた。
白い小花模様の包みには、黄色のプラスチックの弁当箱が入っていた。
中を開けてみると、小さなおにぎりが二つと卵焼き、焼き鮭や煮物などが入っていた。
「飾り切りだ」
そのウインナーは、細かく切り刻まれて何かの形を表現しているようだった。
よく見れば黒いゴマがついている。
「目?」
菜々美はもう一つ入っていたウインナーを箸で拾い上げた。
「こっちもかな」
「何だろうねえ。進化する途中のクラゲさんかな。イヤ、よく見ると犬さんかな。ポメラニアンだな」
思わず菜々美は吹き出した。
「下手過ぎるよ」
菜々美は不恰好な作品を食べた。
味は普通に美味しいのだから、こんな細工しなくても良いのに。
「まあ、いっか。リスカちゃんが笑ってくれたらオールOKだ」
その言葉に菜々美はまた意地を張りそうになったが、いちいち態度に出すのも癪に障るので黙っていることにした。
心地よい風が吹く。
足の疲れも癒えてきたようだ。
菜々美が食べている隣で、宇佐見が高々と手を上げて大きく振った。
その先を見ると、誰かが登山口を登ってきたようだった。
「いやあ。感動だね。真の貴公子が登場だ」
フラフラと歩いてくる姿を見て、菜々美は箸を落としそうになった。
「聖川先輩」
葵中学ブラスバンド部の先輩――敬太は膝に手を当てて全身全霊で深呼吸をした。
そして、すぐさま宇佐見に声を荒らげた。
「マジ、何なんだよ!アンタはっ」
そして、菜々美に向き直って苦しそうに言った。
「おい鹿端は大丈夫か?何もされてないか?」
「失礼な貴公子だね。ご覧のとおり、姫様は楽しくランチ中だよ」
そう言いつつも宇佐見は立ち上がり、敬太を座らせた。
「しかし驚いたな。学校をサボってまで来るとはね。せいぜい電話かと思ってたけど」
「どういうことなのウサちゃん」
「ふふ、それはこのチャパツくんに聞くことだ」
菜々美が敬太を見つめると、たいそうバツの悪そうな顔になった。
「ハメられたんだよ。くっそ、怨むぞティラノさん」
「ティラノさん?」
すると、宇佐見が菜々美の頭を撫でながら言った。
「リスカちゃんも会ってるよ。ゲーセンに小さいオジサンがいたでしょう」
菜々美は派手な眼鏡をかけた男を思い出した。
――一体、どういうことなの?
訝しむ菜々美に弁明するかのように、敬太が経緯を語り始めた。
「ティラノさん……っていう、オレが世話になってる人から月曜日にメールが来たんだよ。宇佐見さんが鹿端のことで相談したいらしいから、オレのアドレス教えて良いかって。オッケーしたら宇佐見さんから早速メール来てさ。中学二年の遠足はどこに行ったか聞かれて、鎌倉で源氏山に登るって教えたんだ。けどさ、いきなりそんなこと聞いてくるのって、怪しくね?オレはティラノさんにこのやりとりを相談したんだよ。そうしたらさ……」
敬太は、全身でため息をつくと、宇佐見に指を突き付けた。
「こいつが鹿端とデートするって話をされたんだよ!。ティラノさんの話じゃ、宇佐見さんは女の扱いも上手いし、その気になったら何か色々と心配だって……。あのティラノさんが言うんだから間違いないと思って、オレは慌てて宇佐見さんにメールして、真相を問いただしたんだ。そうしたら」
敬太は上目遣いに宇佐見を睨んだ。
「アンタ、今日の今日までメール返さないってどういうことだよっ!明け方に来たメールが『いざ鎌倉~』ってバカにしているのかよっ」
言い切ると敬太は激しくむせ込み始めた。
微笑みながら宇佐見は水を差し出して言った。
「おかげで鎌倉で待機できたでしょ。ちゃんとその後も連絡したし。だからここまで来れたでしょうに」
「連絡って、これのことだよな」
