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第20話(1) 賓客の来訪
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フィリアは自室の窓越しで日光を浴びながら、ぼんやりと中庭を眺めていた。
赤白黄色、どの花を見ても灰色に見える。
籐椅子に腰掛け、ドレスの裾から片足をだらんとはみ出し、だらしなくため息をつく。淡雪のような美しい白肌の顔は以前にも増して憂いを帯びて沈んでしまっている。
満月の夜、シドはどこにも現れなかった。次の日も、その次の日も塔で星見をしたけれど、彼は現れなかった。
だったら手紙で返事を貰えるのではと待ち続けてもう一週間以上が経つ。
ミーナに何度かこっそり執事室へ行かせたけれど、最近は鍵がかかっていて入ることができないそうだ。手ぶらで帰って来て、その度に気の毒そうな顔をされるのも悲しかった。
二十歳の誕生日まであと七日。
フィリアの気持ちはやはり迷惑だっただろうか。それも仕方のないことだと思う。
シドを罪人にしてしまった上、さらに返事が欲しいだなんて、考えてみれば随分身勝手で我が侭なお願いをしてしまったものだ。避けられて当然なのかもしれない……。
最近は何もやる気が起きず、手に持った縫いかけの刺繍も長い間ひと針も進まないままただ。
窓の外を眺めていれば、以前はよくシドが通って行った中庭の石畳の小道を、今日は灰色の従僕服を着たノイグがしなやかな足取りで歩いて行く。
今日もいない――そう思いながらぼんやり見送る。
シドが元通りフィリアの世話をしてくれる日はまたやってくるのだろうか。夫となる人は、シドを大切にしてくれるだろうか……。いつか――いつかこれが笑い話になるくらいずっと先の未来で、シドは教えてくれるだろうか。フィリアのことをどう思っていたのか。
自然と重い溜息が漏れた。
そんなフィリアの背中を、ミーナも本格的に気の毒そうな目で見るようになっていた。最近はできるだけ彼女を一人にしないようにしている。
こうなることは予想できていたのだから、最初からシドへ心が傾かないようにもっと強く反対しておくべきだったのだ。それが自分の責任だったはずだ。
義理堅い侍女もまた、自分の失敗がシドと同等に罪深いと感じて落ち込んでいた。
「お嬢様……もう少しでブリュリーズ様がいらっしゃるお時間ですよ。髪に櫛を入れましょうか」
「うん……」
ミーナの主人は素直に椅子にもたれて髪を後ろにやると、しなびたチューリップのように頭を垂れた。
この日――婚約発表の七日前――フィリアの母親が招待し、彼女の私室まで目通りを許した男はブリュリーズだった。それが何を意味するかは、火を見るより明らかだろう。
気の毒なフィリアは、出会った時から気の毒だった。
それは女中としてミーナが城に立ち入ることを許されたばかりの頃の話だ。
洗濯部屋で一人、洗濯板を叩いていたら、当時十五歳のフィリアが泣きながら入ってきて何も言わずに大タライの裏に隠れてしまったのだ。
後で知ったことだが、その直前、彼女は中庭で騎士の白昼夢を見て大騒ぎしたらしい。
まさか洗濯部屋に令嬢が来るとは思いもしないから、びっくりしてどうしたのかと訊ねたら、誰一人としてフィリアの占いを信じてくれないのだと言ってまたメソメソと泣き出してしまった。
困り果てて、「うちの父親は占いを信じて博打に財産を投じたら全部なくなったので、そういうのは当てになりません。占いとはそういうものですよ」と言ったら、それで泣き止んだ。随分失礼な言い方をしてしまったと思ったのだが、なぜかフィリアはミーナを気に入り、その後侍女に立ててくれた。
それからは毎日のように『占いとは信じることから始まる』という大占星術師ボッサロ卿の教えを叩き込まれることになってしまったが、ミーナはやんわりと一つ一つ反論を続けた。しかしそれでも侍女を辞めさせられることはなかった。
なぜ占いを信じようとしない自分を側へ置いてくれるのか訊くとフィリアは、ミーナの反論には愛情があるからだと言った。
信じて貰えないことはもちろん悲しいことだが、適当に信じるフリをしておいて、実際には話を真に受けておらず、最後に「やっぱり当たるわけがない」と裏切られる方がよっぽど悲しいのだそうだ。
