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09.渓流
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国枝と三津井が殺された事件について、何も進展がないまま、一週間が過ぎてしまった。警察は容疑者を六人に絞っているとはいえ、そもそも三津井の生首が突然、校庭に現れた方法が分からない以上、容疑者たちをしつこく尋問する訳にもいかない。捜査は完全に難航している。
そして、あれだけ騒いでいたマスコミたちはとっくに学校に来なくなった。テレビでは芸能人の不倫についてのニュースばかり流れていた。生徒たちだって、クリスマスはサンタクロースを装う両親に何をおねだりするかとか、冬休みはどこに旅行に行くかとか、中学受験のラストスパートだから一月はずっと学校を休むかもしれないとか、そんな話しかしなくなったみたい。
暁兄ちゃんも昴兄ちゃんも、自分たちの担任が殺されたというのに、以前のように事件に首を突っ込もうとしなくなってしまった。
国枝と三津井の代わりの担任の先生二人も、どこからともなく調達できたらしい。これは後で知ったことだけど、教育委員会は教員免許保持者のリストを持っていて、今回のようなケースでは彼らに連絡を取って非常勤講師になってもらうようお願いするのだとか。
そして子供を中学受験させる家庭からは、これまでの担任に調査書を書いてもらえないと不安の声が上がっているけれど、事情が事情なだけにクレームをつけてくるようなことはなかったみたい。
そして十二月になった。パパは珍しく土日で非番をもらえたらしい。そして「今の時期なら空いているだろう」ということで、あたしたち桐生家は、パパの運転でキャンプ場に来ていた。
ママは虫が苦手だからアウトドア系のイベントは嫌がるけど、この時期なら虫は少ないだろうということもあって「テントじゃなくて、バス・トイレ付のコテージに泊まること」を条件に承諾してくれた。暁兄ちゃんは子供らしくはしゃいでいたし、昴兄ちゃんはご飯が食べられれば何でもいいらしい。
「最近のバーベキューは、自分たちで何もやらなくていいから、楽でいいわよね」
あたしたちは、お昼ご飯にコテージのベランダで手ぶらバーベキューを楽しんでいた。最近は、機材の設置も食材を切るのも片付けも、全部スタッフにやってもらえるバーベキュー場が増えている。もちろんあたしたちも、そのサービスを利用させてもらった。
何もしなくていいママは大満足だった。食材を焼く作業は男性陣が率先してやってくれるし。
「おい昴。それはまだ生焼けじゃないか?」
「父さん、早いもの勝ちだよ」
「いや豚肉はちゃんと火を通さないと危ないぞ」
「父さん、さりげなく俺の皿のピーマン率を上げないでよ」
「暁、好き嫌いはダメだぞ」
「俺は、ピーマンは食えるぞ? 父さんがピーマン嫌いで俺たちに押し付けているだけだろ? 夕飯にピーマンが出たとき、さりげなく昴の皿に移動させているの、知っているぞ?」
「いやそれは……昴の健康を心配しているだけだ。パパがピーマン嫌いな訳じゃない」
「ああ、もう! 何でもいいから、あたしにもお肉ちょうだい! しっかり焼いて。味付けはしないでね。あたしは食材本来の味を求めているから!」
「それにしても、量が多くない? 昴のことを考えて、六人分コースにしちゃったけど」
「何を言っているんだよ、母さん。むしろ少ないくらいだよ」
そんな感じで、桐生家のお昼ご飯は平和だった。お隣のコテージに泊まる老夫婦が「あらあら、可愛い子たち」とあたしや暁兄ちゃんを見て微笑んでいる。その後、昴兄ちゃんの食べっぷりに目を見開いていた。
