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二人の影が重なって
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朝日が昇り、周囲の風景が白み始めるとともに、ヤルノは小屋を出た。
「くそっ、なんて霧だ……自分の足先すらも見えやしない」
この時期であれば常なること。小屋の外は、まるでミルクを零したかのように一面真っ白な霧で包まれ、ほんの二メートル先ですら何があるのか全く分からないような状態であった。
ヤルノが妄執に囚われたままなのか、それとも正気を取り戻したのかは分からない。しかしどちらにしろ小屋の外に出なければ話にならないのだ。
小屋の外にはヴェリコイラが手ぐすね引いて待っているのかもしれない。しかしそれでもなお、外に出なければ話にならないのは事実であった。
「……ォォーーーーン……」
びくりと顔を上げるヤルノ。どこか遠くで、犬の遠吠えが聞こえた。ヴェリコイラのものかどうかは分からない。だがおそらく鼻の利く猟犬は、この濃霧の中でも苦も無くヤルノを追い詰めるであろう。
「くそっ、来るなら来い! その喉笛掻っ切ってやる!」
台詞は勇ましいが及び腰で少しずつ前に進むヤルノ。だが次の瞬間空高く放り投げられたかのような衝撃が彼を襲った。
「うわ、ああああッ!!」
歩く先に地面がなかったのだ。咄嗟に身を反転させて地面に縋りつく。折れた肋骨がみしりと音を立てた。
実際には、ほんの一メートルと少しの段差があっただけである。だが視界を失っているヤルノには、まるで奈落にまで続いている断崖絶壁のように感じられた。
「こ、こんなところに崖なんて……? ここはどこだ!?」
周囲の地形を完全に把握しているわけではないものの、しかしこんなところに崖などなかったはず。そう思ったヤルノには、まるで何者かの魔法の力で、自分達がどこか異世界に閉じ込められてしまったのではないかと感じられた。
「じじいの……ヒルシェンの呪いか……? ここはいったいどこなんだ」
涙を滲ませながら段差の上に登り切る。折れた肋骨の痛みも、この恐怖の前では些事でしかない。
「とにかく、ここはダメだ……どこか他の場所を探さないと……元いた世界に、戻らないと」
半泣きの状態ではいつくばって移動しようとする。しかしその移動しようとした先から今度は聞こえてきたのだ。獣の唸り声が。
「オンッ! オンッ!!」
「うわああああぁぁぁ!!」
慌てて立ち上がろうとして転び、這って泣きながら小屋に戻っていくヤルノ。犬。の鳴き声はすぐに聞こえなくなったものの、その霧の向こうにヤルノは獣の気配を感じ続けていた。
「ヤルノ……」
「ギアンテ! もうダメだ、完全に囲まれている!! 森の獣に、僕たちは囚われてしまったんだ!!」
明らかに正気ではない。恐怖と焦燥感に駆られた表情を見せるヤルノに、ギアンテは名前を呼ぶ以上の事が出来なかった。
「もういいの、ヤルノ。私の事は……」
「そんなこと、言わないで」
ギアンテは、もう死の覚悟が出来ている。それを受け入れられないのはヤルノだ。ただ抱きしめ合い、無力さを感じる事しかできなかった。
その後もヤルノは何度も外への脱出を試み、段差に足を取られ、草木に絡まり、犬の鳴き声に怯えて戻ってきてを繰り返した。
緯度の高いグリムランドの夏、日は遅くまで出続け、時間の感覚もなく、白と黒の闇の中で二人は囚われていた。外界から隔絶され、ヤルノの言う通り本当に別の世界に飛ばされてしまったかのようだった。
小屋の中にいる時ですら犬の遠吠えがヤルノの精神を圧迫し続けた。
どれだけの時間が経ったのか分からない。霧と闇とにより、太陽の光が彼らに届くことは決してなく、昼と夜の区別がないどころか、どちらが上でどちらが舌なのかもわからないほどに方向感覚を失って、混乱していた。
食料も飲み水もなく、当然ながら医療品もない。ゆっくりと、着実にギアンテに死が近づいてくる。やがて来る『その時』に焦燥感を覚えながらも、ヤルノはただ、小屋の中で獣の遠吠えに怯える事しかできない。
恐怖に心をすり減らし、飢えと渇きに疲弊し、少しずつ、着実に二人とも死へと近づいていく。ヴェリコイラは実に忠実に、効果的に二人を追い詰めていた。
