皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる

えくれあ

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92. 沈静

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 言いたいことを好き放題言って、満足したのかもしれない。
 鈴麗は晧月が衛兵を使って追い出すまでもなく、自身の足で早々に立ち去った。
 何事もなかったかのように返してしまったことを、晧月は多少後悔しつつもとりあえず鈴麗が居なくなったことにはほっとした、そんな時だった。

「重華!?」

 晧月の腕の中にいたはずの重華が、がくんと膝から崩れ落ちてしまった。

(過呼吸、か!?)

 背中を丸め、必死に息を吸い込もうとする重華の姿は、見覚えがあった。
 以前、過呼吸を起こした時と同じだと、晧月はすぐに察した。

「春燕、すぐに柳太医を呼んで来い!」
「だ、だいじょ……」

 雪の積もる寒い中、春燕を走らせるのも、柳太医にここまで来てもらうのも、非常に申し訳ないと重華は思った。
 晧月が気づいたのと同様に、重華も今の苦しさがかつて経験したものだというのはわかった。
 その時に、死に至るような大きな病ではない、と教えてもらったのだ。
 今は苦しくとも、少し待てば、きっと落ち着くだろう。
 だから、無理に寒い中、柳太医を呼びに行ってもらう必要などない。
 重華はそう思って、震える手で晧月の着物に触れた。
 本当は止める意味を込めて強く掴むつもりだったけれど、残念ながら手に上手く力が入らすそれは上手くいかなかった。

「こんな時に、余計なことは考えなくていい」

 晧月には、重華の意図がしっかりと伝わっていた。
 伝わってしまったからこそ、晧月の語気も強くなってしまう。

(確か、落ち着かせてやるのが、いいんだったな)

 かつて、重華が過呼吸を起こした際に呼び寄せた太医は、残念ながら簡単に病状を口外するような信頼できない人物であった。
 だが、皇宮で働く太医である、医師としての腕だけならば、信頼できる。
 晧月は前回その太医が言っていたを思い起こしながら、上手く呼吸ができず苦しそうな重華をそっと自身の方へと抱き寄せた。

「大丈夫だ」

 声に焦りや動揺の色が出ないように、努めて落ち着いた声になるよう意識しながら声をかける。

「おまえが不安に思うようなことは、何も起きない。だから、落ち着いて、ゆっくり息をするんだ」

 重華が少しでも安心できるように、気持ちを落ち着かせられるように、晧月は重華の背を優しく撫でながら何度も何度も声をかけた。



 どれほど時間が経っただろう。
 晧月には非常に長く感じられたが、まだ柳太医が来ていないところをみるとそれほど時間が経っていないのかもしれない。
 優しく抱き寄せられたのがよかったのか、それとも優しく声をかけられ続けられたのがよかったのか、重華の呼吸は少しずつ落ち着きをみせはじめた。

「はぁ、はぁ……」

 重華は肩を何度も上下させながら、荒い呼吸を繰り返した後、晧月の腕の中でくったりと力を失った。
 晧月は意識を失ったのかと、慌てて重華を覗き込んだが、意識はあるようで安堵する。

「重華……?」
「ご、め……っ」

 完全に晧月に凭れ掛かった状態になってしまい、すぐに離れなければと思うけれど、呼吸をするだけで全ての力を使い切ってしまったかのように、重華は動くことができなかった。

「よく、がんばったな。大丈夫だから、そのまま、じっとしていろ」

 そう言うと、晧月は苦しさからか、重華の目尻に溜まっていた涙を拭ってやる。

「横になっていた方が楽だろう。少し、動くぞ」

 なるべく重華を驚かせないよう、刺激しないよう、細心の注意を払いながら、晧月は重華を寝室へと運んだ。



 その後、訪れた柳太医によって、重華には鍼治療が施された。
 さらに心を落ち着かせる効果のある薬湯を処方され、部屋には心を落ち着ける香が焚かれた。
 それらの効果が出たのか、一時は真っ青だった顔色も幾分かましになったようだと晧月は思った。

「話ができそうなら、何が不安なのか、教えてくれないか?」

 過呼吸が起きたということは、おそらく何かに不安を感じているのだろう。
 そして、それを解決しなければ、また重華は発作を起こしてしまうかもしれない。
 できることなら、三度目はもう見たくはない。
 晧月はそんな思いから、言葉が強くならないように気をつけつつ、重華に問いかけた。
 重華はしばし迷っていたようだったけれど、晧月がただ黙って根気強く重華が話すのを待っていると、ようやく口を開いた。

「陛下は、その……鈴麗を見て、どう、思いましたか……?」
「どう、と言われても……そう、だな……鼠が入り込んだようだ、くらいしか……」

 重華の質問の意図が読めないと思いつつも、晧月はとりあえず答えを返す。

「鼠、ですか……?」
「ああ」
「陛下は、鼠が、お好きなんですか?」
「はぁ!?そんなわけ、ないだろう」

 思いもよらない一言に、つい声が大きくなってしまった。
 びくりと重華が肩を揺らしたのが見えて、晧月はこほんと咳払いし、それ以上は声が大きくなってしまわないよう自身を落ち着かせた。

