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第9話:美味しい食事と温かいベッド
「ここが、今日から君の住まいだ」
ルカ様の言葉と共に開かれた扉の先には、私の想像を絶する光景が広がっていた。
海港都市エーテルの中でも、ひときわ見晴らしの良い丘の上に建つ高級邸宅。その最上階の一室が、私のために用意された新しい拠点だった。
一歩足を踏み入れると、足裏を優しく沈み込ませる毛足の長い絨毯の感触が伝わってくる。バルサス邸の、冬になれば氷のように冷たくなる石造りの床とは、何もかもが違っていた。
「……ルカ様、これはあまりに過ぎた待遇ですわ。私はただの専属補佐官に過ぎないはずですが」
「いいや、セリア。君は私の商会の、そして私自身の未来を支えるパートナーだ。最高の頭脳には、最高の休息が必要だろう?それに、ここは防犯用の魔法障壁も完備している。君の身の安全は、何よりも優先されるべきだ」
ルカ様はそう言って、悪戯っぽく微笑みながら一本の鍵を差し出した。
鈍く銀色に光るその鍵には、持ち主の魔力と同期して本人以外には扉を開けさせないという、精巧な術式が施されている。
私はその重みを感じながら、部屋の中を見渡した。
壁一面が磨き上げられたガラス窓になっており、そこからはエーテルの街明かりと、月光を反射して銀色に揺れる海が一望できる。
中央には、絹のような光沢を放つシーツが整えられた大きなベッド。
隅には、私が演算魔法の研究に没頭できるよう、最新の書架と広々としたデスクが設えられていた。
「今夜は、移動と初日の疲れを癒やすといい。食事は階下の厨房から、君の好みに合わせて運ばせるよう手配してある」
ルカ様が合図をすると、ほどなくしてワゴンに乗せられた料理が運び込まれてきた。
立ち上る湯気と共に鼻腔をくすぐるのは、ハーブの香りが効いた地鶏のローストと、季節の野菜を煮込んだ濃厚なスープの香りだ。
「……いただきます」
私はルカ様と共に、窓際のテーブルに座った。
バルサス邸での食事を思い出す。
あそこでの食事は、夫からの冷笑と義妹からの嫌味を耐え忍ぶための「作業」でしかなかった。
「君がいなくなってから、バルサス領の穀物取引が完全に停止したと報告が入っているよ」
ルカ様はワイングラスを傾けながら、何気ない口調で言った。
その言葉に、私はフォークを止めた。
「……そうですか。私が構築していた物流の論理均衡は、維持するだけでも一日に数万回の演算を必要としますから。引き継ぎもさせてもらえませんでしたし、当然の帰結でしょう」
「あんな宝の山を、自ら手放すとは。無知というのは、時としてどんな罪よりも残酷な結果を招くものだ」
ルカ様の瞳には、私への深い同情と、それ以上に強い「守護」の意志が宿っていた。
「だが、もういい。セリア、ここでは誰も君を『穀潰し』などと呼ばない。君が数字を並べるたびに、世界が動き、人々が豊かになる。私はその価値を、誰よりも理解している」
「……ありがとうございます、ルカ様」
その言葉は、冷え切っていた私の心の芯を、温かい灯火のように照らしてくれた。
料理はどれも絶品だった。
素材の味を最大限に引き出す調理法。噛みしめるたびに、体の隅々まで栄養が染み渡っていくのを感じる。
これまでは自分の空腹を満たすことすら、どこか罪悪感を抱かされていた。
「病弱な義妹が食べられないものを、健康な私が食べるなんて」と、暗に責められてきたからだ。
けれど、今は違う。
私は私の意志で食べ、私の意志で生きている。
食後、ルカ様が辞した後の部屋で、私は一人、バスルームへ向かった。
溢れんばかりの湯船には、心を落ち着かせる安息香の油が垂らされている。
温かい湯に身を沈めると、三年間にわたって私の肩にのしかかっていた、目に見えない重圧が溶け出していくようだった。
湯上がり。
私は用意されていた柔らかな寝衣に袖を通し、ベッドに横たわった。
驚くほど軽く、それでいて温かい毛布。
枕元に置かれたランプの光が、優しく部屋を包んでいる。
(……明日からは、誰の顔色もうかがわなくていい。私の魔法を、私のために使えるのね)
バルサス領では、常に深夜まで帳簿と格闘し、泥のように眠る毎日だった。
けれど今、私の心は凪のように静かだ。
私は一人の人間として、正当に扱われ、大切にされている。
その事実が、何よりも甘美な子守唄となって私を誘う。
窓の外、エーテルの夜空を眺めながら、私はゆっくりと目を閉じた。
かつて愛した(ふりをしていた)夫が、今頃どんな惨めな思いをしていようと。
偽りの病を盾に私を虐げた義妹が、どんな不便を強いられていようと。
そのすべてが、もう手の届かない遠い大陸の出来事のように思えた。
明日目が覚めたら、私はまた、数字の世界で自由に踊ることができる。
愛する仕事と、信頼できる仲間。そして、自分を愛せる場所。
私は、三年前の自分に言ってあげたかった。
