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外伝1 赦しの残光
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テーブルの上には、まだ縁が乾ききっていない木のカップがいくつも並んでいる。レヴィンは、中枢の一番好きなところは、ネルガルド中の酒が集まることだと笑う。香りや色の異なる美酒は、見ているだけで楽しめるけれど流石に胸の奥が重たくなってきた。ノインはカップを傾けるのをとうに止めたというのに、隣で座る男はやはりにこにこと笑いながら飲み始めた頃と変わらない調子で静かに喉仏を上下させている。
今年の蒸留酒は出来がいいみたいだよ、なんて笑顔で言われてもそろそろアルコールの尖った香りを味わうのは遠慮したいところだ。
そして、机を挟んだ向こうの男は、頭を揺らしながら赤ら顔でナッツを二、三粒口に放り込んだ。
「なんだよノイン、もうしまいか。飲んどけよでっかくならねえぞ」
「別にでかくなりてえ訳じゃねえし、酒ででかくはならねえだろ」
「でけえほうがいいじゃねえかなあ、アス。お前ガキん時は俺よりちっちゃかったくせによお」
「僕と君の身長は、今も昔もさほど変わらないと思うけれどね」
こまけえことはいいんだと、レヴィンは一人笑う。
北を出てからというもの、あてもなくあちこちを見て回っていると言っていた男は、風、正しくは嵐のように現れる。あの人懐っこい笑顔で、アスレイドの教堂の門を叩くのだ。レヴィンに限らず、アスレイドのシュレイン仲間は誰もが突然現れては何事もなかったかのように翌日にはまた来るとだけ述べて消えていく。だからこそ、居室の棚にはいくつもの酒瓶が常備されている。
この夜も、いい酒が手に入ったと太陽のように笑った。その姿を見たアスレイドの口角がいつもより上がっていたのは、酒を飲める口実を得たからだと思いたい。
ふらふらと頭を揺らすレヴィンが、奥歯で実をかみ砕きながら続ける。
「んでよ……あぁ、どこまで話したっけか。そうだ、東の方だ。石によぉ、文字が掘られててなあ」
東。その三文字の音の鳴りが鼓膜を叩いた瞬間、ノインの胸の奥で忘れたはずの感傷が爪を立てる。とっくに中枢の民となったというのに、いつまで経っても生まれ故郷の憧憬を忘れられない事実に心がざわめく。
赤ら顔の男は、思い出すように語尾を伸ばしながら、口に残っていたナッツを酒で流し込んだ。
「古いエクルシエル文字だと思うんだがなあ、俺には読めなくてよ。おいアス、お前なら読めんじゃねえのか」
「へえ、興味深い話だ。ノイン君、行ってみようか」
静かに酒瓶を自分のカップに注ぎながら、翠色の瞳がノインに向けられる。瞳の奥には、酔いではなく好奇心のゆらめきが見えてしまったから今更ノインに選択する権利はない。
「……あんたが行くなら、俺も行く」
「決まりだ。古語書は捨てていなかったはず。探しておこう」
それでもアスレイドが楽しそうに笑うから、ノインは何も言えなくなる。レヴィンは、東はやっぱり広えぞ、二人なら退屈しねえとろれつの回らなくなった口で伝えきると、僅かに隙間があるテーブルの上に突っ伏した。
青い空に、白い雲がゆっくりと流れていく。雲の流れていく方に逆らうように、二人は歩みを進めていた。
雲よりも色の濃い石畳の硬い感触が柔らかい土のものになった頃には、目前には青々とした緑が広がっていた。東の入り口、視界に広がる草原を見るとやはりまだ心が躍る。例え、自分をはじき出した場所だとしても、どこまでも広がる緑の中に立つとあり得なくなった未来に思いを馳せられる気がする。
白と黒の髪が、ウィルナの息吹によってゆるく流れる。
「レヴィンが言っていたのは、……向こうの方かな?」
あの後、痛む頭を片手で押さえながらレヴィンが紙に書き留めた地図には、大体の方角と大きな丸印がつけられている。アスレイドもまた、金糸を風に揺らしながら手にした紙に視線を落としている。ノインはアスレイドの手を覗き込んだ後、地図に示された方角を指差して見せた。
「……向こうだ。行ってみるか」
「頼りになるよ、東にいると方向が分からなくなるね」
「俺だって行ったことがねえ方だ、期待すんな」
吐き捨てて背を向けた男の左腕には、苔色のケープから白い布籠手がちら見える。その色に少し瞳を細めてみせたあと、アスレイドもまたそれに続いて歩き出す。
脛をくすぐる草原の中で歩みを進めると、遠くの地平線に濃い影の帯が現れた。風に揺れていた草が途切れると、湿った土の匂いが鼻をかすめる。森が近い。足が重くなる。
一歩踏み込めば、さっきまでの空の広さは枝葉に遮られ、光は細い筋となって落ちてくる。土を踏む音が鈍く沈み、風はそこで立ち止まったように消えていった。高いところで、鳥が囀るのが聞こえる。木漏れ日から差し込む灯りは柔らかく、二人を点々と照らしていた。
西の森とは異なる、穏やかさの中にも風が吹いているような。時は、止まっていない。そんな思いに駆られるようだった。
草の香りに混じって、土や苔の匂いが強まる。緑が濃くなるにつれて、胸の奥がざわつく。森の奥で、風が枝葉を鳴らす音が胸に刺さる。意思の子よ、お前が選んだものはどこにある。そう、問われているようだった。
後を付いてきていたはずの足音が止まった。ノインは後方をちらりと見ると、紙面に視線を落としているアスレイドの姿が見える。
「この辺りのようなんだけれど……」
モノクルのチェーンが、光を浴びて鈍く煌めいた。視線を上げて首を捻り、きょろきょろと辺りを見回す。視界いっぱいには、鮮やかな緑色の世界が広がっている。
「あのおっさん、ほんとに見たのかよ」
「……ノイン君、それは僕に向かって言っているのかい?」
アスレイドの瞳が何か言いたげに細められたから、ノインは知らないふりして視線をあさっての方角へ向ける。足元に視線を落とすと、光の筋に照らされる苔むした石は、何も語らずそこにある。
懐かしい匂いだ。戻りたくはねえのに、身体が覚えてやがる。……東の風は、いつだって俺を呼び戻す。帰れねえのに、選ばせるような顔をしてよ。
吐き出すことのできない息を喉に溜め込みながら、ノインは穏やかに吹く風に身を任せるように視線を投げた。
その先。木々の間に、一際大きな岩肌が微かに見えた。
「おい、アスレイド。あれじゃねえのか」
僅かに眉間に皺を寄せながら紙とにらめっこしていた男に声を掛けて指差す。葉の影かと思ったら、苔むしていたせいらしい。微かな隙間から、灰色が見えていた。
背の高い草と枝を手で分け近付いてみれば、大小さまざまな岩が地面にいくつも横たわっている。人の手で刻まれた跡が、時間に削られながらもまだ残っているようだ。遺跡というには無造作な、記録の名残のようにも見えた。