「えっと、じゃあ、他には、何か……」
「他……?」

 やはり意図が読めない、と思いながら晧月はしばし思案した。
 そして、ふとあることに思い至り、ああ、と声をあげる。

「安心しろ。ここの警備は、今よりも厳重にさせるつもりだ。心配せずとも、二度目はない」

 丞相に入り込まれて以降、警備は強化したはずだった。
 それなのに、小娘に入り込まれるとは、と晧月は衛兵に対して怒りを覚えていた。
 すぐさま人を変えるつもりでいるし、当然人数も増やすつもりではいる。
 戒めの意味を込めて罰も与えるつもりなので、決して同じことが起きないだろうと思っている。
 二度目がなければ、重華も安心できるだろうと思ったが、どうやら重華の求めているものとは違っているようだった。

「それだけ、ですか……?」
「警備を厳重にするだけでは、不安か?他に何か、して欲しいことがあるのか?」

 他にすべきことを、晧月は思い至っていなかった。
 しかし、重華には何か考えがあるのかもしれない、そう思って問いかけてみたが、どうやらそうではないようだった。

「いえ、その、あの……鈴麗は、その、綺麗、だから……」
「綺麗……?」
「美しいって、思いませんでしたか?」
「いや……」

 正直なところ、容姿の印象はもはや晧月の記憶にはほとんど残っていなかった。
 だが、少なくとも綺麗だとか、美しいという感情を抱いた瞬間は一瞬たりともなかったことだけは断言できる。
 あるのは、生意気で憎たらしい子どもだった、という印象のみである。

「で、でも、皆、鈴麗の方がいいって……皆、鈴麗を好きになるんです……」

 晧月はため息をつくと、自身の座る重華の寝台の傍にある椅子からゆっくりと立ち上がった。
 怒られるのではないかと不安になり、重華は思わずぎゅっと目を閉じた。
 だが、寝台が少し揺れた以外は、何も起きなくて重華はおそるおそる目をあける。
 すると、晧月が寝台に腰を掛けていて、先ほどよりも近くなった距離に重華は鼓動が早くなるのを感じる。

「へい、か……?」

 おそるおそる呼びかけると、優しい手が重華の髪を払い、頭を撫でていった。

「確か、家から出たことがなかったんだったな」
「はい……」
「なら、皆というのは、丞相の家の使用人たちだろう?」
「はい……」

 重華は父である丞相とその家族を除けば、あとは家で働く使用人たちくらいしか出会う人などいなかった。

「俺も詳しく知っているわけではないが……」

 あくまで、志明が調べた内容しか晧月は知らない。
 といっても、志明のことは信頼しているので、ほぼ事実と相違ないだろうと確信しているけれど。

「丞相はおまえの妹だけをかわいがり、おまえのことは使用人のように扱ったのだろう?」

 重華は無言で、ただこくりと頷いた。
 正確には使用人以下の扱いである。
 重華も晧月もそう思ったけれど、どちらもそれを口にすることはなかった。

「使用人たちの主は丞相だ。ならば、丞相がそう振る舞っている中で、おまえを優遇したりかわいがったりするような使用人がいるはずがない」

 皆、丞相に雇われ、丞相に従う立場にある者たちだ。
 丞相の怒りを買うかもしれないというのに、丞相が虐げている娘の方に目を向けかわいがるなんてこと、できるはずもないのだ。

「で、でも、他にも……っ、私は知らないですが、近所に住む男の子が、女の子の中で鈴麗にだけ優しいって……」
「ふむ……さすがに俺はそいつを知っているわけではないから、憶測にはなるが、おそらく近所に居たのなら、おまえの妹が丞相の娘だと知っていたんじゃないか?」

 重華は会ったこともなく、たまに鈴麗の話に出てくるのが遠くから少し聞こえた程度である。
 だから、実際にそうだったかまで確かめる術はない。
 でも、そうだったかもしれない、とは思った。
 なぜなら、鈴麗よりも年上だと聞いていたし、何よりその地域では一二を争うほど頭がいいとも聞いたから。

「もしそうだとしたら、権力者の娘だから、と媚びを売った可能性もある」

 晧月の周辺でもよくある、そう珍しくもないことだった。
 同じ丞相の娘といえど、重華には残念ながら経験はないだろうと思うけれど。

「権力者の家族に甘い顔をして、どうにか近づこうとするものは、どこにでもいるものだ」
「陛下も……?陛下にも、そんなご経験が……?」
「今、俺のことはいい」

 問えば晧月はばつが悪そうに、目を逸らした。
 その仕草と返答が、何よりの答えだと重華は思った。

(きっと、陛下も……)

 丞相の娘である鈴麗に対してでさえ、そのようなことが起こりえるのだとしたら、皇帝の長子で次期皇帝と期待されていた幼い頃の晧月に、起こりえないはずがない。
 きっと、自身の経験があったからこその言葉なのだ、と重華は思った。

「だが、俺は、丞相に媚びへつらう必要も、従う必要もない」

 そう言うと、晧月は優しい笑みを重華に向けた。
 重華を安心させ、落ち着かせてくれるような、そんな柔らかな笑みだった。

「だから、はっきり言える。これまでも、これから先もずっと、俺の一番はおまえだ。だから、何も心配はいらない」

 それは今、重華が最も欲しい言葉であり、そして最も重華を安心させてくれる言葉だった。
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