「父さん、やっぱり僕には足りなかったよ」
バーベキューを完食した昴兄ちゃんは、まだ足りないとパパにねだっている。
「ええっ。パパはもうお腹いっぱいだよ。夕飯だって食べられそうにないくらいだよ。とりあえず、スーパーにお菓子でも買い出しに行くか?」
「一応、キャンプ場の受付にお菓子は売られていたわよ。それでいいんじゃないかしら?」
スーパーで売られているお菓子より高い値段で売られていたけれど。でもスーパーまで車を出すためのガソリン代や手間を考えると、トントンだと思うわ。
「今はお菓子って気分じゃないんだよね。それよりさ、ここのキャンプ場、裏に川があったじゃん? そこでニジマス釣りができるってさ。パンフレットに載っていたよ」
ニジマス! その単語を聞いた瞬間、あたしの口の中の唾液の分量が増えたような気がした。
「あら、いいわね。確かにせっかくキャンプに来たんだから、お肉もいいけど捕ったばかりの魚もありね」
魚は鮮度が命。スーパーで売られているものより美味しいこと間違いなしだわ。
「確かに夕飯まで時間あるし、キャンプに来たんだから釣りをするのもありだね」
「ニジマスって、春に釣れるんじゃなかったか? 今の時期でも釣れるのか?」
「放流しているやつだろうから大丈夫でしょ。そもそも自然河川だと、今の時期は禁漁だよ」
「釣りって、餌に虫を使うんでしょ? ママはちょっと止めておくわ。あなたたちだけで行ってきてちょうだい」
そんな訳で、あたしと暁兄ちゃんと昴兄ちゃんとパパだけで、ニジマス釣りに挑戦することになった。キャンプ場の裏側を覗くと、確かに川があって、ニジマス釣りのための釣り竿が立てかけられているのが見えた。
「えっと……お客さんたち、ニジマス釣りやるの?」
釣り竿のすぐ側にいたスタッフが、他の皆より明らかに体格が小さいあたしを見て「遠慮してくれないかな」という目線を送ってきたけど、あたしはそれを知らんぷりした。
「心配しなくても大丈夫よ! 危ないことはしないわ!」
あたしだってもう四歳の立派な「れでぃ」なんだから。
「安全には充分に気をつけますので」
「まあ、それなら……」
スタッフは渋々だけど、釣り竿を三本と餌の入った箱をパパに渡してくれた。ママは心配していたけど、生き餌ではなく、冷凍の海老を細かく刻んだものだった。
「ちなみに釣った分、買い取りになります。ちゃんと申請してくださいね」
「大丈夫です。いくらうちの昴がデブとはいえ、生でニジマスを食べたりしませんよ」
「パパ、スタッフは、そんな心配はしていないと思うわよ」
それに自分の息子をデブと思うのは自由だけど、口に出すのはどうかと思うわ。昴兄ちゃんは気にしていないだろうけど。
「ところで……パパは釣りなんて二十年ぶりだから、全然やり方が分からないんだが。暁と昴は分かるのか?」
「パパ、分からないなら暁兄ちゃんや昴兄ちゃんに聞くより、スタッフに聞いた方がいいと思うわよ」
男の人は、どうして人に教えを請うってことができないのかしら。
「俺たち、夏の林間学校で、釣り、やったよな」
「ああ。でも釣ったのは、ニジマスじゃなかったけど」
「釣り針に餌をつけて釣り糸を垂らして……あとは川の流れに沿って動いているよう見せかける、がポイントだよ。川の流れに逆らっているように見えたら、人間が操作しているってニジマスにバレるからね」
「なるほどね。ここではパパが一番、釣れなそうね」
そのときあたしのすぐ側で、何かがポチャンと音を立てた気がした。だから思わず「ニジマスかしら?」と、川を覗き込んでしまった。
「あ! 乃恵留、ダメだ!」