硬い表面を指先で払いながら見ると、確かに岩に文字が掘られているのが分かった。見たことがある文字とどこか似ているその造形は、レヴィンが言っていた古いエクルシエル文字だろう。読めそうだと思っても、脳が違うと意味を咀嚼しない。
アスレイドの指先が、掘られた溝をなぞるように滑っていく。金色の髪が陽光を浴びて、一際煌めくのを眺めながら、ノインはその所作をぼうっと眺めていた。
「……古い祈りの文章みたいだ。うん、日記みたいな」
「日記?」
ノインの言葉に返すことなく、アスレイドは指先で文字を追っていく。時折止まっては、神父服に忍ばせていた手のひら程の大きさの古語書を取り出しぺらぺらとめくる。記録を紐解くその動作は、何故かひどく落ち着かない。
しまったはずの過去の蓋を、またこじ開けられるような。こうして岩に掘ったのは、残したいという意志の名残なのだろう。自分が消えても、誰かが跡を辿ってくれるようにと。
ノインは文字の掘られていない岩に背をもたせかけ、アスレイドの姿を目で追った。
葉擦れの音に混じって、ぱたんとアスレイドの手にある書が閉じられた。頭を上げてこちらを見つめる翠色が、わずかに揺れる。
「昔は、この土地までエクルシエルと呼ばれていたようだね。今の中枢神殿だけじゃなく、もっと広いところまで」
「かなり広いんじゃねえか。ネルガルド全体がエクルシエルなんてことはねえだろうが」
「ありえないとは言い切れないよ。四神と並んだ人が住んでいた土地なら、エクルシエルの光で満ちていたとも言えるだろう?」
「……」
昔にも、自分のような存在はいたのだろうか。消えない罪を抱え、それでも在ることを誰かに赦されたのだろうか。そんな人々が、エクルシエルの光を見出せて、世界に立つことを許されていたのだろうか。
あの日、アスレイドは自分を世界に在らせた。汚れた手足のまま、在っていいと翠色の瞳がそれを赦した。
だが、その赦しすら砂の上に立っているように揺らいでならない。
押し黙ってしまったノインを見つめる翠色の瞳が、岩から離れる。
「……君は、ここにいるだろう?」
肘までを覆うショートケープの白が、身体に合わせて揺れる。あと一歩踏み出せばぶつかる距離まで近付いたアスレイドは、恭しくノインの頬を撫でた。
「君が在りたいと思ったのは、君の意思だよ」
「……前に来た時も思ったが、ここはもう、俺の地じゃねえ」
言葉こそ素っ気ないが、ノインは頬を撫でるアスレイドの手に自分の掌を重ねる。今ここに息づいている自分自身の輪郭を確かめるように。
触れた指の温かさに、アスレイドの瞳がやんわりと細められる。
「寂しいのかい?」
どこかからかうような言葉は、悪気がないことも分かっている。ただ、かつての人々に思いを馳せると、どうも足元がおぼつかなくなる。
アスレイドは、この世界に在っていいと言ってくれた。それでも、自分が清められたわけではない。幼馴染の血で汚れた身体は、いつまでも身体に刻み込まれている。とうに見えない返り血が身体に深く刻まれて、いつまでも忘れるなと抱き締めてくるようだ。
「寂しさじゃねえな。……何ていうか、気持ちの拠り所がねえというか」
「僕の側では不安かい?」
不安、不安なのだろうか。こうしてアスレイドの隣に立ち並ぶようになったのも、そもそもはあの夜に異形に襲われたからだ。では、異形と出会わなかったら。自分には、どんな未来が待っていたのだろう。
太陽の眩しさで笑うあの子が、手を伸ばす。いつまでも花冠を作って見せながら、ノノ、と嬉しそうに名を呼ぶ。自分は、その手を取って。そして。
ノインの瞳の奥が昏く陰ったのが分かる。二人の間を、物言わぬ薫風が静かに走り抜けていった。
「……君は、未来を奪われてしまったからね。だったら」
微かに、頬を撫でていた掌に力が込められる。その意図を探ろうと開かれた青い瞳は、金色の髪によって覆われた。
唇を塞ぐ、温かい感触。それがアスレイドのものだと理解するのに数秒。触れるだけの口付けは、慰めるように静かだった。
触れるだけの口付けが離れて、アスレイドは鼻先で穏やかに微笑む。
「……ありえた未来を、僕が返そう」
遅れて、唇の輪郭が鮮明に感じられて、ノインの身体がぶわっと熱を放つのが分かった。あれだけ身体を交えてきたというのに、その感触は知らなくて。今更のように身体が沸き立つ。熱が喉に集まり、乾きを覚えている。
動揺を気取られるのも癪に触って、今度はノインの掌がアスレイドの頬をゆっくりと撫でた。
「……あんたと出会わなかった未来か?」
口角を上げて囁いてみれば、悪戯を思いついたように翠色の瞳が細まった。そしてもう一度、ほんのわずかに唇を押しつけた。
聖堂の扉を閉じる音がやけに大きく響いた。喉は乾きっぱなしで、改めて交えた感触が呼び起こされる。
森の中で重ねた唇は、ノインにとってこれ以上ないと思わせるほどに甘美なものであった。いつか、いつかは誰かと行なうだろうと思っていた行為は、思った以上に行為の意味に夢を見ていて、どこか焦がれる気持ちがあったらしい。
居室に着いて、ケープを壁に掛ける背中を眺めながら、左手の籠手と外套を外す。できれば、もう一度と言わず何回も。アスレイドの唇を味わいたかった。
あの唇が、俺だけのものでいてくれたらいいのに。
獲物を見つけた獣は、きっと今の俺みてえな渇きで動く。今まで触れてきたどの個所より柔らかい肉の感触を、何度も、何度も。
白布を掛け終えたアスレイドが髪をかき上げた。何気ない仕草が、余計に火をつける。
「……そんなに見つめられると、穴が空きそうだよ」
振り返った瞳が、妖しく揺れている。その揺らぎに視線を奪われたまま、アスレイドが金糸を揺らしながら森の時と同じようにノインの前に立つ。
「気に入ったかい、さっきの」
「……まあな」
「ふふ、珍しく正直だね」
ここで強がってみせれば、この男は気をよくして何を企むか分からない。それよりは素直に機会を与えられる方がいい。少し首を傾げて、アスレイドの顔が目前に迫る。
触れた瞬間、自然に体がこわばる。重ねただけの唇に、噛みつきたくなる衝動を抑えながらノインは喉を鳴らした。
少し顔を離したアスレイドが、瞳を細めて笑う。
「……ノイン君、力を入れすぎだよ。そんなに力んだら……痛い」
その相貌が限りなく淫靡に嗤う夢魔にも思えて、ノインは視線をわずかにそらしながら眉を寄せた。
「仕方ねえだろ、したことねえんだから」
どこか拗ねたような口ぶりに、アスレイドは一瞬目を丸くした。そして、穏やかに瞳を細めてみせると舌先で唇を濡らす。その仕草は、獲物を捉えた獣のようにも思えた。
「じゃあ、僕が教えてあげる」
