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二話
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原稿用紙の白さが、これほどまでに憎たらしく思える日はなかった。
誠一郎の腹の虫は、先刻からまるで羅生門の雨を避ける孤児の如く、鳴き声を上げ続けている。
「……静まれ。今は高尚な文学的懊悩に浸っているのだ」
誠一郎は痩せた腹を片手で押さえ、万年筆を握り直した。だが、脳裏に浮かぶのは、美しい比喩でも鋭利な語彙でもない。ただ、黄金色に輝く、ねっとりとした甘味の塊であった。
そこへ、予告なしの足音が廊下を滑るように近づいてくる。
「誠一郎さん! 今日は最高傑作ができましたよ!」
障子が開くのと同時に、鼻腔を強襲したのは、甘やかな、そして力強い香気だ。
蓮次が捧げ持っているのは、青磁の椀に盛られた「芋粥」であった。しかも、ただの粥ではない。山芋のすりおろしに甘葛の汁をたっぷりと加え、丁寧に炊き上げられたことが一目でわかる、艶やかな照りを放っている。
「……何だ、その奇怪な発色をした物体は」
「奇怪とは失礼な。利根川のほとりで見つけた最高級の山芋を、僕が三時間かけて丹念に磨り潰した、愛の結晶ですよ」
「愛などという不衛生な隠し味は不要だ。私は今、創作の神と対話をしている。貴様のような俗物が持ち込む食物など……」
ぐう。
誠一郎の言葉を遮ったのは、彼の喉ではなく、あまりに正直すぎる腹の音であった。
誠一郎の頬が、一瞬にして燃えるような朱に染まる。彼は慌てて眼鏡を直し、窓の外の枯れ木を凝視した。
「聞いたことがありませんね。創作の神は、随分と景気の良い音を立てて鳴くようです」
「……今の音は、大気の振動が本棚の隙間で共鳴したに過ぎん。物理現象だ。文学ではない」
「では、この物理現象を鎮めるために、一口だけ試してみませんか。冷めたら愛が凝固してしまいますから」
蓮次は躊躇なく誠一郎の隣に腰を下ろした。二人の距離は、今や肘と肘が触れ合うほどに近い。
蓮次が銀の匙で粥を掬い、誠一郎の唇へと近づける。立ち上る湯気が、誠一郎の眼鏡を白く曇らせた。視界を奪われたことで、嗅覚と触覚が異常なまでに研ぎ澄まされていく。
「さあ、誠一郎さん。あーん、です」
「馬鹿を申せ! 私は三十男だぞ。誰がそのような、乳飲み子の真似事を……」
「おや、口を開けないと、僕が直接、口移しで差し上げることになりますが?」
「……貴様、正気か」
「僕はいつだって、誠一郎さんを愛でることに関しては狂気すら凌駕する正気です」
蓮次の声は低く、どこか甘い磁気を帯びている。誠一郎は、逃げ場を失った鼠のような心境で、震える唇を僅かに割った。
滑り込んできた匙が、舌の上に温かな重みを落とす。
官能的なまでの甘さと、山芋の滋味。それは誠一郎の疲弊した胃腑を、春の陽光のように優しく愛撫した。
誠一郎の喉が、無意識のうちに嚥下の音を立てる。
「……ふん。悪くない。砂糖の分量が、極めて数学的な妥当性を持っている」
「本当は『美味しい』と言いたいのに、そうやって難しい言葉で装飾するところ、本当に尊いですね」
「尊いなどと……! 語彙の貧困を露呈させるな」
誠一郎は憤慨しようと試みたが、蓮次が次の匙を差し出すスピードの方が早かった。
二口、三口。
蓮次の指先が、時折誠一郎の唇の端に触れる。その指の熱が、粥の熱さよりも鮮烈に、誠一郎の意識を撹乱した。
誠一郎の瞳は、曇った眼鏡の奥で、潤んだような光を湛え始める。
「誠一郎さんの唇、粥よりも柔らかくて甘そうですね」
「何を……! 食べるのをやめるぞ!」
「あはは、嘘ですよ。でも、顔が真っ赤です。そんなに僕の看病が嬉しいですか?」
蓮次は空になった椀を置くと、懐から取り出した清潔な手拭いで、誠一郎の口元を拭った。
親指の付け根が、誠一郎の顎のラインをなぞる。それは清拭というよりは、獲物の味を確認する捕食者の手つきに近かった。
「……ご馳走様、くらいは言えるでしょう?」
「…………感謝は、次の作品の印税で払う。言葉にするのは、私の美学に反する」
「いいですよ。言葉の代わりに、もっと別の形で頂戴しますから」
蓮次は、誠一郎の肩に顎を乗せ、楽しげに笑った。
誠一郎は、自らの心臓が、まるで芋粥を煮立てる鍋の底のように、沸々と音を立てて波打つのを感じていた。
