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やつを殺せ
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「うぅ……」
小さなうめき声と共に崩れた崖の下からぼろきれがずるりと這い出してきたように見えた。
いや、ぼろきれではない。それは老人と犬であった。
皮のたるんだ異様に大きな犬が、老人の襟首の後ろを加えて岩の下から引きずり出したのだ。だが老人はそれこそぼろきれと見紛うほどに負傷している。
「ヴェリ……コイラか、ラウドと、イパッシは……」
少年の罠に嵌まってしまったのか、自分と共にがけ崩れに巻き込まれた犬は無事か、確認しようとしたが、首を回して周囲を確認することすら億劫だ。どうやら内臓に深刻なダメージを追っているようである。
それでもどうにか頑張って周囲を確認してみたが、他に生き物の気配はない。さらに言うなら、少年の姿も見えない。みながけ崩れに巻き込まれて死んでしまったのか。
しかしヴェリコイラの状態と、彼の持つ雰囲気から老人は察した。どうやらまだあの少年は生きている。無傷という事は流石に無いだろうが、まんまと逃げおおせたのだと。
「敗北」、一瞬その二文字が頭の中に浮かんだ。ここまでやって、結局自分は失敗したのかと。今まで尽くしてくれた愛犬も、三頭を失ってしまった。自分にはもう何も残っていない。
「ヴォフッ」
そう思って落胆した時だった。ヴェリコイラが大きく吠えて彼の顔を舐めた。
「ヴェリコイラ、慰めてくれるのか……」
忠犬の優しさに触れて、涙があふれてきた。そうだ、まだ全てを失ったわけではない。自分にはこの体と、そして何物にも代えがたい相棒がいるのだ。
「ヴェリコイラ、誰か、人を……」
「助けを呼んでくれ」……そう言いかけて老人は思い直した。
違う。自分の望みはそんな事ではない。いつの間にか涙は止まっていた。
六十年以上も連れ添った自分の体だ。仲間の死も、獲物の死も、山ほど見てきた。自分の怪我がもう助からないほどのものだという事はよく分かる。そしてそれは相棒もよく分かっている筈だった。
それでもなお自分を岩の下から引きずり出し、助けたという事は何を意味するのか。何のために自分を励ましたのか。考えるまでもない事だ。
「ヴェリコイラッ! 奴を殺せ!!」
とても死にかけの老人とは思えない強い声だった。
「地獄の底に叩き落としてやれ! 決して逃がすな、追い続けろ!!」
そう、新たな指示を受けるためだ。最後の命令を受けるために、彼を死の淵から救い出したに違いないのだ。
「行け、ヴェリコイラ!! 奴を追い続けろ!!」
ヴェリコイラは再び大きな声で吠えると、崖を登っていった。
「これで……」
崖の下には一人、老人だけが残された。辺りに生き物の気配は、全くない。
「これで、良かったんだ……」
老人は、理解していた。
自分が追っているのは、どんな世界、文化であろうと決して許されることのない危険な殺人鬼であるという事を。
そんなもの、ありはしないが、もしこの世に絶対悪というものがあるとすれば、それはあの少年こそ当てはまるであろうという事を。
だがその殺人鬼を追っている自分が決して「正義」などではない事も、よく理解している。
そして、こう思ってもいた。むしろ、自分はどちらかといえば少年と同じ側、「悪」の汚名を被せられる側であるという事を。
自分のやっていることは、ただの殺人に他ならない。
その殺人のために自分の相棒に命じて獲物を追い詰めようとしている。ひょっとしたら自分の方がより下劣な存在かもしれない。
これは、ただの復讐。
成し遂げたからといって誰かの命が助かるわけでもない。たとえその通りだとしても、あの少年が未来に殺すはずの命を助けるために戦っているわけでもない。
ただ、殺したいから殺す。それだけだ。何も得る物など無い。
これはただ二匹の、獣と獣の殺し合いなのだ。
そう思わなければやっていられなかった。
こんな歪な復讐が、もし「正しいことだ」などと言われて持て囃されるというのならば、そんな世界はこっちから御免被りたい。
そんな世界に生み落としてしまった孫に謝らなければいけない。そんな世界で「幸せになる」などというのは、どだい無理な話なのだから。
最後にこの復讐の始まりを思い出し、老人はとうとう全ての力を使い果たして仰向けに空を見た。
もう指一本すら動かす力も残っていない。
穏やかに目を瞑る事すらできそうにない。
