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第29話「禍津日神」第一部・完
◆
西新宿の摩天楼の中でもひときわ異彩を放つ双塔。
東京都庁。
地上243.4メートルを誇るその威容は、首都東京の権威と繁栄の象徴である。
しかしその本当の貌(かお)は、天に伸びる高さではなく、地へと深く穿たれた奈落の底にこそあった。
第一本庁舎の特別エレベーターが音もなく下降を始める。
通常は決して使われることのない地下最深部へと続くシャフトだ。
乗り込んでいるのはわずかに二人だけだった。
現東京都知事、大泉 真理子。
そして高野グループから派遣された一人の高僧。
エレベーター内の空気は、冷たく、重い。
真理子は強張る表情を隠そうともせず、ただデジタル表示の数字が減っていくのを黙って見つめていた。
政治家として幾多の修羅場を乗り越えてきた女傑も、この場所を訪れる時の緊張だけは何度経験しても慣れることがなかった。
それとは対照的に、隣に立つ高僧は静かだった。
薄茶色の法衣に身を包み、閉じた瞼の奥で何を思うのか、その表情からは一切の感情が読み取れない。
やがて、重い駆動音と共にエレベーターが停止した。
開いた扉の向こうは、殺風景なコンクリートの通路がどこまでも続いている。
この通路もそしてこの先に待つ区画も、公式な設計図には存在しない。
この巨大建築物を施工したのは大和建設、神宮寺組、八洲工務店などからなる共同事業体である。
表向きは日本を代表するゼネコン。
しかしその実態は、関東一円の呪術大家や退魔の名門が国家の要請に応えるために組織した特殊なフロント企業に他ならない。
都庁そのものがこの地に巣食う強大な“何か”を抑え込むための、国家規模の呪具として設計されたという事実。
それを知る者は、この国の中枢においてもほんの一握りしか存在しない。
真理子もまた、知事に就任して初めてその事実を知らされた一人だった。
やがて通路の突き当たりに巨大な金属製の扉が現れる。
銀行の金庫室を思わせる重厚な円形の扉だ。
真理子が近寄り、各種の認証を済ませる。
すると地響きのような音と共に、分厚い扉がゆっくりと内側へスライドしていく。
◆
扉の向こうは広大な空洞だった。
ドーム状の天井は遥か高く、照明はその全貌を照らしきれていない。
中央に鎮座するのは、黒曜石を削り出したかのような巨大な岩。
岩には幾重にも太い注連縄が巻かれ、無数の護符が隙間なく貼られている。
それは古の神を封じるための磐座(いわくら)そのものだった。
この下に、“それ”はいる。
万物の禍事、災厄、不浄を司る神性。
日本神話に語られる禍津日神が眠っている。
高僧は磐座へと歩み寄り、その前に座して深く頭を垂れた。
懐から取り出した数珠を手に、静かに目を閉じる。
真理子は息を殺してその様子を見守るしかなかった。
高僧の周囲の空気が、わずかに揺らぐ。
霊的な“眼”で封印の状態を検分しているのだ。
霊気の流れ、術式のほころび、そして何より、封じられた“それ”の気配。
形あるものはいずれ朽ちて行く。
かつてこの地の支配者は、あの手この手で“それ”を封じ続けてきた。
この地に“それ”が在ると認識された古代、人々はただ小さな社を建てて荒ぶる神として鎮めることしかできなかった。
江戸の世になり、人口の増加が“それ”の力を増した時、幕府は寺社仏閣を巧みに配置して都市規模の巨大な結界でその力を削いだ。
そして近代。
その役目を引き継いだのは、かつてこの地にあった淀橋浄水場である。
表向きは近代的なインフラ施設でありながら、その実、絶え間なく流れる清浄な水で穢れを洗い流し続ける浄化装置であった。
だがその水の封印も、戦後の再開発と共に失われた。
蓋を失った災厄が再び地上に溢れ出すのを防ぐため、最後の手段として計画されたのがこの東京都庁舎そのものを巨大な“杭”として打ち込む、前代未聞の封印計画である。
