偏屈先生、書生の愛に剥かれる

Sina

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六話

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 雨上がりの朝、書斎には地獄の業火ならぬ、あまりに爽快な初春の陽光が降り注いでいた。
 だが、誠一郎の目の前で繰り広げられている光景は、彼にとっては紛れもない「地獄」であった。

「……置け。それを今すぐ、元あった闇の深淵へ戻せ」

 誠一郎の声は、冬の枯れ葉のように乾いて震えていた。
 佐伯蓮次の指先に挟まれているのは、一枚の屑籠(くずかご)から救い出された原稿用紙である。そこには、昨夜の雨音に毒された誠一郎が、一時の迷いで書き殴った「恋の定義」についての、余りに美辞麗句を並べ立てた断片が記されていた。

「『君の睫毛が描く影は、僕の魂を縛り上げる鋼の鎖。その瞳に見つめられるだけで、僕は羅生門の下の餓鬼のように、ただ救いを求めて這いずり回る……』。ほう、誠一郎さん。これは随分と、情熱的な……」

「黙れ! それは……それは、単なる文体の実験だ! シュルレアリスムの、いわば言葉の死体解剖だ!」

 誠一郎は机を飛び越え、その紙片を奪い取ろうと手を伸ばした。しかし、蓮次は身軽な燕(つばめ)のような動作でそれを避け、逆に誠一郎の細い手首を、空いた方の手で鮮やかに捕らえた。

「死体にしては、随分と温かい血が通った文章ですね。特にこの、睫毛のくだり。心当たりがありますよ。僕が昨夜、あなたの至近距離で瞬きをした時のことでしょう?」

「自意識過剰だ! 貴様のような粗野な男をモデルにするほど、私の語彙は困窮していない!」

 誠一郎の顔面は、今や紅蓮の炎に包まれた大佛(だいぶつ)のごとく、真っ赤に焼き切れていた。
 蓮次は捕らえた手首を引き寄せ、誠一郎の体を自らの胸板へと、磁石のように吸い付けた。
 誠一郎は鼻先を蓮次の衣服に押し付けられ、石鹸の香りと、昨夜共有した布団の残り香が混じり合った、濃厚な気配に目眩(めまい)を覚える。

「もし、これが僕への手紙でないとしたら……誠一郎さん。僕は今、この部屋を本当の『地獄』に変えてしまうかもしれません」

 蓮次の声から、いつもの軽薄な陽気さが、霧が晴れるように消え失せた。
 低い、そして重い響き。それは、深い井戸の底から這い上がってくる、無意識の独占欲の塊であった。
 蓮次の指が、誠一郎の首筋を、獲物の急所を確認する鷹の爪のように優しくなぞる。

「……ひっ」

「誰を想って書いたのですか。あなたの魂を縛り上げる鎖は、僕以外の誰が持っているというのです。答えてください。さもなくば、この原稿を街中に、号外としてばら撒いて差し上げます」

「貴様……! それでも人間のすることか!」

「恋をした男は、人間をやめるものですよ。芥川先生の小説にも、そんな狂った輩(やから)が沢山出てくるではありませんか」

 蓮次は、誠一郎の眼鏡の奥にある、激しく揺れ動く瞳をじっと見つめた。
 誠一郎は、自らの心臓が、まるで地獄の釜で踊る亡者のように、不気味なほどの速さで鼓動を打つのを感じていた。
 羞恥、憤怒、そして……否定しきれない甘美な恐怖。

「……言えぬ。口にするくらいなら、舌を噛み切って死んでやる」

「強情ですね。でも、その震える唇は、僕のキスを待っているようにしか見えません」

 蓮次の顔が近づく。
 誠一郎は、自らの視界が蓮次の大きな影に覆い尽くされるのを、為す術もなく見つめていた。
 その時。

「あ、誠一郎さーん! 新作の原稿、取りに来ましたよー!」

 玄関先で、空気を読まない編集者の、陽気な絶叫が響き渡った。
 二人の間に張り詰めていた、地獄の如き緊張が、一瞬で「滑稽」という名の冷水に晒される。

「……っ! どけ! 客だ! 客が来た!」

 誠一郎は火のついた猫のような速さで蓮次を突き飛ばし、乱れた衣を整えた。
 蓮次は、奪い取った原稿用紙を大切そうに懐に収めると、再びいつもの、底抜けに明るい「書生」の顔に戻って微笑んだ。

「お邪魔虫の退散を待って、続きをしましょうか。先生の『魂の鎖』の持ち主が誰なのか、徹底的に白状していただきますから」

 誠一郎は、逃げ出すように書斎を飛び出しながら、心の中で激しく毒づいた。
 自分の人生をかき乱す、この「美しい怪物」との日々が、これほどまでに心安らぐものであることが、最大の地獄であると。
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