「ヤルノ」
いったいどれほどの時間、その恐怖の中で時を過ごしていたのか。やがていよいよギアンテの呼吸も弱々しくなり、別れの時が近づいてきたようであった。
「近くにいますか? ヤルノ」
ヤルノはすぐ近くの床にうずくまっていたが、どうやら弱り果てたギアンテは目もかすんでそれすら認識できないようであった。
「ギアンテ、気を確かに持って。僕はここにいますよ」
彼女の方から声を掛けられてヤルノの精神もほんの少し持ち直したようであった。ギアンテの両頬を包み込むように両手を添え、鼻がつきそうなほどに近づいて話しかける。
「もう、私は長くありません。ヤルノ、私が死んだら、あなた一人だけでもここから逃げて。たとえ獣が待ち伏せていたとしても、あなた一人ならきっと何とかなるわ」
ヤルノは縋りつく目で訴えかける。言葉はない。しかしそれでも「死ぬだなんて言わないでくれ」と、そう言いたいのは雰囲気からギアンテは察した。
「私はもう、いいんです……十分に生きたし、あなたに会えて、幸せな人生でした。私みたいな非道な人殺しに、こんな幸福が許されていいのかと思うほどに」
覚悟はできていた。その彼女に唯一残された、最後の気がかりなことが、ヤルノだったのだ。自分の存在が足を引っ張って、彼の未来を奪ってしまうのではないかと。
正直言ってギアンテという足かせがなくとも今のヤルノにヴェリコイラの追撃をかわして小屋から逃げ出せるかは相当に怪しかったが、少なくともギアンテはそう感じていたのだ。
「最期に、伝えたいことが……」
「そんな事を言わないで!!」
随分と久しぶりに生気を取り戻したかのような強い言葉でヤルノが遮った。
「もう、私は助かりません」
「無責任な事を言うな! 僕に『人生』を与えてくれたのはあなたなんだ!! それを今更先に降りるだなんてことは許されないんだ!!」
「ヤルノ、あなただけでも……」
「ギアンテも僕を捨てるっていうんですか! この期に及んでそんなことッ!!」
二人の影が折り重なった。何度も何度もギアンテの言葉を遮るヤルノ。結局ギアンテはその先を口にすることができなかった。
ギアンテの体の中心に、彼の持つ短刀が深く突き刺さったのだ。
「くそっ、なんて霧だ……自分の足先すらも見えやしない」
この時期であれば常なること。小屋の外は、まるでミルクを零したかのように一面真っ白な霧で包まれ、ほんの二メートル先ですら何があるのか全く分からないような状態であった。
ヤルノが妄執に囚われたままなのか、それとも正気を取り戻したのかは分からない。しかしどちらにしろ小屋の外に出なければ話にならないのだ。
小屋の外にはヴェリコイラが手ぐすね引いて待っているのかもしれない。しかしそれでもなお、外に出なければ話にならないのは事実であった。
「……ォォーーーーン……」
びくりと顔を上げるヤルノ。どこか遠くで、犬の遠吠えが聞こえた。ヴェリコイラのものかどうかは分からない。だがおそらく鼻の利く猟犬は、この濃霧の中でも苦も無くヤルノを追い詰めるであろう。
「くそっ、来るなら来い! その喉笛掻っ切ってやる!」
台詞は勇ましいが及び腰で少しずつ前に進むヤルノ。だが次の瞬間空高く放り投げられたかのような衝撃が彼を襲った。
「うわ、ああああッ!!」
歩く先に地面がなかったのだ。咄嗟に身を反転させて地面に縋りつく。折れた肋骨がみしりと音を立てた。
実際には、ほんの一メートルと少しの段差があっただけである。だが視界を失っているヤルノには、まるで奈落にまで続いている断崖絶壁のように感じられた。
「こ、こんなところに崖なんて……? ここはどこだ!?」
周囲の地形を完全に把握しているわけではないものの、しかしこんなところに崖などなかったはず。そう思ったヤルノには、まるで何者かの魔法の力で、自分達がどこか異世界に閉じ込められてしまったのではないかと感じられた。
「じじいの……ヒルシェンの呪いか……? ここはいったいどこなんだ」
涙を滲ませながら段差の上に登り切る。折れた肋骨の痛みも、この恐怖の前では些事でしかない。
「とにかく、ここはダメだ……どこか他の場所を探さないと……元いた世界に、戻らないと」