だが建立から数十年。
封印は僅かずつではあるが、確実に摩耗し、劣化を続けている。
もちろんそれは霊異対策本部をはじめとする関係各所も把握しており、日夜、封印の保全と補修に努めてきた。
だが、補修が“それ”の力の侵食に追いついているかは誰にも断言できない。
だからこそ、こうして定期的に高野グループのような専門家中の専門家を招き、検分を行っているのだ。
長い、長い沈黙。
真理子の額に冷たい汗が一筋流れた。
やがて高僧がゆっくりと目を開き、立ち上がる。
そして真理子の方へと向き直って──
「問題ありません」
と、そう告げた。
その一言に真理子は強張っていた肩の力が抜けるのを感じた。
「霊気の流れに淀みはなく、術式も正常に機能しております」
高僧は続ける。
「封印は盤石。深く眠っておられるご様子です」
「そうですか……」
真理子は安堵の息を深く吐いた。
「ありがとうございます。導師のお言葉で安心いたしました」
高僧は静かに頷き、磐座に再び一礼した。
◆
誰の眼にも触れぬ磐座の芯で、じくり、と黒い雫が生まれた。
雫は瘴気となり、岩の極微の亀裂を伝う。
それは霊異対策本部が誇る最新鋭の霊子センサーが捉える霊波とは異質であった。
高僧の研ぎ澄まされた霊的感覚すら、まるで油の上を水が滑るように受け流してしまう。
コンクリートを染み、鉄骨を這い、無数の配管を通り抜けて、ゆっくりと、しかし確実に地上を目指す。
やがて新宿の喧騒の中へと溶け出した瘴気は、大気に霧散することはなかった。
見えざる川となって都市の血管を流れ始める。
人々の足元を、アスファルトの下を、地下鉄のトンネルに沿い、古い暗渠をなぞり、忘れられた龍脈の残滓を辿って。
誰にも知覚されることなく──東京の隅々へと広がっていく。
穢れの拡散。
それは無作為ではなかった。
流れには明らかな指向性がある。
なぜか特定の方角へ、そしていくつかの特定の地点へと集中的に、より濃く注ぎ込まれていく。
(第一部、了)
西新宿の摩天楼の中でもひときわ異彩を放つ双塔。
東京都庁。
地上243.4メートルを誇るその威容は、首都東京の権威と繁栄の象徴である。
しかしその本当の貌(かお)は、天に伸びる高さではなく、地へと深く穿たれた奈落の底にこそあった。
第一本庁舎の特別エレベーターが音もなく下降を始める。
通常は決して使われることのない地下最深部へと続くシャフトだ。
乗り込んでいるのはわずかに二人だけだった。
現東京都知事、大泉 真理子。
そして高野グループから派遣された一人の高僧。
エレベーター内の空気は、冷たく、重い。
真理子は強張る表情を隠そうともせず、ただデジタル表示の数字が減っていくのを黙って見つめていた。
政治家として幾多の修羅場を乗り越えてきた女傑も、この場所を訪れる時の緊張だけは何度経験しても慣れることがなかった。
それとは対照的に、隣に立つ高僧は静かだった。
薄茶色の法衣に身を包み、閉じた瞼の奥で何を思うのか、その表情からは一切の感情が読み取れない。
やがて、重い駆動音と共にエレベーターが停止した。
開いた扉の向こうは、殺風景なコンクリートの通路がどこまでも続いている。
この通路もそしてこの先に待つ区画も、公式な設計図には存在しない。
この巨大建築物を施工したのは大和建設、神宮寺組、八洲工務店などからなる共同事業体である。
表向きは日本を代表するゼネコン。
しかしその実態は、関東一円の呪術大家や退魔の名門が国家の要請に応えるために組織した特殊なフロント企業に他ならない。
都庁そのものがこの地に巣食う強大な“何か”を抑え込むための、国家規模の呪具として設計されたという事実。
それを知る者は、この国の中枢においてもほんの一握りしか存在しない。
真理子もまた、知事に就任して初めてその事実を知らされた一人だった。
やがて通路の突き当たりに巨大な金属製の扉が現れる。
銀行の金庫室を思わせる重厚な円形の扉だ。
