リィングリーツの獣たちへ

月江堂

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その名は

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「イェレミアス様、こんなところでいったい何を……」
 
 その異様な光景にギアンテの瞳孔が開いた。
 
 闇から這い出てきたように泥で真っ黒に汚れ、その上から鮮血で飾り付けられたイェレミアスの姿。
 
「ふふ、よくこんな姿なのに僕だってわかりましたね、ギアンテ」
 
 化粧はすでに落とされているが、ゆったりとした時代がかった古い雰囲気のドレスに、血と泥で汚れた姿。すぐ脇には死体が転がっている。
 
 だが間違うはずがない。彼女が常より慕っているイェレミアス王子の姿を。少なくとも、その外見は間違いなくイェレミアス王子なのだから。
 
 血を孕む空気がギアンテの鼻腔をくすぐり、思わず顔をしかめた。最初彼女は、イェレミアスが怪我をしているのかと危惧したのだが、すぐに考えを改めた。
 
 彼がそんなへまを踏むはずがないし、何より隣に死体があるのだ。そう考え至ると同時に、鮮血の主の顔を見て驚きを隠せなかった。
 
「アシュベル……殿下」
 
 事態の把握は出来ない。ただなにか、破滅的なことが起きたに違いない。それだけは分かった。何か偶発的な事故が起きたのか。そうでなければ、こんないつ人が来るかもわからない場所で事に及ぶはずがない。
 
 今日彼女がここに来たのも、夜中に偶然イェレミアス王子が自室にいないのに気付いて彼を探していたからに他ならないのだから。
 
「殿下……一体何が? 殿下が、アシュベル様を……?」
 
「ああ、これですか……」
 
 しゃがんでいたイェレミアスは手で簡単に裾の泥を払って立ち上がる。血と泥はその程度では取れる筈もなく、今更ではあるのだが。
 
「ええ。僕が殺しましたよ」
 
 一切の言い訳もなく、そのまま伝えた。もはや理由をあれこれと説明するのも面倒だ、というような態度に見えた。そう、どこか捨て鉢になっているような、そんな雰囲気を孕んでいた。
 
 幼い頃よりイェレミアスを見守り続けていたギアンテが、そんな彼の態度に気付かないはずがない。たとえ偽物でも。
 
「もう、なんだか全て、面倒になってきました。ギアンテは近衛騎士でしょう。さあ、僕を捕縛したらどうです。王子殺しの大罪人ですよ」
 
 何もかも諦めた。そんな態度でナイフも投げ捨て、両手を広げてギアンテの方に差し出す。
 
 彼にとっては、王別の儀も、その後の政争も、さほど難しいことではなかったのかもしれない。だがそれでも、ギアンテとインシュラに受け入れられ、愛してもらうという事はどうしてもできなかった。そのために何をすればいいのかも全く分からなかった。
 
 人を殺すのは簡単だが、愛されるのは難しい。彼が本当に望む物だけは、どんなに七転八倒しても手に入らなかったのだ。
 
 王別の儀を通っても、ノーモル公の首を取ってきても、二人の心は彼には向かなかった。
 
「もう……疲れてしまいました」
 
 それが彼の正直な気持ちだった。
 
「王族同士の政争ですらない。名もない小さな村のガキがよりにもよって王子を殺したんですよ。他にもいろいろ殺してる。裁判なんかいらない。ほら、さっさと切り捨ててくださいよ」
 
 両手を広げ、手に何も隠し持っていない事を見せ、そして自分を切り捨てるように乞い願う少年。
 
 もとより帯剣していなかったギアンテであったが、しかし彼女はその少年に対して抱擁で以て応えた。
 
「ギアンテ……?」
 
「すいませんでした」
 
 彼女の口をついて出たのは、謝罪の言葉であった。
 
「このリィングリーツ宮の檻の中で、孤独に戦い続けることの辛さは、分かっていたはずなのに、あなたにそれを強いるようなことをしたのは、私達の傲慢さでした」
 
はっきりと言えば、彼女たちに降りかかった内面の危機的状況。拠り所としていたイェレミアス王子を失ったことにより自己同一性を失い、何も手についていない状況であった。自分の心を現実に引き留めるのに必死だったのだ。いや、それすらできていなかったと言ってよい。
 
 実際に王別の儀を突破するところまでは考えていたのだが、そこから先には何のプランもなかった。
 
 先ずはそこを突破することが第一となり、その後の事は改めて作戦を立てる考えだったのが、それどころではなくなってしまったのだ。
 
 誰にも顧みられることなく、一人で作戦を立てて、それを実行していたのだ。
 
 尤も、あんな風に王子自ら体を張り、邪魔者を排除するような計画、インシュラは自分の息子であれば決してそんなことはさせなかっただろうが。
 
「ギアンテ……」
 
 イェレミアスは彼女を強く抱きしめた。
 
 初めて自分の存在が、認められた気がしたのだ。
 
 だが、この時の互いの認識の違いに大きな齟齬が発生しているとは、二人が気付くはずもなかった。
 
 そもそもが、王宮内で働いた謀略、暗殺、ハニートラップの類など、彼にとっては大した負担などではなかったのだ。彼の欲しいものはただ一点にしかなかった。それさえかなえられれば全てがどうでもよかったのだ。
 
 ギアンテはそこを読み違えていた。
 
 いや、そもそもが、彼女は今、いったい誰と話し、誰を見ているのか。
 
 彼女が想いやっている相手は誰なのか。
 
 彼女は今、正気なのか。
 
 少年の望みはただ一つ。自分を、愛してくれとまでは言わない。ただ自分を認めてほしい。それだけなのだ。
 
 ただ一言、愛するギアンテが自分の名前を呼んでくれさえすれば、少年はいつまでも、どこまででも戦い続けられるのだ。
 
 ただ一言、ヤルノの名前を呼んでさえくれれば。
 
 
 
「愛しています、イェレミアス王子」
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