敬太はポケットからスマートホンを取り出すと、菜々美の前に突きつけた。
画像だ。
そこには、木の下で座り込む菜々美の姿が写し出されていた。
「あっ!」
「かわいそうに、メチャクチャ疲れ果ててるじゃねえかよ。ちくしょう、ふざけやがって。無理矢理登らせたのがバレバレなんだよっ」
菜々美も宇佐見に詰め寄った。
「なに勝手なことしてるのよ!いつの間に撮ったのよっ」
「さっき」
宇佐見は笑いながらそう答えると、敬太に向き直った。
「血気盛んだなあ。貴公子はエレガントじゃなきゃ。君はむしろ野武士だ。御家人だ」
「さっきから意味不明なことばかり言いやがって」
「ん、御家人って習ったでしょ?」
「日本史は苦手なんだよっ!ああもう、こっちはスゲー心配したのに。オレ昨日まで熱出してたんだぜ?」
宇佐見が目を丸くした。
「え、チャパツくん具合悪かったの?」
「そうだよ。何とか熱も下がったから今日は学校行こうと思ってたのにさ。ティラノさんからのメールで鹿端が心配になって……友達に、今日も治らないから休むって嘘ついちまったじゃんかよ!」
宇佐見は一瞬真剣な目を菜々美に向けた。
そして、うんうんと微笑むと敬太に向かって、
「ありがとう」
そう言った。
「バカっ!アンタのために来たんじゃねーよ!」
「リスカちゃんのために来てくれたんだよねえ」
敬太は何か言いかけたところで、急に、
「な、そんなんじゃねえよ」
そっぽを向いた。
それを聞いて、菜々美もようやく話の筋が理解できた。
とにかく敬太は自分を心配してここまで来たのだ。
「あらら、チャパツくん。何でもないわけないでしょう。病み上がりでさ」
「先輩」
菜々美の声に敬太がとっさに振り返り、
「本当、何でもないんだって」
不思議な笑顔を浮かべた。菜々美はその顔を見て、胸が苦しくなった。
「ウサちゃん」
なぜか、宇佐見にすがる気持ちになった。
異国顔の男は楽しそうに笑っている。
「しかし、ここまで……まあ、よく来たもんだね」
宇佐見が菜々美と敬太を交互に見た。
「これはもう、よっぽどヒマか、よっぽどバカか、よっぽどリスカちゃんが」
「うわあ!どさくさで言うんじゃねーよっ!」
敬太が宇佐見に掴みかかったが、簡単にかわされて後ろから羽交い絞めにされた。
「チャパツくんが慕うティラノさんという小人はね、君をはめたんじゃなくて、たぶん本当に彼女を心配したんだよ。アイツは銀河系の中でも一番オレを信用してないからね」
「ど、どういうことだよ?」
「つまり君が一人で暴走しちゃった、ってこと」
敬太は何とか腕を振りほどいて逃れてきた。
宇佐見はスマートホンを取り出すと、何かを確認した。
そして、菜々美と敬太を見て笑った。
「ごめんね、ウサちゃんお仕事入っちゃったみたい。リスカちゃんともここでお別れだ」
宇佐見は空の弁当箱を菜々美に渡した。
「洗い物は自分ですること」
菜々美は黙って弁当箱を受け取ったが、宇佐見が鞄を持って立ち去ろうとするのを見て慌てて止めた。
「ちょっと待ってよ」
「いや、本当に悪いと思ってるんだ。仕事先がリスカちゃんの家とは逆方向なの。いやいや残念残念。だから帰りは」
敬太を指差してウインクした。
「二人で仲良くね」
宇佐見が勢いよく菜々美の手を引いた。
「痛っ」
抵抗も空しく、菜々美はそのまま見晴台の方へ連れて行かれた。
歩くたびに心地よい風が吹いてくる。
見渡せば、海と新緑が目の前に広がった。
身体が震えた。
日差しは強いのに、風が冷たいせいだろうか。
菜々美はしばらく遠くの景色ばかり眺めていた。
そこへ、後ろから賑やかな声がした。振り返ると、一番最初に出会った二人の高齢女性が登り切ったようだった。
