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第11話 執事の献身
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このところ、フィリアはシドを書庫へ呼び出す回数を増やしていた。
なんとかして彼を運命の三人のどれかに当て嵌める道は果てしなく険しいが、その時が来たら速攻で恋愛して婚約しなくてはならないから、あらかじめ親交を深めておくことも重要なミッションなのだ。
もはや黒髪の騎士探しなど嘘っぱちである。
自分を謀っているらしいシドを謀って二人きりになるという論法で罪悪感はなかった。
そういうわけで、一通り目ぼしい書物に手をつけ、謎の文字に関する議論が終わって一息つくと、後はもう全く無関係な話題に突入することが常態化していた。
普通ならもうそろそろ、フィリアの気持ちに気付いてくれていてもおかしくないはずなのだが、彼は随分と鈍感な人らしく、この日も飄々としていてさっぱり手ごたえを感じない。
この日も二人は例の占い関係の書棚へ移動した。立てかけられた梯子の3段目に腰を下ろし、いつものように世間話を始める。
「あのね、私、初対面や時々会う人には、東洋の香木を焚いて占いをするの。香のにおいや色と、空気の様子や、それから私の直感でね。シドは覚えてるかしら、あなたの時にも占ったわ」
「……ああ、そういえば、初めてお部屋へ伺ったときにも香が焚かれていました。それでどのようなことが分かるのですか」
「その人が私にとって信頼に足る人物かどうか」
フィリアは悪戯をした後の子供のようにクスリと笑い、シドの顔を見上げた。これまでになく心を許した、渾身のはにかんだ笑顔を投げつけてやる。
「それで……いかがでしたか、私は」
「今まで占った人の中で、バゼルの次に信頼度が高かったわ。あなたなら絶対信用できると分かったからこそ、文字の解読を手伝ってもらうことにしたのよ」
「…………さようですか、それは良かった」
戸惑い気味だが、シドも小さく微笑を返してくれた。最近、切なげな鷹の目尻が下がっていることが多い気がしてときめいてしてしまう。
「ですがお嬢様、占いというのは必ずしも当たるとは限りません。あまり信用しすぎるのも問題かと私は思いますよ」
「まあ、お父様みたいなこと言うのね。シドは私の占いを信じられないと言うの?」
「そういうわけではないのですが……例えば、いつもこうして暗い場所に二人でおりますが、実は占いが外れていて、私が本当は不埒な謀反人だったらどうするのでしょう。お嬢様は逃げ場がございませんよ」
「大丈夫よ、シドなら」
「そうでしょうか」
「そうよ。信じてるもの」
フィリアは愛情を込めてクスリと笑った。確かに打率は六割だから絶対とは言えないが、シドは信用できる人でなくては困るし、この占いだけは自信がある。
そして即座に立ち上がり、思い切ってパワフルに梯子を上り始めた。
淑女がドレスのまま梯子を上るのはなかなか無理のある行為だ。シドが慌ててやめるようにと声をかけて来たが、意に介することもなくどんどん上って行く。
「占いってね、信じなくちゃ始まらないの。この一番上に古代の大占星術師ボッサロ卿の言葉をまとめた蔵書があるはずよ。そこに占いの何たるかが書かれているわ。それをあなたに見せてあげる」
「お嬢様、おやめください。書物なら私が取りますので今すぐそこから降りてください」
「嫌よ! 私が落ちたら、あなたが助けなさい。それであなたが信用できるかどうか確かめてあげる!」
「何をおっしゃるのです」
聞いたこともないシドの慌てふためいた声が聞こえて驚いた。
