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第二章

抱擁の意味

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「なぜ二人は一緒に寝ているのか。」

 太陽が昇ると同時に頭の上からかけられた遠慮のない大声で悟空はとび起きた。海千山千の悟空に悟られずにこれだけ近寄ってくるなど相当の手練れである。

 三蔵を背後に守るようにして悟空は立ちはだかった。それから相手を伺えば何のことはない、顕聖二郎真君であった。

「おい馬鹿野郎っ。語弊があんだろっ。お師匠様に腕を回して隣に寝ていただけだっ。」

「それを一緒に寝ていると言わずして何というのか。」

「珍しく二郎真君の方が道理だな。」

 目を覚ましていた悟浄が呟いたが、悟空の一睨みにすぐ黙り、まだいびきをかいている八戒の身体を揺すった。






「つまり、ついに大聖殿は想いを遂げたと解釈すればよいか。」

「違えよ。この辺は高地で夜は冷えるんだ。それで暖めるために抱きしめて眠っていただけだ。ちゃんとした理由がある。いつもこんなことしてるわけじゃねえ。」

「時候をいえば春告げ鳥が鳴き出す頃。そんなに寒いだろうか。」

 顎に手をあてて、ふむと考え込む二郎真君に悟浄は解説する。

「実を言えばここ三ヶ月ほど、寒さを口実に毎晩兄者はお師匠様を抱きかかえて眠っておる。たしかにここ数週間で徐々に寒さは緩み始めておるがどちらもやめると言い出さないので、既に習慣になっているのやもしれぬ。」

 季節と気候が変わってきているのは悟空も感じていた。しかし、抱擁の機会を失いたくはない。こちらが何も言わずとも寝床を準備すれば三蔵は当然のように悟空の腕の中に入ってくる。悟空の腕を枕にし通常は背を向けて眠るが寝返りの加減で胸にすり寄ってくるときもある。そのえもいわれぬほどの幸福感ときたら。せめてもう一日だけは……と毎夜先延ばししているうちに数週間経っていたのである。

「ふっはっはっはっはっ。大聖殿は役得を手離せぬというわけだな。愉快愉快。しかし、ただ抱きしめて眠るだけの任で満足せねばならんとは不憫なものよ。」

「……うるせえ。」

 悟空は口を尖らせて腕を組んだ。

「暖かさを求めるなら痩せっぽちの大聖殿よりふくよかな天蓬元帥殿の方が適任でないか。」 

「うるっせえな。脂肪は冷たいんだよ、知らねえのか。」

「ふはははは。大聖殿のへらず口は相変わらずだな。」

「……だから朝っぱらから、一体オメーは何をしにきたんだよ。」

 このままではただ悟空をからかいにきただけである。天下の二郎真君ともあろう者がそこまで暇を持て余しているとは考えにくい。 

 やっと八戒は何度も悟浄に揺すられて目を開けた。ちなみに三蔵は誰にも起こされないのでまだすやすやと夢の中である。

「なんだよ、まだ早いだろ……。」

「天蓬元帥殿は寝汚いのだな。」

 くつくつ笑いながらの聞き慣れない低い声に八戒がぼんやり目を開ける。

「う~ん……うわわっ二郎真君殿……。いやっ、あのっ、どうされました。」

「天帝の使いでちょうど天竺に行って参った帰りである。先のビーチバレー大会の優勝賞品の行方を確かめておくのも悪くないと思ってな。」

 二郎真君の言うのは先日開催された第一回天帝杯ビーチバレー大会の件である。優勝賞品である三蔵法師の接吻をかけて各チームがしのぎを削り、紆余曲折あったものの優勝したのは悟空、八戒、悟浄のチーム取経であった。

「眠っている唐僧を接吻で起こしたのだろう?」

「いや……それがさ……。」

 悟空は気まずそうに頭を掻く。

「まさか、あれだけ御膳立てされておったのに、接吻……せなんだのか……?優勝賞品のために、したくもないバレーボールに奮起したというのに?接吻するがよいという天帝と観音の許しまであったのに……?大聖殿……まさかそれほどまでに意気地なしとは思わなんだぞ。」

 信じられないと言いたげに二郎真君は目を丸くする。二郎真君の言い草の一つ一つが鋭い矢のようにぐさぐさと悟空の胸に刺さって、見えない血がどくどく流れる気がする。

「ち……違えよっ。おれはっ別に……。お師匠様の唇が誰かに奪われるのが嫌だっただけで、別におれが絶対接吻したいと思ってたわけじゃねえって、あの時も説明したろ?」

「優勝しただけで別に自身が接吻せずとも、唐僧と誰かが接吻するのを防止するという当面の目的は達成されたということだな。」

「っつ、そうだっ。だからべつに残念だとか……そういうんじゃない。」

「よく言うぜ兄貴。俺の屁でお師匠様を起こしちまったからって俺の事をぶん殴ったじゃないか。」

 八戒が不満を言いがてら二郎真君に告げ口をする。

「はっはっ。なんと唐僧は天蓬元帥の放屁で目を覚ましたのか。これはなんと珍奇なことよの。しかし、やはりせっかくの機会なのだし、大聖殿は唐僧と接吻したかったのだな?そうであろう?」

「したいかしたくないかって言ったら、そりゃもちろんしたいよなあ?」

「うるせえ八戒っ。」

「兄者、素直になるがいい。二郎真君殿は兄者の恋路を心配しておられるのだ。」

「……うるせえ悟浄。もう済んだことなんだからほっとけよ。」

 おとうと弟子たちからの揶揄とも同情ともとれる言葉に噛みつく。あの時接吻を交わさなかったことを一番後悔しているのは悟空本人であるのだから。

 二郎真君は伸びをして言った。

「さて、そろそろ日が昇ったぞ。そろそろ出発せねばならぬのではないか。そうだ、あの時接吻をしておらぬのだから、本日唐僧を起こす際に接吻をすればよい。我ながら良い思いつきだ。」

