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一話
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万年筆の先が、原稿用紙の升目を抉るような音を立てた。
書斎の空気は、湿った墨の匂いと、積み上げられた古書の埃で白く濁っている。その静寂を、無遠慮な足音が粉々に打ち砕いた。
「失礼します、誠一郎さん! 今日も一段と、不機嫌そうな項(うなじ)が美しいですね!」
障子を撥ね飛ばさんばかりの勢いで現れたのは、佐伯蓮次である。この男の口角は、常に天に向かって弧を描いている。誠一郎は、こめかみの血管が微かに脈打つのを自覚した。
「……蓮次、貴様。何度言えば理解する。私は今、蜘蛛の糸を紡ぐような、繊細な思考の最中に居るのだ」
「蜘蛛の糸にしては、随分と太い溜息が聞こえましたが。さあ、その埃を被った羽織を脱いでください。私が日向の匂いに変えて差し上げます」
蓮次の大きな手が、誠一郎の肩に触れる。熱い。真夏の瓦のような熱量が、薄い衣越しに伝わってきた。誠一郎は椅子を蹴らんばかりに立ち上がり、背後の本棚へ逃げ込んだ。
「触るな! 私の皮膚には毒がある。貴様のような能天気な人種が触れれば、たちまち知性が溶けて消えるぞ」
「それは素晴らしい。僕の頭が空っぽになれば、誠一郎さんの言葉だけで中を満たせます」
「何を、奇怪至極なことを……!」
誠一郎の耳の付け根が、熟した無花果のように赤らんだ。彼は眼鏡を指で押し上げ、激しく鼻を鳴らす。
「掃除など不要だ。この乱雑こそが、私の脳内を具現化した小宇宙なのだからな」
「その小宇宙には、一週間前の林檎の芯も含まれるのですか? あ、ここにも。誠一郎さん、あなたの宇宙は少々、発酵が進みすぎているようです」
蓮次は屈託のない笑みを浮かべ、床に転がっていた林檎の芯を、懐紙で鮮やかに包み上げた。その動作は、まるで稀世の宝玉を扱うかのように丁寧である。
「置け! それは……創作の資料だ」
「嘘を吐く時の誠一郎さんは、左の眉が三ミリほど上がります。可愛いですね」
「可愛いと言うな! この、厚顔無恥な若造が!」
誠一郎の叫びは、蓮次が軽快に振り回す雑巾の音にかき消された。
乾いた畳が磨かれ、窓から差し込む陽光が、誠一郎の隠れ家を容赦なく照らし出す。
「さあ、お茶を淹れますよ。誠一郎さんの好きな、苦味で顔が歪むようなやつを」
「誰が飲むか。私は……私は、孤独という名の苦味だけで十分なのだ」
そう言いながらも、誠一郎の鼻腔は、蓮次が持ち込んだ新しい茶葉の、清涼な香りを敏感に捉えていた。喉の奥が、期待に小さく震える。
「素直じゃないところも、国宝級の価値がありますね」
蓮次は誠一郎のすぐ隣に立ち、その耳元で囁いた。肺腑に届くような低い声が、書斎の重苦しい空気を、一瞬にして甘い熱に塗り替えていく。
誠一郎は、自らの心臓が、まるで逃げ場を失った河童のように騒ぎ立てるのを感じていた。
書斎の空気は、湿った墨の匂いと、積み上げられた古書の埃で白く濁っている。その静寂を、無遠慮な足音が粉々に打ち砕いた。
「失礼します、誠一郎さん! 今日も一段と、不機嫌そうな項(うなじ)が美しいですね!」
障子を撥ね飛ばさんばかりの勢いで現れたのは、佐伯蓮次である。この男の口角は、常に天に向かって弧を描いている。誠一郎は、こめかみの血管が微かに脈打つのを自覚した。
「……蓮次、貴様。何度言えば理解する。私は今、蜘蛛の糸を紡ぐような、繊細な思考の最中に居るのだ」
「蜘蛛の糸にしては、随分と太い溜息が聞こえましたが。さあ、その埃を被った羽織を脱いでください。私が日向の匂いに変えて差し上げます」
蓮次の大きな手が、誠一郎の肩に触れる。熱い。真夏の瓦のような熱量が、薄い衣越しに伝わってきた。誠一郎は椅子を蹴らんばかりに立ち上がり、背後の本棚へ逃げ込んだ。
「触るな! 私の皮膚には毒がある。貴様のような能天気な人種が触れれば、たちまち知性が溶けて消えるぞ」
「それは素晴らしい。僕の頭が空っぽになれば、誠一郎さんの言葉だけで中を満たせます」
「何を、奇怪至極なことを……!」
誠一郎の耳の付け根が、熟した無花果のように赤らんだ。彼は眼鏡を指で押し上げ、激しく鼻を鳴らす。
「掃除など不要だ。この乱雑こそが、私の脳内を具現化した小宇宙なのだからな」
「その小宇宙には、一週間前の林檎の芯も含まれるのですか? あ、ここにも。誠一郎さん、あなたの宇宙は少々、発酵が進みすぎているようです」
蓮次は屈託のない笑みを浮かべ、床に転がっていた林檎の芯を、懐紙で鮮やかに包み上げた。その動作は、まるで稀世の宝玉を扱うかのように丁寧である。
「置け! それは……創作の資料だ」
「嘘を吐く時の誠一郎さんは、左の眉が三ミリほど上がります。可愛いですね」
「可愛いと言うな! この、厚顔無恥な若造が!」
誠一郎の叫びは、蓮次が軽快に振り回す雑巾の音にかき消された。
乾いた畳が磨かれ、窓から差し込む陽光が、誠一郎の隠れ家を容赦なく照らし出す。
「さあ、お茶を淹れますよ。誠一郎さんの好きな、苦味で顔が歪むようなやつを」
「誰が飲むか。私は……私は、孤独という名の苦味だけで十分なのだ」
そう言いながらも、誠一郎の鼻腔は、蓮次が持ち込んだ新しい茶葉の、清涼な香りを敏感に捉えていた。喉の奥が、期待に小さく震える。
「素直じゃないところも、国宝級の価値がありますね」
蓮次は誠一郎のすぐ隣に立ち、その耳元で囁いた。肺腑に届くような低い声が、書斎の重苦しい空気を、一瞬にして甘い熱に塗り替えていく。
誠一郎は、自らの心臓が、まるで逃げ場を失った河童のように騒ぎ立てるのを感じていた。
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