秋の午後はまだ長く、書斎には蜜のような沈黙が降り積もっていく。
誠一郎の腹の虫は、先刻からまるで羅生門の雨を避ける孤児の如く、鳴き声を上げ続けている。
「……静まれ。今は高尚な文学的懊悩に浸っているのだ」
誠一郎は痩せた腹を片手で押さえ、万年筆を握り直した。だが、脳裏に浮かぶのは、美しい比喩でも鋭利な語彙でもない。ただ、黄金色に輝く、ねっとりとした甘味の塊であった。
そこへ、予告なしの足音が廊下を滑るように近づいてくる。
「誠一郎さん! 今日は最高傑作ができましたよ!」
障子が開くのと同時に、鼻腔を強襲したのは、甘やかな、そして力強い香気だ。
蓮次が捧げ持っているのは、青磁の椀に盛られた「芋粥」であった。しかも、ただの粥ではない。山芋のすりおろしに甘葛の汁をたっぷりと加え、丁寧に炊き上げられたことが一目でわかる、艶やかな照りを放っている。
「……何だ、その奇怪な発色をした物体は」
「奇怪とは失礼な。利根川のほとりで見つけた最高級の山芋を、僕が三時間かけて丹念に磨り潰した、愛の結晶ですよ」
「愛などという不衛生な隠し味は不要だ。私は今、創作の神と対話をしている。貴様のような俗物が持ち込む食物など……」
ぐう。
誠一郎の言葉を遮ったのは、彼の喉ではなく、あまりに正直すぎる腹の音であった。
誠一郎の頬が、一瞬にして燃えるような朱に染まる。彼は慌てて眼鏡を直し、窓の外の枯れ木を凝視した。
「聞いたことがありませんね。創作の神は、随分と景気の良い音を立てて鳴くようです」
「……今の音は、大気の振動が本棚の隙間で共鳴したに過ぎん。物理現象だ。文学ではない」
「では、この物理現象を鎮めるために、一口だけ試してみませんか。冷めたら愛が凝固してしまいますから」
蓮次は躊躇なく誠一郎の隣に腰を下ろした。二人の距離は、今や肘と肘が触れ合うほどに近い。
蓮次が銀の匙で粥を掬い、誠一郎の唇へと近づける。立ち上る湯気が、誠一郎の眼鏡を白く曇らせた。視界を奪われたことで、嗅覚と触覚が異常なまでに研ぎ澄まされていく。
「さあ、誠一郎さん。あーん、です」
「馬鹿を申せ! 私は三十男だぞ。誰がそのような、乳飲み子の真似事を……」
「おや、口を開けないと、僕が直接、口移しで差し上げることになりますが?」
「……貴様、正気か」
「僕はいつだって、誠一郎さんを愛でることに関しては狂気すら凌駕する正気です」
蓮次の声は低く、どこか甘い磁気を帯びている。誠一郎は、逃げ場を失った鼠のような心境で、震える唇を僅かに割った。
滑り込んできた匙が、舌の上に温かな重みを落とす。
官能的なまでの甘さと、山芋の滋味。それは誠一郎の疲弊した胃腑を、春の陽光のように優しく愛撫した。
誠一郎の喉が、無意識のうちに嚥下の音を立てる。
「……ふん。悪くない。砂糖の分量が、極めて数学的な妥当性を持っている」
「本当は『美味しい』と言いたいのに、そうやって難しい言葉で装飾するところ、本当に尊いですね」
「尊いなどと……! 語彙の貧困を露呈させるな」
誠一郎は憤慨しようと試みたが、蓮次が次の匙を差し出すスピードの方が早かった。
二口、三口。
蓮次の指先が、時折誠一郎の唇の端に触れる。その指の熱が、粥の熱さよりも鮮烈に、誠一郎の意識を撹乱した。
誠一郎の瞳は、曇った眼鏡の奥で、潤んだような光を湛え始める。
「誠一郎さんの唇、粥よりも柔らかくて甘そうですね」
「何を……! 食べるのをやめるぞ!」
「あはは、嘘ですよ。でも、顔が真っ赤です。そんなに僕の看病が嬉しいですか?」
蓮次は空になった椀を置くと、懐から取り出した清潔な手拭いで、誠一郎の口元を拭った。
親指の付け根が、誠一郎の顎のラインをなぞる。それは清拭というよりは、獲物の味を確認する捕食者の手つきに近かった。
「……ご馳走様、くらいは言えるでしょう?」
「…………感謝は、次の作品の印税で払う。言葉にするのは、私の美学に反する」
「いいですよ。言葉の代わりに、もっと別の形で頂戴しますから」
蓮次は、誠一郎の肩に顎を乗せ、楽しげに笑った。
誠一郎は、自らの心臓が、まるで芋粥を煮立てる鍋の底のように、沸々と音を立てて波打つのを感じていた。
秋の午後はまだ長く、書斎には蜜のような沈黙が降り積もっていく。
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