そんなに慌てるようなことだろうか――そう思って下を見下ろすと、貴族家の婦女子にはよくある事だが、信じられない高さに驚愕し、スカートを踏んで梯子から足を踏み外した。
「きゃあぁ!」
「お嬢様!」
びっくりした。
必死に両手だけで梯子につかまり、もう一度足をかけようとするが長いスカートが邪魔で何度もずり落ちる。自分の体重は意外と重いのだと初めて知った。
梯子の踏ざんは角ばった平たい板だから、掴り続けている内に手首が擦り剥けてきた。
シドは慌てて床にランタンを置き、目の高さまで来ていたフィリアの腰をがっしり両手に挟んで体を浮かせてくれた。明かりが遠くなり、視界が暗い。
「何をなさっているのですか、怪我をしたらどうするのです」
「だ、だって、梯子なんか上ったことなかったから……!」
「梯子を使うのも初めてなのですか。もう大丈夫ですから、ゆっくり足をかけてください」
「ごめんなさい、ム、ムリ、もう、もう……」
「大丈夫ですから、早く」
「やってるけどダメ、もう、手が、足があが、無理、ムリ、ムリ、む、む……」
「お嬢さ……っ」
もし、このあらましをシド好きの女中達にでも見られていたら、洗濯部屋あたりでこっぴどく陰口を叩かれていたことだろう。
暗がりの中で、フィリアは片足だけなんとか梯子にかけることができたが、またもやスカートを巻き込んだため本能のまま踏ん張り、まるで滝つぼにダイブするかのごとくシドへ向かって飛びこんで行った。
「…………っ!!」
ガッチリと全身で受け止めて耐えたその人は、なんて優秀な執事だろうか。
必死に首へしがみついたら、決して落とさないようにと、しなやかな腕をまわして抱きしめてくれた。これじゃ完全にじゃじゃ馬令嬢のお手本だ。
興奮しているせいで心臓の音まで伝わってしまいそうだけれど、一杯一杯で気にするどころではない。
もし、侯爵家の一人娘が大怪我を負ったなら、執事にどんな懲罰が課されるか想像もできない。そういう意味ではシドも怖かったに違いない。
「ご、ごめんなさい……」
滅多なことをするものではなかった。
酷く後悔しながら耳元で謝ってみたが反応はなかった。怒っているのかもしれない。しかも腰と背中にしっかりと腕を回されて密着したまま、なかなか下ろされる気配がないから心臓の早鐘がどんどんヒートアップして行く。我慢しようにも、押し殺しきれない息を目の前の首筋に吹きかけてしまっている自分が恥ずかしすぎた。
どうして下ろしてくれないの――?
少し身じろいで顔を覗いてみると、同時に彼も思い出したように気遣わしげな目で見つめて来た。
「……お嬢様、大丈夫ですか。お怪我はありませんか」
「……え、ええ……大丈夫よ、ありがとう……」
ほんの少しの間、見詰め合ってしまった。シドが躊躇うようにそっと床へ下ろしてくれる。その仕草が、なんだか名残惜しげな気がして。
「あまり無茶をなさいませんように」
「……ええ……ぁ、……シドって……意外と力持ち、なのね……」
「……お嬢様は意外とおてんばでございますね」
「あなたの前だけよ……」
「…………それは……、光栄ですね……」
少し沈黙が落ちた。
フィリアがドレスの裾や胸元の乱れを直しはじめると、その間にシドは床のランタンを拾い上げた。
様子が気になってちらっと見たら、目が合った途端に彼はぎこちなく顔を背け、襟足を触りながら灯りを書棚の方へ向けてしまった。
なんだか、まさに今、ただならぬ空気が流れていた。
もしかして、シドはとっくに、フィリアの気持ちに気付いていたのではないか――フィリアを女の子として見ているのではないか――そう思い至るような空気が。
しかし。
バタンッッ!
