偏屈先生、書生の愛に剥かれる

Sina

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三話

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 意識の糸が、ぷつりと断たれた。
 万年筆の先から滴った墨が、原稿用紙の「虚無」という文字の上に、黒い池を作っている。
 誠一郎の魂は、睡魔という名の巨大な河童に引きずり込まれ、底の見えぬ泥濘(でいねい)の中を彷徨っていた。静寂。ただ、遠くで規則正しい鼓動のような、低い地鳴りが聞こえる。

「……ん」

 微かな吐息と共に、誠一郎の意識が水面に浮上した。
 最初に感じたのは、頬を支える奇妙な弾力である。それは、愛用している木綿の枕よりも遥かに堅牢で、それでいて、冬の炬燵(こたつ)を思わせる柔らかな熱を帯びていた。
 さらに、鼻腔を掠めるのは墨の匂いではない。それは、石鹸の香りと、若い雄の獣を彷彿とさせる、瑞々しい生命の香気であった。

 誠一郎は、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
 視界に飛び込んできたのは、書斎の煤けた天井ではない。
 自分を見下ろす、佐伯蓮次の、陽光を凝縮したような笑顔であった。

「おはようございます、誠一郎さん。随分と可愛らしい寝息を立てていらっしゃいましたね。まるで、迷子になった子猫のようでしたよ」

 誠一郎の思考は、零下三十度の氷水に叩き込まれた如く、一瞬で凍結した。
 自分の頭が位置している場所。それは、蓮次の逞しい太腿の上――世に言う「膝枕」という、破廉恥極まりない状態であった。

「……ぎ、……ぎゃ!」

 誠一郎は跳ね起きようとした。だが、蓮次の大きな手が、誠一郎の肩を優しく、しかし抗いようのない力で押さえつけた。

「危ないですよ。急に動くと、立ち眩みがします。まだ、僕の膝にはあなたの体温が残っていますから、もう少しこうしていても罰は当たりません」
「離せ! この……不埒千万な! 貴様、いつからそこに居た! 私の神聖なる書斎に、許可もなく脚を突き出すとは、何たる傲慢だ!」

 誠一郎は眼鏡を掴み上げ、乱暴に顔へ押し当てた。レンズが曇っているのか、それとも自分の目元が熱を持っているのか。蓮次の顔が、酷く艶めかしく歪んで見える。

「許可ですか? 誠一郎さんが執筆中に『ああ……もう駄目だ……』と力尽きて倒れ込んだ際、僕がちょうど良い位置に滑り込んだだけですよ。これは物理法則における『衝突と吸着』です」
「嘘を吐け! 私は……私は断じて、貴様の膝など求めておらん!」

 誠一郎の耳は、今や紅蓮の炎に焼かれたように赤い。彼は蓮次の腕を振り払おうとするが、指先が触れる蓮次の腕の筋肉は、鋼のように硬く、そして生命力に満ち溢れていた。
 自分の細い指先が、その熱に溶けてしまいそうな錯覚に陥る。

「では、なぜ僕の膝に頬を擦り寄せていたのですか? 夢の中で、美味しい蜜柑でも食べていらしたのでしょう? 僕の袴、少し濡れてしまいましたよ」
「なっ……! それは……それは、睡涎(すいぜん)ではない! 創作の汗だ! 脳から溢れ出した、知性の滴だ!」

 誠一郎の弁明は、もはや論理の体を成していなかった。
 蓮次は声を立てて笑い、誠一郎の乱れた髪を、慈しむように指先で整えた。その指が額に触れるたび、誠一郎の背筋を、奇妙な悪寒……あるいは甘美な痺れが走り抜ける。

「知性の滴、ですか。随分と甘い匂いがしますね。誠一郎さん、あなたは自分の自尊心が強ければ強いほど、こうして無防備になった時の姿が、どれほど僕を狂わせるか、全く理解していらっしゃらない」

 蓮次の声から、先程までの茶化すような響きが消えた。
 深淵のように黒い瞳が、誠一郎の視線を射抜く。
 誠一郎は息を呑んだ。胸の奥が、捕らえられた鳥のように激しく羽ばたきを繰り返す。

「……ど、どけ。どかぬなら、今すぐこの家から叩き出す」
「どきませんよ。あなたが僕の名前を、ただの『書生』としてではなく、一人の『男』として呼んでくださるまでは」

 蓮次はさらに顔を近づけた。鼻先が触れ合うほどの距離。
 誠一郎は、自らの心臓が奏でる、恥ずべきほどに早まったリズムが、蓮次にも筒抜けであることに絶望した。
 書斎の古びた時計が、カチカチと無慈悲に時を刻む。
 外では、冬の鳥が一声、鋭く鳴いた。

「蓮次……貴様……」
「はい、誠一郎さん」

 誠一郎は、それ以上言葉を続けることができなかった。
 ただ、自分の頬に残る蓮次の脚の感触が、まるで焼き印のように熱く、いつまでも消えないことだけを呪っていた。
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