カナリア

至里

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004:リメンバー××?

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 懐かしい夢を見ていた。
 洗面台の蛇口のレバーにも、台に乗らないと手が届かないような頃のことだ。
 両親は忙しい人たちだった。だからよく祖父母の家に預けられていた。両親が家に帰ってこないのは『みんな』のためにがんばっているのだと、子どもながらに思っていた。だから「さびしい」「あそんで」「おはなしして」「いっしょにいて」そのどれもを飲み込んで、ひたすら勉学に励んだ。知識をつけて両親を手伝えるようになりたいと思っていた。両親が自分との時間を取れないのは仕事が忙しすぎるからなのだと。自分が勉強して手伝えるようになれば、きっと楽になる。時間ができる。そんなふうに子どもの頃は純粋に思っていた。いつしかそんなふうに自分に言い聞かせて、時折静かに顔を出す「本当に?」を見ない理由にしていた。
 祖父母は頑張っている俺を見て、応援してくれていた。直接何かを言われたわけではないが、やさしく見守ってくれていたのだろう。両親に会えない日が続いても、二人が代わりに愛情をくれていた。それを理解するのは、だいぶ後になってからのことだったが。
 幼い頃に母が珍しく一日中ずっと一緒にいた頃のことだ。洗濯ものを広げて干しながらなにやら楽しそうに鼻歌を歌っていた。良いことがあったときに母が時々歌うものだった。
 いつも同じところしか歌わないものだから、その部分しかメロディーを知らない。歌詞もはっきりと覚えていない。ちゃんと調べようともしなかった、埋もれていた記憶のひとつでしかなかった。

 ――――それだけでいい。

 あの時確かに耳元にはっきりと聞こえてきた。
 ノイズだらけになってしまった世界で、凛とした声を最後に聞いたのはいつだったろう。
 そんな歌詞だった気がする、と思いながら意識が表層に上がっていく。重かった目蓋が軽くなっている気がした。どことなく頭がすっきりしている。
 よかった。歩にもらった薬は効いたのかと安堵する。
 ぼんやりとした中にある充足感。あまりにも久しぶりだが、これはきちんと睡眠を取れたときの感覚で間違いないだろう。
 しかし、なんだか普段と違ってわずかな違和感がある。そういえば天井のライトはこんな形だっただろうか。薬の副作用か、久しぶりに眠れた反動なのか、ともかく頭がぼんやりとしていて深く考えられない。できることならもう少し眠れたらよかったかもしれないとどこかで思う。今回の睡眠薬も使い続けていればいずれ効かなくなってくる。ずっとそんなことの繰り返しだ。
 起き上がろうと手を動かすと何か引っ張られるような感覚がして、同時にちりっと痛みが走った。何事かと腕を見れば、そもそも着ている服も違うことに気付く。さらに腕からは何かが伸びているのが見えて、ここは病室かと思い当たる。右手には何もないことを確認してから枕元を探る。コールボタンを押すとそう経たないうちに部屋の扉がノックされた。
 入ってきた看護師が口を開いた瞬間、「坊ちゃま~!」と声がして病室に見慣れた顔が滑り込んできた。幼い頃から一緒にいる我が家のじいやのことだ。今回のように薬に頼ってばかりではどうのと口うるさく言ってくるに違いない。

土師はじ、起きたばかりでまだ頭が回ってない。説教ならまたに――」

 溜息をついてゆっくりと顔を上げると、土師はうっすらと涙を浮かべていた。年のせいか年々涙もろくなっている可能性もあるとはいえ、土師がそこまで取り乱すとは何事かと余計に脳が混乱してしまう。

「よかった……坊ちゃま……本当に……」

 ハンカチを取り出してと顔を覆う。久々にまとまった睡眠を取れた程度のことだというのに大げさすぎる。なんだこの反応は。
 俺はちらりと部屋の中で点滴やカルテを確認しながら様子をうかがっていた看護師に視線をやった。目が合うと看護師はにっこりと笑った。

芦葉あしばさんご気分はいかがですか~? 気持ち悪いとか、どこか痛いとかありますか?」
「…………」

 ふるふると首を振ると、看護師はうんうんと頷いて続けた。

「そうですかそうですか~。良かったです! 倒れたときに頭打ってる可能性もありますので、もう少し落ち着いたら念のため再検査しましょうね。しばらく眠っていたこともありますし、詳しくは検査後に担当の医師から説明を……芦葉さん?」

 看護師の説明に俺は思わず耳を疑った。
 しばらく眠っていた? この俺が?

