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恐ろしい
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「ギャウッ」
ギアンテの短刀は、確かにヴェリコイラの喉笛を串刺しにしたかに見えた。
だが違う。やはり犬と人間の間には歴然とした戦闘能力の差があるのだ。ヴェリコイラの命を奪ったかのように見えた短刀は、わずかに彼の皮を切り裂いたに過ぎなかった。
ブラッドハウンド特有のたるんだ皮。伊達や酔狂でこんな外見をしているわけではない。この皮は彼にとっては鎧なのだ。
敵の牙や爪の攻撃を受けてもすんでのところで致命傷を避ける。そのための防護服である。
短刀が皮を切り裂いた瞬間にヴェリコイラは体を捻り、敵を確認すると同時にイヌ科動物の最大攻撃である噛みつきを敢行した。ギアンテの腹部に深く牙を突き立て、体全体をゆすって切り裂く。ギアンテはあまりの痛みに反撃に出ることすら忘れている。
「やめろぉ!!」
しかしギアンテは一人ではないのだ。崖を登り切ったヤルノが、体当たりで二人にぶつかり、ヴェリコイラを撥ね飛ばした。
ヴォフ、と声を上げて飛ばされた老犬はすぐさま体勢を立て直して構える。
「ギアンテ!」
一方のヤルノは彼女の体を抱きかかえ、短刀を受け取ってヴェリコイラに向けた。
「すいません、ヤルノ……あの犬、ヤルノが一緒にいないと分かると、こちらを無視してすぐに引き返していって」
おそらく人間であれば大いに悩んだ場面であろう。ターゲットとなる人物がその場にいなかったのだから。せめてもう一人のターゲットであるギアンテを始末してから、そう考えたかもしれない。
だがヴェリコイラの判断は早かった。老人からの命令である「ヤルノの監視」に失敗したと分かるやすぐさま主人の元に帰ることを選んだ。単純で命令に忠実。理想的な猟犬である。
「しゃべらないで、ギアンテ。出血がひどい」
老人の連れていた犬なので狂犬病の恐れはないだろう。しかし傷は深い。内臓まで達していれば感染症の危険性もある。しかし。
「グルルル……」
唸り声を上げるヴェリコイラ。犬はまだ二人に対峙している。今そこにある危機が去っていないのだ。ヤルノは短刀を犬に向けて構えたまま緊張の面持ちを見せる。
しかしヴェリコイラはピクリと耳を動かせると、後ろに注意を引かれ、そのまま警戒しながら崩れた崖を下りて行ってしまった。
「もしかして、老人が生きているんだろうか……ともかく」
ともかく第一の危機は去った。ヤルノ達は命拾いしたのだ。
だが安心してもいられない。ヤルノは肋骨を骨折しているし、依然ギアンテの出血も止まっていない。ヤルノは自分の着ている服のシャツの裾を破いて彼女の腹部に押し当て、先ほど使っていた投石紐できつく縛った。痛みからギアンテが呻き声を上げる。
「大丈夫ですか、ギアンテ。もう少し歩いた先に休める場所を知っています。とりあえず、そこまで行きましょう」
「ヤルノ……私の事は置いていって。この傷は、深いわ」
どうやら立つこともままならない深い傷のようだ。最初は肩を貸して立たせようとしたヤルノであったが、それは諦めた。
「ギアンテ、貴女を置いていくなんて選択肢は、ありません」
代わりにヤルノは彼女を背負って立ち上がった。腹部が圧迫されてギアンテはまた呻き声を上げる。
そう、そんな選択肢など、ギアンテを置いていくなどという考えは今のヤルノにはなかった。もはや自分の人生に価値など見いだせないでいる。この上ギアンテまで失って、それでも生きている意味など、彼には無いのだ。
「置いていって……」
涙を流しながら自分を置いていくようにギアンテは懇願した。
ヤルノが、正常な人間とは違うのだという事はよくわかっている。人を殺さずにはいられない殺人鬼だという事も。命に価値を見出せない化け物だという事も。
それでもなお、彼女はヤルノを愛していたのだ。
肌を重ね合わせた仲だろうか。それともイェレミアス殺害の罪を共有する仲間だからだろうか。おそらくはどちらも違う。
今、彼の半生と心の内を余すところなく聞いて、理解したのだ。この殺人鬼と、自分達に決定的に違うところなど何一つありはしないのだと。愛を求めてあがき続ける、寂しい少年に過ぎないと。
どちらにしろ、自分が足手まといになって彼の重荷になるという事は耐え難かった。それと同時にリスクを背負ってでも自分の身を気遣ってくれたヤルノの気持ちが、心の底から嬉しかった。だからこそ涙を抑えられなかった。
結局、もし自分が他人から侮辱されたりしたらイェレミアス王子は怒りを見せただろうか、それを本人から聞くことは叶わなかった。ヤルノが、ただ一人彼女の人生で自分の事を心から愛してくれた人間だったのだ。
「気をしっかり持ってください、ギアンテ。そうだ、何か話でもしましょう」
彼女を背負って、息を切らせながら歩くヤルノ。体格の小さい彼には苦行であろう。しかし彼はギアンテを励ますように話を続けた。話さずにはいられなかったのだ。もし歩いているうちにギアンテが自分の背の上で死んでいたら……そう考えると恐ろしかった。
「この間も森に来た時に使った山小屋があるんです。あそこなら当面身を隠すくらいのことはできる。きっと助かりますよ」
ヤルノは気付いていただろうか。
