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リィングリーツは妖精の森
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「大丈夫ですか、ヒルシェンさん。転んだときに頭など打っていませんか?」
「申し訳ありません、大丈夫です」
中庭には急遽丸テーブルと椅子が設えられ、簡易的なお茶会の場となった。もちろん着席しているのは王子と公爵令嬢だけであるが。
特に冬の季節、グリムランドの民は太陽を渇望する。たとえ雪の残る庭であろうと、防寒着を着込んででも外でお茶の時間を楽しむほどには。
貴族には殊更その傾向が強く、そんな彼らの風習に則ってヤルノはヒルシェンとの手合わせの後、野外でのお茶会を提案した。
ヒルシェンはにこやかで人当たりの良い王子の様子をまじまじと観察した。
甘やかに鼻腔をくすぐる娼婦のような空気も、全てを見透かす謀略家の雰囲気も、今の王子にはない。ついさきほどの戦いが嘘のように家臣にまで気を遣う、優しく気弱な少年がいるだけである。
先ほどの事は全て勘違いで、本当にただ足がもつれて転んだだけなのか。しかし全員が、騎士のヒルシェンやギアンテだけではない。キシュクシュまでもが確かにその恐ろしい実力に気付いている。口には出さないが、暗黙の了解として。
『王子がこんな実力を隠し持っていたとは』
その上で表面上は騎士ヒルシェンと公爵令嬢キシュクシュの面子を潰さないよう、自分が泥をかぶるような言動をとったのだ。その場にいた全員が、彼の実力と、そして器の大きさをまざまざと見せつけられた形となった。
「うふふ、さっきはごめんなさいねぇ、イェレミアス。婚約者としてあなたのことが心配になっちゃったのよぉ」
ギアンテは元から。ヒルシェンも王子の評価を反転させて「これは大人物である」と認識している。キシュクシュなどは酷いもので手のひらを返して媚を売り出す始末だ。
「でも昔は剣も握れない虚弱体質だったのに、いったいどうしたのぉ?」
その声色からは含むところは無さそうである。二人は遠縁の親戚である上に婚約者。おそらくは幼いころから知る人物にどんな契機があって自分の護衛を打ち破るなどということができたのか、純粋に気になったのだろう。武の心得のないキシュクシュでも先ほどの一連の動きが「偶然」などで片づけられないことくらい分かっている。
ヒルシェンもこれは気になる質問だ。影武者であることを知るギアンテのみ一瞬緊張が表情に乗る。
「うふふ、秘密です」
人差し指で口の前を封じていたずらっぽく笑って見せるヤルノ。こういった「可愛らしい」仕草は以前からイェレミアスもよくしていた。行動に不自然はない。ないのだが、何故だか彼がやると妖艶な雰囲気を纏う。
「でも本当に、最近は随分と体調がいいんですよ。こうやってお日様の下に出るのも心地好いですね」
「ねぇ、婚約者の私にも教えられないのぉ? 私にだけ教えてよぉ。どうせギアンテは知ってるんでしょぅ?」
あてずっぽうに駄々をこねているだけのセリフではあるが、しかし核心はついている。婚約者で幼馴染みゆえの無遠慮な質問を想定していなかったギアンテは動揺を表に出さないのが精いっぱいであった。
「ふふ、じゃあこういう話を知っていますか?」
グリムランドで使われる茶器は中身のお茶が冷めにくいようにチューリップの花の様に縦長であるが、やはり寒さのために既にお茶は冷めきっている。そんなハーブティーを一口飲んで唇を湿らせてからヤルノは話し出した。
「むかしむかし、あるところに、一人の少年がいました。少年の住んでいる小さな村は、黒き森のすぐそばでした」
ぞわりとギアンテの背筋に悪寒が走った。黒き森のすぐ近くの小さな村。ヤルノの出自と奇妙に一致する話。彼はいったい何を話し出すというのか。
「リィングリーツの森には伝説がありました。満月で風のない夜、一人で森に行くと、森の妖精が現れる。もしその妖精に気に入られれば、何でも願い事を叶えてもらえると」
「それで、少年は森へ行ったの?」
目を輝かせて訊ねるキシュクシュ。貴族の知識にはない民間伝承の話。こういった手合いの話を聞くのは彼女は初めてである。
「ええ。少年は、毎日親に怒られ、殴られて暮らしていました。けれどもその理由はいつもよくわかりません。だから森へ行って妖精に訊ねたのです。妖精さん、もし僕が本当に悪いのなら、僕を殺してあなたが僕の代わりになってください、と」