木々の間から見える夕焼けの空を見て、大切だった人の名前を口にする。
「ヒルシェン……あとはおじいちゃんに任せておけ……」
小さなうめき声と共に崩れた崖の下からぼろきれがずるりと這い出してきたように見えた。
いや、ぼろきれではない。それは老人と犬であった。
皮のたるんだ異様に大きな犬が、老人の襟首の後ろを加えて岩の下から引きずり出したのだ。だが老人はそれこそぼろきれと見紛うほどに負傷している。
「ヴェリ……コイラか、ラウドと、イパッシは……」
少年の罠に嵌まってしまったのか、自分と共にがけ崩れに巻き込まれた犬は無事か、確認しようとしたが、首を回して周囲を確認することすら億劫だ。どうやら内臓に深刻なダメージを追っているようである。
それでもどうにか頑張って周囲を確認してみたが、他に生き物の気配はない。さらに言うなら、少年の姿も見えない。みながけ崩れに巻き込まれて死んでしまったのか。
しかしヴェリコイラの状態と、彼の持つ雰囲気から老人は察した。どうやらまだあの少年は生きている。無傷という事は流石に無いだろうが、まんまと逃げおおせたのだと。
「敗北」、一瞬その二文字が頭の中に浮かんだ。ここまでやって、結局自分は失敗したのかと。今まで尽くしてくれた愛犬も、三頭を失ってしまった。自分にはもう何も残っていない。
「ヴォフッ」
そう思って落胆した時だった。ヴェリコイラが大きく吠えて彼の顔を舐めた。
「ヴェリコイラ、慰めてくれるのか……」
忠犬の優しさに触れて、涙があふれてきた。そうだ、まだ全てを失ったわけではない。自分にはこの体と、そして何物にも代えがたい相棒がいるのだ。
「ヴェリコイラ、誰か、人を……」
「助けを呼んでくれ」……そう言いかけて老人は思い直した。
違う。自分の望みはそんな事ではない。いつの間にか涙は止まっていた。
六十年以上も連れ添った自分の体だ。仲間の死も、獲物の死も、山ほど見てきた。自分の怪我がもう助からないほどのものだという事はよく分かる。そしてそれは相棒もよく分かっている筈だった。
それでもなお自分を岩の下から引きずり出し、助けたという事は何を意味するのか。何のために自分を励ましたのか。考えるまでもない事だ。
「ヴェリコイラッ! 奴を殺せ!!」
とても死にかけの老人とは思えない強い声だった。
「地獄の底に叩き落としてやれ! 決して逃がすな、追い続けろ!!」
そう、新たな指示を受けるためだ。最後の命令を受けるために、彼を死の淵から救い出したに違いないのだ。
「行け、ヴェリコイラ!! 奴を追い続けろ!!」
ヴェリコイラは再び大きな声で吠えると、崖を登っていった。
「これで……」
崖の下には一人、老人だけが残された。辺りに生き物の気配は、全くない。
「これで、良かったんだ……」
老人は、理解していた。
自分が追っているのは、どんな世界、文化であろうと決して許されることのない危険な殺人鬼であるという事を。
そんなもの、ありはしないが、もしこの世に絶対悪というものがあるとすれば、それはあの少年こそ当てはまるであろうという事を。
だがその殺人鬼を追っている自分が決して「正義」などではない事も、よく理解している。
そして、こう思ってもいた。むしろ、自分はどちらかといえば少年と同じ側、「悪」の汚名を被せられる側であるという事を。
自分のやっていることは、ただの殺人に他ならない。
その殺人のために自分の相棒に命じて獲物を追い詰めようとしている。ひょっとしたら自分の方がより下劣な存在かもしれない。
これは、ただの復讐。
成し遂げたからといって誰かの命が助かるわけでもない。たとえその通りだとしても、あの少年が未来に殺すはずの命を助けるために戦っているわけでもない。
ただ、殺したいから殺す。それだけだ。何も得る物など無い。
これはただ二匹の、獣と獣の殺し合いなのだ。
そう思わなければやっていられなかった。
こんな歪な復讐が、もし「正しいことだ」などと言われて持て囃されるというのならば、そんな世界はこっちから御免被りたい。
そんな世界に生み落としてしまった孫に謝らなければいけない。そんな世界で「幸せになる」などというのは、どだい無理な話なのだから。
最後にこの復讐の始まりを思い出し、老人はとうとう全ての力を使い果たして仰向けに空を見た。
もう指一本すら動かす力も残っていない。
穏やかに目を瞑る事すらできそうにない。
木々の間から見える夕焼けの空を見て、大切だった人の名前を口にする。
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