「……ここに来てからどれくらい経った?」
「もう五日ほどになりますかね~。あ、お腹が空いたなと感じても、検査結果出て先生から説明もらうまでは水で我慢してくださいね。追加で何か検査するかもしれませんし」
「…………」

 俺が呆けている間に、看護師は体温や血圧をてきぱきと測っていく。やることが終わったのか「準備できたら呼びに来ますね~」とさわやかな笑顔を向けて部屋を出て行った。
 土師はずっとハンカチ片手に止まらない涙を拭い続けていた。
 俺はそんなに長いこと眠っていたのか?
 普段見ないような幼い頃の夢を見たのも、長いこと眠っていたからだろうか。

「維孝坊ちゃま……! 何事もなくお目覚めになられて本当に……よかっ……」

 土師が感極まってウッと声を詰まらせる。幼い頃から世話役兼教育係として側にいたが、そんな音を出して泣くところは初めて見たので少しだけ心配になる。

「土師、とりあえず落ち着け。…………それより、」
「ああ、私としたことが! どうぞ。坊ちゃまのアイグラスはこちらに」

 見慣れたデザインの聴覚補助用アイグラスを、土師が丁重に取り出してこちらへ渡してくる。受け取ったアイグラスをいつものように装着する。

「坊ちゃまが倒れたときに故障した可能性もありましたので、念のため修理に回しております。こちらは予備に作っておいたものですが、かけ心地など問題はないですか?」
「いや――」

 特に問題はない。
 そう言おうとしたが、あまりにも世界がクリアであることにようやく意識が追いつく。

「坊ちゃま?」
『坊ちゃま?』

 耳から入ってくる音、そしてアイグラスのテンプルつる部分のスピーカーから聞こえてくる特有のノイズが軽減されて聞こえてくる音。
 多少の音質の違いはあれど、その音はまさに。

「――同じだ」
「……坊ちゃま?」

 慣れたしぐさでかけたアイグラスを外し、耳をすませる。
 先ほどこそ我を忘れていただろう土師は、俺がアイグラスを外したことで余計なノイズを感じさせまいとしたのか口を閉じた。
 俺がいるくらいだ。ここの付近は個室も多いだろう。それでもかすかに聞こえてくる外の音はとても静かだ。正確には、静かというよりもとても自然的な音だ。長く聞くことのなかったクリアな音というものはこんなにも心地よかっただろうか。

「同じだ、土師」

 なにがでしょうか、と言いたそうな表情で土師は首を傾げた。

「今は……音が普通に聞こえる」

 思えば先ほどの看護師の声も、入ってきた土師の声も、何もかも普通に聞こえていた。

「……何か喋ってみてくれないか、土師」

 不安そうな表情のままの土師に、大丈夫だと頷いてやる。

「私めの声が聞こえますでしょうか。維孝坊ちゃま」

 小さい頃はきちんと聞こえていた土師の声。年を取ったせいか、こんな状況だからか、それとも緊張のせいかほんの少しだけ揺れているような気がする声。
 それでもとてもやさしい声音なのは変わっていない。ノイズのない土師の声を聞くのはいつ以来だろう。そうだ、お前はそんな声だったな土師。

「――――ああ」

 短い眠りについても、以前聞かされた『カナリア』の声でも改善されなかった『ケージ』特有のノイズ。年々強くなる音に悩まされ続けてきたが、その音がぴたりと止んだ。ノイズの少ない歩との会話ですら、今よりもノイズがあったというのに。

「維孝坊ちゃま~~~~……!」

 ぎょっとするほど急に土師の声にノイズがのったと思ったら、ノイズの影響ではなく号泣によるものだった。
 そうだ、人はノイズなんかなくたってそんな音が出せるんだったな。

「お前はノイズがなくても騒がしいな、土師」
「誰のせいで私がこんな状態になっていると思っているんですか!」
「はは、悪い」

 音は人の記憶に残りやすいと聞く。確かにそうだとノイズのない土師の声を聞いて思った。祖父母の声も記憶の中では鮮明に思い出せる。
 けれど、俺は夢にまで見た母親の声をもう思い出せそうにはなかった。



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