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道端の石ころを蹴るように
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日も暮れて真っ暗になった森の中。
荒い息遣いで、女性を背負った少年が、ようやく山小屋に到着した。息せき切らし、体力を使い果たした疲労困憊。北国グリムランドの夜といえども季節は夏の盛り、顎には汗が滴っている。
「つきましたよ、ギアンテ。僕の、隠れ家です。ここまでくれば安心です」
ヤルノがそう言うとギアンテは小さく呻き声を上げた。傷口に当てた布は血液で重く濡れている。
「ありがとう、ヤルノ……」
少年に心配を掛けまいと、ギアンテは礼を言って彼の背中から降りた。しかし自分で歩行することはできず、ヤルノに型を貸してもらってようやく歩いて山小屋の中に入る。
背負われていただけのはずのギアンテは体力を使い果たしてリビングに置いてある椅子に腰かけた。
「くそっ、保存食が全部無くなってる。誰かに盗まれたか」
リビングから離れて奥の部屋で何かを漁っていたヤルノが悪態をついた。彼の「隠れ家」とはいうものの、正式に保有している家屋ではないし、たとえそうだとしても衛兵の一人もいないのだ。都合よく誰も進入しないはずがない。
「大丈夫ですよ、ギアンテ。夜が明けたらここを出て、町に行きましょう。そこでちゃんとした手当てをしてもらえば、きっと良くなります」
生まれて初めて他人の体を気遣った。
今は夜半過ぎ。夜が明けて、明るくなったらまたあの起伏の激しい森の中、ギアンテを背中に担いで町まで行く。
本当にそんなことができるだろうか、そんな体力があるだろうか。
仮に出来たとしても、それまでギアンテの命の弦は繋ぎとめられるだろうか。もしかすると、朝起きたら彼女の体が冷たくなっていたりしないだろうか。そう考えるとヤルノの背筋に悪寒が奔った。
恐怖。生まれて初めて味わう感情。
自分の死も、他人の死も、恐れたことなどなかった。むしろ好ましい人ほど、進んで殺してきた少年が、生まれて初めて彼女を失いたくないと思ったのだ。
「そうだ、もうすぐ夏至のお祭りですよね、僕王都の祭りは行ったことがないんです。怪我が治ったら、一緒に行きましょう」
ギアンテの呼吸は弱々しい。ヤルノは沈黙に耐え切れずしきりに彼女に話しかけていた。
グリムランドでは主神である太陽神ベロウの一生を一年になぞらえる。すなわち、冬至の際に太陽神は死に、次の日に新たに生まれ変わり新しい年が始まる。夏至は太陽神が最も力強く活動的になる日を祝う祭りであり、太陽の生まれ変わる冬至の夜と並んで彼らにとって最も重要な祭事である。
「グリムランドでは、一年を二十四の節に分けています」
静かな声でギアンテがそう言った。現代日本であれば十二の月に当たる概念。
「一節の間に太陽は二年年を取り、夏至は二十四歳の年を祝う祭りになります」
そう考えると太陽神は四十八の時に死ぬことになる。早すぎるようにも思うが、この獣の掟の支配する世界では十分に生きた年齢だ。
「知っていますよ、ギアンテ。無理して喋らなくていいですよ。横になりますか?」
自分が無為に話しかけたことが彼女への負担になっていないかとヤルノは気遣った。しかしギアンテはそのまま話し続けた。
「私も、今年で二十四です。太陽神の半分くらいは生きられたことになりますね……」
そう言って弱々しく笑った。
「これからも生きるんですよ! 四十八でも、六十でも! 僕と一緒にいつまでも生き続けるんです!」
「私は、十分に生きました……」
聞き捨てならない言葉。ヤルノは思わず彼女の前に跪いて両手を強く握った。夏だというのに、その手は冷たかった。
「私は、自分の人生に満足しています。何よりヤルノ、あなたに会えてよかった」
それまでぼんやりとしていた彼女の瞳の焦点が、しっかりとヤルノに合った。