「あぁ、気持ち良い」
二人で肩を叩き合いながら菜々美の前を通り過ぎた。
そして、やはり会釈をされた。
菜々美も慌てて頭を下げる。
「リスカちゃん、こっちへいらっしゃい」
宇佐見に呼ばれて、菜々美は木のベンチに腰を掛けた。
「どうですか?今の気分は?」
わざとらしくマイクを向ける真似をした。
「疲れた」
菜々美の反応に宇佐見がつまらなそうな顔をした。
「それじゃ、質問変えましょう。どうですか?ウサちゃんと遠足に来た気分は?」
「別に」
宇佐見が困ったように笑う。
「せっかく連れて来たのになあ」
「頼んでないもん」
「ここ、二年生の秋の遠足で来るはずだった場所でしょう?」
菜々美は宇佐見を見つめた。
――。
次第に自分の心が汚れていくのがわかった。
「何それ、そういうことだったの」
「ん?どういうことかな」
「とぼけないでよ。私に同情したんでしょ?」
菜々美は宇佐見を睨みつけた。
登校拒否になったのは去年の秋だ。
ちょうど鎌倉遠足の直前だった。
しかし、宇佐見は首をかしげて笑う。
「おかしなことばっかり言うねえ。オレは別にリスカちゃんが鎌倉遠足に行きたがっているから連れてきたわけじゃないし、だいたいメチャクチャ登るのイヤがったじゃん。同情って何さ」
菜々美は何か言い返そうと言葉を探したが、上手く言えそうになかった。
そして、結局ひとこと、
「ウザい」
と小さな声で振り絞った。
「それ口癖?ウサって呼ばれるみたいで、一瞬オレってばドキドキするんだけどさ」
宇佐見が菜々美の鼻をつまんだ。
「何よっ」
手を振り払う。
「私をからかわないでって言ってるでしょ」
「良いねえ、その悔しそうな顔。でも、今の中学生じゃ、この程度なのかなあ。なるほど、思春期の女の子は難しいね」
宇佐見は何か考え込む顔をした。
「でも、可愛いから許しちゃう」
宇佐見は菜々美の頭を撫でた。
わけがわからない。
どうして、この男は関わろうとするのだ。
そして、どうして、自分はこんなに腹が立つのだ。
菜々美は頭の内側から物凄い熱を感じた。
低く、呻いた時。
「切りたくなっちゃった?」
宇佐見が数センチのところまで顔を寄せた。
さっきまでと違い、口元だけに笑みをたたえた真剣な眼差しだった。
「遠慮しなくて良いよ?」
「……指図しないで」
「聞いているだけだよ。人の話は良く聞くもんだ」
宇佐見の表情は変わらない。
――何で、そんな顔するの?
淡い茶色の瞳が微笑んだ。
「切ったら絶対に痛いのに、それと引き換えにでも欲しい何かがあるんだろうね。それがわからないから、みんな辛いのかもね」
菜々美は自分の行動すら説明がつけられない。
切ったら安心する。
生きてるって実感湧く。
でも死にたくなる。
消したくなる。
そしてまた切る。
どうして。
私は――。
菜々美は下を向いた。
食いしばった歯の隙間から、嗚咽が漏れる。
突然、両方の頬に大きな手が添えられた。
「そうそう。少しずつ少しずつ」
何を言っているんだ。
そんな言葉じゃわかるわけがない。
「……ウザいんだよ」
「わかってるよ。ごめんね」
宇佐見はそれ以上は語らず、両手に力を込めた。
ひしゃげた菜々美の顔を見て、異国顔の男が笑った。
「わはは、頬っぺたフワフワだね!超ラブリー」
両手を離して、宇佐見は持ってきた鞄を膝の上に置いた。
菜々美のことなど気にする様子もない。
「何、よ」
「お話は終わりでーす。ウサちゃんはお腹が減りました」
そのあっけらかんとした顔に、菜々美は妙な怒りが湧いた。
「じゃあ、リスカやるから、カッター貸して」
