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四話
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冬の陽光は、障子の紙を透かして、書斎の畳の上に歪な長方形を並べていた。
誠一郎は、前回の「膝枕事件」以来、蓮次が部屋に足を踏み入れるたびに、獲物を警戒する山猫のような眼差しを隠そうとしなかった。万年筆を握る指先には余計な力が入り、文字はどれも棘を帯びて尖っている。
「誠一郎さん、そう尖っていては、せっかくの美しい物語が針鼠になってしまいますよ」
軽やかな声と共に、蓮次が持ち込んだのは、編み籠に山盛りになった蜜柑であった。
その鮮やかな橙色は、薄暗い書斎の中で、そこだけが別の宇宙から切り取られてきたかのような、異質な生命の輝きを放っている。
「……蜜柑か。卑俗な果実だ。皮を剥けば爪の間が黄色く染まり、その匂いは数刻にわたって指先に居座り続ける。執筆の邪魔だ。持ち帰れ」
「おや、その『不自由』こそが冬の醍醐味ではありませんか。指先に残る匂いを嗅ぐたび、あなたは僕を思い出すことになる。それは、最高に贅沢な執筆の友でしょう?」
蓮次は誠一郎の拒絶を春風のように受け流すと、彼の机の端、原稿用紙のすぐ隣に腰を下ろした。
そして、おもむろに一つの蜜柑を手に取る。
親指の先が、張りのある橙色の皮に深く食い込んだ。
ぷしゅり、と。
微細な水飛沫が舞い、清冽な香気が書斎の淀んだ空気を一気に切り裂いた。それは、理性を麻痺させるほどに鮮烈な、冬の香りの暴力であった。
「……っ」
誠一郎は、不覚にも喉を鳴らした。
蓮次の指先は、驚くほど器用に、そして残酷なまでに丁寧に皮を剥いていく。白い筋の一本一本までを、まるで古文書の煤を払う鑑定士のような手つきで取り除いていくのだ。
剥き出しになった果肉は、薄い膜の向こう側で、滴り落ちんばかりの水分を湛えて震えている。
「さあ、誠一郎さん。一番甘そうなところを選びました」
蓮次が、一房の果肉を誠一郎の唇へ差し出した。
誠一郎は、背後の本棚に後頭部を打ちつける勢いで身を引いた。
「断る! 私は……私は今、孤独という名の、高貴な飢えを楽しんでいるのだ」
「その高貴な飢えとやらは、僕の捧げる一房で、たちまち卑俗な満足へと変わるはずです。さあ、意地を張らずに。あなたの唇は、先程から小刻みに震えて、この蜜柑を欲しがっている」
蓮次の指摘は、正確無比な矢のように誠一郎の核心を射抜いた。
誠一郎は、己の生理的反応を呪った。空腹ではない。ただ、蓮次の指先に摘まれたその果実を、自分の口腔で受け止めるという行為の、破廉恥なまでの誘惑に耐えかねていたのだ。
「……一房だけだ。それで満足して、早々に退散しろ」
誠一郎は、自らの敗北を認めるように、屈辱に震えながら口を開いた。
蓮次の指が、誠一郎の唇に触れる。
蜜柑の冷たさと、蓮次の指の熱。
二つの相反する温度が、同時に誠一郎の神経を逆撫でした。
果肉が口の中で弾けた瞬間、溢れ出した果汁が、誠一郎の思考を真っ白に染め上げた。甘い。あまりに甘く、そして僅かな酸味が、脳の深部を直接刺激する。
「……ん、……ふ」
咀嚼する音さえも、静まり返った部屋では卑猥な響きを帯びる。
誠一郎の目元が、熱に浮かされたように赤らみ、眼鏡が僅かにずれ落ちた。
「美味しいでしょう? あなたの喉が、もっと欲しいと鳴いていますよ」
「……黙れ。これは……これは、水分補給に過ぎん。貴様の……貴様の存在とは、何ら関係のない……」
言い終える前に、蓮次の次の手が伸びてきた。
今度は、一房ではない。蓮次は自らの指先に付着した蜜柑の果汁を、誠一郎の唇になぞりつけたのだ。
「何をする……!」
「溢れたら勿体ないですから。拭ってあげているだけですよ。ほら、ここにも」
蓮次の親指が、誠一郎の下唇をゆっくりと押し下げる。
指先から伝わる、粘り気のある果汁の感触。
誠一郎は、自らの理性が、蜜柑の皮のように無惨に剥がされていくのを感じていた。
蓮次の瞳には、困惑する誠一郎の姿が、面白くて仕方がないといった様子で映っている。
「……蓮次。貴様は、私をどうしたいのだ」
「決まっているではありませんか。この蜜柑のように、あなたを隅々まで剥き出しにして、その甘い芯まで、僕が独り占めにするのですよ」
蓮次の囁きは、蜜柑の香りよりも深く、誠一郎の肺を満たした。
誠一郎は、もはや万年筆を握ることさえ忘れ、目の前の「怪物」が放つ、抗い難い熱量に、ただただ立ち竦むしかなかった。