突如、静寂を打ち破る大きな衝撃音が鳴り響いた。通路の先の暗闇で、分厚い本が落下したのだと即時に察せる音だった。
咄嗟に、フィリアは恐怖にかられた声をあげてシドの腕に抱きついた。
「今のは何⁉」
「誰だ!」
シドは反射的に彼女を書棚へ寄せて背後へと隠し、ランタンを掲げて音のした方へ声をかけた。
返事はない。これまでこの書庫に人がいたことは一度もなかったことから、フィリアでさえ胸騒ぎを覚えた。もし誰かがいるとすれば相手もランタンを携えているはずで、明かりが見えないのはすこぶる怪しい。
中へ入ってから一度も扉が開いた気配がなかったことを思うと、始めからそこにいた可能性が高い。二人の様子を伺う為にそこに潜伏していたとも考えられた。
「何者かが潜んでいるやもしれません。私から離れないようにしてください」
書棚に片手をつき、シドは護衛における盾の動作でもってフィリアを懐に守り、小さく注意を促してくれた。
彼女はびくりとして目の前のネクタイを一瞬見つめ、頬を真っ赤に染めながらすぐにその胸に抱きついて小さく頷いた。
離れないように――とは、そういう意味ではなかったような気もしたが。
「誰かいるのか、いるなら返事をせよ。せぬなら今すぐ守衛を呼んで捜索させようぞ!」
もう一度強い口調でシドが問うと、しんと静まり返った書棚の向こうで身じろぐような衣擦れの音がした。
やっぱり誰かいる。
本来なら、シドはそちらへ急いで確認に行くのだろう。けれど、今はフィリアを連れて行くわけにもいかず躊躇しているようだ。
書棚はマス目のように並んでおり、前方も後方も隙だらけだ。その場に居続けることも危険と判断したのか、彼はフィリアの背を片手に抱いて音がするのとは逆方向へ移動しようとした。
しかしすぐに、謎の気配は慌てたようにこちらへ返答をよこした。
「すまん……悪気があったわけではないんだ。ただちょっと調べ物をしていてね……」
「シド殿、お控え下さい。こちらはオリーズ侯であらせられます」
「お、お父様……!?」
急激に凍てついた空気が走り渡った。即座にシドがフィリアの背に回していた腕を外し、しがみついていた彼女も身を離す。
ランタンの向こうに姿を現したのは、紛れもなく、この城の主オリーズ候ウィズヴィオ・オーウェンと、侍従のモア・アヴェラットであった。
オリーズ候はフィリアと同じ白銀の髪をざんばらに垂らし、彫りが深く皺の多い目鼻立ちの顔をしかめてそこに立っていた。
黒服姿で白髪のモアも皺深い細面を神妙にしかめて二人を見ている。
シドは額に薄っすら汗を滲ませながら最大限の儀礼でもって左手を腹へ当て一礼した。
「これは、旦那様とは露知らず大変失礼致しました」
「良い良い、我が愛娘を守る為、当然のことをした使用人に鉄槌を下したりはせぬよ。例え無骨なその手が輿入れ前の娘をしたたかに触れ回ろうとな。バゼルと同じでよくできた執事だ。褒めておこう」
「……、恐悦至極にございます」
背筋も凍るほどの苦言であった。それだけでシドに向けられる牙のような殺気はフィリアにも十分すぎるほど伝わって来た。
父もアイボット家の歴史や約定については彼女よりずっと詳しく理解しているはずだ。その気になれば、シドの家など片手で潰されてしまうかもしれない。
「お父様、シドに嫌味なことおっしゃらないで。私がいけなかったんだから。こんな所で何をしてらっしゃったの。私とっても怖かったのですよ!」
「おお、フィリア……、暗がりで見るお前は一段と美しいねぇ。私はちょっと、異国の政治について調べていてね。で、」
言いながら、父は無表情にしては酷く血の気の感じられる妙な視線を上下させてシドを観察していた。よく考れば、フィリアが度々彼を連れてこの書庫へ訪れていることが父の耳に入っていても不思議ではない。それをどう思われているかを想像したら娘の彼女でさえ恐ろしさを感じた。
「お前達はここで何をしているのかね」
