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第三部 女王様の禁じられたよろこび
17*
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「ねえ、真朋くん」
間抜けの背中に震えが走った。よろしい、私が何をしようとしてるか分かってるようだね。
「いつまで石になってるの? 他のみんなは算数の宿題を提出したのよ? 真朋くんだけじゃないの、先生のところに持ってきてないのは」
そう。私の教室では、漬物石に化けて宿題をさぼったことを見逃してもらおうなどという小細工は通用しない。私はとうに気付いていたが、よほど自分の正体を隠したいのか、頭部にフルフェイスのマスクを被っている。メクラウナギを装ってまで担任教師の追及を免れようという、小学5年生の浅知恵なのだろう。
無駄よ。君にはまだまだ、長い苦難が待ち受けている。
「真朋くんは5年生でしょ? 宿題には足し算引き算もあったけど、あれはできたのよね? 掛け算はいいから、それだけでも先生に見せてちょうだい」
「見せてちょうだい」と担任が促しているのに、彼は素直に応じようとしない。
それでも私は辛抱強く待った。教師として信頼されているかどうかの正念場だ。
ふと気付くと、平伏した真朋くんの背中が、激しい懊悩を隠すべくもないかのように上下に波打っている。泣いているのだろうか。
「ごめんなさい」
「え?」
「……やってません」
「足し算引き算もやってないの?」
「……はい」
私は耳を疑った。
わざとらしく土下座しているこの子は、二ケタの足し算引き算さえしなかったというのだ。そりゃ、難しい応用問題まで正解を出せとは言わない。できっこないのは最初から分かっている。でもクラスの他の全員は、それぞれに頑張って私に宿題を提出した。なのにこの子は一番簡単な計算問題すらやってこなかったというのか! ああ、私は教師として、今まで何をやってきたのだろう!
「冗談言わないで」
悲嘆に押しつぶされそうになる自分をなんとか奮い立たせて、私は問いを重ねる。
「先生は一昨日、今日までにやってきなさいって言って宿題の用紙を渡したでしょ? なのに、この二日間何もしてなかったのね?」
「……はい」
「それじゃ、真朋くん。正直に言いなさい。一昨日と昨日、家で何をやってたの?」
ピンヒールの音を響かせて教え子の周囲を歩き回りながら、私は答えを待った。しかし、私を悩ませるこの子は沈黙している。……私の何が間違っていたのだろう。本当に情けなくなる。
「聞こえないの? 授業が終わって家に帰ってから、何をしてたの?」
突然、頭部が持ち上がった。目も鼻もマスクで覆われ、口だけ露出している頭部を持ち上げて、息を喘がせている。亀にそっくりだ。
私は片膝を着いて顔を近づけ、苛立ちをぐっと抑えながら、大切な教え子へのいたわりを込めて囁きかける。
「答えなさい。家で何をしてたの?」
「てっ……テレビを、観てました」
「テレビ? 何の番組を?」
「……アニメです」
「へえー、ずっとアニメの番組見てたの。昨日も一昨日も」
「はい」
「アニメの番組を見てて楽しかった?」
「……はい」
「良かったわね。……アニメを見ている間は、宿題のことも授業のことも全部忘れていられるもんねぇ。うらやましいわぁ先生。真朋くんみたいにそうやって毎日暮らせたらきっと天国よ。でもアニメは30分で終わっちゃうわよねえ? アニメが終わった時に、宿題のこととか思い出さなかったの?」
黙っている。やむなく「どうなの?」と幾分腹に力を込めて問い詰めると、「はい」と亀が溜め息を吐くような声が返ってきた。
「お父さんやお母さんはそんな真朋くんを見て、何も言わなかったの?」
「はい、何も……」
「それでいいと思った?」
「は……はい」
「嘘おっしゃい!」
怒気を炸裂させた私の声に、問題児の全身が痙攣する! しかし不憫だなどと思うのは禁物だ。私は教育者として、毅然たる態度を示さなければならない。
この子ももう11歳だ。いずれ第二次性徴を迎え(もう迎えている?)、いっぱしに思春期に入ったりする。女子に色目を使ったり手淫を覚えたりするのだ。なのに二ケタの足し算引き算もできないとはどういう怪物だろう? 他の児童とまったく平等な初等教育を受けてきたはずなのに! この子にとっては、今が一番大事な時なのだ。この私が身を挺して矯正しなければ手遅れになってしまう!