「そ、それで、少年はどうなったの?」
迷信の類。そういった知識からは貴族の子弟は遠ざけられ、同じく荒唐無稽な、国が正式に認める神話だけを摂取させられる。もはやキシュクシュは寝物語を聞かされる幼子の様に齧り付きでヤルノの話を聞いている。
「さあ?」
「さあ、って!」
頬を膨れさせるキシュクシュ。年齢からすると少し幼い言動だが、こんないいところでお預けを喰らわされたらそれも仕方あるまい。
「そのお話の少年がどうなったのかは、僕も知りません。でも、お話の様に僕も祈ったんですよ。さすがに森には行けないから、部屋から黒き森の方角に向かって、ね」
「うふふ、あなたそんな面白い話する人だったのね。そういうのもっと知ってるの? また教えてよ」
なんとも中途半端な結果に終わった物語ではあったが、キシュクシュにとっては新鮮で、気に入ったようであった。
先ほど王子殺害を命じたのと同じ人物とは思えないような屈託のない笑みを見せた。
(なんのつもりだ)
一方最大限ポーカーフェイスを崩さぬようにはしているが、女騎士ギアンテは顔面蒼白であった。
いったいどんな意図で今の話をヤルノはしたというのか。
知っている人間が聞けば、今のイェレミアス王子の境遇に酷似した話。本当にそんな昔話がイルスの村にあるというのか。それともキシュクシュやヒルシェンに向けた声ならぬ悲鳴のメッセージなのか。だとしたらどんな理由で。
(まさか実話だなどということはあるまいが……)
もし本当にそうだったら……あの晩、親と別れを告げると言って数刻時間を貰ったヤルノ。もし彼がリィングリーツの妖精と入れ替わったというのならば。
床下から出てきたという子供の死体。あれはいったい誰のものなのか。まさかあれが本物のヤルノなどということはあるまい。
しかし、その後のヤルノの異常な行動の数々、もし彼が人為らざる者であるというのならば、それらも全て納得できる気がしてきた。
(いや、あれは『死にたて』じゃない……古い死体だと言っていた)
平民どもの様にくだらない迷信に囚われるなど騎士にあってはならぬこと。ギアンテはかぶりを振ってその考えを打ち消す。
「あそこには妖精なんていませんよ」
ヒルシェンが二人の会話に割って入ってきた。
「リィングリーツの森にいるのは、獣です」
「申し訳ありません、大丈夫です」
中庭には急遽丸テーブルと椅子が設えられ、簡易的なお茶会の場となった。もちろん着席しているのは王子と公爵令嬢だけであるが。
特に冬の季節、グリムランドの民は太陽を渇望する。たとえ雪の残る庭であろうと、防寒着を着込んででも外でお茶の時間を楽しむほどには。
貴族には殊更その傾向が強く、そんな彼らの風習に則ってヤルノはヒルシェンとの手合わせの後、野外でのお茶会を提案した。
ヒルシェンはにこやかで人当たりの良い王子の様子をまじまじと観察した。
甘やかに鼻腔をくすぐる娼婦のような空気も、全てを見透かす謀略家の雰囲気も、今の王子にはない。ついさきほどの戦いが嘘のように家臣にまで気を遣う、優しく気弱な少年がいるだけである。
先ほどの事は全て勘違いで、本当にただ足がもつれて転んだだけなのか。しかし全員が、騎士のヒルシェンやギアンテだけではない。キシュクシュまでもが確かにその恐ろしい実力に気付いている。口には出さないが、暗黙の了解として。
『王子がこんな実力を隠し持っていたとは』
その上で表面上は騎士ヒルシェンと公爵令嬢キシュクシュの面子を潰さないよう、自分が泥をかぶるような言動をとったのだ。その場にいた全員が、彼の実力と、そして器の大きさをまざまざと見せつけられた形となった。
「うふふ、さっきはごめんなさいねぇ、イェレミアス。婚約者としてあなたのことが心配になっちゃったのよぉ」
ギアンテは元から。ヒルシェンも王子の評価を反転させて「これは大人物である」と認識している。キシュクシュなどは酷いもので手のひらを返して媚を売り出す始末だ。
「でも昔は剣も握れない虚弱体質だったのに、いったいどうしたのぉ?」
その声色からは含むところは無さそうである。二人は遠縁の親戚である上に婚約者。おそらくは幼いころから知る人物にどんな契機があって自分の護衛を打ち破るなどということができたのか、純粋に気になったのだろう。武の心得のないキシュクシュでも先ほどの一連の動きが「偶然」などで片づけられないことくらい分かっている。
