リィングリーツの獣たちへ

月江堂

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 だんだんと朝日の昇る時間が早くなり始め、タンポポが力強く雪のすき間を縫って芽吹き始めると、グリムランドの住人はようやくこの長い冬も終わりに近づいてきているのだと知る。
 
 「随分と機嫌がいいな」
 
 中庭で日に当たりながら小鳥のさえずりを口笛で真似しつつ木剣の素振りをするヤルノに女騎士ギアンテは声をかけた。王子は騎士や衛兵の訓練場等は使わず、こうして中庭の風景を楽しみながら体を動かすのが常となっている。
 
 その姿は鍛錬のため、というよりはその健在さをアピールしているようであったし、実際その通りである。
 
「ええ。最近少し楽しいことがありましてね。ギアンテも一緒にどうです?」
 
 そう言って木剣の柄の方を差し出したが、ギアンテはぷいと首を横に振った。周りに人がおらずとも、彼女に出来る抵抗はこれくらいが限度である。
 
「それよりも、最近王子に剣の稽古をつけているそうだな……どういうつもりだ」
 
 ヤルノの耳に口を近づけて、小さな声で、しかしドスを効かせて喋る。
 
 当然外ではしないが、最近はヤルノからイェレミアスへ、彼の寝室で剣の振り方などを教えているようなのである。
 
「ギアンテは、母上もそうですけど過保護ですね。病であれば養生が必要ですが、少しは体を動かさないとかえって不健康になりますよ」
 
 実際イェレミアス王子本人もヤルノと話し、剣の稽古を始めたことで大分顔色がよくなってきたようであり、ギアンテはこれに反論できなかった。むしろそのことには感謝すらしている。
 
「それにですね……」
「お、おい……ッ!?」
 
 ヤルノは木剣を投げ捨てて、両手でギアンテの手を包み込むように優しく握った。体を動かしていたからか、暖かい両の手。いつまでも小柄で細身だと思っていたイェレミアス王子(目の前にいるのはヤルノだが)、しかしその手はやはりギアンテに比べると少し大きく、力強い印象をうける。ギアンテは一瞬で鼓動が高まり、顔が熱くなるのを感じていた。
 
「右手に少し、剣ダコがあるでしょう」
 
 柔らかく暖かい王子の手。しかし日常的に剣や槍を手にしているギアンテに比べればまだまだだが、言われてみれば少し硬い部分がある。
 
「僕の方だけ剣ダコがあると、何かのはずみでバレてしまう事があるかもしれないでしょう? 身体的特徴はなるべく合わせたいですから……でも、うまくいきませんね。剣の握り方が違うのか、タコのでき方が違うんです。王子はなぜか小指の方にタコができてて……」
 
 現状、基本的に本物のイェレミアスの方は表舞台に出てくることはないことになっているし、実際引きこもっている。
 
 だが何かのはずみで彼が外の目に触れることが絶対にないとは言い切れない。もちろんヤルノとイェレミアスが同時に見られるようなことがあればアウトだが、例えば重要な場面でヤルノが怪我などで動けず、影武者の影武者としてイェレミアスが出てくることがあるかもしれない。

 また、いつかヤルノの『仕事』が終わった時、いずれ王子は表舞台に戻ってくる。
 
 その時を考慮しての稽古をしているのだという。呆れるほどにプロ意識の高い少年だ。ギアンテは己の浅はかさを恥じるばかりであるが、しかし恥ずかしいのはそれだけが理由ではない。
 
「そ、その……もういいだろう。て……手を」
 
「もう少し握っていては、ダメですか?」
 
 小首をかしげて少し上目づかいでお願いをしてくる。もはやその笑顔は抗いがたい魔力を持っているとしか言えない。強く拒否することもできず、だからといって立場上睦みあうようなこともできず、ギアンテがもじもじと何も言えずに狼狽えていると、後ろから声をかけられた。
 
「婚約者が行方不明だというのに、暢気なものだな」
 
 ギアンテはびくりと跳びはねる様に驚いて、慌てて後ろに振り向く。
 
「ガッツォ殿下……」
 
 次兄アシュベル王子殿下よりもさらに大柄な男性。身の丈は一九〇センチほどもある。しかしこちらは細身のアシュベルと違って熱い胸板と太い二の腕を備えており、その佇まいはさながら武人といった言葉がしっくりくる。
 リィングリーツ宮の中とはいえ共も連れずに闊歩するその姿は彼の絶対的な自らの肉体への自信を反映しているのだろう。
 
「剣を振るえるほどに回復しているのだな、それは素晴らしいが……」
 
 『回復』というのは少し表現がおかしいか。イェレミアスは別に病気や怪我で体が弱かったわけではない。しかし生まれつき頑強な体を持つ彼からすればイェレミアスの虚弱体質は『異常』だったのだろう。
 
「聞いているだろう? キシュクシュの事」
 
 イェレミアスはようやくギアンテの手を放した。キシュクシュとはもちろんイェレミアス王子の婚約者の公爵令嬢である。
 
「聞いてはいますが……僕には信じられませんね」
 
「実を言うと、俺はいなくなる前日に会って、話をしていたんだ」
 
「彼女の様子はどうでした?」
 
「別に不審なところはなかったぞ。そうだ、お前の話をしてたな。ヒルシェンも相変わらずだったし」
 
 公爵令嬢キシュクシュの失踪。
 
 元々騒ぎを起こして周りを驚かせることを趣味としているような性格だったため最初の内は周囲の受け止め方もそう深刻なものではなかった。
 ただ一つ、一緒に失踪した人間が問題だった。
 
「まさか駆け落ちなどとはな……」
 
 ガッツォは顎に手を当てて考え込む。
 
 そう、キシュクシュと共に護衛の騎士ヒルシェンまでもが失踪していたのだ。と、すれば当然ながら世間は「駆け落ちではないか」という考えに至る。この国でも騎士と貴婦人のロマンスというのは物語ではよく語られる大衆の好物である。
 
 失踪してから一週間、手紙の一つすらない。完全に足跡を消し去るためか、それとも何か別の理由があるのか。当然ながら……
 
「キシュクシュは、駆け落ちなんてしないって……信じています」
 
 ヤルノは、知っている。
 
「無くなってたのは部屋にあったあいつの小遣いくらいらしい。あいつのことだ、本当にいなくなる気なら屋敷の金庫丸ごとくらい持っていきそうなもんだがな……とにかくだ」
 
 ガッツォは佇まいを正してヤルノ達に正対し直す。体格とも相まってその姿勢は非常に実直な印象を受ける。
 
「理由は分からんが婚約者がいなくなったばかりなんだ。キシュクシュがお前の事を軽んじていたのは知ってる。しかしせめて……」
 
 途中まで喋ってガッツォの言葉が止まった。視線の動きを見ると、何か見つけたようである。
 
「噂をすればだな……」
 
 誰かが来たようである。ギアンテとヤルノはガッツォの視線を負って後ろに振り向く。
 
「どうした……なにか悪だくみでもしてるのか……」
 
 幽鬼のような青白い顔色に落ちくぼんだ目。ザンバラに伸びた総髪とヒゲはいつも通りであるが、明らかに疲弊しきった表情の中年男性。
 
「ノーモル公……」
 
 ノーモル公オーデン・オーガン卿、キシュクシュの父親であり、イェレミアスの義父となるはずだった男である。
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