アスレイドの指が、ノインの顎先に触れると少し上向くように力を込められる。今度は、少し湿り気のある唇が重ねられた。そして、重ねた口唇の内側で、ぬめる筋肉がノインの歯列をゆっくりとなぞった。
「……っ」
ぞわりとした感覚に、思わず背が跳ねる。反応を宥めるように、アスレイドの手が背中を静かに撫でた。顎を引いていた手は、首の筋をつうと撫でると胸、脇腹の上を走って腰骨に辿り着き軽く抱き寄せられる。
象るように歯を撫でられたノインの舌は怯えたように口腔の中で縮こまっていたけれど、易々と割入ってきたアスレイドの舌がそれを捉えた。最初は、軽く触れるだけ。唾液をまとった筋肉を押し付けるように擦られた後、ぐるりと円を描くようにして舌全体を絡められた。
「ふ、ぁ……っ」
口許の隙間から甘たるい声が漏れる。粘膜が絡むたびに、膝ががくがくと震える。熱が下腹部に集まって、ズボンの内側で兆すのが分かる。
アスレイドは執拗にノインの舌に己の舌を絡ませ、唾液を混ぜ合わせる。崩れそうになる身体は、両手でしっかりと押さえられてしまったから、ノインは思わず手をアスレイドの胸に置いてしまう。そうでもしないと、腰が引けてしまいそうだ。
「……そう。焦らなくていい。力を抜いて、触れるだけでいいんだ……」
吐息の合間を縫って囁いて、飲み込めなくなってきた唾液を音を立ててすすれば一際大きくノインの身体が跳ねた。
「ぅン、んんぅ、……っ!」
腕の中で困ったように眉を下げながら、自分と同じ動作を必死に真似るノインをうっとりと見つめる。
数え切れない夜の中、女にしてきた仕草が、無意識にノインへ返っていく。
けれどそれはもう、過去の誰でもなく。ただ一人の、ノインのための口づけだった。その恍惚にアスレイドもまた、身体の芯に火が灯るのが分かる。
アスレイドはゆっくりと唇を離した。互いの舌の先で銀糸が引いて、ぷつりと切れる。半開きの口の中でちら見える舌の赤みに、更に熱が煽られる。
ノインの口端から唾液が一条、音もなく線を描いたのを見て、アスレイドは指でそれを拭い取りながら、くすりと笑った。
「……なかなか上手に返してくれたね」
「っ……からかうな」
「からかってなんかいないよ。初めてにしては、十分だ」
安堵と愉悦が入り混じったような声音。ノインはその表情を睨みつける。胸に残った熱のせいで呼吸が落ち着かない。
「……皆、こんなもんだったのか」
ぽつりと零した言葉に、アスレイドは首を傾げる。
「皆?」
「……女どもにしてきた口付けも、こうやって」
揶揄とも拗ねともつかない声音。だがその奥に、かすかに滲む苛立ちは隠せていない。アスレイドの瞳がわずかに見開かれて、静かに笑う。
「唇を重ねたことはあった。でも、口付けはしたことがない。僕にとっては、ね」
「……ッ」
一瞬でノインの喉が鳴る。何を言い出すと思えば、信じられない、そんなわけがない。
じゃあなんだっていうんだ。口付けの定義が、この男の中では異なるというのか。それでいて唇だけでここまで蕩けさせて、したことがないだなんてあまりにも不自然だ。天性とでもいうのか。それこそ馬鹿げている。誰かと、誰か相手がいなければおおよそできない技巧だった。相手がどう感じ、何を求めているか。口の中をまさぐった舌は何もかもを分かっているかのように好き勝手していたというのに。
「……何言ってやがる、したことがねえとか嘘つくな」
吐き捨てた声は、熱を孕んでいた。
過去に向けたものではない。今、目の前で自分を蕩かせるアスレイドの唇を、誰かと同じだったと思いたくない。その嫉妬が胸を灼いていた。
「ノイン君」
「うるせえ」
吐き捨てるような声。瞳の奥に昏い火が灯っているのを、アスレイドは知っていた。だがその火に怯えるどころか、どこか安らぎすら感じてしまう。
微笑みと囁き。ノインは苛立ちを誤魔化すように、胸に置いた手に力を入れてゆっくりと突き放す。
「……結局、女にも同じことしてたんだろ」
「……」
「俺だけじゃねえってことだ」
何を言っているんだ。今更、自分と出会う前のアスレイドの行動を咎めても意味がない。それに、アスレイドそのものは自分だけの存在ではない。そんなことは分かっている。それでも、過去に営まれた行為を意味付けることに耐えられない。
モノクルの鎖が、かすかに鳴る。
「ノイン君。唇を重ねたことなんて、意味のない仕草だったよ。あれは口付けじゃない。僕にとっての本当の口付けは……君とのだけだ」
「話をすり替えんな」
ノインの声は低く、鋭い。その言葉は、己自身に向けられているようでもある。
「事実は消えねえ。あんたは女とも唇を重ねた。それだけのことだ」
脳裏に、幼馴染の顔がよぎる。鮮血に塗れた肢体をだらりと伸ばして、終わりをせがんでいたあの子の顔。そう、そう願っていたから。そう見えたから。俺は手にしていた短剣を頭上高く振り上げたのだった。
アスレイドは眉を寄せ、胸にあてられたノインの手首をやんわりと掴んで食い下がる。触れたところから伝わる動揺は、今までに見たことがないものだった。翠色の瞳が真っすぐに、ノインを射抜く。
「違うよ。過去はただの事実じゃない。どう意味を与えるかで、その重さは変わるんだ。僕が意味を与えなければ……あの夜は虚しいだけで、無かったのと同じだよ」
「……今の俺まで、誰かの続きみたいに言うな」
ノインはアスレイドの肩を掴み、強く引き寄せる。
「過去は在ったんだよ。虚しいかどうかなんて関係ねえ。あんたが抱いた事実は残ってんだ。背負って生きるしかねえんだよ」
自分の過去と、アスレイドの過去。経てきたものは違うというのに、その位置づけがずれている。
アスレイドの瞳が揺れる。言葉を探すように口を開き、かすれ声で零す。
「……それでも、僕は……。君との口付けだけを、……唯一だと信じさせてほしいんだ」
「ふざけんな……!」
ノインは荒い息を吐き、顎を掴んで強引に再び息を奪った。怒りと寂しさと、どうしようもない独占欲が混ざり合い、唇を深く押しつける。
「ん、っ……ノイン……君」
押し殺した声が、唇の隙間から洩れる。その声に余計苛立ち、ノインは舌を深く押し込む。唾液が混じり合い、湿った音が吐息の合間を縫って響く。
腕の中で揺れる身体を押さえつけ、重心ごと板床に叩きつけるように倒した。
「……っ!」
硬い床に背中を打ちつけられたアスレイドの瞳が、わずかに揺れる。だが抵抗はない。それどころか、痛みを堪えるように眉を寄せながらも、どこか安心したように目を細めた。冷たい木の感触が背に広がり、息が部屋の高みで絡み、落ちてくる。部屋の静寂が二人の荒い息だけで満たされていく。その静けさを破るように、ノインは衣の留めを荒く外した。
「過去が虚しかったなんて言い換えるな。虚しかったで、楽になるのは、あんただけだ」
ノインは覆いかぶさり、首筋に噛みついた。歯の跡がつくほどに強く。
「ぅ、あ……っ!」