まさかこんなに足元が滑りやすくなっているなんて思わなかった。あたしは足を踏み外して、そのまま川に落下してしまった。
「た、助けて!」
あたしはバシャバシャと暴れながら必死で叫んだ。確かこういうときは、仰向けになって力を抜いて、口元が水面より上になるようにするべき……なんて、いくらあたしでも冷静になっていられない。しかも冷たい川に浸かって、頭は完全に麻痺している。
ああ、あたしはここで死ぬんだわ。自分では「もう四歳」と言っていたけれど……本当は「まだ四歳」だ。世の中に自分がまだ経験したことないような、もっと楽しいことも、もっと悲しいことも、何も知らないまま、あの世に旅立つのね。
パパ、ママ、暁兄ちゃん、昴兄ちゃん。そして虎太郎。今までありがとう。ただあたしが死んだ後、ずっとその悲しみに囚われちゃダメよ。どうかまだ生きている存在の方を大事にしなさい。
そんな風に考えていたとき、信じられない光景を目の端が捕らえた。
「乃恵留! 僕に捕まれ!」
「……何で?」
仰向けになった昴兄ちゃんが、あたしの目の前に流れてきた。自分自身を浮き輪の代わりにと思ったのかしら。
「と、とりあえず、助かったわ。ありがとう、昴兄ちゃん」
あたしは昴兄ちゃんの体に上半身を乗せて、呼吸ができる状態を整えた。濡れた上半身も、水に浸かっている下半身も、冷たいことには変わりないけれど。それでも溺れ死ぬ可能性が低くなった今、さっきよりも頭は冴えている。
「乃恵留。もう分かっているだろう? 僕が普段、ご飯をいっぱい食べて脂肪を蓄えていたのは、大事な家族が溺れたときに、すぐに助けられるようにするためだ」
「……そういうことにしておくわ」
確かに体脂肪率が高い方が、水に浮きやすいというのは聞いたことがある。でも昴兄ちゃんがご飯をたくさん食べるのは、別に今日のこの状況を予想していたからではないでしょ! ただ単に食べたいからでしょ!
「昴兄ちゃん、冷たくないの?」
どちらにしても、昴兄ちゃんには感謝しなくちゃいけない。あたしを助けるために、冷たい川に率先して飛び込んでくれたんだから。服がビショビショになるのもお構いなしで。
「人生という川の流れに逆らうより、身を任せた方がいい。流れに逆らったところで、せいぜい現状維持しかできない。それなら流れに身を任せよう。行き着く先が地獄とは限らないから」
「……それ、辞世の句みたいなものだったりする?」
昴兄ちゃんも川の水の冷たさのせいで、頭が麻痺しちゃったのかしら。とりあえず昴兄ちゃんの言う通り、暴れたりせず川の流れに身を任せよう。
あたしみたいに足を踏み外して流される客のためか、川下の方にはネットが張られていて、暁兄ちゃんとパパがそこで待ち構えているのが見えた。
「……テント……釣り……川の流れ……ネット……」
昴兄ちゃんがブツブツと呟いている。やっぱり頭が麻痺しちゃったのかしら。
「……そうか。僕、分かっちゃったかも。三津井先生の生首が校庭に捨てられた、その方法が。ついでに犯人も」
「え、どうやったの? というか、どうしてこの状況で分かったの?」
まさかあたしを助けようとした昴兄ちゃん、一瞬、あの世へ足を踏み入れちゃって、全てが見えちゃった、なんてことは、ないわよね?
「まあでも、今その方法を父さんに教えると、せっかくの非番なのに仕事に戻らなきゃいけないから可哀想だし。教えるのは明日にしよう。ニジマスだってまだ食べていないし」
「ちょっと! そんなこと言っている場合じゃないでしょう? 教えなさいよ!」
それにあたしには分かるわ。昴兄ちゃんが心配しているのはパパのことじゃない。ニジマスが食べられない自分自身のことよ!