「わ、私達は、とある文字の解読をするために手がかりを探しているのよ。それが分かったら、私がずっと探している黒髪の騎士が見つかるかもしれないの。シドにはそれを手伝ってもらっているのよ」
「ほほう、黒髪の騎士が……面白そうだね。私とモアも手伝おうか。4人で探せば早く見つかるだろう」
「け、結構よ。お父様はご自分の調べ物を進めてくださいな」
「はっはっはっ、早く見つかると良いねぇ、黒髪の騎士と――あと、なんとやらが」
「もう、娘のたわごとだと思ってバカになさらないで下さいな。絶対に見つけるんだから、早くあっちへ行って!」
父は高らかに笑い、ランタンに火をつけたモアと共に暗闇の中へ去って行った。
二人にとって、これは非常に不穏な出来事だ。
父の中でくすぶっているであろう火種に油を注ぐことを懸念して、この日はそれ以上の探索を中止した。父は怒らせない方が良い。
下手をしたら、シドと書庫へ来ることが二度とできなくなってしまうから。
なんとかして彼を運命の三人のどれかに当て嵌める道は果てしなく険しいが、その時が来たら速攻で恋愛して婚約しなくてはならないから、あらかじめ親交を深めておくことも重要なミッションなのだ。
もはや黒髪の騎士探しなど嘘っぱちである。
自分を謀っているらしいシドを謀って二人きりになるという論法で罪悪感はなかった。
そういうわけで、一通り目ぼしい書物に手をつけ、謎の文字に関する議論が終わって一息つくと、後はもう全く無関係な話題に突入することが常態化していた。
普通ならもうそろそろ、フィリアの気持ちに気付いてくれていてもおかしくないはずなのだが、彼は随分と鈍感な人らしく、この日も飄々としていてさっぱり手ごたえを感じない。
この日も二人は例の占い関係の書棚へ移動した。立てかけられた梯子の3段目に腰を下ろし、いつものように世間話を始める。
「あのね、私、初対面や時々会う人には、東洋の香木を焚いて占いをするの。香のにおいや色と、空気の様子や、それから私の直感でね。シドは覚えてるかしら、あなたの時にも占ったわ」
「……ああ、そういえば、初めてお部屋へ伺ったときにも香が焚かれていました。それでどのようなことが分かるのですか」
「その人が私にとって信頼に足る人物かどうか」
フィリアは悪戯をした後の子供のようにクスリと笑い、シドの顔を見上げた。これまでになく心を許した、渾身のはにかんだ笑顔を投げつけてやる。
「それで……いかがでしたか、私は」
「今まで占った人の中で、バゼルの次に信頼度が高かったわ。あなたなら絶対信用できると分かったからこそ、文字の解読を手伝ってもらうことにしたのよ」
「…………さようですか、それは良かった」
戸惑い気味だが、シドも小さく微笑を返してくれた。最近、切なげな鷹の目尻が下がっていることが多い気がしてときめいてしてしまう。
「ですがお嬢様、占いというのは必ずしも当たるとは限りません。あまり信用しすぎるのも問題かと私は思いますよ」
「まあ、お父様みたいなこと言うのね。シドは私の占いを信じられないと言うの?」
「そういうわけではないのですが……例えば、いつもこうして暗い場所に二人でおりますが、実は占いが外れていて、私が本当は不埒な謀反人だったらどうするのでしょう。お嬢様は逃げ場がございませんよ」
「大丈夫よ、シドなら」
「そうでしょうか」
「そうよ。信じてるもの」
フィリアは愛情を込めてクスリと笑った。確かに打率は六割だから絶対とは言えないが、シドは信用できる人でなくては困るし、この占いだけは自信がある。
そして即座に立ち上がり、思い切ってパワフルに梯子を上り始めた。
淑女がドレスのまま梯子を上るのはなかなか無理のある行為だ。シドが慌ててやめるようにと声をかけて来たが、意に介することもなくどんどん上って行く。
「占いってね、信じなくちゃ始まらないの。この一番上に古代の大占星術師ボッサロ卿の言葉をまとめた蔵書があるはずよ。そこに占いの何たるかが書かれているわ。それをあなたに見せてあげる」