占いの精度が六割――それは決して低い物ではない。父親のせいで奉公に出され、苦労してきたミーナでさえ、信じるには十分な値だ。
シドの経歴や出自を知れば、フィリアの占いに現れた――幼い頃からずっと待ち焦がれて来た三人は、確かにシドの可能性が高いと思う。
それまで、他の男性を占いに添っているかどうかでしか見ず、少しでも違えば候補から外していたフィリアが、出会う前から恋に落ちていた姿を思い返せば、それを信じない方が難しい。
その上で、ミーナは薄々ではあるが、シドも単に魔が差しただけではなかったことに気付いていた。あれだけ執事の職を全うすることに全力を注いでいた彼が、それもバゼルによく似た生真面目なあの孫が、軽はずみに侯爵家を裏切るはずがない。
最近はほとんど、いるのかいないのかさえ分からないが、フィリアの手紙を渡した翌日に休憩室で見かけた彼は一晩眠れなかった様子で随分深刻そうに見えた。
あの手紙を読んで占いの内容やフィリアの現状を知ったが、どうすることもできず弱り果てたといったところだろうか。
そりゃそうだ、とミーナは思う。
シドには身分がない。武功もない。戦を知らない。一介の使用人がこの領地を治めるだけの財産と城と地位を易々と継げる訳もないのだから。
低い身分の男が城を継いだ前例は、歴史的に見て全くないわけではない。しかしそれは、親や関係者を説得した後、一応の体裁を取る為に他家の養子となるのが絶対条件だ。しかしシドにはその時間すらも残っていないのだ。
気の毒なフィリアは、未だにシドを吹っ切れずにいる。できるものなら駆け落ちでもさせてやりたいくらいだが、城の外を知らない彼女にとって、それはどう考えても不幸でしかない。だからこそシドも無反応を貫いているのだと、ミーナは理解していた。
ミーナがフィリアの髪に一通り櫛を入れ終わった頃、部屋にノックが鳴り響いた。
「お嬢様、ブリュリーズ様がいらっしゃいましたよ。笑顔、笑顔」
「ええ……」
フィリアはもう一度重い溜息を漏らした。
そしてふと、さっき中庭に見えていたノイグのことを思い出した。
あれ――と思った。
ブリュリーズは賓客のはずである。賓客は執事本人が丁重に部屋まで案内してくるはずだが、ノイグはなぜか灰色の従僕服を着ていた。では誰が執事として案内してくるのか。
フィリアは瞠目して椅子から飛び上がった。そんなはずはない。そんなはずはないけれど――――気付いた時には、ミーナより早くドアの方へ駆け出していた。
シド――!
纏わり付くドレスによろつきながら急いでドアノブを掴むと、心底から祈るように目を瞑って思い切り引き開けた。
「お嬢様、お久しぶりでございます」
目を開くと、そこに執事服を着た笑顔全開の男が立っていた。
アッシュグレーの髪色で右目の下に涙ボクロがあって、鮭みたいな顔をしたその男は、なぜか執事服を着てフィリアを見下ろしていた。
背後にはニコニコと不自然なほど笑顔を輝かせているフィリアの母親とその侍女がおり、それ以外に人の姿はない。
フィリアはドアを閉めた。
今のはなんだろうか。あまりのシド恋しさに自分の頭がおかしくなったのだろうか。それにしてはドアの外から「フィリア様、それはつれない」と笑い声の混じった幻聴まで聞こえてくる。
後ろからミーナが慌てて走ってきて――彼女も恐る恐るだが――ドアをそっと開けると、その男は一歩踏み入り、うやうやしく片膝を床に付いた。思わず一歩後退したフィリアの手を取って甲にキスをしてくる。
「フィリア様、ご機嫌麗しゅう。申し遅れました、私は先ほどから急遽ニ時間ほど使用人を務めることになりました、ブリュリーズ・オランヴィスでございます。仮初めの使用人ですがどうぞよろしくお願いいたします。あ、先に申しておきますが、私の正体は隣国の王子でございます。あっはっ」
鮭はそう言って立ち上がると破顔した。
フィリアは顔をひくつかせ、部屋から追い出したい衝動をなんとか抑えた。
急いでその手を払いのけ、ブリュリーズの背後へ回って廊下を確認するが、すでに母親の姿はなくなっていた。
「どうして……お母様の差し金ですか……」
「差し金というか……貴女はこういう格好がお好きだとお聞きしましたよ。突然現れた私は謎の執事、しかしてその正体は隣国の王子……そういうシチュエーションがお好きだとか。私も、強がりな令嬢にメイドをさせるシチュエーションは嫌いではないので気持ちは分かります。ところで、執事という職業は女性の私室の鍵も預かることができると聞いていたのだが、この城では女中長が持つことになっているのですね。残念だな」