肌に食い込んだ部分が燃えるように熱い。衣の前を荒い手つきではだけられ、露わになった胸の丘にも歯を立てられる。その度に引きつるような短い声が喉を吐いたけれど、その痛みが強ければ強いほどアスレイドの心が躍る。それを悟られないように、ノインの背中を覆う布を軽く引っ張って形だけの抵抗をしてみせた。けれど腰はもう逃げられないほど熱く疼いていた。だがそれを知られてしまえば、自分はただの欲望に堕ちるだろう。どうか、既に勃ち上がりかけている自身に気付きませんように。
ノインはアスレイドの胸中を知ってか知らずか、幹の形を象るように添えた掌で撫でまわす。その動きでいよいよ芯を持ったアスレイド自身がズボンの下で窮屈そうに息衝く。
「のい、ん……っ」
名を呼ぼうとしたところで、ノインの唇で塞がれた。先ほど教えたように舌を絡めとられ、滲み出た唾液をすすられる。身体を重ねた時もそうだったが、彼は何事においても飲み込みが早いように思う。今だってあてられた舌の熱から逃れようとしていたのに、彼は的確にアスレイドの舌を捕えてくる。その上、わざとじゅるじゅると音を立てながら唾液を絡められると自然に身体が熱くなる。背中に回していた掌を滑らせ、ノインの胸の飾りがある辺りに両の掌を布越しに添える。尖った部分をやんわりと指で捩じってみせれば、びくりと男の背が跳ねた。
静かに開かれた青い瞳は獰猛に揺れている。
「……俺が全部消してやる……!」
この身に教え込まれた過去の女たちの面影をかき消したい。そんなものは必要ない。知りたくない。
性急な手つきでアスレイドのズボンをゆるめて、下着の中から頭をもたげていたものを取り出す。既に熱を持ったそこを上下に扱いてやれば、男の口から甘い吐息が短く零れた。
「ぁ、あ、ああ、ん、んっ、んっ、ぅ、っ」
「女にされてきたのも同じだろ、俺は違ぇ、俺に、余計なことを教えんじゃねえ……っ」
先端の孔から、たらたらと漏れ出た先走りがノインの手を汚していく。手首を上下に振りながら乳首に歯を立てると、岸に上がった魚のように身体が引きつって金糸が波のように揺れた。
「うぁ、あ、い、た……っ、く、う……」
何度も何度も齎される痛みと、直接陰部を刺激される快感で涙が滲むのに、腰が震える。――どうして僕は、壊されることで救われてしまうんだろう。
過去の女たちを抱いた夜には、こんな震えはなかった。
ただ虚しい行為の繰り返し。誰の吐息も、何ひとつ僕を人にしてはくれなかった。
けれど今は違う。ノイン君に乱されるたび、僕は人としての輪郭を与えられてしまう。
痛みすら赦しのように胸に落ちて――逃げられない。
ノインは荒々しく衣をはぎ取るとアスレイドの尻を割り、己の昂ぶりを掴んで先走りを軽く擦り付けると容赦なく押し当てた。
「ひっ……あ、ぁ、あッ……!」
狭い入り口を乱暴に抉ると、涙に濡れた睫毛が震える。抵抗はない。むしろ、痛みに身をよじりながら、安堵するように目を細めている。
引きつる痛みで揺れた頭から、金色の髪が床に広がっていく。ノインもまた、慣らしていないそこに無理やりねじ込んだことで、千切られるような痛みを奥歯を噛んで耐える。ずくずくと、脈動が心臓を叩いている。
「……同じだなんて言わせねえ。全部俺のに塗りつぶす。女の影も、過去も、何も残させねえ」
苛烈な声と共に、一気に奥深く貫いた。
「ぉ、ぉ゛、あ゛ッ……!」
床板に爪を立てて背をのけぞらせ、嗚咽のような声がこぼれる。突き上げられるたびに内奥に杭を打たれるような衝撃が走り、痛みと快感が溶け合って理性を奪っていく。
充分に慣らしていないそこは、ただ刺し貫かれるばかりで滑らない。串刺しにされた痛みだけが拡がって、アスレイドの閉じた瞳から一筋雫が零れた。
「ほら……奥で絡んで、離さねえ……」
それでも白みがかった先走りがしとどに注がれているのだろう。引きつれる縁を剥がすようにノインが荒い呼吸を吐きながら、腰を打ちつけ続ける。
アスレイドの視界は涙で滲み、口からは掠れた声しか出てこない。
「ぁ゛、んっ、ぁ゛あっ、ッ、や、ぁ!」
けれどその苦鳴の奥で、胸の内は確かに震えていた。
――どうして僕は、壊されることでしか、人であることを実感できないのか。
この痛みが、僕を赦してしまう。痛みすら、赦しの形をして僕を縛る。
赦しと快楽が同じ顔をして、僕を堕としていく。
ノインはその顔を覗き込み、荒々しく囁いた。
「泣いてんのに、奥で締めやがって……。やっぱり、俺じゃねえと駄目なんだろ」
「っ、ぁ、あッ! ぉ、ぅ゛、の、いン……くん……ッ」
抱えられていた両脚が降ろされると、両の手で腰を掴まれて一際深く引き寄せられる。内側を抉る圧迫感に、アスレイドは声もなくはくはくと口を開閉させた。
ああ、痛い。気持ちいい。
ノイン君がくれるものなら、なんでもいい。
ずっとずっと、僕の中に残るものがいい。
君が、僕を人にしてくれるのだから。
だから、もっと、もっと……堕ちていきたい。
「ぁ゛っ、あ、あぁっ、ぅ゛、やっ、も、だめっ、……っ!」
涙と汗に濡れた顔をくしゃくしゃにして、終わりが近いことを必死に訴える。挿入の痛みで萎えていたアスレイドの茎は真っ赤に膨れてはしたなく白濁混じりの体液を零し続けていた。
「俺も……っ、俺の跡でしか、動けねえ身体にしてやる……」
繋がったところから肉を潰すような音が部屋に響く。がつがつと奥を何度も乱暴に突かれて、アスレイドの張りつめた芯が跳ねながら白濁を吐き出した。
「ぁあ゛っ……! ああああぁぁっ……!」
腹の奥から熱がせり上がり、身体が大きく痙攣する。甘い絶叫に誘われるように、ノインもまた歯を食いしばりながら膨れ上がる熱を奥深くに叩きつけた。
「っ……ぐ、ッ!」
奥の一番深いところに注ぐように、肉の詰まった部分に突き刺すと精をぶちまけた。きついだけだった締め付けは今ではノインを飲み込むように柔らかく包み込む動きに変わっている。その刺激が心地よくて、細かく腰を前後に揺らした。
互いの身体が痙攣し、板床に汗と唾液が滴る。荒い息がしばし交わる中、ノインはアスレイドを抱き潰すように強く抱き締めて、やっと動きを止めた。
「……悪い、こんなこと……」
まだ息が整わない中、ノインの細い腕がアスレイドの背に回る。言いながら、赦されたいのは自分だと知っている。いつか、壊したくないと言っていた男が、今も自らの中に残っている衝動に怯えている。だから、アスレイドもまた緩やかにノインの背に腕を絡めた。
「ふふ……君の跡、ちゃんと、受け取ったよ。……だいじょうぶ」
まるで幼子をあやすかのような口ぶりに、何も言い返せず、ノインは腕に力を込めてみせた。
風呂で身体を清め、二人は布団に沈んだ。ノインはまどろむ暇もなく、浅い寝息を立てている。あれだけ無体を働いた愛しきけだものは、アスレイドの方に横向き規則正しく胸を上下させていた。