机の上には、無惨に剥かれた蜜柑の皮が、骸(むくろ)のように散らばっている。
書斎の空気は、もはや墨の匂いなどどこにもなく、ただただ、狂おしいほどの橙の香りに支配されていた。
誠一郎は、前回の「膝枕事件」以来、蓮次が部屋に足を踏み入れるたびに、獲物を警戒する山猫のような眼差しを隠そうとしなかった。万年筆を握る指先には余計な力が入り、文字はどれも棘を帯びて尖っている。
「誠一郎さん、そう尖っていては、せっかくの美しい物語が針鼠になってしまいますよ」
軽やかな声と共に、蓮次が持ち込んだのは、編み籠に山盛りになった蜜柑であった。
その鮮やかな橙色は、薄暗い書斎の中で、そこだけが別の宇宙から切り取られてきたかのような、異質な生命の輝きを放っている。
「……蜜柑か。卑俗な果実だ。皮を剥けば爪の間が黄色く染まり、その匂いは数刻にわたって指先に居座り続ける。執筆の邪魔だ。持ち帰れ」
「おや、その『不自由』こそが冬の醍醐味ではありませんか。指先に残る匂いを嗅ぐたび、あなたは僕を思い出すことになる。それは、最高に贅沢な執筆の友でしょう?」
蓮次は誠一郎の拒絶を春風のように受け流すと、彼の机の端、原稿用紙のすぐ隣に腰を下ろした。
そして、おもむろに一つの蜜柑を手に取る。
親指の先が、張りのある橙色の皮に深く食い込んだ。
ぷしゅり、と。
微細な水飛沫が舞い、清冽な香気が書斎の淀んだ空気を一気に切り裂いた。それは、理性を麻痺させるほどに鮮烈な、冬の香りの暴力であった。
「……っ」
誠一郎は、不覚にも喉を鳴らした。
蓮次の指先は、驚くほど器用に、そして残酷なまでに丁寧に皮を剥いていく。白い筋の一本一本までを、まるで古文書の煤を払う鑑定士のような手つきで取り除いていくのだ。
剥き出しになった果肉は、薄い膜の向こう側で、滴り落ちんばかりの水分を湛えて震えている。
「さあ、誠一郎さん。一番甘そうなところを選びました」
蓮次が、一房の果肉を誠一郎の唇へ差し出した。
誠一郎は、背後の本棚に後頭部を打ちつける勢いで身を引いた。
「断る! 私は……私は今、孤独という名の、高貴な飢えを楽しんでいるのだ」
「その高貴な飢えとやらは、僕の捧げる一房で、たちまち卑俗な満足へと変わるはずです。さあ、意地を張らずに。あなたの唇は、先程から小刻みに震えて、この蜜柑を欲しがっている」
蓮次の指摘は、正確無比な矢のように誠一郎の核心を射抜いた。
誠一郎は、己の生理的反応を呪った。空腹ではない。ただ、蓮次の指先に摘まれたその果実を、自分の口腔で受け止めるという行為の、破廉恥なまでの誘惑に耐えかねていたのだ。
「……一房だけだ。それで満足して、早々に退散しろ」
誠一郎は、自らの敗北を認めるように、屈辱に震えながら口を開いた。
蓮次の指が、誠一郎の唇に触れる。
蜜柑の冷たさと、蓮次の指の熱。
二つの相反する温度が、同時に誠一郎の神経を逆撫でした。
果肉が口の中で弾けた瞬間、溢れ出した果汁が、誠一郎の思考を真っ白に染め上げた。甘い。あまりに甘く、そして僅かな酸味が、脳の深部を直接刺激する。
「……ん、……ふ」
咀嚼する音さえも、静まり返った部屋では卑猥な響きを帯びる。
誠一郎の目元が、熱に浮かされたように赤らみ、眼鏡が僅かにずれ落ちた。
「美味しいでしょう? あなたの喉が、もっと欲しいと鳴いていますよ」
「……黙れ。これは……これは、水分補給に過ぎん。貴様の……貴様の存在とは、何ら関係のない……」
言い終える前に、蓮次の次の手が伸びてきた。
今度は、一房ではない。蓮次は自らの指先に付着した蜜柑の果汁を、誠一郎の唇になぞりつけたのだ。
「何をする……!」
「溢れたら勿体ないですから。拭ってあげているだけですよ。ほら、ここにも」
蓮次の親指が、誠一郎の下唇をゆっくりと押し下げる。
指先から伝わる、粘り気のある果汁の感触。
誠一郎は、自らの理性が、蜜柑の皮のように無惨に剥がされていくのを感じていた。
蓮次の瞳には、困惑する誠一郎の姿が、面白くて仕方がないといった様子で映っている。
「……蓮次。貴様は、私をどうしたいのだ」
「決まっているではありませんか。この蜜柑のように、あなたを隅々まで剥き出しにして、その甘い芯まで、僕が独り占めにするのですよ」
蓮次の囁きは、蜜柑の香りよりも深く、誠一郎の肺を満たした。
誠一郎は、もはや万年筆を握ることさえ忘れ、目の前の「怪物」が放つ、抗い難い熱量に、ただただ立ち竦むしかなかった。
机の上には、無惨に剥かれた蜜柑の皮が、骸(むくろ)のように散らばっている。
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