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第9話 好き
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エリナが王家の紋入りの金貨を支払った――その話をレインから聞いて以来、彼女が私に向ける熱は、ますます激しくなっていった。
どうやってグレイハート家と折り合いをつけているのかは分からないが、『ルクレール』に来る頻度はほぼ毎日になり、開店と同時にホールに現れる。そして、私を呼ぶために惜しみなくシャンパンを入れる――。
「今日もあなたに会えて幸せよ、クロード」
シャンデリアの白い光に照らされたエリナは、細いグラスを手に笑う。その面影に、『ルクレール』に初めて来たときの弱々しさは一切感じられなかった。
おそらく、まともじゃない方法で金を作って、ここに通ってきている。なのにエリナは、いつも上機嫌で、どこか軽やかだった。
すべてを覚悟した人間だけが持つ、あの透き通った清々しさ。それをまとった彼女は、誰よりも自由に見えた。
灰色の大きな瞳が、私だけを真っ直ぐに映している。ただ、私だけを。
――その眼差しの強烈さに、時折、焼かれそうになる。
反射的に顔を背けそうになるが、それは良くない。私は彼女が好きな、親し気な表情を浮かべ、彼女とグラスを合わせる。
「私も……代え難い君に会えて、きっと幸せだよ」
「きっと? とても幸せ、じゃないの?」
クロードを演じてしばらく。もう癖になってしまった、余白を残す曖昧な話し方。その隙間にエリナの無邪気な笑顔が入り込んでくる。
「……幸せというのが何か、君の前だとたまに……分からなくなる」
* * *
しかし、それからほどなく、エリナの遊び方は急に『綺麗』になった。
シャーロットに無理に張り合って私を卓に呼び戻すことはなくなり、『ルクレール』に通う頻度も週に1、2度ほどに戻った。
金策が上手くいかなくなったのだろうか。レインとそのようにバックヤードで囁いていた日……エリナは『ルクレール』に現れた。
たまたまその日はシャーロットがおらず、エリナの到着と共に私は彼女の卓を訪れた。卓へ向かう途中、遠くから彼女の姿を見かけて……目を見張った。
エリナは、白布に落ちた一点の血のように鮮やかな、僅かに青みを帯びた深紅のドレスを身に纏っていた。胸元や肩口は大胆に開き、髪にも同じ色の大ぶりな飾りを着けている。
今まで彼女は、淑女に受け入れられやすそうな、地味な装いしかしていなかった。けれど、今日の装いはまるで正反対だ。若さを謳歌するような、見る人によっては顔を顰めそうな主張の強さ。娼婦のようだと揶揄されるかもしれない。
けれど、その潔くも艶やかな姿は――笑ってしまいそうなくらい、エリナらしかった。
「今日もご来店いただきありがとうございます。……あんまり素敵で驚いた」
「いいでしょう? ずっとこういうのを着てみたかったの」
挨拶すると、エリナは「どう?」とでも言いたげに、胸を張ってみせた。
「座っても?」
「もちろん、来て」
促されるまま、隣の席に腰を下ろす。
間近でエリナの表情を窺ったが、特に変わった様子はなかった。相変わらず、あけすけな好意をその瞳にたたえている。
けれど、遊び方を急に変えて、ドレスもこれまでとは違う趣きで。何か、心境に変化があったのでは――そう探る私を前に、エリナはただ、朗らかに微笑んでみせた。
「今日はクロードに贈り物があるのよ」
そう言って、エリナは店の壁際に控える黒服に呼びかける。黒服が運んできたものは、卓を埋め尽くさんばかりの白い百合の花束だった。
「これは……どうして?」
「たまに気にしていたから好きなのかなって思って」
エリナは花束から一輪の百合を引き抜き、私の胸ポケットに挿す。
たしかに、百合の花を見るたびに、妹の名前を思い出していた。けれどその感情は、クロードのものじゃない。だから表に出しているつもりは、なかったのに。
何も言えずに黙っていると、エリナは不安そうに顔を曇らせ傾けて私を伺う。
「……好きじゃなかった?」
「ううん……実は、一番気になる花なんだ」