アスレイドは上半身を起こしたまま、その姿をずっと眺めている。青白い月明かりに浮かぶ幼い頬を指先でそっとなぞれば、無防備さに胸が締めつけられて、壊したい衝動と守りたい願いが同じ場所でざわめく。
白と黒の髪が指に縋る。月光に照らされた寝顔は、生と死のあわいを漂うようにも見える。それでも確かに呼吸がある。身体が小さく揺れるたびに、ここに在るという重みが指先に伝わる。君が生きている限り、僕はここに在り続けられるのだと、淡い確信が喉に落ちた。
いいや、これはただの光ではない。世界が君を照らすために残した最後の祈りだ。
僕はその祈りに縋り、君を崇め、君に堕ちる。そして同時に、唇に残る味や体に刻まれた熱が、僕を生へと引き戻す。赦しも、快楽も、痛みすらも。すべてが君によって意味づけられる。
胸の奥でまだ疼くものを、そっと確かめる。さっきまでの独占欲に塗れた声、重なった息、指に絡む髪の湿り。身体が覚えた「君」のすべてが、僕に輪郭を与える。
――君が、僕を人にしてくれる。
だからこそ、失いたくない。失うことを思えば、胸がえぐられる。
それでも、もっと深く堕ちてきてほしい。僕の救いも、所有も、交わした熱も、ぜんぶ抱えて。君の重みだけが、僕が在れる唯一の術なのだから。
机に置いたモノクルの鎖が、月を一筋拾った。夜明けまでは、まだ遠い。
頬を撫でる力をわずかに強めても、ノインは身じろぎ一つしない。翠の瞳がやわらかに弧を描く。ああ、なんて。僕だけの君よ。僕を在らしてくれる、ただ一人の君よ。そのすべてを焼き付けてしまいたい。
無防備が可愛くて、同時に恐ろしくて。吸い込まれるように背中を曲げてその艶やかな唇に寄せようとして、寸前で止まった。
「……やきもちを焼かれるのも、大変だね」
囁きは寝息に溶ける。残響は届かないかもしれない。
それでも月光の下、自分にだけは誓う。永遠に、僕を縛っていてくれ。君の影でしか、僕は生きられないのだから。
今年の蒸留酒は出来がいいみたいだよ、なんて笑顔で言われてもそろそろアルコールの尖った香りを味わうのは遠慮したいところだ。
そして、机を挟んだ向こうの男は、頭を揺らしながら赤ら顔でナッツを二、三粒口に放り込んだ。
「なんだよノイン、もうしまいか。飲んどけよでっかくならねえぞ」
「別にでかくなりてえ訳じゃねえし、酒ででかくはならねえだろ」
「でけえほうがいいじゃねえかなあ、アス。お前ガキん時は俺よりちっちゃかったくせによお」
「僕と君の身長は、今も昔もさほど変わらないと思うけれどね」
こまけえことはいいんだと、レヴィンは一人笑う。
北を出てからというもの、あてもなくあちこちを見て回っていると言っていた男は、風、正しくは嵐のように現れる。あの人懐っこい笑顔で、アスレイドの教堂の門を叩くのだ。レヴィンに限らず、アスレイドのシュレイン仲間は誰もが突然現れては何事もなかったかのように翌日にはまた来るとだけ述べて消えていく。だからこそ、居室の棚にはいくつもの酒瓶が常備されている。
この夜も、いい酒が手に入ったと太陽のように笑った。その姿を見たアスレイドの口角がいつもより上がっていたのは、酒を飲める口実を得たからだと思いたい。
ふらふらと頭を揺らすレヴィンが、奥歯で実をかみ砕きながら続ける。
「んでよ……あぁ、どこまで話したっけか。そうだ、東の方だ。石によぉ、文字が掘られててなあ」
東。その三文字の音の鳴りが鼓膜を叩いた瞬間、ノインの胸の奥で忘れたはずの感傷が爪を立てる。とっくに中枢の民となったというのに、いつまで経っても生まれ故郷の憧憬を忘れられない事実に心がざわめく。
赤ら顔の男は、思い出すように語尾を伸ばしながら、口に残っていたナッツを酒で流し込んだ。
「古いエクルシエル文字だと思うんだがなあ、俺には読めなくてよ。おいアス、お前なら読めんじゃねえのか」
「へえ、興味深い話だ。ノイン君、行ってみようか」
静かに酒瓶を自分のカップに注ぎながら、翠色の瞳がノインに向けられる。瞳の奥には、酔いではなく好奇心のゆらめきが見えてしまったから今更ノインに選択する権利はない。
「……あんたが行くなら、俺も行く」
「決まりだ。古語書は捨てていなかったはず。探しておこう」
それでもアスレイドが楽しそうに笑うから、ノインは何も言えなくなる。レヴィンは、東はやっぱり広えぞ、二人なら退屈しねえとろれつの回らなくなった口で伝えきると、僅かに隙間があるテーブルの上に突っ伏した。
青い空に、白い雲がゆっくりと流れていく。雲の流れていく方に逆らうように、二人は歩みを進めていた。
雲よりも色の濃い石畳の硬い感触が柔らかい土のものになった頃には、目前には青々とした緑が広がっていた。東の入り口、視界に広がる草原を見るとやはりまだ心が躍る。例え、自分をはじき出した場所だとしても、どこまでも広がる緑の中に立つとあり得なくなった未来に思いを馳せられる気がする。
白と黒の髪が、ウィルナの息吹によってゆるく流れる。
「レヴィンが言っていたのは、……向こうの方かな?」
あの後、痛む頭を片手で押さえながらレヴィンが紙に書き留めた地図には、大体の方角と大きな丸印がつけられている。アスレイドもまた、金糸を風に揺らしながら手にした紙に視線を落としている。ノインはアスレイドの手を覗き込んだ後、地図に示された方角を指差して見せた。
「……向こうだ。行ってみるか」
「頼りになるよ、東にいると方向が分からなくなるね」
「俺だって行ったことがねえ方だ、期待すんな」
吐き捨てて背を向けた男の左腕には、苔色のケープから白い布籠手がちら見える。その色に少し瞳を細めてみせたあと、アスレイドもまたそれに続いて歩き出す。
脛をくすぐる草原の中で歩みを進めると、遠くの地平線に濃い影の帯が現れた。風に揺れていた草が途切れると、湿った土の匂いが鼻をかすめる。森が近い。足が重くなる。
一歩踏み込めば、さっきまでの空の広さは枝葉に遮られ、光は細い筋となって落ちてくる。土を踏む音が鈍く沈み、風はそこで立ち止まったように消えていった。高いところで、鳥が囀るのが聞こえる。木漏れ日から差し込む灯りは柔らかく、二人を点々と照らしていた。
西の森とは異なる、穏やかさの中にも風が吹いているような。時は、止まっていない。そんな思いに駆られるようだった。
草の香りに混じって、土や苔の匂いが強まる。緑が濃くなるにつれて、胸の奥がざわつく。森の奥で、風が枝葉を鳴らす音が胸に刺さる。意思の子よ、お前が選んだものはどこにある。そう、問われているようだった。
後を付いてきていたはずの足音が止まった。ノインは後方をちらりと見ると、紙面に視線を落としているアスレイドの姿が見える。
「この辺りのようなんだけれど……」
