偏屈先生、書生の愛に剥かれる

Sina

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七話

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 静寂。
 それはかつて、誠一郎が何よりも愛し、守り抜こうとした至高の果実であった。
 だが、今の書斎に満ちているのは、喉を掻き切るような鋭利な沈黙である。佐伯蓮次が姿を消してから、時計の針が刻む音さえも、誠一郎の脳髄を直接叩く木槌のように響いた。

「……清々した。これでようやく、私の小宇宙は秩序を取り戻したのだ」

 誠一郎は独り言を吐き捨て、冷え切った茶を啜った。
 茶葉は浮きも沈みもせず、不吉な泥水の如く底に淀んでいる。蓮次が淹れる茶には、常に陽光のような透明感があったが、自分で淹れるそれは、まるで己の心の濁りを映し出した鏡のようであった。

 編集者と共に街へ繰り出し、酒を煽り、高説を垂れて帰宅した昨夜。玄関に蓮次の靴はなかった。
 初めは「不遜な若造が、ようやく己の身の程を知ったか」と鼻で笑ったものだ。だが、夜が更けるにつれ、布団の冷たさが異常なまでに身に凍みた。
 背後に感じるはずの、真夏の瓦のような熱情がない。
 耳元で囁かれる、破廉恥で、それでいて心臓を跳ねさせる吐息がない。

 誠一郎は万年筆を握ったが、原稿用紙は白痴の如く彼を見返すばかりである。
 ふと、部屋の隅にある押入れが目に入った。そこには、蓮次が勝手に持ち込み、誠一郎が「美学に反する」と撥ね退けた、派手な縞模様の座布団が置かれている。
 誠一郎は、無意識のうちに椅子を立ち、その座布団へと歩み寄った。

 指先が、布地の表面をなぞる。
 そこには微かに、あの蜜柑の香りと、若い男の力強い匂いが染み付いていた。
 誠一郎の喉の奥が、熱い塊に塞がれたように鳴った。彼は座布団を抱き上げ、その中に顔を埋める。

「……阿呆め。貴様が……貴様が居ないせいで、私の語彙は死に絶えてしまったではないか」

 その時、脳裏に『杜子春』の一節が過った。
 如何なる地獄の責め苦に遭おうとも、決して口を開くなと仙人に命じられた男。誠一郎は今、まさにその試練の渦中に居るのだと感じた。
「蓮次がいない日常」という地獄。
 声を上げれば、自らの高潔な自尊心は崩壊し、あの若造に屈したことを認めることになる。沈黙を守れば、このまま彼は二度と戻ってこないかもしれない。

 誠一郎は、廊下へ飛び出した。
 埃を被った家の中を、狂ったように探し回る。台所、縁側、果ては庭の隅にある、蜘蛛の巣の張った物置まで。
 だが、どこにもあの、眩しいほどの笑顔はない。

 陽が傾き、書斎に不気味な紫色の影が伸び始めた。
 誠一郎は、玄関の土間に蹲った。冷たい石の感触が、袴越しに体温を奪っていく。
 彼は、自らの内に築き上げた牙城が、砂の城の如く崩れ落ちる音を聞いた。
 芥川が描いた杜子春は、地獄で苦しむ父母の姿に耐えかねて、ついに「お母さん」と叫んだ。
 ならば、自分は何を叫ぶべきか。

「……蓮次ッ!」

 その名は、誠一郎の肺腑を抉るようにして放たれた。
 自尊心も、美学も、文士としての虚飾も。全てを投げ出した、無様で、醜く、そして何よりも純粋な飢餓の叫び。
 その瞬間であった。

「おや。そんなに大きな声で呼ばなくても、ちゃんと帰ってきましたよ?」

 聞き慣れた、軽薄なまでに明るい声。
 誠一郎が顔を上げると、そこには両手いっぱいに買い物袋を下げた蓮次が、いつもと変わらぬ、陽光を凝縮したような笑顔で立っていた。

「……貴様、どこへ、行っていた」

「どこへって……市場の蜜柑が安かったので、隣町まで遠征していただけですよ。誠一郎さんがお留守の間に戻るつもりでしたが、意外とお早いお帰りで。もしや、僕が恋しくて探し回ってくださいました?」

 誠一郎は、凍りついたように立ち竦んだ。
 視界が、急激に熱を帯びる。怒りか、安堵か、それとも己の失態に対する絶望か。
 彼は蓮次の胸に頭をぶつけるようにして、その衣服を強く掴んだ。

「……死ね。貴様など、鬼に喰われてしまえ」

「おやおや、手足が小鹿のように震えていますよ。そんなに僕を愛しているなんて、正直に仰ればいいのに」

 蓮次は買い物袋を放り出し、誠一郎の細い体を、壊れ物を扱うように、しかし逃さぬように力強く抱きしめた。
 誠一郎は、蓮次の心臓の鼓動を耳元で聞きながら、自らの敗北を噛み締めた。
 この男の温もりという名の地獄。
 そこから抜け出すことなど、最初から必要なかったのだ。
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