「お嬢様、おやめください。書物なら私が取りますので今すぐそこから降りてください」
「嫌よ! 私が落ちたら、あなたが助けなさい。それであなたが信用できるかどうか確かめてあげる!」
「何をおっしゃるのです」
聞いたこともないシドの慌てふためいた声が聞こえて驚いた。
そんなに慌てるようなことだろうか――そう思って下を見下ろすと、貴族家の婦女子にはよくある事だが、信じられない高さに驚愕し、スカートを踏んで梯子から足を踏み外した。
「きゃあぁ!」
「お嬢様!」
びっくりした。
必死に両手だけで梯子につかまり、もう一度足をかけようとするが長いスカートが邪魔で何度もずり落ちる。自分の体重は意外と重いのだと初めて知った。
梯子の踏ざんは角ばった平たい板だから、掴り続けている内に手首が擦り剥けてきた。
シドは慌てて床にランタンを置き、目の高さまで来ていたフィリアの腰をがっしり両手に挟んで体を浮かせてくれた。明かりが遠くなり、視界が暗い。
「何をなさっているのですか、怪我をしたらどうするのです」
「だ、だって、梯子なんか上ったことなかったから……!」
「梯子を使うのも初めてなのですか。もう大丈夫ですから、ゆっくり足をかけてください」
「ごめんなさい、ム、ムリ、もう、もう……」
「大丈夫ですから、早く」
「やってるけどダメ、もう、手が、足があが、無理、ムリ、ムリ、む、む……」
「お嬢さ……っ」
もし、このあらましをシド好きの女中達にでも見られていたら、洗濯部屋あたりでこっぴどく陰口を叩かれていたことだろう。
暗がりの中で、フィリアは片足だけなんとか梯子にかけることができたが、またもやスカートを巻き込んだため本能のまま踏ん張り、まるで滝つぼにダイブするかのごとくシドへ向かって飛びこんで行った。
「…………っ!!」
ガッチリと全身で受け止めて耐えたその人は、なんて優秀な執事だろうか。
必死に首へしがみついたら、決して落とさないようにと、しなやかな腕をまわして抱きしめてくれた。これじゃ完全にじゃじゃ馬令嬢のお手本だ。
興奮しているせいで心臓の音まで伝わってしまいそうだけれど、一杯一杯で気にするどころではない。
もし、侯爵家の一人娘が大怪我を負ったなら、執事にどんな懲罰が課されるか想像もできない。そういう意味ではシドも怖かったに違いない。
「ご、ごめんなさい……」
滅多なことをするものではなかった。
酷く後悔しながら耳元で謝ってみたが反応はなかった。怒っているのかもしれない。しかも腰と背中にしっかりと腕を回されて密着したまま、なかなか下ろされる気配がないから心臓の早鐘がどんどんヒートアップして行く。我慢しようにも、押し殺しきれない息を目の前の首筋に吹きかけてしまっている自分が恥ずかしすぎた。
どうして下ろしてくれないの――?
少し身じろいで顔を覗いてみると、同時に彼も思い出したように気遣わしげな目で見つめて来た。
「……お嬢様、大丈夫ですか。お怪我はありませんか」
「……え、ええ……大丈夫よ、ありがとう……」
ほんの少しの間、見詰め合ってしまった。シドが躊躇うようにそっと床へ下ろしてくれる。その仕草が、なんだか名残惜しげな気がして。
「あまり無茶をなさいませんように」
「……ええ……ぁ、……シドって……意外と力持ち、なのね……」
「……お嬢様は意外とおてんばでございますね」
「あなたの前だけよ……」
「…………それは……、光栄ですね……」
少し沈黙が落ちた。
フィリアがドレスの裾や胸元の乱れを直しはじめると、その間にシドは床のランタンを拾い上げた。
様子が気になってちらっと見たら、目が合った途端に彼はぎこちなく顔を背け、襟足を触りながら灯りを書棚の方へ向けてしまった。
なんだか、まさに今、ただならぬ空気が流れていた。
もしかして、シドはとっくに、フィリアの気持ちに気付いていたのではないか――フィリアを女の子として見ているのではないか――そう思い至るような空気が。
しかし。
バタンッッ!
