リィングリーツの獣たちへ

月江堂

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ガルトリア

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「ここまで来るのには苦労したがな」
 
 老人はポケットから一枚の布切れを取り出した。
 
「あの時のお前の匂い、市販のものではない特別に調合した香水。その調香師を突き止めて遺留物から匂いを追跡した」
 
 その手に持っている物は何かの包み紙かハンカチのようであった。ヤルノはヒルシェンをはじめとする男どもを落とすときに特別に調合した香水を身に着けていた。
 
 甘く、濃厚な、男の脳をとろけさせる乙女と雌の香り。余人には任せられぬその調合を直接調香師に発注しに行っていた。その時のハンカチか何か、遺留物が彼の手に渡ったのだろう。そこから匂いを辿られたようだ。
 
 それにしてもまさか。
 
 本物のイェレミアス王子でないことまで看破されているとは思いもよらなかった。
 
 現在この事実を知っているのは正気を失っている王妃インシュラを除けばギアンテとこの老人のみ。全てを知った上で、たった一人復讐に来たのだ。
 
「儂は人の理の拠らぬ森の掟の中で生きてきた人間だ。そういう場所では正気の心を失って獣と成り果てた狂人も多く見てきた。殺しでしか自分の価値を見つけられないお前のような化け物をな。
 観念せい! 人の心を持たぬ獣め!!」
 
「獣……ふっ、獣ですか」
 
 いきり立って憎悪の炎を隠さない老人をヤルノは鼻で笑った。
 
「町の様子を見て来たでしょう。自分の怠惰を棚に上げて何の非もない人々にそれを擦り付けて留飲を下げる。あれが獣でなくて何だというんです。口さがない者達は王宮に暮らす人たちを『リィングリーツの獣』などと呼んでいるようですが、奴らこそがまさしく『リィングリーツの獣』だ」
 
「喚くな小僧。議論などするつもりはない。獣と人の間に躁違いなどないことは儂が一番よく知っておる。誰もが皆『リィングリーツの獣』よ。お前は儂の孫を殺した、それだけだ」
 
 ギアンテがヤルノのクロークを軽く引っ張った。おそらく準備は出来ているという事だろう。迎撃の準備が。しかしヤルノはまだ仕事は終わっていない。舌戦を続けるつもりのようだった。
 
「その通りですね。ヒルシェンも十分に獣でしたよ」
 
 もとより老人は正義を謳ってヤルノを追ってきたわけではない。ただただ復讐のため。たとえ獣と成り果てても、先が見えずとも孫の仇をとる事しか考えていない。ただ二人、獣となって殺し合う事しか考えていないのだろう。
 
 しかしヒルシェン、その名を出されるとさすがに表情が変わった。
 
「随分と僕に入れ込んでましたからね。剣の勝負で打ち負かされて、その上で情けまでかけられたというのに乙女のようにベッドの中で僕に縋りついてくる様は、まさしく発情期の獣でしたよ」
 
「ヤルノ……?」
 
 尤もこの言葉に一番動揺したのはギアンテであったようだったが。ヤルノが自分以外の人間と、それも男と交わっているなど想いもよらなかった。言葉の真偽をこのタイミングで確かめる方法などありはしないが。
 
「自分のあるじの婚約者である王子と寝る騎士なんて、死んで当然でしょう」
 
「黙れッ!!」
 
 息子の名誉を傷つけられることは流石に老人も頭に血が上り、捨て置けなかったようだ。老人が激昂して怒鳴りつけるとその感情に応じたかのように四匹の犬が吠え立て、そして一匹が前に出た。
 
 それを合図にしたかのようにヤルノとギアンテは警戒しながらも一奥さんに道を走って逃げる。
 
「しまった! 戻れ、ガルトリア!!」
 
 老人の連れている犬は四匹とも別種の犬であった。それぞれに気性が違うのか、他の三匹はその場にとどまって吠えるだけであったが、ガルトリアと呼ばれた耳の立った精悍な顔立ちの犬はヤルノ達に襲い掛かろうとしたのだ。
 
 おそらくは正面切って戦っても置いたとはいえ四匹の猟犬がいれば二人を始末することなど容易いであろう。
 
 だが安全策をとるならばつかず離れず追跡し、常にプレッシャーを与えながら追いかけて疲弊させる方が確実であるし、イヌのハンティングのスタイルにもマッチしている。
 
「ガウッ」
 
 実際ガルトリアはほんの二十メートルほども追ったところで二人に追いつき、襲い掛かった。如何に老犬といえどもいざとなればその身のこなしは俊敏。ネコ科動物のように鋭い爪は持っていないが、牙は骨すら噛み砕く。
 
 しかしまさに噛みつくその瞬間、きらりと光が奔った。
 
「ギャンッ」
 
 その刹那、ガルトリアの喉から鮮血が噴き出す。
 
「ヤルノ、早く!!」
 
 状況は把握できないものの、ヤルノはギアンテに促されて走り、逃げ出す。彼女の動きのフォロースルーを見るとどうやらナイフの柄に紐を結び付けて、フレイルのように振り回して正確に喉を切り裂いたようであった。
 
「ガルトリア!!」
 
 老人が目を剥く。他の三匹はしかし彼の突撃の合図がないためその場と姿勢を維持し続けた。
 
 哀れ、喉笛を掻っ切られたガルトリアは数歩、それでもヤルノ達に食らいつこうと歩いたのち、どさりと横に倒れた。
 
「ガルトリア……」
 
それからほんの数秒遅れて、駆け寄ってきた老人がガルトリアの頭を撫でた。倒れながらも、鼻筋に寄せていた皺がなくなり、次第に体が弛緩していくようだった。
 
「すまん、ガルトリア……今まで、よくやってくれた」
 
 ガルトリアがその弱々しい呼吸を止めると、老人は道の先を睨みつける。暗闇の中、もう二人の後姿は見えなかった。しかし老人には見えているのだろう。憎悪の炎を向ける先が。
 
 犬達にもきっと見えている筈だ。
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