「あなたは間違っていない。いつか、世界があなたの価値を見つける日が来るから」と。
心地よい静寂の中で、私は深い眠りに落ちていった。
ルカ様の言葉と共に開かれた扉の先には、私の想像を絶する光景が広がっていた。
海港都市エーテルの中でも、ひときわ見晴らしの良い丘の上に建つ高級邸宅。その最上階の一室が、私のために用意された新しい拠点だった。
一歩足を踏み入れると、足裏を優しく沈み込ませる毛足の長い絨毯の感触が伝わってくる。バルサス邸の、冬になれば氷のように冷たくなる石造りの床とは、何もかもが違っていた。
「……ルカ様、これはあまりに過ぎた待遇ですわ。私はただの専属補佐官に過ぎないはずですが」
「いいや、セリア。君は私の商会の、そして私自身の未来を支えるパートナーだ。最高の頭脳には、最高の休息が必要だろう?それに、ここは防犯用の魔法障壁も完備している。君の身の安全は、何よりも優先されるべきだ」
ルカ様はそう言って、悪戯っぽく微笑みながら一本の鍵を差し出した。
鈍く銀色に光るその鍵には、持ち主の魔力と同期して本人以外には扉を開けさせないという、精巧な術式が施されている。
私はその重みを感じながら、部屋の中を見渡した。
壁一面が磨き上げられたガラス窓になっており、そこからはエーテルの街明かりと、月光を反射して銀色に揺れる海が一望できる。
中央には、絹のような光沢を放つシーツが整えられた大きなベッド。
隅には、私が演算魔法の研究に没頭できるよう、最新の書架と広々としたデスクが設えられていた。
「今夜は、移動と初日の疲れを癒やすといい。食事は階下の厨房から、君の好みに合わせて運ばせるよう手配してある」
ルカ様が合図をすると、ほどなくしてワゴンに乗せられた料理が運び込まれてきた。
立ち上る湯気と共に鼻腔をくすぐるのは、ハーブの香りが効いた地鶏のローストと、季節の野菜を煮込んだ濃厚なスープの香りだ。
「……いただきます」
私はルカ様と共に、窓際のテーブルに座った。
バルサス邸での食事を思い出す。
あそこでの食事は、夫からの冷笑と義妹からの嫌味を耐え忍ぶための「作業」でしかなかった。
「君がいなくなってから、バルサス領の穀物取引が完全に停止したと報告が入っているよ」
ルカ様はワイングラスを傾けながら、何気ない口調で言った。
その言葉に、私はフォークを止めた。
「……そうですか。私が構築していた物流の論理均衡は、維持するだけでも一日に数万回の演算を必要としますから。引き継ぎもさせてもらえませんでしたし、当然の帰結でしょう」
「あんな宝の山を、自ら手放すとは。無知というのは、時としてどんな罪よりも残酷な結果を招くものだ」
ルカ様の瞳には、私への深い同情と、それ以上に強い「守護」の意志が宿っていた。
「だが、もういい。セリア、ここでは誰も君を『穀潰し』などと呼ばない。君が数字を並べるたびに、世界が動き、人々が豊かになる。私はその価値を、誰よりも理解している」
「……ありがとうございます、ルカ様」
その言葉は、冷え切っていた私の心の芯を、温かい灯火のように照らしてくれた。
料理はどれも絶品だった。
素材の味を最大限に引き出す調理法。噛みしめるたびに、体の隅々まで栄養が染み渡っていくのを感じる。
これまでは自分の空腹を満たすことすら、どこか罪悪感を抱かされていた。
「病弱な義妹が食べられないものを、健康な私が食べるなんて」と、暗に責められてきたからだ。
けれど、今は違う。
私は私の意志で食べ、私の意志で生きている。
食後、ルカ様が辞した後の部屋で、私は一人、バスルームへ向かった。
溢れんばかりの湯船には、心を落ち着かせる安息香の油が垂らされている。
温かい湯に身を沈めると、三年間にわたって私の肩にのしかかっていた、目に見えない重圧が溶け出していくようだった。
湯上がり。
私は用意されていた柔らかな寝衣に袖を通し、ベッドに横たわった。
驚くほど軽く、それでいて温かい毛布。
枕元に置かれたランプの光が、優しく部屋を包んでいる。
(……明日からは、誰の顔色もうかがわなくていい。私の魔法を、私のために使えるのね)
バルサス領では、常に深夜まで帳簿と格闘し、泥のように眠る毎日だった。
けれど今、私の心は凪のように静かだ。
私は一人の人間として、正当に扱われ、大切にされている。
その事実が、何よりも甘美な子守唄となって私を誘う。
窓の外、エーテルの夜空を眺めながら、私はゆっくりと目を閉じた。
かつて愛した(ふりをしていた)夫が、今頃どんな惨めな思いをしていようと。
偽りの病を盾に私を虐げた義妹が、どんな不便を強いられていようと。
そのすべてが、もう手の届かない遠い大陸の出来事のように思えた。
明日目が覚めたら、私はまた、数字の世界で自由に踊ることができる。
愛する仕事と、信頼できる仲間。そして、自分を愛せる場所。
私は、三年前の自分に言ってあげたかった。
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