フィリアは眉根を寄せた。なんだか色々だめだこの人。
「失礼ですが、別にそういうのは好きじゃありません。どうぞ、お引取り下さい!」
再びドアを開いて外へ促そうとしたその手首を、ブリュリーズは白手袋の手で掴んできた。と同時に、その目は明らかにフィリアの母親がいないことをもう一度確認していた。
「おっと、未来の夫にそのような口をきいてはいけないな。強気のフィリア様もかわいらしいが、貴女を射止める為にこんな下卑た格好までした私に冷たくすると、後が大変ですよ? 私には執事に対する嗜好は理解できないが、聞くところによるとその趣味のせいで例のどうしようもない使用人風情にかどわかされかけたとか。だから気をつけろと言ったじゃないですか。あの男は育ちが悪いのだろうな、そういう男なのですよ。本当に、私はあれほど倫理観のない男を見たことがないんだ」
「やめてください! シドはそんな人じゃありません。母に何を吹き込まれたのか知りませんが、それ以上彼を愚弄したら許さないわ!」
フィリアはブリュリーズの手を払いのけようと力いっぱい腕を振ったが放してもらえず、見開いた目でジロジロと顔を覗かれた。
「おや、これは驚いた。話には聞いていたが、貴女は本当にあの男にご執心なのか。結婚後に外で会われても困るし、あいつとは二度と会わないよう、妙齢を過ぎるまではこの城に篭っていてもらいたいものだ」
「……、それはどういう意味ですか。まさか、シドを城から追い出すってこと……?」
そんなことさせるものか、と真剣な顔で睨みつけると、ブリュリーズはニッと笑った。
「……おやおや? ご存知ないのですか。彼はもうとっくに使用人を辞めたそうですよ」
耳に受け付けられない言葉が飛び込んできた。
「…………え?」
「当然でしょう。あんな男が城に居続けることの方がおかしい。お母上のお話では、彼は侯爵に辞職を願い出て自ら城を去ったそうですよ。つまり私たちに気を遣ったということです。きっと今頃実家で次の仕事を探している頃でしょうね。はっはっ」
赤白黄色、どの花を見ても灰色に見える。
籐椅子に腰掛け、ドレスの裾から片足をだらんとはみ出し、だらしなくため息をつく。淡雪のような美しい白肌の顔は以前にも増して憂いを帯びて沈んでしまっている。
満月の夜、シドはどこにも現れなかった。次の日も、その次の日も塔で星見をしたけれど、彼は現れなかった。
だったら手紙で返事を貰えるのではと待ち続けてもう一週間以上が経つ。
ミーナに何度かこっそり執事室へ行かせたけれど、最近は鍵がかかっていて入ることができないそうだ。手ぶらで帰って来て、その度に気の毒そうな顔をされるのも悲しかった。
二十歳の誕生日まであと七日。
フィリアの気持ちはやはり迷惑だっただろうか。それも仕方のないことだと思う。
シドを罪人にしてしまった上、さらに返事が欲しいだなんて、考えてみれば随分身勝手で我が侭なお願いをしてしまったものだ。避けられて当然なのかもしれない……。
最近は何もやる気が起きず、手に持った縫いかけの刺繍も長い間ひと針も進まないままただ。
窓の外を眺めていれば、以前はよくシドが通って行った中庭の石畳の小道を、今日は灰色の従僕服を着たノイグがしなやかな足取りで歩いて行く。
今日もいない――そう思いながらぼんやり見送る。
シドが元通りフィリアの世話をしてくれる日はまたやってくるのだろうか。夫となる人は、シドを大切にしてくれるだろうか……。いつか――いつかこれが笑い話になるくらいずっと先の未来で、シドは教えてくれるだろうか。フィリアのことをどう思っていたのか。
自然と重い溜息が漏れた。
そんなフィリアの背中を、ミーナも本格的に気の毒そうな目で見るようになっていた。最近はできるだけ彼女を一人にしないようにしている。
こうなることは予想できていたのだから、最初からシドへ心が傾かないようにもっと強く反対しておくべきだったのだ。それが自分の責任だったはずだ。
義理堅い侍女もまた、自分の失敗がシドと同等に罪深いと感じて落ち込んでいた。
「お嬢様……もう少しでブリュリーズ様がいらっしゃるお時間ですよ。髪に櫛を入れましょうか」