「あなたに会って、私は『愛』を知ることができました。十分に満足のいく人生でした」
間違いなく彼女の瞳は目の前のヤルノを見ていた。イェレミアスではない。彼に出会って、『愛』を知ることができたとはっきり言ったのだ。いつの間にかヤルノの目からは涙が溢れ出ていた。
「そんな事を言わないで、ギアンテ。あなたが死んでしまったら、僕はいったいどうやって生きていけばいいっていうんですか。僕の方こそ、ギアンテ、貴女に会ってようやく『愛』というものが何なのか分かり始めてきたのに! 僕を一人にしないで!」
「怖いの……? ヤルノ」
涙を流し彼女の両手に頬ずりしながら叫ぶヤルノ。ギアンテの言葉はまるで、幼子に話しかける母のようであった。
「みんな、そうなのよ……誰もが、怖いの。愛する人を失うことが。人に愛されないことが」
「みんな……?」
「ええ、みんな」
ヤルノは目を見開いた。
「みんな、同じように? じゃあなんですか、僕が今までに殺してきた人たちも、みんなみんな、今の僕と同じように人に愛されたいと、愛する人に生きていてほしいと、愛されない恐怖を! 同じように感じていたっていう事ですか!?」
静かにギアンテは頷く。
他人と同じように心に感じることはないと、自分の思っていることが他人に分かることがあるはずがないと、そう考えてずっと生きてきた。
他人と通じ合うことなど、きっとこの先何十年生きようとも決してあるはずがないと、そう考えていた。
ずっと、孤独だった。
ヤルノは恐怖に歪んだ顔でのけ反り、頭を抱えて床にうずくまった。何やら訳の分からない悲鳴を上げ、嗚咽交じりの涙を流している。
言葉にならない言葉で叫び声をあげ、床の上でのたうち回る。
今まで虫や石ころのように「なんでもないものだ」と思って踏みつけていた物が、実は自分と同じように考え、悩み、苦しんでいるものだと今はっきりわかったのだ。
他の人間も自分と同じように、痛みがあるのだと知りもしなかった。
愛する人も、愛してくれる人もいただろう。そんな命を道端の石ころを蹴るように殺してきたのだ。
そして、その罪の重さに、たった今、気付いた。
荒い息遣いで、女性を背負った少年が、ようやく山小屋に到着した。息せき切らし、体力を使い果たした疲労困憊。北国グリムランドの夜といえども季節は夏の盛り、顎には汗が滴っている。
「つきましたよ、ギアンテ。僕の、隠れ家です。ここまでくれば安心です」
ヤルノがそう言うとギアンテは小さく呻き声を上げた。傷口に当てた布は血液で重く濡れている。
「ありがとう、ヤルノ……」
少年に心配を掛けまいと、ギアンテは礼を言って彼の背中から降りた。しかし自分で歩行することはできず、ヤルノに型を貸してもらってようやく歩いて山小屋の中に入る。
背負われていただけのはずのギアンテは体力を使い果たしてリビングに置いてある椅子に腰かけた。
「くそっ、保存食が全部無くなってる。誰かに盗まれたか」
リビングから離れて奥の部屋で何かを漁っていたヤルノが悪態をついた。彼の「隠れ家」とはいうものの、正式に保有している家屋ではないし、たとえそうだとしても衛兵の一人もいないのだ。都合よく誰も進入しないはずがない。
「大丈夫ですよ、ギアンテ。夜が明けたらここを出て、町に行きましょう。そこでちゃんとした手当てをしてもらえば、きっと良くなります」
生まれて初めて他人の体を気遣った。
今は夜半過ぎ。夜が明けて、明るくなったらまたあの起伏の激しい森の中、ギアンテを背中に担いで町まで行く。
本当にそんなことができるだろうか、そんな体力があるだろうか。
仮に出来たとしても、それまでギアンテの命の弦は繋ぎとめられるだろうか。もしかすると、朝起きたら彼女の体が冷たくなっていたりしないだろうか。そう考えるとヤルノの背筋に悪寒が奔った。
恐怖。生まれて初めて味わう感情。
自分の死も、他人の死も、恐れたことなどなかった。むしろ好ましい人ほど、進んで殺してきた少年が、生まれて初めて彼女を失いたくないと思ったのだ。