靴音を反響させつつ、私は眼下にうずくまっている問題児童にも理解できるよう、ゆっくりと叱責の言葉を重ねていく。
「ご両親はね、あなたがとっくに宿題を終わらせたから、テレビ観てると思ってたのよ。あなたは聞かれないのをいいことに、ご両親を騙していたの。分かる? 先生の言ってることが。……良かったわねえ、嫌なこと全部忘れてアニメ観てられて。ほんっと先生うらやましいわ。アニメの番組には嫌な宿題も、口うるさい先生も出てこないもんねぇ? このままずっと学校へ行かなければいいのになあって思ったでしょ?」
問題児は黙っている。とりあえず私は3秒ほど待った。
「ねえどうなの? もう学校へは来ないで、家でずっとアニメ観てる方がいい?」
「ごめんなさい……」
「『ごめんなさい』じゃ分からないでしょ。来たくないなら来たくないって言えばいいのよ?」
「学校に……来たいです」
泣いてるらしい。涙声になっていて、頭が上下に動いて震えている。5年生にもなって、泣けば済むと思っているとはあきれてものが言えない。これでもあと2年足らずで中学生になるのだから、残された時間は限られている。
「へええ、そうなの。学校に来たいんだ。でもね真朋くん、先生はね、あなたがほんっとうに心配なの。心配で心配で、夜も眠れないくらいなのよ。分かってくれる?」
「はい……」
「本当に?……じゃあ、立ちなさい真朋くん」
間抜けの背中に震えが走った。よろしい、私が何をしようとしてるか分かってるようだね。
「いつまで石になってるの? 他のみんなは算数の宿題を提出したのよ? 真朋くんだけじゃないの、先生のところに持ってきてないのは」
そう。私の教室では、漬物石に化けて宿題をさぼったことを見逃してもらおうなどという小細工は通用しない。私はとうに気付いていたが、よほど自分の正体を隠したいのか、頭部にフルフェイスのマスクを被っている。メクラウナギを装ってまで担任教師の追及を免れようという、小学5年生の浅知恵なのだろう。
無駄よ。君にはまだまだ、長い苦難が待ち受けている。
「真朋くんは5年生でしょ? 宿題には足し算引き算もあったけど、あれはできたのよね? 掛け算はいいから、それだけでも先生に見せてちょうだい」
「見せてちょうだい」と担任が促しているのに、彼は素直に応じようとしない。
それでも私は辛抱強く待った。教師として信頼されているかどうかの正念場だ。
ふと気付くと、平伏した真朋くんの背中が、激しい懊悩を隠すべくもないかのように上下に波打っている。泣いているのだろうか。
「ごめんなさい」
「え?」
「……やってません」
「足し算引き算もやってないの?」
「……はい」
私は耳を疑った。
わざとらしく土下座しているこの子は、二ケタの足し算引き算さえしなかったというのだ。そりゃ、難しい応用問題まで正解を出せとは言わない。できっこないのは最初から分かっている。でもクラスの他の全員は、それぞれに頑張って私に宿題を提出した。なのにこの子は一番簡単な計算問題すらやってこなかったというのか! ああ、私は教師として、今まで何をやってきたのだろう!
