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目を覚まして
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「あ、ああ……」
顔面蒼白となって、立ち上がったヤルノは数歩後ずさりした。
愛する人の体の中心には、短刀が深く突き刺さっている。彼が、刺したのだ。
「ち、違うんです……そんなつもりじゃ……ギアンテまで、僕を捨てるんだと思ったら、怖くなって……」
また一人になってしまうという恐怖からか、それとも快楽殺人の本能が捨てきれなかったのか。とにかく他ならぬ彼が、ギアンテにとどめを刺したのだ。
「……い、いいんです……それより」
しかしそれでもギアンテの表情には死への恐怖も、愛する人に裏切られたという怒りもなかった。ただただ穏やかな笑みで、ヤルノを招き寄せる。
おおよそ自分を殺そうとしている人間に対して取る態度ではなかっただろう。ギアンテは短刀も刺さったまま、ヤルノを抱きしめたのだ。
短刀を抜けば失血のショックで即座に意識を手放してしまうからか、それとも何一つとて彼の行動を今は否定したくないという気持ちからか。
とにかく、ギアンテは彼の殺意を受け入れたのだ。
「ヤルノ、人を殺すことで、幸せにはなれません……」
どの口がそんなことを言うのか。
彼女こそ、イルスの村の人間を一人残らず殺し、イェレミアス王子を王位につけるためにヤルノの人生を自分の思うように利用し、そして最後には殺そうとしていた人間なのだ。
しかしだからこそ、だからこそ分かるという事もある。
謀略を巡らせ、人の命を踏みつけ、そして彼女が得られたものは結局何だったのか。何も得られなかったのだ。ただただ、心を削り、そして最後には大切な人を失ってしまっただけだった。
そんな彼女が最後の時、最愛の人に伝えたい言葉が何だったのか。
「ヤルノ……」
抱き寄せたヤルノにもたれかかるように、最後の力を振り絞って抱きしめる。
「人を殺すのは、これで最後にしてください……」
強く、強く抱きしめていた。死の間際の人間が、これほどの力を振り絞ることができるのかと思うほどに。その力の強さが、彼女の全てだった。
それほどまでに、ヤルノの身を案じているのだと。心の底から心配して、彼に生きて欲しいと願っているのだと、言葉以上に重く語っていた。
それが分かったからこそ、ヤルノはもう彼女の言葉に反論することなどなかった。
なかったが、しかし強く抱きしめられていたからこそ、フッとその力が弛緩するのがより一層はっきりと感じられた。
「その時」がはっきりとわかった。彼女がここからいなくなったその瞬間が、はっきりと感じられた。
「ギアンテ、ギアンテ……?」
呼びかけ、ゆっくりと彼女を椅子の背にもたれかからせる。
「ギアンテ、眠ってしまったの? ギアンテ。目を覚まして」
頬を撫でても、体を揺すっても、もうぴくりとも動かない。
「ギアンテ、お願い、目を覚まして。どこか、ここではないどこかへ行くんでしょう。いっしょに」
涙が溢れ出てくる。声も震えている。彼とて分かっているのだ。それでも話しかけるのをやめることはなかった。
「一緒に行こうって、約束してくれたじゃないですか。お願い……目を……」
最後まで言葉にすることができず、ヤルノはその場に膝をついて崩れ落ちた。
もう、彼がいくら呼びかけようと応える声はない。思い出の中にしかギアンテはいない。消失してしまったのだ。死ぬとはこういう事なのだ。何をどうしようとも、彼女が応えることは決して、二度とない。
「あ……あ……」
震える両の掌を見る。
そこにはギアンテの返り血と、それに混じるようにぽたぽたと雫が絡み合う、自らの流す涙の露。
「ああああああああああああああああああ!!」
いったい飢えて死にかけている少年の体のどこにこれほどの大きな声を出す体力が残っていたのか。ヤルノは力の限りに叫び、自らの顔面を搔き毟った。
「ああ、そんな! ギアンテ! 僕が……」
思い出したことが一つあった。何故忘れていたのか。
幼い頃の思い出。初恋のあの子を殺した時の感情。もう二度と戻ってこない。決して応えることのない消失。これこそが死なのだ。失うという事なのだ。