「うん……」
ミーナの主人は素直に椅子にもたれて髪を後ろにやると、しなびたチューリップのように頭を垂れた。
この日――婚約発表の七日前――フィリアの母親が招待し、彼女の私室まで目通りを許した男はブリュリーズだった。それが何を意味するかは、火を見るより明らかだろう。
気の毒なフィリアは、出会った時から気の毒だった。
それは女中としてミーナが城に立ち入ることを許されたばかりの頃の話だ。
洗濯部屋で一人、洗濯板を叩いていたら、当時十五歳のフィリアが泣きながら入ってきて何も言わずに大タライの裏に隠れてしまったのだ。
後で知ったことだが、その直前、彼女は中庭で騎士の白昼夢を見て大騒ぎしたらしい。
まさか洗濯部屋に令嬢が来るとは思いもしないから、びっくりしてどうしたのかと訊ねたら、誰一人としてフィリアの占いを信じてくれないのだと言ってまたメソメソと泣き出してしまった。
困り果てて、「うちの父親は占いを信じて博打に財産を投じたら全部なくなったので、そういうのは当てになりません。占いとはそういうものですよ」と言ったら、それで泣き止んだ。随分失礼な言い方をしてしまったと思ったのだが、なぜかフィリアはミーナを気に入り、その後侍女に立ててくれた。
それからは毎日のように『占いとは信じることから始まる』という大占星術師ボッサロ卿の教えを叩き込まれることになってしまったが、ミーナはやんわりと一つ一つ反論を続けた。しかしそれでも侍女を辞めさせられることはなかった。
なぜ占いを信じようとしない自分を側へ置いてくれるのか訊くとフィリアは、ミーナの反論には愛情があるからだと言った。
信じて貰えないことはもちろん悲しいことだが、適当に信じるフリをしておいて、実際には話を真に受けておらず、最後に「やっぱり当たるわけがない」と裏切られる方がよっぽど悲しいのだそうだ。
占いの精度が六割――それは決して低い物ではない。父親のせいで奉公に出され、苦労してきたミーナでさえ、信じるには十分な値だ。
シドの経歴や出自を知れば、フィリアの占いに現れた――幼い頃からずっと待ち焦がれて来た三人は、確かにシドの可能性が高いと思う。
それまで、他の男性を占いに添っているかどうかでしか見ず、少しでも違えば候補から外していたフィリアが、出会う前から恋に落ちていた姿を思い返せば、それを信じない方が難しい。
その上で、ミーナは薄々ではあるが、シドも単に魔が差しただけではなかったことに気付いていた。あれだけ執事の職を全うすることに全力を注いでいた彼が、それもバゼルによく似た生真面目なあの孫が、軽はずみに侯爵家を裏切るはずがない。
最近はほとんど、いるのかいないのかさえ分からないが、フィリアの手紙を渡した翌日に休憩室で見かけた彼は一晩眠れなかった様子で随分深刻そうに見えた。
あの手紙を読んで占いの内容やフィリアの現状を知ったが、どうすることもできず弱り果てたといったところだろうか。
そりゃそうだ、とミーナは思う。
シドには身分がない。武功もない。戦を知らない。一介の使用人がこの領地を治めるだけの財産と城と地位を易々と継げる訳もないのだから。
低い身分の男が城を継いだ前例は、歴史的に見て全くないわけではない。しかしそれは、親や関係者を説得した後、一応の体裁を取る為に他家の養子となるのが絶対条件だ。しかしシドにはその時間すらも残っていないのだ。
気の毒なフィリアは、未だにシドを吹っ切れずにいる。できるものなら駆け落ちでもさせてやりたいくらいだが、城の外を知らない彼女にとって、それはどう考えても不幸でしかない。だからこそシドも無反応を貫いているのだと、ミーナは理解していた。
ミーナがフィリアの髪に一通り櫛を入れ終わった頃、部屋にノックが鳴り響いた。
「お嬢様、ブリュリーズ様がいらっしゃいましたよ。笑顔、笑顔」
「ええ……」
フィリアはもう一度重い溜息を漏らした。
そしてふと、さっき中庭に見えていたノイグのことを思い出した。
あれ――と思った。
ブリュリーズは賓客のはずである。賓客は執事本人が丁重に部屋まで案内してくるはずだが、ノイグはなぜか灰色の従僕服を着ていた。では誰が執事として案内してくるのか。
フィリアは瞠目して椅子から飛び上がった。そんなはずはない。そんなはずはないけれど――――気付いた時には、ミーナより早くドアの方へ駆け出していた。
シド――!
