皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる

えくれあ

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12. 絵

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「へ、陛下!?申し訳ありません、いらしているとは思わなくて……」

 慌てふためく重華の様子は、まさに晧月の想像通りで晧月はつい吹き出してしまった。
 突然笑いだした晧月を、重華は不思議そうに見ることしかできないでいる。

「ああ、すまない。気にしないでくれ」

 気にするな、と言われるものの、晧月の笑いは止まる様子はない。
 ただ笑っているのなら、とりあえず怒らせてはいなさそうだと、重華はほっとした。

「蔡嬪様、ちょっと」

 未だ笑いがおさまりきらない様子の晧月を余所に、春燕が重華を手招きする。
 それから、重華の耳元で何か囁くと、重華が驚いたようにパッと春燕から離れた。

「それ、私が言うんですか!?」
「もちろんです。私どもが言うわけには参りませんので」

 にこにことしている春燕とは対象的に、重華は困ったように俯いた。
 その様子に、晧月もさすがに不思議に思い、笑いが止まる。

「どうした?」

 重華にそう問いかけても、恥ずかしそうに俯くだけ。
 ならば、と春燕に目を向けて見ても、はぐらかすような笑顔が返って来るだけ。
 春燕の様子を見る限り、悪いことではなさそうだ、ということしか晧月にも判断はつかなった。

「さぁ、蔡嬪様」

 促すように、そしてどこか急かすように、春燕は重華の背中を軽く叩く。
 重華はしばらく俯いたまま戸惑った表情を浮かべていたが、やがて意を決したように顔をあげた。

「あ、あのっ、陛下はもう夕食をお召し上がりになりましたか?」
「いや、先ほどまで政務を行っていたから、まだだが……」
「わ、私もまだでして、その、よかったら、あの……」

 重華の声は、だんだんと勢いをなくし、徐々に小さくなってしまった。
 晧月がまだ夕食を食べていないのは、春燕の予想通りであった。
 今まで重華の元を訪れられなかったのは、恐らく政務に追われていたから。
 となれば、その後急いでこちらへと向かったはずであるから、ゆっくりと夕食を取るような時間などなかったはずだと思ったのである。
 そして、重華もまた、夕食はまだであった。
 いつもであれば、重華は夕食後に湯浴みをさせてもらっていたけれど、今日は墨で汚れてしまったためいつもより早めに湯浴みをさせてもらっていた。
 だから、春燕は晧月を夕食に誘ってみるように、重華に提案をしてみた。
 重華と夕食を取るとなると、それを準備するのは春燕と雪梅となる。
 晧月にとって警戒する要素はないし、時間も時間であるからすんなりと受け入れられるだろうと思ってのことだった。
 しかしながら、晧月を夕食に誘うという行為は、重華にとってはなかなか難易度が高かったようである。

「夕食をともにしようと誘ってくれているのか?」

 春燕も雪梅も助け船を出すか迷っていたところ、先に動いたのは晧月だった。
 これで話が進みそうだと、春燕と雪梅は顔を見合わせて胸をなでおろす。

「は、はい、その、ご迷惑でなければ……」
「せっかくの誘いだ。断る理由もない。今日はここで世話になるとしよう」
「あ、あの、決して私が用意するのではなく、春燕さんと雪梅さんが準備してくれるのですけれど……」

 言われなくとも晧月はわかっている。
 そして、妃嬪が侍女に準備させたものは、妃嬪が準備したと言ってもさして違いはないものであるが、重華にはそのような考えはないらしい。

「え、あ、それ……っ」

 なんとか、といっても結局晧月から申し出てもらったようなものだけれど、それでも晧月を食事に誘うという課題をやり遂げ、ほっと一息つきかけたところで、重華はようやく晧月が手にしているもの気づき、青ざめた。

「ああ、この絵、そなたが描いたそうだな」
「も、申し訳ございません。文字の練習をするようにご用意いただいたものに、絵なんか描いたりして……」
「安心しろ。別に責めようと思って、持っていたわけではない。ただ、見ていただけだ。言っただろう、品位を損なわない範囲なら、何をしてもよいと」

 重華は怒られる覚悟をしながら慌てて頭を下げたものの、晧月はむしろ重華が驚くくらい穏やかだった。

「絵が描きたいなら、好きなだけ描いてかまわない。絵を描くのは、好きなのか?」
「好き……だと思います、たぶん」

 正直なところ、重華にもよくわかっていない。
 絵を描いたのは、おそらくはじめてだった。
 もしかしたら、幼い頃に描いたかもしれないけれど、重華の記憶には少なくともない。
 ただ、花瓶に生けられた雪中花を見ているうちに、描いてみたい気持ちが湧き上がり気づいたら描いてしまっていたのだ。

「たぶん?好きかどうかもわからないのか、自分のことなのに」
「そ、その、はじめてだったので……」
「はじめて?絵を、描いたのが?」

 晧月の問いに、重華は静かにこくんと頷いた。

「なら、また描いてみたいとは思うか?」

 重華はその問いかけには、すぐに答えられなかった。
 自分がどう思っているのかわからず、しばらく考え込んでいると、ふと晧月と見た庭の景色が浮かんだ。

(あの景色は、描いてみたいかもしれない)