半泣きの状態ではいつくばって移動しようとする。しかしその移動しようとした先から今度は聞こえてきたのだ。獣の唸り声が。
「オンッ! オンッ!!」
「うわああああぁぁぁ!!」
慌てて立ち上がろうとして転び、這って泣きながら小屋に戻っていくヤルノ。犬。の鳴き声はすぐに聞こえなくなったものの、その霧の向こうにヤルノは獣の気配を感じ続けていた。
「ヤルノ……」
「ギアンテ! もうダメだ、完全に囲まれている!! 森の獣に、僕たちは囚われてしまったんだ!!」
明らかに正気ではない。恐怖と焦燥感に駆られた表情を見せるヤルノに、ギアンテは名前を呼ぶ以上の事が出来なかった。
「もういいの、ヤルノ。私の事は……」
「そんなこと、言わないで」
ギアンテは、もう死の覚悟が出来ている。それを受け入れられないのはヤルノだ。ただ抱きしめ合い、無力さを感じる事しかできなかった。
その後もヤルノは何度も外への脱出を試み、段差に足を取られ、草木に絡まり、犬の鳴き声に怯えて戻ってきてを繰り返した。
緯度の高いグリムランドの夏、日は遅くまで出続け、時間の感覚もなく、白と黒の闇の中で二人は囚われていた。外界から隔絶され、ヤルノの言う通り本当に別の世界に飛ばされてしまったかのようだった。
小屋の中にいる時ですら犬の遠吠えがヤルノの精神を圧迫し続けた。
どれだけの時間が経ったのか分からない。霧と闇とにより、太陽の光が彼らに届くことは決してなく、昼と夜の区別がないどころか、どちらが上でどちらが舌なのかもわからないほどに方向感覚を失って、混乱していた。
食料も飲み水もなく、当然ながら医療品もない。ゆっくりと、着実にギアンテに死が近づいてくる。やがて来る『その時』に焦燥感を覚えながらも、ヤルノはただ、小屋の中で獣の遠吠えに怯える事しかできない。
恐怖に心をすり減らし、飢えと渇きに疲弊し、少しずつ、着実に二人とも死へと近づいていく。ヴェリコイラは実に忠実に、効果的に二人を追い詰めていた。
「ヤルノ」
いったいどれほどの時間、その恐怖の中で時を過ごしていたのか。やがていよいよギアンテの呼吸も弱々しくなり、別れの時が近づいてきたようであった。
「近くにいますか? ヤルノ」
ヤルノはすぐ近くの床にうずくまっていたが、どうやら弱り果てたギアンテは目もかすんでそれすら認識できないようであった。
「ギアンテ、気を確かに持って。僕はここにいますよ」
彼女の方から声を掛けられてヤルノの精神もほんの少し持ち直したようであった。ギアンテの両頬を包み込むように両手を添え、鼻がつきそうなほどに近づいて話しかける。
「もう、私は長くありません。ヤルノ、私が死んだら、あなた一人だけでもここから逃げて。たとえ獣が待ち伏せていたとしても、あなた一人ならきっと何とかなるわ」
ヤルノは縋りつく目で訴えかける。言葉はない。しかしそれでも「死ぬだなんて言わないでくれ」と、そう言いたいのは雰囲気からギアンテは察した。
「私はもう、いいんです……十分に生きたし、あなたに会えて、幸せな人生でした。私みたいな非道な人殺しに、こんな幸福が許されていいのかと思うほどに」
覚悟はできていた。その彼女に唯一残された、最後の気がかりなことが、ヤルノだったのだ。自分の存在が足を引っ張って、彼の未来を奪ってしまうのではないかと。
正直言ってギアンテという足かせがなくとも今のヤルノにヴェリコイラの追撃をかわして小屋から逃げ出せるかは相当に怪しかったが、少なくともギアンテはそう感じていたのだ。
「最期に、伝えたいことが……」
「そんな事を言わないで!!」
随分と久しぶりに生気を取り戻したかのような強い言葉でヤルノが遮った。
「もう、私は助かりません」
「無責任な事を言うな! 僕に『人生』を与えてくれたのはあなたなんだ!! それを今更先に降りるだなんてことは許されないんだ!!」
「ヤルノ、あなただけでも……」
「ギアンテも僕を捨てるっていうんですか! この期に及んでそんなことッ!!」
二人の影が折り重なった。何度も何度もギアンテの言葉を遮るヤルノ。結局ギアンテはその先を口にすることができなかった。
ギアンテの体の中心に、彼の持つ短刀が深く突き刺さったのだ。
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