私は取り繕うように胸元に咲いた百合の花の香りを確かめる。そんな私に、エリナは寄り添い、距離を詰める。その手が、私の膝に置かれた。彼女の灰色の瞳が、迫る。
「クロードって、花にも好きって言わないのね?」
「好き、というのは、なんだか真っ直ぐすぎて……」
生き生きとした光を宿した瞳から、私に向けられる強い感情から逃れるように……クロードらしくないと自覚しながらも、耐えきれず顔を逸らす。
「私は、クロードが好き」
幾度となく浴びせられた聞き飽きたその台詞。なのに……擦られたように胸がざらつき、痛い。
「初めて会った日、紅茶を飲んで……美味しいって言うだけでいいんだよ、って言ってくれて……本当に救われたの」
エリナはうっとりと瞼を閉じる。紅潮した頬に影がおちる。その瞳の奥に、大切な記憶をそっと仕舞いこむように。
「それで、あなたに夢中になって……それからずっと、毎日楽しかった」
そのまま、胸に沈み込むようによりかかってきた。まるで罪をそのまま色にしたような赤が、襲いかかってくる。
楽しかった、と……エリナは言った。私は、全てを悟る。
「エリナ……」
「悲しそうな顔しないで。でも、そんな顔も好き」
エリナは少し身体を起こして、私の頬に手を添え、息遣いが分かるほどに間近で、私を眺める。
「たぶん、私はもうここに来られなくなる」
ホールの喧騒が遠ざかる。
「だから、今日はお別れを言いに来たの」
……ああ、やはり。
エリナはよく、私の前で涙した。だから、今日も泣くのではないかと予想していた。けれど今……その気配は一切ない。
いつか見た、夕焼けに照らされたどこまでも続く草原。ただ風を受けてそよぐ、草木のように自然で、穏やかに見えた。
喉が引きつれ、何も言えない。黙りこくる私に、エリナはそれでも優しく笑った。
「……もし、また明日ここに来てたら笑ってね」
どうして、言葉が浮かばないんだろう。いつもなら、意識せずとも相手の望む言葉が勝手に浮かんでくるのに。
「私、は」
それでも何か言いたくて。どうにか、胸に残る違和感を、不格好な言葉に変える。
「私は……あなたの強さに、憧れています」
そう言うと、エリナは心から嬉しそうに……花開くように笑った。
「大好きよ。クロード……ずっと」
どうやってグレイハート家と折り合いをつけているのかは分からないが、『ルクレール』に来る頻度はほぼ毎日になり、開店と同時にホールに現れる。そして、私を呼ぶために惜しみなくシャンパンを入れる――。
「今日もあなたに会えて幸せよ、クロード」
シャンデリアの白い光に照らされたエリナは、細いグラスを手に笑う。その面影に、『ルクレール』に初めて来たときの弱々しさは一切感じられなかった。
おそらく、まともじゃない方法で金を作って、ここに通ってきている。なのにエリナは、いつも上機嫌で、どこか軽やかだった。
すべてを覚悟した人間だけが持つ、あの透き通った清々しさ。それをまとった彼女は、誰よりも自由に見えた。
灰色の大きな瞳が、私だけを真っ直ぐに映している。ただ、私だけを。
――その眼差しの強烈さに、時折、焼かれそうになる。
反射的に顔を背けそうになるが、それは良くない。私は彼女が好きな、親し気な表情を浮かべ、彼女とグラスを合わせる。
「私も……代え難い君に会えて、きっと幸せだよ」
「きっと? とても幸せ、じゃないの?」
クロードを演じてしばらく。もう癖になってしまった、余白を残す曖昧な話し方。その隙間にエリナの無邪気な笑顔が入り込んでくる。
「……幸せというのが何か、君の前だとたまに……分からなくなる」
* * *
しかし、それからほどなく、エリナの遊び方は急に『綺麗』になった。
シャーロットに無理に張り合って私を卓に呼び戻すことはなくなり、『ルクレール』に通う頻度も週に1、2度ほどに戻った。
金策が上手くいかなくなったのだろうか。レインとそのようにバックヤードで囁いていた日……エリナは『ルクレール』に現れた。
たまたまその日はシャーロットがおらず、エリナの到着と共に私は彼女の卓を訪れた。卓へ向かう途中、遠くから彼女の姿を見かけて……目を見張った。
