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第2話:自由への馬車

ガタゴトと、硬い車輪が石の多い街道を跳ねるたび、私の体は頼りなく座席の上で揺れた。

乗り合い馬車の狭い室内には、独特の獣の臭いと、古い木材の埃っぽさが充満している。決して快適とは言えない環境だったけれど、私にとってはどんな豪華な天蓋付きのベッドよりも、この場所の方が心地よく感じられた。

窓の外を流れていく景色は、見慣れたバルサス領の荒涼とした風景から、次第に深い緑の森へと変わっていく。

私はトランクを膝の上に抱きしめ、ふう、と深く長い溜息を吐き出した。

「本当に……終わったのね」

三年前、没落しかけていた実家を救うために、政略結婚という名の「身売り」同然でバルサス家に嫁いだ日のことを思い出す。

待っていたのは、冷酷な夫からの無関心と、義妹からの陰湿な嫌がらせだった。

バルサス男爵領は、一見すれば静かな田舎だが、実情は目も当てられないほど腐敗していた。前代からの放漫経営、重なる不作、そしてガストン様の無軌道な浪費。

私が嫁いだ時、金庫の中身は空っぽどころか、帳簿の数字は真っ赤に染まっていた。

私は、実家で密かに磨いていた演算魔法システムを使い、死に物狂いで領地経営を立て直した。

魔法で複雑な流通コストを弾き出し、一粒の種から得られる収穫量を最大化する。数千枚に及ぶ書類の不備を魔法的な処理で瞬時に見つけ出し、無駄な支出を削ぎ落としていった。

食事の間も、入浴の間も、私の頭の中では常に数字の羅列が高速回転オーバークロックしていた。

それなのに。

「セリア、お前は何もしない穀潰しだ」

ガストン様は、私が整えた綺麗な帳簿から生み出された「利益」だけを貪り、私自身の努力はすべて「運が良かっただけ」と切り捨てた。

彼にとって、私が夜を徹して書類を書き上げ、魔法を酷使して目を血走らせている姿は、ただの「可愛げのない振る舞い」に過ぎなかったのだ。

、家は回る。

あの言葉を思い出すたび、乾いた笑いがこみ上げてくる。

確かに、物理的に家が消えてなくなることはないだろう。けれど、私がこれまで魔法で無理やり繋ぎ止めていた「理」が失われた時、あの家がどうなるか。

「……私にはもう、関係のないことだわ」

私は首を振り、暗い思考を振り払った。今の私は、ただの自由な女だ。

馬車が最初の宿場町に到着したのは、太陽が真上に差し掛かった頃だった。

「一時間の休憩だ!食事をとる者は降りなさい!」

御者の威勢の良い声に促され、私は馬車を降りた。地面に足をつくと、長時間の移動で固まっていた膝が小さく悲鳴を上げる。

宿場町は、活気に溢れていた。旅人たちの喧騒、焼きたてのパンの香り、家畜の鳴き声。すべてがバルサス邸の閉鎖的な空気とは対照的で、私の心を躍らせた。

私は町外れの小さな食堂に入り、壁に掛けられたメニュー札を見つめた。

これまでは、リリアナさんに「贅沢は病人の毒ですわ」と皮肉を言われるのを避け、自分は冷え切ったスープと硬いパンだけで済ませてきた。

けれど、今は違う。

「すみません、この『本日の特製シチュー』をください」

「はいよ!お姉さん、別嬪さんだねえ。旅の途中かい?」

恰幅の良い女店主が、屈託のない笑顔で声をかけてくれる。私は少し戸惑いながらも、「ええ、新しい生活を始めるんです」と答えた。

運ばれてきたシチューは、湯気が立ち上り、ゴロゴロとした肉と野菜がたっぷりと入っていた。

スプーンですくい、口に運ぶ。

「……おいしい」

熱い液体が喉を通り、胃に染み渡っていく。五臓六腑が歓喜の声を上げているようだった。

これは、誰に遠慮することもなく、私が私のために選んだ食事リバティだ。

たったそれだけのことが、これほどまでに胸を熱くさせるとは思わなかった。

にお金を使う。自分の意志で食べるものを選ぶ。

剥奪されていた当たり前の権利を取り戻していく感覚。一歩、また一歩と、自分という存在が輪郭を取り戻していく。

食後、私は食堂の隅で休憩していた商人風の男たちに声をかけた。

「失礼いたします。皆さんは、エーテルから来られたのですか?」

男の一人、焼けた肌をした恰幅の良い商人が目を細めた。

「ああ、そうだよ。エーテルは今、最高に景気がいい。あそこじゃ、血筋なんて関係ねえ。動かした金の額と、持っている技術がすべてだ」

「技術……ですか」

「そうだ。特に、複雑な計算ができる事務方や、魔法を使った物流管理ができる人間は、どこの商会も喉から手が出るほど欲しがっている。ま、お嬢さんのような綺麗な人には、もっと別の仕事があるかもしれないがな」

商人はガハハと笑った。私はその言葉に、密かな希望を見出した。

私の演算魔法は、領地経営だけではなく、商売の現場でも確実に価値エビデンスを発揮するはずだ。

バルサス邸では「可愛げのない特技」と蔑まれた力が、エーテルでは私を支える剣となり、盾となる。

休憩を終え、再び馬車に乗り込む。

車窓から見える空は、高く、どこまでも澄んでいた。

私はトランクの中から、一冊の手帳を取り出した。それはバルサス家の帳簿ではなく、私の個人的な思考記録ログを記すためのものだ。

エーテルに着いたら、まず何をすべきか。
 どのような商会が有望か。
 私の魔法をどのように売り込めば、最高の条件を引き出せるか。

かつての私は、他人のためにしか使わなかったその知恵を、今は自分自身を救うために総動員している。

演算魔法。それは単なる計算ではない。

世界を構成する事象パラメータを読み解き、最適な未来を導き出す生活魔法ライフスペル

ガストン様は言った。私がいなくても家は回ると。

なら、見せてあげましょう。私がいなくなった後、私の魔法という「潤滑油」を失ったあの家が、どれほど凄まじい音を立てて軋み、壊れていくのかを。

そして、その犠牲の上に胡坐をかいていたあなたたちが、どれほどの無能であったかを。

私はもう、戻らない。

馬車は夕闇の中をひた走る。

夜の帳が降りる頃、私は今日という一日を振り返り、一度も後悔していない自分に驚いた。

不安がないわけではない。けれど、それ以上に「明日が楽しみだ」という感情が、私の胸を占拠していた。

自由。

その言葉の重みを噛みしめながら、私は心地よい揺れに身を任せた。

エーテルまで、あと二日。

私の新しい物語は、まだ始まったばかりなのだ。
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