ヒルシェンもこれは気になる質問だ。影武者であることを知るギアンテのみ一瞬緊張が表情に乗る。
「うふふ、秘密です」
人差し指で口の前を封じていたずらっぽく笑って見せるヤルノ。こういった「可愛らしい」仕草は以前からイェレミアスもよくしていた。行動に不自然はない。ないのだが、何故だか彼がやると妖艶な雰囲気を纏う。
「でも本当に、最近は随分と体調がいいんですよ。こうやってお日様の下に出るのも心地好いですね」
「ねぇ、婚約者の私にも教えられないのぉ? 私にだけ教えてよぉ。どうせギアンテは知ってるんでしょぅ?」
あてずっぽうに駄々をこねているだけのセリフではあるが、しかし核心はついている。婚約者で幼馴染みゆえの無遠慮な質問を想定していなかったギアンテは動揺を表に出さないのが精いっぱいであった。
「ふふ、じゃあこういう話を知っていますか?」
グリムランドで使われる茶器は中身のお茶が冷めにくいようにチューリップの花の様に縦長であるが、やはり寒さのために既にお茶は冷めきっている。そんなハーブティーを一口飲んで唇を湿らせてからヤルノは話し出した。
「むかしむかし、あるところに、一人の少年がいました。少年の住んでいる小さな村は、黒き森のすぐそばでした」
ぞわりとギアンテの背筋に悪寒が走った。黒き森のすぐ近くの小さな村。ヤルノの出自と奇妙に一致する話。彼はいったい何を話し出すというのか。
「リィングリーツの森には伝説がありました。満月で風のない夜、一人で森に行くと、森の妖精が現れる。もしその妖精に気に入られれば、何でも願い事を叶えてもらえると」
「それで、少年は森へ行ったの?」
目を輝かせて訊ねるキシュクシュ。貴族の知識にはない民間伝承の話。こういった手合いの話を聞くのは彼女は初めてである。
「ええ。少年は、毎日親に怒られ、殴られて暮らしていました。けれどもその理由はいつもよくわかりません。だから森へ行って妖精に訊ねたのです。妖精さん、もし僕が本当に悪いのなら、僕を殺してあなたが僕の代わりになってください、と」
「そ、それで、少年はどうなったの?」
迷信の類。そういった知識からは貴族の子弟は遠ざけられ、同じく荒唐無稽な、国が正式に認める神話だけを摂取させられる。もはやキシュクシュは寝物語を聞かされる幼子の様に齧り付きでヤルノの話を聞いている。
「さあ?」
「さあ、って!」
頬を膨れさせるキシュクシュ。年齢からすると少し幼い言動だが、こんないいところでお預けを喰らわされたらそれも仕方あるまい。
「そのお話の少年がどうなったのかは、僕も知りません。でも、お話の様に僕も祈ったんですよ。さすがに森には行けないから、部屋から黒き森の方角に向かって、ね」
「うふふ、あなたそんな面白い話する人だったのね。そういうのもっと知ってるの? また教えてよ」
なんとも中途半端な結果に終わった物語ではあったが、キシュクシュにとっては新鮮で、気に入ったようであった。
先ほど王子殺害を命じたのと同じ人物とは思えないような屈託のない笑みを見せた。
(なんのつもりだ)
一方最大限ポーカーフェイスを崩さぬようにはしているが、女騎士ギアンテは顔面蒼白であった。
いったいどんな意図で今の話をヤルノはしたというのか。
知っている人間が聞けば、今のイェレミアス王子の境遇に酷似した話。本当にそんな昔話がイルスの村にあるというのか。それともキシュクシュやヒルシェンに向けた声ならぬ悲鳴のメッセージなのか。だとしたらどんな理由で。
(まさか実話だなどということはあるまいが……)
もし本当にそうだったら……あの晩、親と別れを告げると言って数刻時間を貰ったヤルノ。もし彼がリィングリーツの妖精と入れ替わったというのならば。
床下から出てきたという子供の死体。あれはいったい誰のものなのか。まさかあれが本物のヤルノなどということはあるまい。
しかし、その後のヤルノの異常な行動の数々、もし彼が人為らざる者であるというのならば、それらも全て納得できる気がしてきた。
(いや、あれは『死にたて』じゃない……古い死体だと言っていた)
平民どもの様にくだらない迷信に囚われるなど騎士にあってはならぬこと。ギアンテはかぶりを振ってその考えを打ち消す。
「あそこには妖精なんていませんよ」
ヒルシェンが二人の会話に割って入ってきた。
「リィングリーツの森にいるのは、獣です」
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