偏屈先生、書生の愛に剥かれる

Sina

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八話

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 書斎の窓から差し込む朝光(ちょうこう)が、埃の舞う室内を黄金色の海へと変えていた。
 誠一郎の指先は、今や墨の汚れさえも勲章のように誇らしげだ。机の上には、一束の分厚い原稿が鎮座している。それは、かつての彼が書いていた「空虚な孤独」の物語ではない。一人の男によって平穏をかき乱され、理性を剥ぎ取られ、ついには愛という名の地獄に堕ちた、滑稽な文士の懺悔録であった。

「……終わった。私の魂のすべてを、この紙片に刻みつけてやったぞ」

 誠一郎が椅子に深く沈み込むと、背後の気配が微かに揺れた。
 音もなく近づいてきた熱源。それは、いまや誠一郎の酸素も同然となった佐伯蓮次である。

「お疲れ様です、誠一郎さん。完結の瞬間を共感(シェア)できるなんて、僕は世界一の幸せ者ですね。さあ、その魂の欠片、一番に拝見させてください」

「ならん。これは……これは、私が死んだ後に、墓標の下に埋めるべき呪詛なのだ。生者に読ませるものではない」

「そんな照れ隠しは、もう通用しませんよ。あなたの心臓が、原稿を渡したくて仕方がないという風に、ドクドクと鳴っているのが聞こえます」

 蓮次は誠一郎の肩を両手で包み込み、耳元で悪戯っぽく囁いた。
 その手の平から伝わる脈動。誠一郎は、自らの意思が蜜柑の皮のように容易く剥がれ落ちるのを自覚した。

「……勝手にするがいい。ただし、読後の苦情は一切受け付けん。一字一句、貴様の横暴に対する私の血の叫びだからな」

 蓮次は、恭しく原稿を手に取った。
 ページを捲るたびに、カサリ、カサリと乾いた音が書斎に響く。
 誠一郎は、まるで自身の内臓を白日の下に晒しているような羞恥に耐えかね、手近にあった冷めた珈琲を啜った。苦い。だが、その苦味の奥には、蓮次が隠し味に加えた僅かな砂糖の甘みが、春の雪解けのように居座っている。

 読了した蓮次は、静かに原稿を置いた。
 彼の瞳は、かつてないほどに深く、熱を帯びた光を湛えている。

「誠一郎さん……これは、僕へのプロポーズだと受け取ってよろしいのですか?」

「何を……! どこをどう読めば、そのような破廉恥な結論に至るのだ! それは……それは、一人の人間が、理不尽な怪物に捕食される過程を描いたホラー小説だ!」

「『彼の熱情は、私の筆を折る力に満ちている。だが、その折れた筆の断面から溢れ出すのは、かつて知らなかった真実の色彩である』……。こんなに美しい独占欲の肯定を、僕は他に知りません」

 蓮次は椅子ごと誠一郎を自分の方へ向けさせた。
 誠一郎の眼鏡が僅かにズレる。蓮次の顔が、視界のすべてを覆い尽くさんばかりに迫った。

「誠一郎さん。あなたは、僕なしではもう、一行も書けない体になってしまった。違いますか?」

「……不遜な。貴様こそ、私という最高の被写体を失えば、ただの無能な陽気者に成り下がるだろう」

「ええ、その通りです。だから、一生、あなたの側に居座り続けますよ。あなたのインクが枯れるまで。いえ、あなたの命の灯火が消える、その瞬間まで」

 蓮次の唇が、誠一郎の額に、そして睫毛に、羽毛のように優しく触れた。
 誠一郎は、拒絶する言葉を喉の奥で飲み込んだ。
 自尊心の高い文士にとって、これは敗北以外の何物でもない。だが、その敗北感は、これまで彼が抱えてきたどの勝利よりも、甘く、そして温かかった。

「……夕飯は、何だ」

 誠一郎は、精一杯の虚勢を込めて尋ねた。

「今日は、鯛の赤飯にしましょうか。お祝いですからね」

「……祝うようなことなど、何もない。ただの……ただの、或る日の日常に過ぎん」

「はい。その、或る日の幸福を、明日も明後日も、百年先まで続けましょう」

 蓮次は誠一郎の細い指を絡め取り、その節だった指先に、敬虔な信者のようなキスを落とした。
 窓の外では、春を告げる鳥の声が賑やかに響いている。
 書斎に満ちていた重苦しい墨の匂いは、いまや蜜柑の香りと、二人の混じり合う吐息によって、最高に騒がしく、最高に甘美な、新しい物語の序章へと塗り替えられていた。

 誠一郎は、自らの頬を染める赤らみを隠すように、蓮次の胸に額を押し付けた。
 この地獄こそが、私の極楽。
 ペンを置き、彼に身を委ねるその瞬間、誠一郎の唇は、誰にも聞こえないほど小さな声で、愛おしい怪物の名を呼んだ。
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