宇佐見は一瞬だけ真顔に戻ったが、すぐに怪しい目で菜々美を見つめた。
「申し遅れましたが、使用料はカッター一つにつき、キス一回です」
「は?」
「さあ、いかがいたします?今のお時間なら、たったキス一回でカッター使いたい放題のチャンス!制限時間は残り五分です。ささ、お急ぎ下さい!」
「バカみたい。それだったら家に帰ってからやるもん」
「残り三十分です」
「増えてるし!もういいってば!」
完全にからかわれている。
本当に腹が立ってきた。
「キス一回も耐えられないなら、カッターへの想いなんて大したことないじゃない」
可愛いなあと宇佐見は微笑んだ。
「もうその話はやめてよ」
「どうしてさ。オレは盛り上がって来たのに」
「いいから、やめて」
「ふっふっふ。これからリスカちゃんはカッターを見るたびに、キスという単語が頭に浮かぶんだ。愉快愉快」
菜々美はショルダーバッグを投げつけようと構えたが、それより先に膝の上へ弁当箱が置かれた。
「続きは、お食事の後でね」
宇佐見が温かいお茶を入れて菜々美に差し出した。
手に取ると、宇佐見は菜々美の頬を軽く叩いた。
「からかってごめんね。沈んだ顔より怒った顔の方がまだ良いと思ったんだ」
その優しい笑みを見ていられなくて、菜々美は弁当に目を落とした。
「これ、ウサちゃんが作ったの?」
宇佐見はおにぎりを口にくわえたまま何か曖昧に答えた。
白い小花模様の包みには、黄色のプラスチックの弁当箱が入っていた。
中を開けてみると、小さなおにぎりが二つと卵焼き、焼き鮭や煮物などが入っていた。
「飾り切りだ」
そのウインナーは、細かく切り刻まれて何かの形を表現しているようだった。
よく見れば黒いゴマがついている。
「目?」
菜々美はもう一つ入っていたウインナーを箸で拾い上げた。
「こっちもかな」
「何だろうねえ。進化する途中のクラゲさんかな。イヤ、よく見ると犬さんかな。ポメラニアンだな」
思わず菜々美は吹き出した。
「下手過ぎるよ」
菜々美は不恰好な作品を食べた。
味は普通に美味しいのだから、こんな細工しなくても良いのに。
「まあ、いっか。リスカちゃんが笑ってくれたらオールOKだ」
その言葉に菜々美はまた意地を張りそうになったが、いちいち態度に出すのも癪に障るので黙っていることにした。
心地よい風が吹く。
足の疲れも癒えてきたようだ。
菜々美が食べている隣で、宇佐見が高々と手を上げて大きく振った。
その先を見ると、誰かが登山口を登ってきたようだった。
「いやあ。感動だね。真の貴公子が登場だ」
フラフラと歩いてくる姿を見て、菜々美は箸を落としそうになった。
「聖川先輩」
葵中学ブラスバンド部の先輩――敬太は膝に手を当てて全身全霊で深呼吸をした。
そして、すぐさま宇佐見に声を荒らげた。
「マジ、何なんだよ!アンタはっ」
そして、菜々美に向き直って苦しそうに言った。
「おい鹿端は大丈夫か?何もされてないか?」
「失礼な貴公子だね。ご覧のとおり、姫様は楽しくランチ中だよ」
そう言いつつも宇佐見は立ち上がり、敬太を座らせた。
「しかし驚いたな。学校をサボってまで来るとはね。せいぜい電話かと思ってたけど」
「どういうことなのウサちゃん」
「ふふ、それはこのチャパツくんに聞くことだ」
菜々美が敬太を見つめると、たいそうバツの悪そうな顔になった。
「ハメられたんだよ。くっそ、怨むぞティラノさん」
「ティラノさん?」
すると、宇佐見が菜々美の頭を撫でながら言った。
「リスカちゃんも会ってるよ。ゲーセンに小さいオジサンがいたでしょう」
菜々美は派手な眼鏡をかけた男を思い出した。
――一体、どういうことなの?