生まれて初めて、自分が『死』を恐れているという事を。
自分の死も他人の死も、恐れたことなどただの一度だってなかったというのに。
ギアンテの短刀は、確かにヴェリコイラの喉笛を串刺しにしたかに見えた。
だが違う。やはり犬と人間の間には歴然とした戦闘能力の差があるのだ。ヴェリコイラの命を奪ったかのように見えた短刀は、わずかに彼の皮を切り裂いたに過ぎなかった。
ブラッドハウンド特有のたるんだ皮。伊達や酔狂でこんな外見をしているわけではない。この皮は彼にとっては鎧なのだ。
敵の牙や爪の攻撃を受けてもすんでのところで致命傷を避ける。そのための防護服である。
短刀が皮を切り裂いた瞬間にヴェリコイラは体を捻り、敵を確認すると同時にイヌ科動物の最大攻撃である噛みつきを敢行した。ギアンテの腹部に深く牙を突き立て、体全体をゆすって切り裂く。ギアンテはあまりの痛みに反撃に出ることすら忘れている。
「やめろぉ!!」
しかしギアンテは一人ではないのだ。崖を登り切ったヤルノが、体当たりで二人にぶつかり、ヴェリコイラを撥ね飛ばした。
ヴォフ、と声を上げて飛ばされた老犬はすぐさま体勢を立て直して構える。
「ギアンテ!」
一方のヤルノは彼女の体を抱きかかえ、短刀を受け取ってヴェリコイラに向けた。
「すいません、ヤルノ……あの犬、ヤルノが一緒にいないと分かると、こちらを無視してすぐに引き返していって」
おそらく人間であれば大いに悩んだ場面であろう。ターゲットとなる人物がその場にいなかったのだから。せめてもう一人のターゲットであるギアンテを始末してから、そう考えたかもしれない。
だがヴェリコイラの判断は早かった。老人からの命令である「ヤルノの監視」に失敗したと分かるやすぐさま主人の元に帰ることを選んだ。単純で命令に忠実。理想的な猟犬である。
「しゃべらないで、ギアンテ。出血がひどい」
老人の連れていた犬なので狂犬病の恐れはないだろう。しかし傷は深い。内臓まで達していれば感染症の危険性もある。しかし。
「グルルル……」
唸り声を上げるヴェリコイラ。犬はまだ二人に対峙している。今そこにある危機が去っていないのだ。ヤルノは短刀を犬に向けて構えたまま緊張の面持ちを見せる。
しかしヴェリコイラはピクリと耳を動かせると、後ろに注意を引かれ、そのまま警戒しながら崩れた崖を下りて行ってしまった。
「もしかして、老人が生きているんだろうか……ともかく」
ともかく第一の危機は去った。ヤルノ達は命拾いしたのだ。
だが安心してもいられない。ヤルノは肋骨を骨折しているし、依然ギアンテの出血も止まっていない。ヤルノは自分の着ている服のシャツの裾を破いて彼女の腹部に押し当て、先ほど使っていた投石紐できつく縛った。痛みからギアンテが呻き声を上げる。
「大丈夫ですか、ギアンテ。もう少し歩いた先に休める場所を知っています。とりあえず、そこまで行きましょう」
「ヤルノ……私の事は置いていって。この傷は、深いわ」
どうやら立つこともままならない深い傷のようだ。最初は肩を貸して立たせようとしたヤルノであったが、それは諦めた。
「ギアンテ、貴女を置いていくなんて選択肢は、ありません」
代わりにヤルノは彼女を背負って立ち上がった。腹部が圧迫されてギアンテはまた呻き声を上げる。
そう、そんな選択肢など、ギアンテを置いていくなどという考えは今のヤルノにはなかった。もはや自分の人生に価値など見いだせないでいる。この上ギアンテまで失って、それでも生きている意味など、彼には無いのだ。
「置いていって……」
涙を流しながら自分を置いていくようにギアンテは懇願した。
ヤルノが、正常な人間とは違うのだという事はよくわかっている。人を殺さずにはいられない殺人鬼だという事も。命に価値を見出せない化け物だという事も。
それでもなお、彼女はヤルノを愛していたのだ。
肌を重ね合わせた仲だろうか。それともイェレミアス殺害の罪を共有する仲間だからだろうか。おそらくはどちらも違う。
今、彼の半生と心の内を余すところなく聞いて、理解したのだ。この殺人鬼と、自分達に決定的に違うところなど何一つありはしないのだと。愛を求めてあがき続ける、寂しい少年に過ぎないと。
どちらにしろ、自分が足手まといになって彼の重荷になるという事は耐え難かった。それと同時にリスクを背負ってでも自分の身を気遣ってくれたヤルノの気持ちが、心の底から嬉しかった。だからこそ涙を抑えられなかった。
結局、もし自分が他人から侮辱されたりしたらイェレミアス王子は怒りを見せただろうか、それを本人から聞くことは叶わなかった。ヤルノが、ただ一人彼女の人生で自分の事を心から愛してくれた人間だったのだ。
「気をしっかり持ってください、ギアンテ。そうだ、何か話でもしましょう」
彼女を背負って、息を切らせながら歩くヤルノ。体格の小さい彼には苦行であろう。しかし彼はギアンテを励ますように話を続けた。話さずにはいられなかったのだ。もし歩いているうちにギアンテが自分の背の上で死んでいたら……そう考えると恐ろしかった。
「この間も森に来た時に使った山小屋があるんです。あそこなら当面身を隠すくらいのことはできる。きっと助かりますよ」
ヤルノは気付いていただろうか。
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