モノクルのチェーンが、光を浴びて鈍く煌めいた。視線を上げて首を捻り、きょろきょろと辺りを見回す。視界いっぱいには、鮮やかな緑色の世界が広がっている。
「あのおっさん、ほんとに見たのかよ」
「……ノイン君、それは僕に向かって言っているのかい?」
アスレイドの瞳が何か言いたげに細められたから、ノインは知らないふりして視線をあさっての方角へ向ける。足元に視線を落とすと、光の筋に照らされる苔むした石は、何も語らずそこにある。
懐かしい匂いだ。戻りたくはねえのに、身体が覚えてやがる。……東の風は、いつだって俺を呼び戻す。帰れねえのに、選ばせるような顔をしてよ。
吐き出すことのできない息を喉に溜め込みながら、ノインは穏やかに吹く風に身を任せるように視線を投げた。
その先。木々の間に、一際大きな岩肌が微かに見えた。
「おい、アスレイド。あれじゃねえのか」
僅かに眉間に皺を寄せながら紙とにらめっこしていた男に声を掛けて指差す。葉の影かと思ったら、苔むしていたせいらしい。微かな隙間から、灰色が見えていた。
背の高い草と枝を手で分け近付いてみれば、大小さまざまな岩が地面にいくつも横たわっている。人の手で刻まれた跡が、時間に削られながらもまだ残っているようだ。遺跡というには無造作な、記録の名残のようにも見えた。
硬い表面を指先で払いながら見ると、確かに岩に文字が掘られているのが分かった。見たことがある文字とどこか似ているその造形は、レヴィンが言っていた古いエクルシエル文字だろう。読めそうだと思っても、脳が違うと意味を咀嚼しない。
アスレイドの指先が、掘られた溝をなぞるように滑っていく。金色の髪が陽光を浴びて、一際煌めくのを眺めながら、ノインはその所作をぼうっと眺めていた。
「……古い祈りの文章みたいだ。うん、日記みたいな」
「日記?」
ノインの言葉に返すことなく、アスレイドは指先で文字を追っていく。時折止まっては、神父服に忍ばせていた手のひら程の大きさの古語書を取り出しぺらぺらとめくる。記録を紐解くその動作は、何故かひどく落ち着かない。
しまったはずの過去の蓋を、またこじ開けられるような。こうして岩に掘ったのは、残したいという意志の名残なのだろう。自分が消えても、誰かが跡を辿ってくれるようにと。
ノインは文字の掘られていない岩に背をもたせかけ、アスレイドの姿を目で追った。
葉擦れの音に混じって、ぱたんとアスレイドの手にある書が閉じられた。頭を上げてこちらを見つめる翠色が、わずかに揺れる。
「昔は、この土地までエクルシエルと呼ばれていたようだね。今の中枢神殿だけじゃなく、もっと広いところまで」
「かなり広いんじゃねえか。ネルガルド全体がエクルシエルなんてことはねえだろうが」
「ありえないとは言い切れないよ。四神と並んだ人が住んでいた土地なら、エクルシエルの光で満ちていたとも言えるだろう?」
「……」
昔にも、自分のような存在はいたのだろうか。消えない罪を抱え、それでも在ることを誰かに赦されたのだろうか。そんな人々が、エクルシエルの光を見出せて、世界に立つことを許されていたのだろうか。
あの日、アスレイドは自分を世界に在らせた。汚れた手足のまま、在っていいと翠色の瞳がそれを赦した。
だが、その赦しすら砂の上に立っているように揺らいでならない。
押し黙ってしまったノインを見つめる翠色の瞳が、岩から離れる。
「……君は、ここにいるだろう?」
肘までを覆うショートケープの白が、身体に合わせて揺れる。あと一歩踏み出せばぶつかる距離まで近付いたアスレイドは、恭しくノインの頬を撫でた。
「君が在りたいと思ったのは、君の意思だよ」
「……前に来た時も思ったが、ここはもう、俺の地じゃねえ」
言葉こそ素っ気ないが、ノインは頬を撫でるアスレイドの手に自分の掌を重ねる。今ここに息づいている自分自身の輪郭を確かめるように。
触れた指の温かさに、アスレイドの瞳がやんわりと細められる。
「寂しいのかい?」
どこかからかうような言葉は、悪気がないことも分かっている。ただ、かつての人々に思いを馳せると、どうも足元がおぼつかなくなる。
アスレイドは、この世界に在っていいと言ってくれた。それでも、自分が清められたわけではない。幼馴染の血で汚れた身体は、いつまでも身体に刻み込まれている。とうに見えない返り血が身体に深く刻まれて、いつまでも忘れるなと抱き締めてくるようだ。
「寂しさじゃねえな。……何ていうか、気持ちの拠り所がねえというか」
「僕の側では不安かい?」
不安、不安なのだろうか。こうしてアスレイドの隣に立ち並ぶようになったのも、そもそもはあの夜に異形に襲われたからだ。では、異形と出会わなかったら。自分には、どんな未来が待っていたのだろう。
太陽の眩しさで笑うあの子が、手を伸ばす。いつまでも花冠を作って見せながら、ノノ、と嬉しそうに名を呼ぶ。自分は、その手を取って。そして。
ノインの瞳の奥が昏く陰ったのが分かる。二人の間を、物言わぬ薫風が静かに走り抜けていった。
「……君は、未来を奪われてしまったからね。だったら」
微かに、頬を撫でていた掌に力が込められる。その意図を探ろうと開かれた青い瞳は、金色の髪によって覆われた。
唇を塞ぐ、温かい感触。それがアスレイドのものだと理解するのに数秒。触れるだけの口付けは、慰めるように静かだった。
触れるだけの口付けが離れて、アスレイドは鼻先で穏やかに微笑む。
「……ありえた未来を、僕が返そう」
遅れて、唇の輪郭が鮮明に感じられて、ノインの身体がぶわっと熱を放つのが分かった。あれだけ身体を交えてきたというのに、その感触は知らなくて。今更のように身体が沸き立つ。熱が喉に集まり、乾きを覚えている。
動揺を気取られるのも癪に触って、今度はノインの掌がアスレイドの頬をゆっくりと撫でた。
「……あんたと出会わなかった未来か?」
口角を上げて囁いてみれば、悪戯を思いついたように翠色の瞳が細まった。そしてもう一度、ほんのわずかに唇を押しつけた。
聖堂の扉を閉じる音がやけに大きく響いた。喉は乾きっぱなしで、改めて交えた感触が呼び起こされる。
森の中で重ねた唇は、ノインにとってこれ以上ないと思わせるほどに甘美なものであった。いつか、いつかは誰かと行なうだろうと思っていた行為は、思った以上に行為の意味に夢を見ていて、どこか焦がれる気持ちがあったらしい。
居室に着いて、ケープを壁に掛ける背中を眺めながら、左手の籠手と外套を外す。できれば、もう一度と言わず何回も。アスレイドの唇を味わいたかった。
あの唇が、俺だけのものでいてくれたらいいのに。
獲物を見つけた獣は、きっと今の俺みてえな渇きで動く。今まで触れてきたどの個所より柔らかい肉の感触を、何度も、何度も。