「どうせ犯人は逃げやしないと思うから。あの人はおそらく、この謎解きをされたら、素直に自白すると思う」
昴兄ちゃんはその言葉を最後に、あたしがどんなにギャーギャー叫んでも何も言わなくなって……あたしたちは川下で暁兄ちゃんとパパに助けられて、釣りはキャンセルしてコテージのお風呂に直行することになった。
ニジマスが食べられなかった昴兄ちゃんは、とても不服そうだった。
そして、あれだけ騒いでいたマスコミたちはとっくに学校に来なくなった。テレビでは芸能人の不倫についてのニュースばかり流れていた。生徒たちだって、クリスマスはサンタクロースを装う両親に何をおねだりするかとか、冬休みはどこに旅行に行くかとか、中学受験のラストスパートだから一月はずっと学校を休むかもしれないとか、そんな話しかしなくなったみたい。
暁兄ちゃんも昴兄ちゃんも、自分たちの担任が殺されたというのに、以前のように事件に首を突っ込もうとしなくなってしまった。
国枝と三津井の代わりの担任の先生二人も、どこからともなく調達できたらしい。これは後で知ったことだけど、教育委員会は教員免許保持者のリストを持っていて、今回のようなケースでは彼らに連絡を取って非常勤講師になってもらうようお願いするのだとか。
そして子供を中学受験させる家庭からは、これまでの担任に調査書を書いてもらえないと不安の声が上がっているけれど、事情が事情なだけにクレームをつけてくるようなことはなかったみたい。
そして十二月になった。パパは珍しく土日で非番をもらえたらしい。そして「今の時期なら空いているだろう」ということで、あたしたち桐生家は、パパの運転でキャンプ場に来ていた。
ママは虫が苦手だからアウトドア系のイベントは嫌がるけど、この時期なら虫は少ないだろうということもあって「テントじゃなくて、バス・トイレ付のコテージに泊まること」を条件に承諾してくれた。暁兄ちゃんは子供らしくはしゃいでいたし、昴兄ちゃんはご飯が食べられれば何でもいいらしい。
「最近のバーベキューは、自分たちで何もやらなくていいから、楽でいいわよね」
あたしたちは、お昼ご飯にコテージのベランダで手ぶらバーベキューを楽しんでいた。最近は、機材の設置も食材を切るのも片付けも、全部スタッフにやってもらえるバーベキュー場が増えている。もちろんあたしたちも、そのサービスを利用させてもらった。
何もしなくていいママは大満足だった。食材を焼く作業は男性陣が率先してやってくれるし。
「おい昴。それはまだ生焼けじゃないか?」
「父さん、早いもの勝ちだよ」
「いや豚肉はちゃんと火を通さないと危ないぞ」
「父さん、さりげなく俺の皿のピーマン率を上げないでよ」
「暁、好き嫌いはダメだぞ」
「俺は、ピーマンは食えるぞ? 父さんがピーマン嫌いで俺たちに押し付けているだけだろ? 夕飯にピーマンが出たとき、さりげなく昴の皿に移動させているの、知っているぞ?」
「いやそれは……昴の健康を心配しているだけだ。パパがピーマン嫌いな訳じゃない」
「ああ、もう! 何でもいいから、あたしにもお肉ちょうだい! しっかり焼いて。味付けはしないでね。あたしは食材本来の味を求めているから!」
「それにしても、量が多くない? 昴のことを考えて、六人分コースにしちゃったけど」
「何を言っているんだよ、母さん。むしろ少ないくらいだよ」
そんな感じで、桐生家のお昼ご飯は平和だった。お隣のコテージに泊まる老夫婦が「あらあら、可愛い子たち」とあたしや暁兄ちゃんを見て微笑んでいる。その後、昴兄ちゃんの食べっぷりに目を見開いていた。
「父さん、やっぱり僕には足りなかったよ」
バーベキューを完食した昴兄ちゃんは、まだ足りないとパパにねだっている。
「ええっ。パパはもうお腹いっぱいだよ。夕飯だって食べられそうにないくらいだよ。とりあえず、スーパーにお菓子でも買い出しに行くか?」
「一応、キャンプ場の受付にお菓子は売られていたわよ。それでいいんじゃないかしら?」
スーパーで売られているお菓子より高い値段で売られていたけれど。でもスーパーまで車を出すためのガソリン代や手間を考えると、トントンだと思うわ。
「今はお菓子って気分じゃないんだよね。それよりさ、ここのキャンプ場、裏に川があったじゃん? そこでニジマス釣りができるってさ。パンフレットに載っていたよ」
ニジマス! その単語を聞いた瞬間、あたしの口の中の唾液の分量が増えたような気がした。
「あら、いいわね。確かにせっかくキャンプに来たんだから、お肉もいいけど捕ったばかりの魚もありね」
魚は鮮度が命。スーパーで売られているものより美味しいこと間違いなしだわ。
「確かに夕飯まで時間あるし、キャンプに来たんだから釣りをするのもありだね」
「ニジマスって、春に釣れるんじゃなかったか? 今の時期でも釣れるのか?」
「放流しているやつだろうから大丈夫でしょ。そもそも自然河川だと、今の時期は禁漁だよ」
「釣りって、餌に虫を使うんでしょ? ママはちょっと止めておくわ。あなたたちだけで行ってきてちょうだい」
そんな訳で、あたしと暁兄ちゃんと昴兄ちゃんとパパだけで、ニジマス釣りに挑戦することになった。キャンプ場の裏側を覗くと、確かに川があって、ニジマス釣りのための釣り竿が立てかけられているのが見えた。
「えっと……お客さんたち、ニジマス釣りやるの?」
釣り竿のすぐ側にいたスタッフが、他の皆より明らかに体格が小さいあたしを見て「遠慮してくれないかな」という目線を送ってきたけど、あたしはそれを知らんぷりした。
「心配しなくても大丈夫よ! 危ないことはしないわ!」
あたしだってもう四歳の立派な「れでぃ」なんだから。
「安全には充分に気をつけますので」
「まあ、それなら……」
スタッフは渋々だけど、釣り竿を三本と餌の入った箱をパパに渡してくれた。ママは心配していたけど、生き餌ではなく、冷凍の海老を細かく刻んだものだった。
「ちなみに釣った分、買い取りになります。ちゃんと申請してくださいね」
「大丈夫です。いくらうちの昴がデブとはいえ、生でニジマスを食べたりしませんよ」
「パパ、スタッフは、そんな心配はしていないと思うわよ」
それに自分の息子をデブと思うのは自由だけど、口に出すのはどうかと思うわ。昴兄ちゃんは気にしていないだろうけど。
「ところで……パパは釣りなんて二十年ぶりだから、全然やり方が分からないんだが。暁と昴は分かるのか?」
「パパ、分からないなら暁兄ちゃんや昴兄ちゃんに聞くより、スタッフに聞いた方がいいと思うわよ」
男の人は、どうして人に教えを請うってことができないのかしら。
「俺たち、夏の林間学校で、釣り、やったよな」
「ああ。でも釣ったのは、ニジマスじゃなかったけど」
「釣り針に餌をつけて釣り糸を垂らして……あとは川の流れに沿って動いているよう見せかける、がポイントだよ。川の流れに逆らっているように見えたら、人間が操作しているってニジマスにバレるからね」
「なるほどね。ここではパパが一番、釣れなそうね」
そのときあたしのすぐ側で、何かがポチャンと音を立てた気がした。だから思わず「ニジマスかしら?」と、川を覗き込んでしまった。
「あ! 乃恵留、ダメだ!」
まさかこんなに足元が滑りやすくなっているなんて思わなかった。あたしは足を踏み外して、そのまま川に落下してしまった。
「た、助けて!」
あたしはバシャバシャと暴れながら必死で叫んだ。確かこういうときは、仰向けになって力を抜いて、口元が水面より上になるようにするべき……なんて、いくらあたしでも冷静になっていられない。しかも冷たい川に浸かって、頭は完全に麻痺している。
ああ、あたしはここで死ぬんだわ。自分では「もう四歳」と言っていたけれど……本当は「まだ四歳」だ。世の中に自分がまだ経験したことないような、もっと楽しいことも、もっと悲しいことも、何も知らないまま、あの世に旅立つのね。
パパ、ママ、暁兄ちゃん、昴兄ちゃん。そして虎太郎。今までありがとう。ただあたしが死んだ後、ずっとその悲しみに囚われちゃダメよ。どうかまだ生きている存在の方を大事にしなさい。
そんな風に考えていたとき、信じられない光景を目の端が捕らえた。
「乃恵留! 僕に捕まれ!」
「……何で?」
仰向けになった昴兄ちゃんが、あたしの目の前に流れてきた。自分自身を浮き輪の代わりにと思ったのかしら。
「と、とりあえず、助かったわ。ありがとう、昴兄ちゃん」
あたしは昴兄ちゃんの体に上半身を乗せて、呼吸ができる状態を整えた。濡れた上半身も、水に浸かっている下半身も、冷たいことには変わりないけれど。それでも溺れ死ぬ可能性が低くなった今、さっきよりも頭は冴えている。
「乃恵留。もう分かっているだろう? 僕が普段、ご飯をいっぱい食べて脂肪を蓄えていたのは、大事な家族が溺れたときに、すぐに助けられるようにするためだ」
「……そういうことにしておくわ」
確かに体脂肪率が高い方が、水に浮きやすいというのは聞いたことがある。でも昴兄ちゃんがご飯をたくさん食べるのは、別に今日のこの状況を予想していたからではないでしょ! ただ単に食べたいからでしょ!
「昴兄ちゃん、冷たくないの?」
どちらにしても、昴兄ちゃんには感謝しなくちゃいけない。あたしを助けるために、冷たい川に率先して飛び込んでくれたんだから。服がビショビショになるのもお構いなしで。
「人生という川の流れに逆らうより、身を任せた方がいい。流れに逆らったところで、せいぜい現状維持しかできない。それなら流れに身を任せよう。行き着く先が地獄とは限らないから」
「……それ、辞世の句みたいなものだったりする?」
昴兄ちゃんも川の水の冷たさのせいで、頭が麻痺しちゃったのかしら。とりあえず昴兄ちゃんの言う通り、暴れたりせず川の流れに身を任せよう。
あたしみたいに足を踏み外して流される客のためか、川下の方にはネットが張られていて、暁兄ちゃんとパパがそこで待ち構えているのが見えた。
「……テント……釣り……川の流れ……ネット……」
昴兄ちゃんがブツブツと呟いている。やっぱり頭が麻痺しちゃったのかしら。
「……そうか。僕、分かっちゃったかも。三津井先生の生首が校庭に捨てられた、その方法が。ついでに犯人も」
「え、どうやったの? というか、どうしてこの状況で分かったの?」
まさかあたしを助けようとした昴兄ちゃん、一瞬、あの世へ足を踏み入れちゃって、全てが見えちゃった、なんてことは、ないわよね?
「まあでも、今その方法を父さんに教えると、せっかくの非番なのに仕事に戻らなきゃいけないから可哀想だし。教えるのは明日にしよう。ニジマスだってまだ食べていないし」
「ちょっと! そんなこと言っている場合じゃないでしょう? 教えなさいよ!」
それにあたしには分かるわ。昴兄ちゃんが心配しているのはパパのことじゃない。ニジマスが食べられない自分自身のことよ!
「どうせ犯人は逃げやしないと思うから。あの人はおそらく、この謎解きをされたら、素直に自白すると思う」
昴兄ちゃんはその言葉を最後に、あたしがどんなにギャーギャー叫んでも何も言わなくなって……あたしたちは川下で暁兄ちゃんとパパに助けられて、釣りはキャンセルしてコテージのお風呂に直行することになった。
ニジマスが食べられなかった昴兄ちゃんは、とても不服そうだった。
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