ギアンテの言っていることがはっきりと理解できた。殺すことで得られる物など、何一つとして存在しないのだという事を。取り返しのつかない事をし続けてきたのだという事を。
「ギアンテ、お願い、目を覚まして! 誰か! 誰か助けて! 僕のギアンテが、こんなのって……誰が一体こんな酷いことを!!」
椅子に座ったまま力なく項垂れているギアンテの死体に縋りつく。
「かみさま、森の妖精たち、お願い、なんでもしますから。お願いだからギアンテを助けて。ぼくのいのちはどうなってもいいから、どうかギアンテをたすけて」
微動だにしないギアンテの死体から離れて身を反転させ、這いつくばって小屋の扉に向かう。もはや歩くことすらままならない。
「そうだ、もりのようせいに、ようせいたちにおねがいしてみよう。きっとなんとかしてくれるはずだ……」
焦点の合わない目と、震える手で何とかして扉を開けて小屋の外に出る。
外はやはり一面真っ白な霧が出ていて視界は無い。それでも何とか立ち上がって歩き出す。いったいどこへ行こうというのか。
「まってて、ギアンテ。かならず、たすけるから……」
しかし幽鬼の如く頼りない足取りで数歩歩くと、聞こえてくるのだ。
「オォーーーン……」
「ひぅっ……」
獣の鳴き声。
ヤルノは恐怖のあまり尻餅をついて後ずさる。もう立つこともままならない。生まれたての小鹿のように、這ってなお不確かなその足取りで小屋に戻る。
「けものが、リィングリーツのけものがぼくをころしにくる……」
固く扉を閉じて、取っ手を強く抑える。震えは治まりそうにない。
耐えがたいほどの孤独と恐怖が、そこにはあった。この世界にはもう、彼の味方などいないし、そうでない者もいないのだ。一人として。
いったいどれほどの時間が経ったのか。ヤルノは何度も何度も小屋の外に出ようとして、そしてそのたびに獣の気配に怯えて戻ってきて、を繰り返していた。ギアンテの体はとうの昔に冷たくなっている。
どれほどの時間が経ち、どれほどの日が経ってもその状況は変わりはしなかった。ヤルノはただ己の無力さを思い知らされ、そしてただの『もの』になったギアンテの体に、赤子のように縋りつくのだ。
「ギアンテ、おねがい……めをさまして」
顔面蒼白となって、立ち上がったヤルノは数歩後ずさりした。
愛する人の体の中心には、短刀が深く突き刺さっている。彼が、刺したのだ。
「ち、違うんです……そんなつもりじゃ……ギアンテまで、僕を捨てるんだと思ったら、怖くなって……」
また一人になってしまうという恐怖からか、それとも快楽殺人の本能が捨てきれなかったのか。とにかく他ならぬ彼が、ギアンテにとどめを刺したのだ。
「……い、いいんです……それより」
しかしそれでもギアンテの表情には死への恐怖も、愛する人に裏切られたという怒りもなかった。ただただ穏やかな笑みで、ヤルノを招き寄せる。
おおよそ自分を殺そうとしている人間に対して取る態度ではなかっただろう。ギアンテは短刀も刺さったまま、ヤルノを抱きしめたのだ。
短刀を抜けば失血のショックで即座に意識を手放してしまうからか、それとも何一つとて彼の行動を今は否定したくないという気持ちからか。
とにかく、ギアンテは彼の殺意を受け入れたのだ。
「ヤルノ、人を殺すことで、幸せにはなれません……」
どの口がそんなことを言うのか。
彼女こそ、イルスの村の人間を一人残らず殺し、イェレミアス王子を王位につけるためにヤルノの人生を自分の思うように利用し、そして最後には殺そうとしていた人間なのだ。
しかしだからこそ、だからこそ分かるという事もある。
謀略を巡らせ、人の命を踏みつけ、そして彼女が得られたものは結局何だったのか。何も得られなかったのだ。ただただ、心を削り、そして最後には大切な人を失ってしまっただけだった。
そんな彼女が最後の時、最愛の人に伝えたい言葉が何だったのか。
「ヤルノ……」
抱き寄せたヤルノにもたれかかるように、最後の力を振り絞って抱きしめる。
「人を殺すのは、これで最後にしてください……」
強く、強く抱きしめていた。死の間際の人間が、これほどの力を振り絞ることができるのかと思うほどに。その力の強さが、彼女の全てだった。