白布を掛け終えたアスレイドが髪をかき上げた。何気ない仕草が、余計に火をつける。
「……そんなに見つめられると、穴が空きそうだよ」
振り返った瞳が、妖しく揺れている。その揺らぎに視線を奪われたまま、アスレイドが金糸を揺らしながら森の時と同じようにノインの前に立つ。
「気に入ったかい、さっきの」
「……まあな」
「ふふ、珍しく正直だね」
ここで強がってみせれば、この男は気をよくして何を企むか分からない。それよりは素直に機会を与えられる方がいい。少し首を傾げて、アスレイドの顔が目前に迫る。
触れた瞬間、自然に体がこわばる。重ねただけの唇に、噛みつきたくなる衝動を抑えながらノインは喉を鳴らした。
少し顔を離したアスレイドが、瞳を細めて笑う。
「……ノイン君、力を入れすぎだよ。そんなに力んだら……痛い」
その相貌が限りなく淫靡に嗤う夢魔にも思えて、ノインは視線をわずかにそらしながら眉を寄せた。
「仕方ねえだろ、したことねえんだから」
どこか拗ねたような口ぶりに、アスレイドは一瞬目を丸くした。そして、穏やかに瞳を細めてみせると舌先で唇を濡らす。その仕草は、獲物を捉えた獣のようにも思えた。
「じゃあ、僕が教えてあげる」
アスレイドの指が、ノインの顎先に触れると少し上向くように力を込められる。今度は、少し湿り気のある唇が重ねられた。そして、重ねた口唇の内側で、ぬめる筋肉がノインの歯列をゆっくりとなぞった。
「……っ」
ぞわりとした感覚に、思わず背が跳ねる。反応を宥めるように、アスレイドの手が背中を静かに撫でた。顎を引いていた手は、首の筋をつうと撫でると胸、脇腹の上を走って腰骨に辿り着き軽く抱き寄せられる。
象るように歯を撫でられたノインの舌は怯えたように口腔の中で縮こまっていたけれど、易々と割入ってきたアスレイドの舌がそれを捉えた。最初は、軽く触れるだけ。唾液をまとった筋肉を押し付けるように擦られた後、ぐるりと円を描くようにして舌全体を絡められた。
「ふ、ぁ……っ」
口許の隙間から甘たるい声が漏れる。粘膜が絡むたびに、膝ががくがくと震える。熱が下腹部に集まって、ズボンの内側で兆すのが分かる。
アスレイドは執拗にノインの舌に己の舌を絡ませ、唾液を混ぜ合わせる。崩れそうになる身体は、両手でしっかりと押さえられてしまったから、ノインは思わず手をアスレイドの胸に置いてしまう。そうでもしないと、腰が引けてしまいそうだ。
「……そう。焦らなくていい。力を抜いて、触れるだけでいいんだ……」
吐息の合間を縫って囁いて、飲み込めなくなってきた唾液を音を立ててすすれば一際大きくノインの身体が跳ねた。
「ぅン、んんぅ、……っ!」
腕の中で困ったように眉を下げながら、自分と同じ動作を必死に真似るノインをうっとりと見つめる。
数え切れない夜の中、女にしてきた仕草が、無意識にノインへ返っていく。
けれどそれはもう、過去の誰でもなく。ただ一人の、ノインのための口づけだった。その恍惚にアスレイドもまた、身体の芯に火が灯るのが分かる。
アスレイドはゆっくりと唇を離した。互いの舌の先で銀糸が引いて、ぷつりと切れる。半開きの口の中でちら見える舌の赤みに、更に熱が煽られる。
ノインの口端から唾液が一条、音もなく線を描いたのを見て、アスレイドは指でそれを拭い取りながら、くすりと笑った。
「……なかなか上手に返してくれたね」
「っ……からかうな」
「からかってなんかいないよ。初めてにしては、十分だ」
安堵と愉悦が入り混じったような声音。ノインはその表情を睨みつける。胸に残った熱のせいで呼吸が落ち着かない。
「……皆、こんなもんだったのか」
ぽつりと零した言葉に、アスレイドは首を傾げる。
「皆?」
「……女どもにしてきた口付けも、こうやって」
揶揄とも拗ねともつかない声音。だがその奥に、かすかに滲む苛立ちは隠せていない。アスレイドの瞳がわずかに見開かれて、静かに笑う。
「唇を重ねたことはあった。でも、口付けはしたことがない。僕にとっては、ね」
「……ッ」
一瞬でノインの喉が鳴る。何を言い出すと思えば、信じられない、そんなわけがない。
じゃあなんだっていうんだ。口付けの定義が、この男の中では異なるというのか。それでいて唇だけでここまで蕩けさせて、したことがないだなんてあまりにも不自然だ。天性とでもいうのか。それこそ馬鹿げている。誰かと、誰か相手がいなければおおよそできない技巧だった。相手がどう感じ、何を求めているか。口の中をまさぐった舌は何もかもを分かっているかのように好き勝手していたというのに。
「……何言ってやがる、したことがねえとか嘘つくな」
吐き捨てた声は、熱を孕んでいた。
過去に向けたものではない。今、目の前で自分を蕩かせるアスレイドの唇を、誰かと同じだったと思いたくない。その嫉妬が胸を灼いていた。
「ノイン君」
「うるせえ」
吐き捨てるような声。瞳の奥に昏い火が灯っているのを、アスレイドは知っていた。だがその火に怯えるどころか、どこか安らぎすら感じてしまう。
微笑みと囁き。ノインは苛立ちを誤魔化すように、胸に置いた手に力を入れてゆっくりと突き放す。
「……結局、女にも同じことしてたんだろ」
「……」
「俺だけじゃねえってことだ」
何を言っているんだ。今更、自分と出会う前のアスレイドの行動を咎めても意味がない。それに、アスレイドそのものは自分だけの存在ではない。そんなことは分かっている。それでも、過去に営まれた行為を意味付けることに耐えられない。
モノクルの鎖が、かすかに鳴る。
「ノイン君。唇を重ねたことなんて、意味のない仕草だったよ。あれは口付けじゃない。僕にとっての本当の口付けは……君とのだけだ」
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ノインの声は低く、鋭い。その言葉は、己自身に向けられているようでもある。
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「ん、っ……ノイン……君」
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ノインはアスレイドの胸中を知ってか知らずか、幹の形を象るように添えた掌で撫でまわす。その動きでいよいよ芯を持ったアスレイド自身がズボンの下で窮屈そうに息衝く。
「のい、ん……っ」
名を呼ぼうとしたところで、ノインの唇で塞がれた。先ほど教えたように舌を絡めとられ、滲み出た唾液をすすられる。身体を重ねた時もそうだったが、彼は何事においても飲み込みが早いように思う。今だってあてられた舌の熱から逃れようとしていたのに、彼は的確にアスレイドの舌を捕えてくる。その上、わざとじゅるじゅると音を立てながら唾液を絡められると自然に身体が熱くなる。背中に回していた掌を滑らせ、ノインの胸の飾りがある辺りに両の掌を布越しに添える。尖った部分をやんわりと指で捩じってみせれば、びくりと男の背が跳ねた。
