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[-00:21:11]青以上、春未満
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しおりを挟む纏の元に透花から連絡が入ったのは、7月27日、朝8時40分のことである。
MV賞締め切りまで残り、約15時間。
「はっ、はあああああああああああああ!?」
纏は大声大会にも負けず劣らず全力の腹式呼吸で、電話口の相手である透花に叫んだ。
「『ITSUKA』のロゴ差し替えしたいぃいいい!? まじ働き過ぎて頭おかしくなったの透花!? いや、無理無理無理無理ぜえええったい無理!! つか透花まだ終わってないカットがあるじゃん、そこまでして変更する必要ないでしょ!!」
『どうしても、どうしても、変えたいの!! あげてないカットはちゃんと間に合わせる! 纏くんっ、一生のお願い!』
電話越しからでも分かる透花の迫真の声音に、纏はぐっと喉を詰まらせる。
思考が沸点を超えそうだった。ここでロゴを変えたところでMVに大きな影響があるわけでもない。なにせ、動画の最後にクレジットとして映し出されるだけだからだ。まして残り時間は15時間。動画はまだ未完成。残すカットがサビのフルカラー部分であること。普通に考えて、ここは透花の意見を無視してでも動画を完成させ締め切りに間に合わせることが最優先だ。……だと、言うのに。
纏は頭をぐちゃぐちゃに掻きまわして、「ああ、もう!!」と、腹に溜まった鬱憤を吐き出すように声を荒らげた。
いくらか冷静を取り戻した纏は、大きくため息をついた。放り出していたスマホを耳に押し当てる。
「……分かった。今日の22時まで待つ。それ以上は待てないからね」
『ま、纏くん……!』
「あーもう泣きそうになってる暇あったら、早く作業に取り掛かれ創作バカ」
『うん、うんっ。わがまま聞いてくれてありがとう! 纏くんほんとに大好き!』
ぷつっと一方的に通話が切られた。
取り残された纏はしばらくスマホを凝視したまま、放心し、意識を取り戻すと同時に熱くなっていく頬に手を当てた。冷たい手のひらがじんわりと頬の体温に馴染んでいく。
「……時々、僕の気持ち分かってて言ってんのかと思うよ、ほんと」
プロデューサーとしては失格だな、と纏は苦笑いする。
*
慰労会用のお菓子とジュースを近所のスーパーでたんまりと買い込んだ佐都子と律が、『アリスの家』に着くころには太陽は鳴りを潜めて、すっかり夜も更けていた。
時刻は21時45分。
纏のスケジュール通り、最終チェックが行われる予定時刻である。
「……なんだって?」
まだ聞き間違いの可能性がある、むしろそうであってくれと心の底から願いながら佐都子は問うた。数秒前に爆弾発言をしたはずの纏は、憎たらしいほどいつもと変わらない顔つきで繰り返す。
「───MVはまだ、完成してない」
「いやいやいやいやいや、何で!? 完成予定20時でしょ!? 今21時半過ぎよ!? 完成してないって何!?」
纏の肩に掴み掛かった佐都子は、纏を激しく前後に揺さぶる。
「あーもう! だからっ、今朝、透花から連絡があったの!! どうしても、『ITSUKA』のロゴを差し替えたいってね! 今日の22時までに完成させるからって! 分かったら離せ!」
苛立ちが隠しきれていない纏が乱暴に叫んだ。
佐都子の影に隠れていた律は、纏の言葉にただひとり声を呑む。あの夜の律を見つめる見開いたあの青い双眸を思い出さずいられない。間違いなく、透花の行動に律が関係していることは明白だった。けれど、それがどうしてロゴを差し替えに繋がるのか、思い当たるところは何一つない。
突き刺すような視線を感じて、律は顔を上げた。佐都子の背中越しに纏がじっと見ていた。心の中まで見透かすような強い眼差しだ。
視線が絡み合っていたのは1秒にも満たないほんの一瞬。先に逸らしたのは纏の方だった。まるで、お前のせいかよ、と律をあげつらうような舌打ちをして。
「……ともかく、あと15分でロゴが来なかったら、差し替えはなしで最終チェックに入るから。締め切りには絶対に間に合わせる」
そう吐き捨て、くるりと踵を返した纏は、机に置かれたPCの前に戻った。
誰も一言も口を開くことなく、ただひたすらに透花からの連絡を固唾を呑んで待ち続ける。
21時45分、まだ連絡は来ない。
21時52分、まだ連絡は来ない。
21時57分、まだ、連絡は来ない。
21時59分、残り、40秒、30秒、20秒、10、9、8、7、6───ぴろん、と纏のPCから通知音が鳴る。皆一斉にPCの画面に顔を近づける。纏が素早くその通知をクリックすると、一枚のPNGファイルが表示される。
───ああ。これは、透花からの返答だ。そのファイルを見た瞬間に律は理解する。あの夜、打ち明けた律のどうしようもなく、くだらない我儘に対する返答。
真夜中を思わせる深い青さが、直視するには鮮やかすぎて、律は堪えるように目を閉じた。
*
描く。
描いて、描いて、描いて、ひたすらに描く。
指先の感覚がすでに麻痺していた。握りしめたペン先が己の指先と同化しているような気さえしていた。それでも、描く。描くことだけは絶対に止めない。描き続ける。
───残り時間、あと15分。
焦りと不安で納得できるいい線が描けない。何度も、何度も何度も描いては消し描いては消しを繰り返す。じっとりと冷たい汗が頬のラインを沿ってぽたりと、タブレットに落ちる。
───残り時間、あと8分。
繋ぎ合わさっていなかった線から色がはみ出る。苛立ちで頭がどうにかなりそうになるのをぐっと堪え、もう一度線を繋ぐ。
───残り時間、あと3分。
その線にのせる色だけは初めから決めていた。それ以外は有り得なかった。真夜中を思い出させる暗く紫がかったその青で、塗り潰す。息をすることさえ忘れ、ただひたすらに透花は描く。
───残り時間、あと20秒。
画像に変換したそのファイルを『ITSUKA』で共有しているクラウドに移行する。画像が重くて、全くダウンロードが進まない。もう時間がないというのに。焦りが先行して眩暈がした。そしてようやく、ゲージが100%になった瞬間、透花はすでに手元に準備していたスマホから纏に電話を掛けた。
コールが2回なった後、「もしもし」と発する纏の声を遮って、透花は声を上げる。
「───今クラウドに上げた! すぐ確認して!」
『22時、5秒前。……よくやるよ、ほんと』
電話口で纏が呆れ半分に笑う。誰に頼まれたわけでもないのに、と続けたかったのだろうと透花だけは察した。
『今来たデータ即編集して、最終チェックするからすぐにうちに来て』
「分かった!」
透花はイスにかかっていた薄手のパーカーを手に、大急ぎで家を飛び出す。
中途半端に履いたサンダルがすっぽ抜けて、正面から転がりそうになるのを何とか食い止め、足を踏ん張ってさらにスピードを上げる。肩にかかり切っていないパーカーの裾が邪魔くさい。ぐしゃぐしゃの髪の毛が夜風に靡く。
何度も往復しているはずの何でもない道のりが、何にも代えがたく特別輝いて見えた。
不安もある。怖さもある。後悔もある。
けれど今はそんなことはどうでもいい。駆けだした足は、もう止まれないから。あとはもう世界の終わりまで走るしかない。
透花は、夏の夜を駆けていく。
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