「はぁ?なんでだよ。何の理由もないのに接吻するのはおかしいだろ。」

「別に好きあっている者同士であれば何の問題もなかろう。」

 平然とした二郎真君の言葉に、悟空の声は思わず裏返った。

「おっ、お師匠様と、お、おれっ、は別に好きあってるとか、そっ、そんなんじゃねー……。」

 兄貴の気持ちがダダ漏れすぎてさすがに可哀相になってきたなあ、と八戒はぼやき、悟浄も頷く。ビーチバレー大会の時から思っていたが悪気のない二郎真君の言葉は正論すぎて、下界の生き物にはやりきれない。人生は一刀両断できるような事柄ばかりで構成されていないのだ、と悟浄は思う。

「では聞くが、好きでもない相手に抱かれて眠りたいと思う人間がこの世にいるだろうか。」

「うっ、……そ、それ……は、おれは人間じゃねえからわからねえよ。」

「確かにきっかけは寒さだったかもしれない。しかし、寒さが理由であるのならば、暖かくなればすぐに断るのでは。もはや抱き合わずとも眠れる気候であるのに、毎晩好きでもない相手の腕の中に自分から入っていくだろうか。」

「うっぐ……。そ、そんなこと……。」

「唐僧は天竺へ向かう修行僧である。清廉潔白な生活をして身を清めるためには恋情は不要だ。あえて自分の想いを口にしていないだけで、本当は大聖殿にも負けず劣らずの熱い想いを抱いているのでは。」

 三蔵への気持ちが師匠への敬愛というだけでなく、身も心も一つになりたいという情愛であると確信したときから、悟空はその想いが成就することなどないと自分に言い聞かせている。抱き合って眠れるだけでそれで充分幸せである。

 しかし、二郎真君の言葉はまるで魅惑の酒のように悟空の心をとろかせた。もしかしたら三蔵も自分のことを想ってくれているのかもしれない、と自分に都合の良い妄想が浮かんでくる。

二郎真君の言葉に心を乱された悟空は、
「やめろやめろやめろー。期待しちまうじゃねえか!」
と耳を塞いで叫んだ。

 その大声に
「ん……。」
 三蔵が目を覚まし、ゆるゆると身体を起こした。

「ん、そこにおられるのは、二郎真君様では。」

「おはよう、唐僧。」

「二郎真君は道中の無事を祈って様子を見に来てくれたらしいですよ。でも、皆元気そうなので安心してもう帰るそうです。な、そうだよな。」

 余計なことを言われては困ると、悟空は二郎真君の肘をつついて帰るようにせっつく。が、そんなことを気にするような二郎真君ではない。

「唐僧よ。そなたは毎晩悟空と隣り合って眠っているそうな。」

 二郎真君の言葉に三蔵は頬を染めて俯いた。

「ええ……、悟空の身体はいつも温かいので……。」

「しかし既に夜の寒さも和らぎつつある。そろそろ大聖殿にぬくめてもらわずとも寝られるのでは。」

(そんなこと言ったら、お師匠様は恥ずかしがって一緒に寝るのをやめちゃうかもしんねーだろっ。)と悟空は内心慌てる。二郎真君の口を塞ぎたいが、残念なことに一分の隙も無い。

「…………そうですね。では、今夜から別々に寝るようにします。」

 三蔵の口ぶりが心なしか残念そうなのを、感情の機微に鋭敏な悟浄だけが気づいた。

「あー、だめだだめだ。まだまだ寒さがぶり返してくるかもしれねえし、季節の変わりめが一番風邪をひきやすい時期なんだ。お師匠様に風邪をひかすわけにはいかねえからな。まだしばらくおれが傍についてないとな。」

 二郎真君を押しのけるようにして悟空が会話を打ち切ろうとした。

「いや唐僧。責めておるわけではない。寒さを紛らせるために抱き合って眠ることくらいで戒律を破ったことにはならぬ。しかし、なぜ大聖殿なのか、なぜ他の弟子とは一緒に寝ないのか。その辺のところをちくっと考えてもよい頃かもしれぬな。」

 三蔵は軽く首を曲げて無邪気に答えた。

「悟空の傍におると安心して眠れるのです。」

「ふははは。なぜ大聖殿の傍は安心して眠れるのだろうか。もう少し大聖殿の胸にすり寄ったり、唐僧からも腕をまわしてみたりすれば己の気持ちがはっきりわかるかもしれんぞ。つまりはな……。」

「はい、終了~。」

 黙っていられなくなった悟空は二郎真君の立っている地面ごと如意金箍棒で吹っ飛ばした。

「また来るぞー。」

 二郎真君は直立姿勢のまま空高く飛んで行った。

「二郎真君様は一体何用だったのじゃ。」

「お師匠様。ただの気まぐれですよ。二郎真君は天界一の自由人ですから。」

 珍しく八戒が助け舟を出し、頼りになる悟浄は本日寝る際の布石を打っておく。

「お師匠様、今は晴れていますが夕方から天気が崩れるようですから、夜はまた冷えるかもしれません。暖かくして眠った方がいいですよ。」

「そうか。では今日も悟空、頼みますよ。」

「はいっ。お師匠様。ぽかぽかになるようしっかりおれの身体で温めます。」

 悟空は張り切って返事をした。





 
 天空をひょおおおと飛んでいく二郎真君は
「思っていたよりも初心な師弟であるものよ。そうだ、この師弟が今度こそ接吻できるように良いものを贈ってやろう。」

と自分の思いつきに喜びながら手を打った。
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