 そんな気持ちが湧き上がってきて、重華はようやく頷いた。

「なら、画材を用意してやろう」
「画材?」
「絵を描くための道具だ。筆と墨だけで描くのもいいが、絵具で色をつけてみるのも楽しめるかもしれないしな」
「いいん、ですか……?」
「ああ。ただ、皇宮にそなたにすぐに渡せるような画材があったか、記憶になくてな。もし無い場合、取り寄せることになるから、少し時間がかかるかもしれんが」
「そ、そこまでしていただく必要は……」
「ああ、そうだったな。そなたは、余りものがいいんだったな」
「えっと、その……」

 重華は別に余りものを好んでいる、というわけではないので晧月の言葉に同意するのは少々憚られた。
 ただ、画材を貰えるというのはとても嬉しいと思ったけれど、自分のためにわざわざ取り寄せてもらうというのは気が引けたのだ。

「なら、こういうのはどうだ?朕はそなたのために、画材を新調してやる」
「え?いえ、あの、だから……」
「その代わり、これをくれないか?」
「え?ええ!?」

 これ、と晧月が示したのは、今もまだ晧月が手にしたままの重華が墨で描いた雪中花の絵だった。
 別に重華が必要としているものではないので渡すことには何の支障もないのだけれど、画材を貰う代わりに渡すにはあまりにも不釣り合いであるし、何かの役に立つとも思えない。
 そう思うと、重華は簡単に了承する気にはなれなかった

 晧月は、重華がわざわざ自身のために用意されたものを、受け取ろうとしないのを身を持って知っている。
 余りものだと言って渡した着物はすぐに受け取った重華だったが、その後妃嬪であれば必要となるだろうからと晧月が準備した髪飾り等の装飾品は受け取ってもらえなかった。
 なぜなら、晧月がついうっかり、皇宮にあるものの中でも選りすぐりのものばかりを用意した、と言ってしまったから。
 それほど良いものであれば、自分よりもっと必要な人に渡してあげて欲しいと真っ直ぐな瞳に見つめられてしまっては、晧月も引き下がるしかなかったのだ。
 結局晧月は改めて選びなおし、誰も使わず眠っていたものだ、と言うことでなんとか別の装飾品を受け取らせた。
 それ以来、晧月は後宮で生活する上で必要となるだろうものを調達しては、余りものだったことを強調してから渡すよう心がけている。

 今回も皇宮に余っている画材を見つけたから、と渡せばそれが新調したものであったとしても、きっと重華は受け取るだろうと晧月は思う。
 けれど、今回に限っては、晧月は重華のために用意したと伝えた上で、重華に受け取ってもらいたいと考えた。
 なぜなら、ようやく重華に興味を持って取り組めそうなものが見つかったと確信しているから。
 それならば、自分のために用意された画材である方が、より絵を描くことが楽しめるような気がしたのだ。
 そこで、交換という形でなら、了承を得られるのではないかと思っての提案だった。
 だが、すんなりと頷く様子のない重華を見て、晧月は思いのほか自分が落ち込んでいることに気づく。

(ああ、俺はただ、これが欲しかっただけなのかもしれない)

 重華が描いた雪中花の絵を、手放したくはなかった。
 そして、画材を与えることで、重華が描く他の絵も見てみたかったのだ。

「これを渡すのは、嫌か?」
「いえ、決して嫌というわけでは……ただ、その、ちゃんとしたものではないですし……」

 絵が欲しいのであれば、文字を書いている合間につい書いてしまったような重華の絵より、ちゃんとした名のある絵描きに描かせた絵の方がよいのではないかと思う。
 皇帝が望めば、描いてくれる絵師など、いくらでもいるだろう。

「朕は、これが気に入った。これがいいのだ」
「へ、陛下が、それでよろしいのであれば……」
「そうか、ありがとう」

 お礼を言うのは、こんな絵1つで画材を新調してもらえる重華の方なのでは、と思うものの、晧月があまりに嬉しそうに笑うので重華はそれ以上何も言えず、ただ恥ずかしそうに俯くだけだった。





 今日はなんだか試練続きかもしれない。
 先ほどまでの笑顔から一転、晧月からの厳しい視線を受けて重華は心の中でそう呟いた。

『陛下はまだお夕食を召し上がられていないはずです。蔡嬪様もちょうどこれからですし、お誘いしてはいかがでしょう?』

 そう提案してきたのは、春燕だった。
 晧月も夕食がまだなのであれば、お腹を空かせているかもしれない、そんな思いもあって重華は勇気を出して晧月を誘った。
 結局、重華から誘ったのか、晧月からなのか、わからないような結果にはなってしまったけれど。
 ひょっとするとあの時、断るべきだったのかもしれない。
 そんな考えすら浮かんでしまうほど、重華は目の前の状況に困惑していた。
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