真理子が近寄り、各種の認証を済ませる。
すると地響きのような音と共に、分厚い扉がゆっくりと内側へスライドしていく。
◆
扉の向こうは広大な空洞だった。
ドーム状の天井は遥か高く、照明はその全貌を照らしきれていない。
中央に鎮座するのは、黒曜石を削り出したかのような巨大な岩。
岩には幾重にも太い注連縄が巻かれ、無数の護符が隙間なく貼られている。
それは古の神を封じるための磐座(いわくら)そのものだった。
この下に、“それ”はいる。
万物の禍事、災厄、不浄を司る神性。
日本神話に語られる禍津日神が眠っている。
高僧は磐座へと歩み寄り、その前に座して深く頭を垂れた。
懐から取り出した数珠を手に、静かに目を閉じる。
真理子は息を殺してその様子を見守るしかなかった。
高僧の周囲の空気が、わずかに揺らぐ。
霊的な“眼”で封印の状態を検分しているのだ。
霊気の流れ、術式のほころび、そして何より、封じられた“それ”の気配。
形あるものはいずれ朽ちて行く。
かつてこの地の支配者は、あの手この手で“それ”を封じ続けてきた。
この地に“それ”が在ると認識された古代、人々はただ小さな社を建てて荒ぶる神として鎮めることしかできなかった。
江戸の世になり、人口の増加が“それ”の力を増した時、幕府は寺社仏閣を巧みに配置して都市規模の巨大な結界でその力を削いだ。
そして近代。
その役目を引き継いだのは、かつてこの地にあった淀橋浄水場である。
表向きは近代的なインフラ施設でありながら、その実、絶え間なく流れる清浄な水で穢れを洗い流し続ける浄化装置であった。
だがその水の封印も、戦後の再開発と共に失われた。
蓋を失った災厄が再び地上に溢れ出すのを防ぐため、最後の手段として計画されたのがこの東京都庁舎そのものを巨大な“杭”として打ち込む、前代未聞の封印計画である。
だが建立から数十年。
封印は僅かずつではあるが、確実に摩耗し、劣化を続けている。
もちろんそれは霊異対策本部をはじめとする関係各所も把握しており、日夜、封印の保全と補修に努めてきた。
だが、補修が“それ”の力の侵食に追いついているかは誰にも断言できない。
だからこそ、こうして定期的に高野グループのような専門家中の専門家を招き、検分を行っているのだ。
長い、長い沈黙。
真理子の額に冷たい汗が一筋流れた。
やがて高僧がゆっくりと目を開き、立ち上がる。
そして真理子の方へと向き直って──
「問題ありません」
と、そう告げた。
その一言に真理子は強張っていた肩の力が抜けるのを感じた。
「霊気の流れに淀みはなく、術式も正常に機能しております」
高僧は続ける。
「封印は盤石。深く眠っておられるご様子です」
「そうですか……」
真理子は安堵の息を深く吐いた。
「ありがとうございます。導師のお言葉で安心いたしました」
高僧は静かに頷き、磐座に再び一礼した。
◆
誰の眼にも触れぬ磐座の芯で、じくり、と黒い雫が生まれた。
雫は瘴気となり、岩の極微の亀裂を伝う。
それは霊異対策本部が誇る最新鋭の霊子センサーが捉える霊波とは異質であった。
高僧の研ぎ澄まされた霊的感覚すら、まるで油の上を水が滑るように受け流してしまう。
コンクリートを染み、鉄骨を這い、無数の配管を通り抜けて、ゆっくりと、しかし確実に地上を目指す。
やがて新宿の喧騒の中へと溶け出した瘴気は、大気に霧散することはなかった。
見えざる川となって都市の血管を流れ始める。
人々の足元を、アスファルトの下を、地下鉄のトンネルに沿い、古い暗渠をなぞり、忘れられた龍脈の残滓を辿って。
誰にも知覚されることなく──東京の隅々へと広がっていく。
穢れの拡散。
それは無作為ではなかった。
流れには明らかな指向性がある。
なぜか特定の方角へ、そしていくつかの特定の地点へと集中的に、より濃く注ぎ込まれていく。
(第一部、了)
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