「冗談言わないで」
悲嘆に押しつぶされそうになる自分をなんとか奮い立たせて、私は問いを重ねる。
「先生は一昨日、今日までにやってきなさいって言って宿題の用紙を渡したでしょ? なのに、この二日間何もしてなかったのね?」
「……はい」
「それじゃ、真朋くん。正直に言いなさい。一昨日と昨日、家で何をやってたの?」
ピンヒールの音を響かせて教え子の周囲を歩き回りながら、私は答えを待った。しかし、私を悩ませるこの子は沈黙している。……私の何が間違っていたのだろう。本当に情けなくなる。
「聞こえないの? 授業が終わって家に帰ってから、何をしてたの?」
突然、頭部が持ち上がった。目も鼻もマスクで覆われ、口だけ露出している頭部を持ち上げて、息を喘がせている。亀にそっくりだ。
私は片膝を着いて顔を近づけ、苛立ちをぐっと抑えながら、大切な教え子へのいたわりを込めて囁きかける。
「答えなさい。家で何をしてたの?」
「てっ……テレビを、観てました」
「テレビ? 何の番組を?」
「……アニメです」
「へえー、ずっとアニメの番組見てたの。昨日も一昨日も」
「はい」
「アニメの番組を見てて楽しかった?」
「……はい」
「良かったわね。……アニメを見ている間は、宿題のことも授業のことも全部忘れていられるもんねぇ。うらやましいわぁ先生。真朋くんみたいにそうやって毎日暮らせたらきっと天国よ。でもアニメは30分で終わっちゃうわよねえ? アニメが終わった時に、宿題のこととか思い出さなかったの?」
黙っている。やむなく「どうなの?」と幾分腹に力を込めて問い詰めると、「はい」と亀が溜め息を吐くような声が返ってきた。
「お父さんやお母さんはそんな真朋くんを見て、何も言わなかったの?」
「はい、何も……」
「それでいいと思った?」
「は……はい」
「嘘おっしゃい!」
怒気を炸裂させた私の声に、問題児の全身が痙攣する! しかし不憫だなどと思うのは禁物だ。私は教育者として、毅然たる態度を示さなければならない。
この子ももう11歳だ。いずれ第二次性徴を迎え(もう迎えている?)、いっぱしに思春期に入ったりする。女子に色目を使ったり手淫を覚えたりするのだ。なのに二ケタの足し算引き算もできないとはどういう怪物だろう? 他の児童とまったく平等な初等教育を受けてきたはずなのに! この子にとっては、今が一番大事な時なのだ。この私が身を挺して矯正しなければ手遅れになってしまう!
靴音を反響させつつ、私は眼下にうずくまっている問題児童にも理解できるよう、ゆっくりと叱責の言葉を重ねていく。
「ご両親はね、あなたがとっくに宿題を終わらせたから、テレビ観てると思ってたのよ。あなたは聞かれないのをいいことに、ご両親を騙していたの。分かる? 先生の言ってることが。……良かったわねえ、嫌なこと全部忘れてアニメ観てられて。ほんっと先生うらやましいわ。アニメの番組には嫌な宿題も、口うるさい先生も出てこないもんねぇ? このままずっと学校へ行かなければいいのになあって思ったでしょ?」
問題児は黙っている。とりあえず私は3秒ほど待った。
「ねえどうなの? もう学校へは来ないで、家でずっとアニメ観てる方がいい?」
「ごめんなさい……」
「『ごめんなさい』じゃ分からないでしょ。来たくないなら来たくないって言えばいいのよ?」
「学校に……来たいです」
泣いてるらしい。涙声になっていて、頭が上下に動いて震えている。5年生にもなって、泣けば済むと思っているとはあきれてものが言えない。これでもあと2年足らずで中学生になるのだから、残された時間は限られている。
「へええ、そうなの。学校に来たいんだ。でもね真朋くん、先生はね、あなたがほんっとうに心配なの。心配で心配で、夜も眠れないくらいなのよ。分かってくれる?」
「はい……」
「本当に?……じゃあ、立ちなさい真朋くん」
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