それほどまでに、ヤルノの身を案じているのだと。心の底から心配して、彼に生きて欲しいと願っているのだと、言葉以上に重く語っていた。
それが分かったからこそ、ヤルノはもう彼女の言葉に反論することなどなかった。
なかったが、しかし強く抱きしめられていたからこそ、フッとその力が弛緩するのがより一層はっきりと感じられた。
「その時」がはっきりとわかった。彼女がここからいなくなったその瞬間が、はっきりと感じられた。
「ギアンテ、ギアンテ……?」
呼びかけ、ゆっくりと彼女を椅子の背にもたれかからせる。
「ギアンテ、眠ってしまったの? ギアンテ。目を覚まして」
頬を撫でても、体を揺すっても、もうぴくりとも動かない。
「ギアンテ、お願い、目を覚まして。どこか、ここではないどこかへ行くんでしょう。いっしょに」
涙が溢れ出てくる。声も震えている。彼とて分かっているのだ。それでも話しかけるのをやめることはなかった。
「一緒に行こうって、約束してくれたじゃないですか。お願い……目を……」
最後まで言葉にすることができず、ヤルノはその場に膝をついて崩れ落ちた。
もう、彼がいくら呼びかけようと応える声はない。思い出の中にしかギアンテはいない。消失してしまったのだ。死ぬとはこういう事なのだ。何をどうしようとも、彼女が応えることは決して、二度とない。
「あ……あ……」
震える両の掌を見る。
そこにはギアンテの返り血と、それに混じるようにぽたぽたと雫が絡み合う、自らの流す涙の露。
「ああああああああああああああああああ!!」
いったい飢えて死にかけている少年の体のどこにこれほどの大きな声を出す体力が残っていたのか。ヤルノは力の限りに叫び、自らの顔面を搔き毟った。
「ああ、そんな! ギアンテ! 僕が……」
思い出したことが一つあった。何故忘れていたのか。
幼い頃の思い出。初恋のあの子を殺した時の感情。もう二度と戻ってこない。決して応えることのない消失。これこそが死なのだ。失うという事なのだ。
ギアンテの言っていることがはっきりと理解できた。殺すことで得られる物など、何一つとして存在しないのだという事を。取り返しのつかない事をし続けてきたのだという事を。
「ギアンテ、お願い、目を覚まして! 誰か! 誰か助けて! 僕のギアンテが、こんなのって……誰が一体こんな酷いことを!!」
椅子に座ったまま力なく項垂れているギアンテの死体に縋りつく。
「かみさま、森の妖精たち、お願い、なんでもしますから。お願いだからギアンテを助けて。ぼくのいのちはどうなってもいいから、どうかギアンテをたすけて」
微動だにしないギアンテの死体から離れて身を反転させ、這いつくばって小屋の扉に向かう。もはや歩くことすらままならない。
「そうだ、もりのようせいに、ようせいたちにおねがいしてみよう。きっとなんとかしてくれるはずだ……」
焦点の合わない目と、震える手で何とかして扉を開けて小屋の外に出る。
外はやはり一面真っ白な霧が出ていて視界は無い。それでも何とか立ち上がって歩き出す。いったいどこへ行こうというのか。
「まってて、ギアンテ。かならず、たすけるから……」
しかし幽鬼の如く頼りない足取りで数歩歩くと、聞こえてくるのだ。
「オォーーーン……」
「ひぅっ……」
獣の鳴き声。
ヤルノは恐怖のあまり尻餅をついて後ずさる。もう立つこともままならない。生まれたての小鹿のように、這ってなお不確かなその足取りで小屋に戻る。
「けものが、リィングリーツのけものがぼくをころしにくる……」
固く扉を閉じて、取っ手を強く抑える。震えは治まりそうにない。
耐えがたいほどの孤独と恐怖が、そこにはあった。この世界にはもう、彼の味方などいないし、そうでない者もいないのだ。一人として。
いったいどれほどの時間が経ったのか。ヤルノは何度も何度も小屋の外に出ようとして、そしてそのたびに獣の気配に怯えて戻ってきて、を繰り返していた。ギアンテの体はとうの昔に冷たくなっている。
どれほどの時間が経ち、どれほどの日が経ってもその状況は変わりはしなかった。ヤルノはただ己の無力さを思い知らされ、そしてただの『もの』になったギアンテの体に、赤子のように縋りつくのだ。
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