纏わり付くドレスによろつきながら急いでドアノブを掴むと、心底から祈るように目を瞑って思い切り引き開けた。
「お嬢様、お久しぶりでございます」
目を開くと、そこに執事服を着た笑顔全開の男が立っていた。
アッシュグレーの髪色で右目の下に涙ボクロがあって、鮭みたいな顔をしたその男は、なぜか執事服を着てフィリアを見下ろしていた。
背後にはニコニコと不自然なほど笑顔を輝かせているフィリアの母親とその侍女がおり、それ以外に人の姿はない。
フィリアはドアを閉めた。
今のはなんだろうか。あまりのシド恋しさに自分の頭がおかしくなったのだろうか。それにしてはドアの外から「フィリア様、それはつれない」と笑い声の混じった幻聴まで聞こえてくる。
後ろからミーナが慌てて走ってきて――彼女も恐る恐るだが――ドアをそっと開けると、その男は一歩踏み入り、うやうやしく片膝を床に付いた。思わず一歩後退したフィリアの手を取って甲にキスをしてくる。
「フィリア様、ご機嫌麗しゅう。申し遅れました、私は先ほどから急遽ニ時間ほど使用人を務めることになりました、ブリュリーズ・オランヴィスでございます。仮初めの使用人ですがどうぞよろしくお願いいたします。あ、先に申しておきますが、私の正体は隣国の王子でございます。あっはっ」
鮭はそう言って立ち上がると破顔した。
フィリアは顔をひくつかせ、部屋から追い出したい衝動をなんとか抑えた。
急いでその手を払いのけ、ブリュリーズの背後へ回って廊下を確認するが、すでに母親の姿はなくなっていた。
「どうして……お母様の差し金ですか……」
「差し金というか……貴女はこういう格好がお好きだとお聞きしましたよ。突然現れた私は謎の執事、しかしてその正体は隣国の王子……そういうシチュエーションがお好きだとか。私も、強がりな令嬢にメイドをさせるシチュエーションは嫌いではないので気持ちは分かります。ところで、執事という職業は女性の私室の鍵も預かることができると聞いていたのだが、この城では女中長が持つことになっているのですね。残念だな」
フィリアは眉根を寄せた。なんだか色々だめだこの人。
「失礼ですが、別にそういうのは好きじゃありません。どうぞ、お引取り下さい!」
再びドアを開いて外へ促そうとしたその手首を、ブリュリーズは白手袋の手で掴んできた。と同時に、その目は明らかにフィリアの母親がいないことをもう一度確認していた。
「おっと、未来の夫にそのような口をきいてはいけないな。強気のフィリア様もかわいらしいが、貴女を射止める為にこんな下卑た格好までした私に冷たくすると、後が大変ですよ? 私には執事に対する嗜好は理解できないが、聞くところによるとその趣味のせいで例のどうしようもない使用人風情にかどわかされかけたとか。だから気をつけろと言ったじゃないですか。あの男は育ちが悪いのだろうな、そういう男なのですよ。本当に、私はあれほど倫理観のない男を見たことがないんだ」
「やめてください! シドはそんな人じゃありません。母に何を吹き込まれたのか知りませんが、それ以上彼を愚弄したら許さないわ!」
フィリアはブリュリーズの手を払いのけようと力いっぱい腕を振ったが放してもらえず、見開いた目でジロジロと顔を覗かれた。
「おや、これは驚いた。話には聞いていたが、貴女は本当にあの男にご執心なのか。結婚後に外で会われても困るし、あいつとは二度と会わないよう、妙齢を過ぎるまではこの城に篭っていてもらいたいものだ」
「……、それはどういう意味ですか。まさか、シドを城から追い出すってこと……?」
そんなことさせるものか、と真剣な顔で睨みつけると、ブリュリーズはニッと笑った。
「……おやおや? ご存知ないのですか。彼はもうとっくに使用人を辞めたそうですよ」
耳に受け付けられない言葉が飛び込んできた。
「…………え?」
「当然でしょう。あんな男が城に居続けることの方がおかしい。お母上のお話では、彼は侯爵に辞職を願い出て自ら城を去ったそうですよ。つまり私たちに気を遣ったということです。きっと今頃実家で次の仕事を探している頃でしょうね。はっはっ」
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