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「ぁ、あ、ああ、ん、んっ、んっ、ぅ、っ」
「女にされてきたのも同じだろ、俺は違ぇ、俺に、余計なことを教えんじゃねえ……っ」
先端の孔から、たらたらと漏れ出た先走りがノインの手を汚していく。手首を上下に振りながら乳首に歯を立てると、岸に上がった魚のように身体が引きつって金糸が波のように揺れた。
「うぁ、あ、い、た……っ、く、う……」
何度も何度も齎される痛みと、直接陰部を刺激される快感で涙が滲むのに、腰が震える。――どうして僕は、壊されることで救われてしまうんだろう。
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ただ虚しい行為の繰り返し。誰の吐息も、何ひとつ僕を人にしてはくれなかった。
けれど今は違う。ノイン君に乱されるたび、僕は人としての輪郭を与えられてしまう。
痛みすら赦しのように胸に落ちて――逃げられない。
ノインは荒々しく衣をはぎ取るとアスレイドの尻を割り、己の昂ぶりを掴んで先走りを軽く擦り付けると容赦なく押し当てた。
「ひっ……あ、ぁ、あッ……!」
狭い入り口を乱暴に抉ると、涙に濡れた睫毛が震える。抵抗はない。むしろ、痛みに身をよじりながら、安堵するように目を細めている。
引きつる痛みで揺れた頭から、金色の髪が床に広がっていく。ノインもまた、慣らしていないそこに無理やりねじ込んだことで、千切られるような痛みを奥歯を噛んで耐える。ずくずくと、脈動が心臓を叩いている。
「……同じだなんて言わせねえ。全部俺のに塗りつぶす。女の影も、過去も、何も残させねえ」
苛烈な声と共に、一気に奥深く貫いた。
「ぉ、ぉ゛、あ゛ッ……!」
床板に爪を立てて背をのけぞらせ、嗚咽のような声がこぼれる。突き上げられるたびに内奥に杭を打たれるような衝撃が走り、痛みと快感が溶け合って理性を奪っていく。
充分に慣らしていないそこは、ただ刺し貫かれるばかりで滑らない。串刺しにされた痛みだけが拡がって、アスレイドの閉じた瞳から一筋雫が零れた。
「ほら……奥で絡んで、離さねえ……」
それでも白みがかった先走りがしとどに注がれているのだろう。引きつれる縁を剥がすようにノインが荒い呼吸を吐きながら、腰を打ちつけ続ける。
アスレイドの視界は涙で滲み、口からは掠れた声しか出てこない。
「ぁ゛、んっ、ぁ゛あっ、ッ、や、ぁ!」
けれどその苦鳴の奥で、胸の内は確かに震えていた。
――どうして僕は、壊されることでしか、人であることを実感できないのか。
この痛みが、僕を赦してしまう。痛みすら、赦しの形をして僕を縛る。
赦しと快楽が同じ顔をして、僕を堕としていく。
ノインはその顔を覗き込み、荒々しく囁いた。
「泣いてんのに、奥で締めやがって……。やっぱり、俺じゃねえと駄目なんだろ」
「っ、ぁ、あッ! ぉ、ぅ゛、の、いン……くん……ッ」
抱えられていた両脚が降ろされると、両の手で腰を掴まれて一際深く引き寄せられる。内側を抉る圧迫感に、アスレイドは声もなくはくはくと口を開閉させた。
ああ、痛い。気持ちいい。
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君が、僕を人にしてくれるのだから。
だから、もっと、もっと……堕ちていきたい。
「ぁ゛っ、あ、あぁっ、ぅ゛、やっ、も、だめっ、……っ!」
涙と汗に濡れた顔をくしゃくしゃにして、終わりが近いことを必死に訴える。挿入の痛みで萎えていたアスレイドの茎は真っ赤に膨れてはしたなく白濁混じりの体液を零し続けていた。
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互いの身体が痙攣し、板床に汗と唾液が滴る。荒い息がしばし交わる中、ノインはアスレイドを抱き潰すように強く抱き締めて、やっと動きを止めた。
「……悪い、こんなこと……」
まだ息が整わない中、ノインの細い腕がアスレイドの背に回る。言いながら、赦されたいのは自分だと知っている。いつか、壊したくないと言っていた男が、今も自らの中に残っている衝動に怯えている。だから、アスレイドもまた緩やかにノインの背に腕を絡めた。
「ふふ……君の跡、ちゃんと、受け取ったよ。……だいじょうぶ」
まるで幼子をあやすかのような口ぶりに、何も言い返せず、ノインは腕に力を込めてみせた。
風呂で身体を清め、二人は布団に沈んだ。ノインはまどろむ暇もなく、浅い寝息を立てている。あれだけ無体を働いた愛しきけだものは、アスレイドの方に横向き規則正しく胸を上下させていた。
アスレイドは上半身を起こしたまま、その姿をずっと眺めている。青白い月明かりに浮かぶ幼い頬を指先でそっとなぞれば、無防備さに胸が締めつけられて、壊したい衝動と守りたい願いが同じ場所でざわめく。
白と黒の髪が指に縋る。月光に照らされた寝顔は、生と死のあわいを漂うようにも見える。それでも確かに呼吸がある。身体が小さく揺れるたびに、ここに在るという重みが指先に伝わる。君が生きている限り、僕はここに在り続けられるのだと、淡い確信が喉に落ちた。
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僕はその祈りに縋り、君を崇め、君に堕ちる。そして同時に、唇に残る味や体に刻まれた熱が、僕を生へと引き戻す。赦しも、快楽も、痛みすらも。すべてが君によって意味づけられる。
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――君が、僕を人にしてくれる。
だからこそ、失いたくない。失うことを思えば、胸がえぐられる。
それでも、もっと深く堕ちてきてほしい。僕の救いも、所有も、交わした熱も、ぜんぶ抱えて。君の重みだけが、僕が在れる唯一の術なのだから。
机に置いたモノクルの鎖が、月を一筋拾った。夜明けまでは、まだ遠い。
頬を撫でる力をわずかに強めても、ノインは身じろぎ一つしない。翠の瞳がやわらかに弧を描く。ああ、なんて。僕だけの君よ。僕を在らしてくれる、ただ一人の君よ。そのすべてを焼き付けてしまいたい。
無防備が可愛くて、同時に恐ろしくて。吸い込まれるように背中を曲げてその艶やかな唇に寄せようとして、寸前で止まった。
「……やきもちを焼かれるのも、大変だね」
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