「そうだ、もうすぐ夏至のお祭りですよね、僕王都の祭りは行ったことがないんです。怪我が治ったら、一緒に行きましょう」
ギアンテの呼吸は弱々しい。ヤルノは沈黙に耐え切れずしきりに彼女に話しかけていた。
グリムランドでは主神である太陽神ベロウの一生を一年になぞらえる。すなわち、冬至の際に太陽神は死に、次の日に新たに生まれ変わり新しい年が始まる。夏至は太陽神が最も力強く活動的になる日を祝う祭りであり、太陽の生まれ変わる冬至の夜と並んで彼らにとって最も重要な祭事である。
「グリムランドでは、一年を二十四の節に分けています」
静かな声でギアンテがそう言った。現代日本であれば十二の月に当たる概念。
「一節の間に太陽は二年年を取り、夏至は二十四歳の年を祝う祭りになります」
そう考えると太陽神は四十八の時に死ぬことになる。早すぎるようにも思うが、この獣の掟の支配する世界では十分に生きた年齢だ。
「知っていますよ、ギアンテ。無理して喋らなくていいですよ。横になりますか?」
自分が無為に話しかけたことが彼女への負担になっていないかとヤルノは気遣った。しかしギアンテはそのまま話し続けた。
「私も、今年で二十四です。太陽神の半分くらいは生きられたことになりますね……」
そう言って弱々しく笑った。
「これからも生きるんですよ! 四十八でも、六十でも! 僕と一緒にいつまでも生き続けるんです!」
「私は、十分に生きました……」
聞き捨てならない言葉。ヤルノは思わず彼女の前に跪いて両手を強く握った。夏だというのに、その手は冷たかった。
「私は、自分の人生に満足しています。何よりヤルノ、あなたに会えてよかった」
それまでぼんやりとしていた彼女の瞳の焦点が、しっかりとヤルノに合った。
「あなたに会って、私は『愛』を知ることができました。十分に満足のいく人生でした」
間違いなく彼女の瞳は目の前のヤルノを見ていた。イェレミアスではない。彼に出会って、『愛』を知ることができたとはっきり言ったのだ。いつの間にかヤルノの目からは涙が溢れ出ていた。
「そんな事を言わないで、ギアンテ。あなたが死んでしまったら、僕はいったいどうやって生きていけばいいっていうんですか。僕の方こそ、ギアンテ、貴女に会ってようやく『愛』というものが何なのか分かり始めてきたのに! 僕を一人にしないで!」
「怖いの……? ヤルノ」
涙を流し彼女の両手に頬ずりしながら叫ぶヤルノ。ギアンテの言葉はまるで、幼子に話しかける母のようであった。
「みんな、そうなのよ……誰もが、怖いの。愛する人を失うことが。人に愛されないことが」
「みんな……?」
「ええ、みんな」
ヤルノは目を見開いた。
「みんな、同じように? じゃあなんですか、僕が今までに殺してきた人たちも、みんなみんな、今の僕と同じように人に愛されたいと、愛する人に生きていてほしいと、愛されない恐怖を! 同じように感じていたっていう事ですか!?」
静かにギアンテは頷く。
他人と同じように心に感じることはないと、自分の思っていることが他人に分かることがあるはずがないと、そう考えてずっと生きてきた。
他人と通じ合うことなど、きっとこの先何十年生きようとも決してあるはずがないと、そう考えていた。
ずっと、孤独だった。
ヤルノは恐怖に歪んだ顔でのけ反り、頭を抱えて床にうずくまった。何やら訳の分からない悲鳴を上げ、嗚咽交じりの涙を流している。
言葉にならない言葉で叫び声をあげ、床の上でのたうち回る。
今まで虫や石ころのように「なんでもないものだ」と思って踏みつけていた物が、実は自分と同じように考え、悩み、苦しんでいるものだと今はっきりわかったのだ。
他の人間も自分と同じように、痛みがあるのだと知りもしなかった。
愛する人も、愛してくれる人もいただろう。そんな命を道端の石ころを蹴るように殺してきたのだ。
そして、その罪の重さに、たった今、気付いた。
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