訝しむ菜々美に弁明するかのように、敬太が経緯を語り始めた。
「ティラノさん……っていう、オレが世話になってる人から月曜日にメールが来たんだよ。宇佐見さんが鹿端のことで相談したいらしいから、オレのアドレス教えて良いかって。オッケーしたら宇佐見さんから早速メール来てさ。中学二年の遠足はどこに行ったか聞かれて、鎌倉で源氏山に登るって教えたんだ。けどさ、いきなりそんなこと聞いてくるのって、怪しくね?オレはティラノさんにこのやりとりを相談したんだよ。そうしたらさ……」
敬太は、全身でため息をつくと、宇佐見に指を突き付けた。
「こいつが鹿端とデートするって話をされたんだよ!。ティラノさんの話じゃ、宇佐見さんは女の扱いも上手いし、その気になったら何か色々と心配だって……。あのティラノさんが言うんだから間違いないと思って、オレは慌てて宇佐見さんにメールして、真相を問いただしたんだ。そうしたら」
敬太は上目遣いに宇佐見を睨んだ。
「アンタ、今日の今日までメール返さないってどういうことだよっ!明け方に来たメールが『いざ鎌倉~』ってバカにしているのかよっ」
言い切ると敬太は激しくむせ込み始めた。
微笑みながら宇佐見は水を差し出して言った。
「おかげで鎌倉で待機できたでしょ。ちゃんとその後も連絡したし。だからここまで来れたでしょうに」
「連絡って、これのことだよな」
敬太はポケットからスマートホンを取り出すと、菜々美の前に突きつけた。
画像だ。
そこには、木の下で座り込む菜々美の姿が写し出されていた。
「あっ!」
「かわいそうに、メチャクチャ疲れ果ててるじゃねえかよ。ちくしょう、ふざけやがって。無理矢理登らせたのがバレバレなんだよっ」
菜々美も宇佐見に詰め寄った。
「なに勝手なことしてるのよ!いつの間に撮ったのよっ」
「さっき」
宇佐見は笑いながらそう答えると、敬太に向き直った。
「血気盛んだなあ。貴公子はエレガントじゃなきゃ。君はむしろ野武士だ。御家人だ」
「さっきから意味不明なことばかり言いやがって」
「ん、御家人って習ったでしょ?」
「日本史は苦手なんだよっ!ああもう、こっちはスゲー心配したのに。オレ昨日まで熱出してたんだぜ?」
宇佐見が目を丸くした。
「え、チャパツくん具合悪かったの?」
「そうだよ。何とか熱も下がったから今日は学校行こうと思ってたのにさ。ティラノさんからのメールで鹿端が心配になって……友達に、今日も治らないから休むって嘘ついちまったじゃんかよ!」
宇佐見は一瞬真剣な目を菜々美に向けた。
そして、うんうんと微笑むと敬太に向かって、
「ありがとう」
そう言った。
「バカっ!アンタのために来たんじゃねーよ!」
「リスカちゃんのために来てくれたんだよねえ」
敬太は何か言いかけたところで、急に、
「な、そんなんじゃねえよ」
そっぽを向いた。
それを聞いて、菜々美もようやく話の筋が理解できた。
とにかく敬太は自分を心配してここまで来たのだ。
「あらら、チャパツくん。何でもないわけないでしょう。病み上がりでさ」
「先輩」
菜々美の声に敬太がとっさに振り返り、
「本当、何でもないんだって」
不思議な笑顔を浮かべた。菜々美はその顔を見て、胸が苦しくなった。
「ウサちゃん」
なぜか、宇佐見にすがる気持ちになった。
異国顔の男は楽しそうに笑っている。
「しかし、ここまで……まあ、よく来たもんだね」
宇佐見が菜々美と敬太を交互に見た。
「これはもう、よっぽどヒマか、よっぽどバカか、よっぽどリスカちゃんが」
「うわあ!どさくさで言うんじゃねーよっ!」
敬太が宇佐見に掴みかかったが、簡単にかわされて後ろから羽交い絞めにされた。
「チャパツくんが慕うティラノさんという小人はね、君をはめたんじゃなくて、たぶん本当に彼女を心配したんだよ。アイツは銀河系の中でも一番オレを信用してないからね」
「ど、どういうことだよ?」
「つまり君が一人で暴走しちゃった、ってこと」
敬太は何とか腕を振りほどいて逃れてきた。
宇佐見はスマートホンを取り出すと、何かを確認した。
そして、菜々美と敬太を見て笑った。
「ごめんね、ウサちゃんお仕事入っちゃったみたい。リスカちゃんともここでお別れだ」
宇佐見は空の弁当箱を菜々美に渡した。
「洗い物は自分ですること」
菜々美は黙って弁当箱を受け取ったが、宇佐見が鞄を持って立ち去ろうとするのを見て慌てて止めた。
「ちょっと待ってよ」
「いや、本当に悪いと思ってるんだ。仕事先がリスカちゃんの家とは逆方向なの。いやいや残念残念。だから帰りは」
敬太を指差してウインクした。
「二人で仲良くね」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
月弥総合病院
御月様(旧名 僕君☽☽︎)
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。
また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。
(小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!
俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。
true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。
それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。
これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。
日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。
彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。
※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
※内部進行完結済みです。毎日連載です。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる