海の向こう側

杠葉 縞

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12.責任

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 俺と竹川はペンションに戻り、リビングに足を踏み入れた。俺たちを除いて、男性が二人、女性が五人、犬が一匹。この島にいる連中は全員、揃っているようだ。稲島さん、仁美、アーヤの三人だけは、軽くシャワーを浴びたようで、髪をアップにしたり首にタオルを巻いたりしている。
 皆がうつむき加減で、一言も発せずおとなしくしていた。昼食の時間なので、クリスが作ってくれたシーフードピザが二つのテーブルに置かれているが、誰も手をつけなかった。
「ね、ねえ、カエデ……」
 今日も右前に浴衣を着てしまったサクラが、おそるおそる俺に声をかけたが、俺は「今から説明するから」と目で合図した。
「結論から話すと、磯野が亡くなった。あいつの遺体は、姫島の東側にある教会に安置しておいた」
 誰も何も一言も口にしなかったけれど、俺の一言で明らかに場の空気が変わった。みんながハッとした表情になったあと、目線を落とす人、口元に手を当てる人、両手を握りしめる人、に分かれた。
「俺と稲島さんが皆から離れたあと、何があったのか聞かせてもらえないか」
 今回の事故を警察に連絡するためだけでない。今後の事故再発防止のためにも大事なことだ。
「な、何がって、言われても……」
 仁美がかすれそうな声を発しながら、さっきも着ていた水色のワンピースの裾をキュッと掴んだ。どう答えようか悩んでいるというより、何が起こったのか分かっていないようだ。
「お前たちが上の方に行ったあとだけど……」
 重い腰をあげて話し始めたのは新田だった。生徒の中で一番、年上だし。兄貴キャラだから当然の流れだろう。
「俺たちあんまり離れないようにとは思いつつ、気ままにその辺を泳いで魚を見たりしていたんだよ」
 俺の想像した通り、お前たち、勝手な行動をとっていたんだな。
「ふと気付いたら、磯野が苦しそうに暴れていたんだ。俺たちは指示棒なんて持っていなかったし、完全に気付くのが遅くなって……」
 それは指示棒を持っていなかったからじゃない。勝手な行動をとっていたからだ。こいつらは絶対に認めないだろうが。
「もしかしたら呼吸がおかしいのかと思って、慌てて磯野のもとに泳いでいって、望月みたいにオクトパスを磯野の口に持ってこうとした。でもあいつ、自分の咥えているやつを離そうとしなかったし」
 磯野も混乱していたんだろう。呼吸ができないなんて、人生で初めてのことだっただろうし。
「そのうち、まったく動かなくなった。どうすればいいのか分からないし、それでそのまま待っていたら、お前が降りてきた」
 新田からは以上だった。彼がソファにドシッと腰を落とすと、その勢いで仁美とアーヤの身体が一瞬、浮かび上がったように見えた。
 数十秒の沈黙のあと、稲島さんが「あとは私が」と俺に目配せをした。彼女はこの数時間の間で、また日に焼けたような気がする。とりあえずここは上司に任せるべきだろう。俺は黙って従った。
「今回の合宿は中止にします。返金にするか後日に振り替えるかは、本社と相談して……」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
 稲島さんの言葉を遮って、アーヤが強い口調でそう叫んだ。今日の彼女は、肩どころか背中が丸見えのホルターネックキャミソールを着ている。こんなときに思うのもなんだが、そういう服しか持っていないのか。彼氏である新田は何も言わないのか。
「そんな事務的に言われて『はい、よろしくお願いします』って、納得できないわよ。あんたたちが見ていた中で、人が死んでいるのよ。どう責任を取るつもり?」
 興奮気味のアーヤを、仁美が肩を押さえてなだめようとするが、彼女の興奮は止まらなかった。あんな遠慮したい奴でも、彼女にとっては一応、友達だったからな。それに下手すれば今回のことで亡くなっていたのは、自分だったかもしれないし。
「だいたいインストラクターが二人もいながら、何でまだライセンスを取っていない生徒たちを海に置いていったの?」
「あれは稲島さんが呼吸できない状態だったから、彼女を助けるために取った行動なんだ。直前で皆の残圧計も確認したけど、まだかなり空気は残っていたし」
 それにインストラクターが一人で複数の生徒につくのも、珍しくない。急浮上の練習(エアに問題があり、バディと離れているとき、緊急で行う場合も)は危険なため一人ずつ行うので、その間は生徒だけで海底に残すこともある。
 アーヤは俺の説明でも、納得できなそうな表情を見せて反論した。
「そもそも何で稲島さんは、途中で苦しくなったの。空気が全然タンクに入っていなかったなら、それって整備不良ってことじゃない。つまり、あんたたちの責任じゃない!」
「私が途中で苦しくなった理由は、開けたはずのバルブ(スキューバタンクの蓋。これが閉まると空気が行き届かなくなる)が閉まっていたから。海底で何かにぶつかった拍子に閉まったみたい」
 そういう理由なら、誰も彼女を責められない。明日は我が身かもしれないのだから。
「あのさ。磯野くんも、岩か何かにぶつかって、バルブが閉まったのかな。だから呼吸ができなくなったのかしら」
 仁美が怯えた表情でおそるおそる聞いてきた。俺も気になっていたが、大西がその疑問を打ち消した。
「磯野さんのタンクだけ、空気がほとんどありませんでした。エア切れが原因でしょう。残圧計も、磯野さんのだけ壊れていました」
 エア切れと残圧計の故障のコラボレーション、だと!?
「残圧計ですが、エアが入った瞬間は二百barになりました。そのあとゆっくりですが、正しい値を示そうとしますが、百八十barの位置で止まってしまいます。そのあと壊れない程度に残圧計を叩くと、正しい位置を示します」
 叩けば直るって、古いテレビみたいだな。って、そんな悠長なことを考えている場合ではない。大西の言う通り、タンクに空気がほとんど入っていなかった上に残圧計が壊れていたとすると、クマノミダイビングクラブ側の責任が極めて大きい。しかも器材の点検をしたのって、俺じゃないか。
「ちょっと待てよ。俺は昨日、ちゃんと全部の器材を確認したぞ。そのときは問題なかったぞ」
 そうだよ。タンクに空気が入っていることは俺の残圧計で確認したし、空気が入っていることを確認したタンクで、他の残圧計に問題がないかを確認した。
 しかし本当にしっかり確認していたのか、不安になってきた。どこか見落としていたんじゃないか。そもそも俺の残圧計に問題なかったと、どうして言い切れるんだ? こんなことなら竹川にも手伝ってもらって、ダブルチェックしてもらうべきだった。
「点検したとは言っても、実際は不良品だったじゃない。あんたの点検がいい加減だったんでしょ」
 アーヤが再び怒りに肩を震わせた。今にも俺に掴みかかってきそうだった。仁美はもう、彼女をなだめようとはしなかった。生徒たちだけでなく、インストラクターの三人からも、俺を責めるような視線を受けている気がする。
「とにかく俺たち、これ以上ここにはいたくないんだ。返金対応とか、その辺はまた今度でいいから、早く本島に返してほしいんだが。まだWiFiは繋がらないのか?」
 新田はアーヤとは対称的に、意外と冷静な態度を示した。アーヤと長年、付き合っているだけある。
「モバイルWiFiルータだけど、玄関脇の収納スペースの一番上の棚に置いておいたのが、下に落ちていたわ。その衝撃で壊れてしまったみたい。多分ウィルちゃんの仕業だわ。扉が少し開いていたから」
 クリスは、コップが一つ割れちゃったわ、みたいなノリでそう言った。彼女はそれよりも、エプロンドレスについた汚れの方が気になるらしく、両手の人差し指で格闘している。コップが割れた程度で済む問題じゃない。完全に外界との連絡手段が途絶えた。これじゃ本当にクローズドサークルだ。
「器材は壊れている、船はない、本島に連絡できない。おまけに生徒を死なせた。お前のとこのダイビングショップ、最低だな」
 新田が静かな怒りを声に出した。誰もが言葉を詰まらせて、沈黙が続いた。
「……あのね、さっきから言いたい放題、言ってくれているけどね」
 ここで沈黙を破ったのは、頼れる姉御肌の稲島さんだった。
「磯野くんのエアが切れたとき、発見が早ければ助けられたかもしれないわ。発見が遅くなったのは、あなたたちが好き勝手に行動していたせいよ。それに異常事態だったなら、望月くんの指示を無視して、磯野くんの腕を掴んで陸に上がれば良かったのよ。昨日、講義を受けたのなら、それくらいは思い付いたでしょ。あなたたち、私たちの講義で何を聞いていたの」
 そうだよ。よく言ってくれた、稲島さん。さすが支店長は違う。いざ裁判になったなら、俺たちクマノミダイビングクラブ側は、それを主張するだろう。竹川と大西も、同じ気持ちでいるに違いない。
「何よ、私たちが悪いって言うの?」
 新田を黙らせることはできたが、その代わりアーヤの怒りに火をつけたようだ。そして彼女はとんでもないことを言い出した。
「よくもそんな他人事みたいに言えるのね。元彼が死んだっていうのに。年を取るとそんな気持ちなんて、きれいさっぱり忘れちゃうのかしら」
「……は?」
 え、元彼? って、誰が、誰の?
 文脈的に考えれば、稲島さんと磯野が付き合っていたってことになるが。でも稲島さんって、海に一生を捧げるとかで、恋愛にいっさい興味ないと思っていたんだが。俺の勝手な勘違いだったのか。
 稲島さんを見ると、目があさっての方向を見ていた。え? これ、本当なの?
「お客様相手に失礼しました。頭を冷やしてきます」
 稲島さんはそう言うと、俺たちの誰とも目を合わせずリビングを出て行った。玄関のドアを開ける音が聞こえたから、外へと出て行ったのだろう。新田たちはお客様ではなく生徒だ。それなのに「お客様」という表現を使った辺り、彼女の静かな負の感情がうかがえる。アーヤの言葉が、よほど彼女の心をえぐったのだろう。
「あのさ、稲島さんと磯野が付き合っていたって、本当なのか?」
 俺は遠慮がちに竹川に聞いてみた。
「いやいや、カエデさん。空気、読みましょうよ。今、その話をしている場合じゃないでしょう」
 だって気になるし。もはや俺にとって今回の事故のショックより、稲島さんと磯野が付き合っていたってショックの方が大きいよ。
「俺は知らなかったですよ。でもアーヤさんがこんな状況で、でたらめを言うとも思えないですし。本当なんでしょう」
 俺はがっくりと肩を落とした。俺の尊敬する稲島さんが、まさかあの磯野の毒牙にかかっていたなんて。
「あ、あの。稲島さんと磯野くんが付き合っていた話は置いておいて」
 これまで黙っていた仁美が、おそるおそる話を振ってきた。彼女も稲島さんと磯野のこと、知っていたのだろう。
「私たち、これからどうなるのかな。船もないし外とも連絡が取れないのよね。ここで魚を採ったり、野菜を収穫したりして、生活するのかな」
 それはそれで楽しそうだが。でもたまには肉も食べたい。
「こいつらの誰かが、網島まで泳いで助けを求めてくれるだろ」
 新田が、冗談なのか本気なのか分からない提案をしてきた。本気でそれ言っているなら、最も体力がありそうなお前がやってくれ。
「それなら心配ないわ。四、五日に一回くらい、三枝さんが姫島に来るのよ。獲れた魚のおすそ分けに」
 クリスが希望に溢れた一言を放った。俺の中で三枝さんが天使に思えた瞬間だった。三枝さん、若い女の子には優しいからな。よほど島を離れていった娘が恋しいのかな。
「三枝さんって、いつも網姫祭でタコ焼きを出していて、若い女の子には優しい、あの三枝さんよね?」
 仁美がそう確認してきた。三枝さんが若い女の子には優しいというのは、昔から周知の事実だったようだ。島を離れた娘さんは関係なかったようだ。
「三枝さん、一昨日に来たから、おそらく二、三日以内には助けに来てくれると思うわ」
 三枝さん自身は、救助のために来るわけではないが。とりあえずそれで外界と連絡はつくわけだ。全員の顔から安堵の表情が見えた。
「元々、四日間の合宿の予定だったし、食料はあります。何もないところですが、三枝さんが来るまでおとなしく救助を待ちましょう」
 竹川が一番、おいしいところを持って行く。食料を用意したのはクリスだから、お前が言える台詞じゃないだろう。
 とりあえず今はおとなしく三枝さんを待つしかない。インターネットが使えない状態で待つなんて、若い男女にとっては退屈だろう。シュノーケリングの器材なら貸し出してもいいが、磯野が死んだ海になんて、いくらキレイでも近づく気になれないだろう。
「網姫の呪い」
 突然、クリスがおかしなことを言い出した。こいつ、また俺たちのことを勝手に占ったりでもしたのか。しかしそれと同時に、新田たちがあからさまにギクリとした表情になったのを、俺は見逃さなかった。ああそうか。こいつらクリスがこういう変なやつだって知らないのか。それにしては妙な反応ではあるが。
「おい、クリス。また何を変なこと言い出すんだ? みんなが怯えているじゃないか!」
 俺はクリスを諌めたが、彼女はウィルを抱き上げて頭をなでながら話を続けた。
「勘違いしないで。あなたたち、クマノミダイビングクラブ側をかばうわけじゃないわ」
 いやそこは、ぜひ、かばってくれ。
「私がこの姫島に来てからだいぶ経つし、他のダイビングショップの合宿も引き受けたことだってあったわ。でも器材の整備不良だって、船がなくなったことだって、WiFiルータが壊れたことだって、これまで一度もなかったわ。それなのに、こんなことが同時期に重なるものかしら。そして磯野さんが、網姫に攫われた」
 そのとき、アーヤが音を立ててソファから立ち上がり、無言でリビングから出て行った。階段をトントンと上がる音が聞こえてくる。自分の部屋に戻ったのだろう。
「アーヤちゃん」
 仁美がおろおろしながらも、どうしたものか迷っている。
「アーヤちゃんがごめんね。今回のこと、私たちが調子に乗って好き勝手したせいだってことも分かっているんだけど。でもやっぱり友達が目の前で死んで、ショックだと思うから」
 唯一、好き勝手していなかった仁美はそう言うと、リビングを出て行った。アーヤのときと同様、階段をトントンと上がる音が聞こえた。
「俺もさっきは、キツいこと言って悪かった。俺も頭を冷やす必要ある。稲島さんにも『悪かった』って、言っておいてくれ」
 意外にも新田にまで謝られた。いやそれはお前自身の口から言えよと思いつつ、俺はリビングを出て行く彼を見送った。階段をドシドシと上がる音が聞こえた。そして彼はリビングから出るとき、さりげなく4人分のピザを抱えてくのを、俺は見逃さなかった。一人分は、教会に寝かせている磯野へのお供え分だろうか。それとも大食漢の新田が、自分で食べる分だろうか。
 この場に残された野郎ばかりのメンバーで「じゃ、昼飯にしようか」なんて言い出せるわけもない。クリスは無言でリビングから出て行った。階段を上がる足音も聞こえなければ、玄関のドアを開ける音も聞こえない。どうやらキッチンに行ったようだ。きっと、こんな空気の中でも気にせず、アイスティでも入れに行ったのだろう。
「俺、比呂乃さんが心配なので、彼女を探してきます」
 次にこの場から逃げたのは竹川だった。彼は二人分のピザを手に取ると、リビングから出て行った。まさかこれを機に、あの二人が急展開になる、なんてないよな。なんてゲスなことを考えている俺がいた。
「俺、煙草、吸ってきます」
 そして大西が一人分のピザを手に取って、リビングから出て行った。あいつはこの場から逃げたいというより、本当に煙草が吸いたかったのだろう。
 リビングに残されたのは、俺とサクラとウィルだけだった。俺はダイニングテーブルの椅子に腰掛け、残ったピザを黙々と食べ始めた。サクラがどうしたものかと俺の方をチラチラ見ている気もしたが、それでも黙々と食べ続ける。
 稲島さんが俺をかばってくれたり、新事実が発覚したり、で有耶無耶になっていた。しかし冷静になってみると、俺の点検ミスの可能性が消えたわけではない。俺は確かに確認はきちんとしたはずだ。今回は特に気を使わないといけない生徒(特に磯野)だったから。それなのに事故が起こってしまった。
「あら。皆さん、出て行ったのね」
 いつの間にかクリスが、リビングに戻ってきていた。彼女は本当に、キッチンでアイスティを入れていたらしい。お盆に、氷とアイスティで満たされたグラスをいくつか抱えている。あの雰囲気の中で、俺たちがのんびりと食後のアイスティを楽しむとでも思ったのだろうか。状況はどうであれ、やるべき仕事を最低限こなしたのだろう。
「あのさ、カエデ、クリスちゃん」
 クリスが俺の前にグラスを置く傍ら、サクラが、おずおずと口を開いた。
「さっき、ウィルちゃんがWiFiルータを壊したって話になっていたけど、それは違うよ。ウィルちゃん、朝から皆が帰ってくるまで、ずっと私と一緒に外を散歩していたもん」
「え、本当か?」
 それなら一体、なぜWiFiルータが壊れたんだ?
「そういば、ウィルちゃんのお散歩、頼んでいたわね。すっかり忘れていたわ」
 クリスがアイスティを飲みながら、のんびりとした口調で言った。そういうことは忘れないでくれ。
「俺たちが海に潜っている間、地震とかあったか?」
「ううん。何もなかったよ」
 サクラが少し大げさに、首を横に振った。
「でもそれなら、一体どうして?」
「さっきも言ったじゃない。網姫の呪いよ」
 一瞬、昨日のことが頭をよぎったが、必死で頭を振ってあの記憶を追い出した。磯野のこと以上に思い出したくない。そしてクリスはそんな俺の心情を察することなく、のんびりとピザを口に運んでいる。こいつは本当、マイペースだな。
「呪いなんて、そんなのあるわけないだろ」
 WiFiルータが壊れる呪いなんて、あってたまるか。
「だって『私の占い』がそう告げていたんだもの。あなただって心当たりがあるんじゃない?」
 一瞬ぎくりとなったが、すぐに心を落ち着かせてみせる。こいつのペースに飲まれてはいけない。
「お前の占いって、俺が網姫に攫われることだろ。でも実際に死んだのは、磯野だったじゃないか」
「網姫が、あなたと磯野さんを間違えたんじゃないかしら」
 あんな奴と間違えられてたまるか。ただのこじつけだ。
「あのさ、そもそも呪いじゃなくて、人為的なものだったんじゃない?」
 この中で一番、冷静かつまともな意見を出したのは、サクラだった。名探偵サクラ。悪くない響きだ。
「磯野くんの事件があってから、皆、海から引き揚げてリビングに戻ってきたよね。でも皆、部屋に戻って着替えたり、トイレに行ったり、煙草を吸いにいったりしていたもん。つまり皆がずっと、リビングにいた訳じゃないんだよ。だから誰かが玄関脇の収納スペースからWiFiルータをこっそり持ち出して、壊して元に戻したのかもしれないよ」
 確かに、ウィルの仕業でも地震が起こったのでもないなら、誰かがわざと壊した、と考えるのが普通だよな。
「でも誰が何のために、そんなことを?」
「磯野さんの死を本島に知らせたくない人がやったんじゃないかしら」
 クリスの言っていることは一理ある。しかしそうなると一番、怪しいのは、クマノミダイビングクラブのメンバーになる。もちろん俺も含めてだ。人身事故を起こしたなんて、たとえ俺一人の点検ミスが原因だったとしても、全員が無傷ではいられないだろう。
「いやでもインターネットが使えなくても、三枝さんが来れば、網島や本島と連絡が取れるんだし。磯野の死はいずれ知られるんだよな?」
 三枝さんが来なくても、さすがに何日も本社と連絡が取れなければ、向こうから何かアクションがあるはずだ。俺たちインストラクターが網島に帰らなければ、家族が連絡するだろうし。そう考えると、せいぜい時間稼ぎくらいにしかならない。
「じゃあWiFiルータを壊した犯人は、私たちをこの姫島に閉じ込めたかったんじゃないかしら」
 その考えの方が現実的だろう。明後日までは姫島にいる予定だったが、磯野の死で、皆が姫島を出たがることは予想できる。現に新田は、姫島を出たがっていたし。
「でも何のために俺たちを閉じ込めたんだ?」
 もちろん、磯野の死が関係あると考えて正解だろう。サスペンスドラマだと、警察に助けを呼べない状態で次々に殺人事件が起こるっていうのが定番だけど。まさか、な。
「警察に助けを呼べない状態で、次々に殺人事件を起こす気かもよ。まだあなたも網姫に攫われていないし」
「俺が心の中で否定していたことを言うなよ!」
 しかも俺が海で死ぬ可能性のおまけつきかよ。
「でもクリスちゃんの言う通りだとすると、WiFiルータが壊れたことだけじゃなくて、磯野くんが死んだことも人為的なものだったとか?」
「その可能性は、なくはない」
 あらかじめタンクの空気を空にしておいて、壊れた残圧計をレンタル器材の中に混ぜておけばいいだけだからな。俺は物置小屋の中のレンタル用のタンクの中から、手前にあった四つのタンクを運んだ。あんな重いタンク、わざわざ奥の方から取り出すやつはいない。それを考えると、手前の四つのタンクのどれかを空にしておけばいい。しかも男性はアルミタンク、女性はスチールタンクで分けているのだから、アルミタンクを一つ空にしておけば、男性のどちらかに問題のタンクを行き渡らせることができる。男女でタンクを分けていることは、クマノミダイビングクラブ全店の方針だ。インストラクターでなくても、事前に知ることはできただろう。
「でも、問題のタンクと壊れた残圧計を、新田でなく磯野に行き渡らせる方法が分からない」
 タンクを運んだのは俺だ。そのとき特に何かを意識したつもりはない。
 タンクのことはひとまず置いて、残圧計はどうだろう。これも男性に壊れた物を行き渡らせることは簡単だ。レンタル用のレギュレータは、男性が黒、女性がライトグレーと決まっている。これもタンクと同じく、クマノミダイビングクラブ全店でそういう方針だ。つまり黒のレギュレータ1つに、壊れた残圧計(色はもちろん黒)を設置しておけばいい。
 確かレギュレータは、稲島さんが配っていたな。つまり彼女が犯人だということか。かつての元彼だというなら、磯野を殺した動機もありそうだ。しかし問題のタンクを奴の前に置いた方法が分からない。
「ひょっとして、磯野さんの残圧計だけでなく、新田さんの残圧計も壊れていたんじゃない?」
 クリスの言う通りだ。残圧計が壊れていてもタンクさえ問題なければ、特に異常は起こらない。磯野のタンクと残圧計ばかりに気が向いて、他の器材に異常があったのかまでは気が回らなかった。残圧計はどちらも壊れたものに交換されていたんだ。
「それなら問題のタンクだけ、磯野に渡るようにすれば問題ない」
 偏見だが、磯野以上に肺活量の多そうな(つまり空気の減りが早そうな)新田が平気だったことを考えると、タンクに問題があったのは磯野の分だけだろう。あとは磯野に問題のタンクが行き渡るようにすればいい。でも普通に考えれば、それができるのって、俺しかいないんだよな。
 待てよ。もう一人だけいるじゃないか。
「新田なら、それができる。問題のタンクの傷でも覚えておいて、自分にそれが回ってきたら、何かしら理由をつけて磯野のものと取り換えればいい」
 磯野は新田の金魚のフンだったからな。何か命令されれば、犬のように喜んで従うだろう。クマノミダイビングクラブの人間じゃなくても、これらの細工をするのは不可能ではない。物置小屋に鍵はついていないし、レンタル用の残圧計はメジャーなメーカーの物だ。タンクの空気を抜くのだって、レギュレータの扱いさえ分かれば小細工できる。
「ちょっと俺、新田が使っていた残圧計を見てくるわ」
 俺は最後のピザを胃に流し込むと、玄関から物置小屋へ向かった。
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