エリナは、白布に落ちた一点の血のように鮮やかな、僅かに青みを帯びた深紅のドレスを身に纏っていた。胸元や肩口は大胆に開き、髪にも同じ色の大ぶりな飾りを着けている。
今まで彼女は、淑女に受け入れられやすそうな、地味な装いしかしていなかった。けれど、今日の装いはまるで正反対だ。若さを謳歌するような、見る人によっては顔を顰めそうな主張の強さ。娼婦のようだと揶揄されるかもしれない。
けれど、その潔くも艶やかな姿は――笑ってしまいそうなくらい、エリナらしかった。
「今日もご来店いただきありがとうございます。……あんまり素敵で驚いた」
「いいでしょう? ずっとこういうのを着てみたかったの」
挨拶すると、エリナは「どう?」とでも言いたげに、胸を張ってみせた。
「座っても?」
「もちろん、来て」
促されるまま、隣の席に腰を下ろす。
間近でエリナの表情を窺ったが、特に変わった様子はなかった。相変わらず、あけすけな好意をその瞳にたたえている。
けれど、遊び方を急に変えて、ドレスもこれまでとは違う趣きで。何か、心境に変化があったのでは――そう探る私を前に、エリナはただ、朗らかに微笑んでみせた。
「今日はクロードに贈り物があるのよ」
そう言って、エリナは店の壁際に控える黒服に呼びかける。黒服が運んできたものは、卓を埋め尽くさんばかりの白い百合の花束だった。
「これは……どうして?」
「たまに気にしていたから好きなのかなって思って」
エリナは花束から一輪の百合を引き抜き、私の胸ポケットに挿す。
たしかに、百合の花を見るたびに、妹の名前を思い出していた。けれどその感情は、クロードのものじゃない。だから表に出しているつもりは、なかったのに。
何も言えずに黙っていると、エリナは不安そうに顔を曇らせ傾けて私を伺う。
「……好きじゃなかった?」
「ううん……実は、一番気になる花なんだ」
私は取り繕うように胸元に咲いた百合の花の香りを確かめる。そんな私に、エリナは寄り添い、距離を詰める。その手が、私の膝に置かれた。彼女の灰色の瞳が、迫る。
「クロードって、花にも好きって言わないのね?」
「好き、というのは、なんだか真っ直ぐすぎて……」
生き生きとした光を宿した瞳から、私に向けられる強い感情から逃れるように……クロードらしくないと自覚しながらも、耐えきれず顔を逸らす。
「私は、クロードが好き」
幾度となく浴びせられた聞き飽きたその台詞。なのに……擦られたように胸がざらつき、痛い。
「初めて会った日、紅茶を飲んで……美味しいって言うだけでいいんだよ、って言ってくれて……本当に救われたの」
エリナはうっとりと瞼を閉じる。紅潮した頬に影がおちる。その瞳の奥に、大切な記憶をそっと仕舞いこむように。
「それで、あなたに夢中になって……それからずっと、毎日楽しかった」
そのまま、胸に沈み込むようによりかかってきた。まるで罪をそのまま色にしたような赤が、襲いかかってくる。
楽しかった、と……エリナは言った。私は、全てを悟る。
「エリナ……」
「悲しそうな顔しないで。でも、そんな顔も好き」
エリナは少し身体を起こして、私の頬に手を添え、息遣いが分かるほどに間近で、私を眺める。
「たぶん、私はもうここに来られなくなる」
ホールの喧騒が遠ざかる。
「だから、今日はお別れを言いに来たの」
……ああ、やはり。
エリナはよく、私の前で涙した。だから、今日も泣くのではないかと予想していた。けれど今……その気配は一切ない。
いつか見た、夕焼けに照らされたどこまでも続く草原。ただ風を受けてそよぐ、草木のように自然で、穏やかに見えた。
喉が引きつれ、何も言えない。黙りこくる私に、エリナはそれでも優しく笑った。
「……もし、また明日ここに来てたら笑ってね」
どうして、言葉が浮かばないんだろう。いつもなら、意識せずとも相手の望む言葉が勝手に浮かんでくるのに。
「私、は」
それでも何か言いたくて。どうにか、胸に残る違和感を、不格好な言葉に変える。
「私は……あなたの強さに、憧れています」
そう言うと、エリナは心から嬉しそうに……花開くように笑った。
「大好きよ。クロード……ずっと」
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