突如、静寂を打ち破る大きな衝撃音が鳴り響いた。通路の先の暗闇で、分厚い本が落下したのだと即時に察せる音だった。
咄嗟に、フィリアは恐怖にかられた声をあげてシドの腕に抱きついた。
「今のは何⁉」
「誰だ!」
シドは反射的に彼女を書棚へ寄せて背後へと隠し、ランタンを掲げて音のした方へ声をかけた。
返事はない。これまでこの書庫に人がいたことは一度もなかったことから、フィリアでさえ胸騒ぎを覚えた。もし誰かがいるとすれば相手もランタンを携えているはずで、明かりが見えないのはすこぶる怪しい。
中へ入ってから一度も扉が開いた気配がなかったことを思うと、始めからそこにいた可能性が高い。二人の様子を伺う為にそこに潜伏していたとも考えられた。
「何者かが潜んでいるやもしれません。私から離れないようにしてください」
書棚に片手をつき、シドは護衛における盾の動作でもってフィリアを懐に守り、小さく注意を促してくれた。
彼女はびくりとして目の前のネクタイを一瞬見つめ、頬を真っ赤に染めながらすぐにその胸に抱きついて小さく頷いた。
離れないように――とは、そういう意味ではなかったような気もしたが。
「誰かいるのか、いるなら返事をせよ。せぬなら今すぐ守衛を呼んで捜索させようぞ!」
もう一度強い口調でシドが問うと、しんと静まり返った書棚の向こうで身じろぐような衣擦れの音がした。
やっぱり誰かいる。
本来なら、シドはそちらへ急いで確認に行くのだろう。けれど、今はフィリアを連れて行くわけにもいかず躊躇しているようだ。
書棚はマス目のように並んでおり、前方も後方も隙だらけだ。その場に居続けることも危険と判断したのか、彼はフィリアの背を片手に抱いて音がするのとは逆方向へ移動しようとした。
しかしすぐに、謎の気配は慌てたようにこちらへ返答をよこした。
「すまん……悪気があったわけではないんだ。ただちょっと調べ物をしていてね……」
「シド殿、お控え下さい。こちらはオリーズ侯であらせられます」
「お、お父様……!?」
急激に凍てついた空気が走り渡った。即座にシドがフィリアの背に回していた腕を外し、しがみついていた彼女も身を離す。
ランタンの向こうに姿を現したのは、紛れもなく、この城の主オリーズ候ウィズヴィオ・オーウェンと、侍従のモア・アヴェラットであった。
オリーズ候はフィリアと同じ白銀の髪をざんばらに垂らし、彫りが深く皺の多い目鼻立ちの顔をしかめてそこに立っていた。
黒服姿で白髪のモアも皺深い細面を神妙にしかめて二人を見ている。
シドは額に薄っすら汗を滲ませながら最大限の儀礼でもって左手を腹へ当て一礼した。
「これは、旦那様とは露知らず大変失礼致しました」
「良い良い、我が愛娘を守る為、当然のことをした使用人に鉄槌を下したりはせぬよ。例え無骨なその手が輿入れ前の娘をしたたかに触れ回ろうとな。バゼルと同じでよくできた執事だ。褒めておこう」
「……、恐悦至極にございます」
背筋も凍るほどの苦言であった。それだけでシドに向けられる牙のような殺気はフィリアにも十分すぎるほど伝わって来た。
父もアイボット家の歴史や約定については彼女よりずっと詳しく理解しているはずだ。その気になれば、シドの家など片手で潰されてしまうかもしれない。
「お父様、シドに嫌味なことおっしゃらないで。私がいけなかったんだから。こんな所で何をしてらっしゃったの。私とっても怖かったのですよ!」
「おお、フィリア……、暗がりで見るお前は一段と美しいねぇ。私はちょっと、異国の政治について調べていてね。で、」
言いながら、父は無表情にしては酷く血の気の感じられる妙な視線を上下させてシドを観察していた。よく考れば、フィリアが度々彼を連れてこの書庫へ訪れていることが父の耳に入っていても不思議ではない。それをどう思われているかを想像したら娘の彼女でさえ恐ろしさを感じた。
「お前達はここで何をしているのかね」
「わ、私達は、とある文字の解読をするために手がかりを探しているのよ。それが分かったら、私がずっと探している黒髪の騎士が見つかるかもしれないの。シドにはそれを手伝ってもらっているのよ」
「ほほう、黒髪の騎士が……面白そうだね。私とモアも手伝おうか。4人で探せば早く見つかるだろう」
「け、結構よ。お父様はご自分の調べ物を進めてくださいな」
「はっはっはっ、早く見つかると良いねぇ、黒髪の騎士と――あと、なんとやらが」
「もう、娘のたわごとだと思ってバカになさらないで下さいな。絶対に見つけるんだから、早くあっちへ行って!」
父は高らかに笑い、ランタンに火をつけたモアと共に暗闇の中へ去って行った。
二人にとって、これは非常に不穏な出来事だ。
父の中でくすぶっているであろう火種に油を注ぐことを懸念して、この日はそれ以上の探索を中止した。父は怒らせない方が良い。
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