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しおりを挟むプロローグ
希美香は今、恐らく人生最大の危機を迎えている。
目の前にあったはずの自動販売機は消え、代わりに現れたのはいびつに捻じれた樹木と、それに絡みつく赤茶色の細い蔦。
石畳で舗装されていた足元は、枯れ葉が重なった黒い土と、ごつごつした剥き出しの岩に変わっている。
街灯の明かりも無く、満天の星と月明かりに照らし出された周囲の景色は、まさに山林連なる大自然。
山の中腹辺りにある展望台から見るような景色だが、現代日本の夜景はどこにも見当たらない。希美香は、今まさに自動販売機のボタンを押そうとした姿勢のまま、しばし固まっていた。
吹き抜ける冷たい風に肩を震わせ、改めて周囲を見渡してみるも、やはり見覚えの無い大自然が広がっているばかり。
「どういう事なの……?」
ここはどこなのか?
「――分からない」
自分は誰なのか?
「――南田希美香。十八歳……うん、自分の事は覚えてる」
高校卒業と同時に田舎を出て、都心で一人暮らしを始めた。働きながら学校に通う大学生。今日は夜中にジュースが飲みたくなり、近所の自動販売機まで買いに来た。
しかし硬貨を投入して購入ランプが点いた瞬間、突然周囲の明かりが消えたように暗くなった。そして、この状況である。現状に至る原因も理由も見当たらない。
その時、周りには誰もいなかった。車も走っていなかった。故に、事故に巻き込まれて意識不明で夢を見ている、という訳でもない……と思われる。
「どうすりゃいいのよ、これ……」
途方に暮れるとはこの事かと実感する。本当に何をどうすればいいのか分からない。何をするか以前に、何を考えればいいのかさえ分からない。
とりあえず現状について考えてみたが、何も分からない事が分かったくらいだ。溜め息を吐いてその場に座り込む。
(町の中で神隠し? 田舎の裏山じゃあるまいし、そもそも都心でそんな事が起きるの?)
ここがどこかの山だったとして、まずは下山するべきか。下りるにしても道が分からないので、遭難しないよう山頂を目指すべきか。
(確か山で遭難すると、救助費用は自腹だったような……)
座り込んだままぶつぶつと考え込んでいると、手の平に何か違和感を覚えた。
「なにこれ」
見てみれば、何か小さい粒が沢山くっついている。最初は手をついていた地面の土かと思ったが、よく見ると黄色っぽい粒々だ。
星々と月明かりを反射してキラキラ輝いている。
「綺麗……」
――などと少し現実逃避していたら、ザクザクという土を踏みしめるような音が近付いてきた。思わず身体を硬直させた希美香が音のした方を見ると、大きな鞄を背負ってポンチョのような毛皮のマントを纏った外国人風のおじさんが、ランタンを片手に訝し気な表情でこちらを見ていた。
しばしそのまま見つめ合い、やがておじさんが話し掛けてくる。
「え……何語?」
しかし希美香にはサッパリ理解できない言葉だった。聞き取れそうな単語が一つもなく、明らかに英語とは違う響きの言葉に戸惑う。
すると、おじさんは身振り手振りで何かを伝えてきた。『オーケー、ちょっと待ってな』とでも言っているかのような雰囲気を見せると、腰の鞄からお札のような紙の束を取り出す。
その束から一枚抜き出したおじさんは、希美香に何事か話し掛けながらゆっくり近付き、紙を希美香の額にそっと押し当てた。その瞬間、希美香の頭の中を何かが通り抜けたような感覚が走る。
「これで言葉が通じると思うが、どうかな? お嬢さん」
「っ! え、え? なにこれどうなってるの? 同時吹き替え?」
急に言葉が通じるようになって驚く希美香。最初は、外国人っぽいおじさんがいきなり日本語を喋り出したと思ったが、よく見れば口の動きと言葉が全然合っていない。まるで吹き替えの映画を見ているような感覚だった。
「おや? 呪符型の魔導具を見るのは初めてかい?」
「魔導具……?」
未だ半分呆けている希美香に、おじさんは自己紹介を始める。
「俺はラグマン。渡りの行商人をやってる者だが、疎通の魔導具が無くて困ってるんならこいつを安く売るぜ? 他にも何か助けが必要なら力になれる」
「あ、あの! その前に、ここがどこなのか教えてくれませんか?」
自身の事を『渡りの行商人』と語ったおじさん。彼の『助けが必要なら力になれる』という言葉で我に返った希美香は、今現在、自分が置かれている状況を話して、ここがどこなのかを訊ねる。
希美香の話にしばし耳を傾けていた渡りの行商人のおじさん――ラグマンは、顎に手を当てながら「ふむ」と呟き、おもむろに言った。
「……あんた、『彷徨い人』かもしれないな」
「彷徨い人?」
ラグマンの説明によると、ここは希美香のいた世界とは違うらしい。大昔の大魔術戦争で使用された召喚魔術による空間の歪みが、未だ各地に残っていて、稀に異界から何かが召喚されるのだとか。
「戦争当時、大体は異形の怪物が召喚されていたらしいが、人間が召喚された例もあると聞く。それを彷徨い人と呼んでいるんだ」
「えー……」
のっけからファンタジックでオカルトチックな話だったが、実際に魔導具の効果を体験しているし、今こうして知らない世界にいるのも事実。この現状については僅かながら解明されたものの、事態は一ミリも改善していない。
希美香は「どうしよう」とやっぱり途方に暮れた。ラグマンはとりあえず街に行こうと提案する。
「どの道、こんな山奥で一人じゃあ生きていく事も出来ないだろう」
「そうですね……」
よろしくお願いしますと頭を下げる希美香に、彼は軽く笑って頷いた。
第一章 彷徨い人
多くの宝石や貴金属が採掘される事から、宝石の国と謳われているトレクルカーム国。その領内に点在する街の一つに、カンバスタの街があった。
カンバスタ山脈の麓にあるこの街は、黄金や宝石などを主な収入源にしている。
「眠れなかったのに身体が軽い」
「あー、そりゃ世界を渡っちまうなんて稀な体験をして興奮状態にあるのかもな。落ち着いてから一気に疲れが来る事もあるだろうから、休息はしっかりとっておいた方がいいぞ?」
昨夜遅く、ラグマンの案内でカンバスタの街に到着した希美香は、行商人向けだという休憩小屋のような安宿で一晩過ごした後、彼に連れられて領主の館に来ていた。
ラグマン曰く、領主に『彷徨い人』として客人待遇で受け入れてもらえれば、少なくとも衣食住には不自由しないだろうとの事だ。
「他の誰も持ってないような珍しいモノの所有は、貴族のステータスみたいなものだからな」
「うーん、私って珍獣扱いになるのか……まあ、知らない世界で野垂れ死ぬよりはマシだけど」
謁見者用の質素な椅子にラグマンと並んで座り、ヒソヒソと言葉を交わす希美香。もうすっかり親しい友人同士のように打ち解けている。
若い女性が、知らない世界の知らない土地に一人放り出され、これまた知らない男性に拾われて、知らない街の大きな屋敷に連れてこられたのだ。多少親切にされたからとて、普通はもっと警戒しそうなものだが、ある意味、開き直っている状態にあった。
警戒しようが不信感を抱こうが、何か起きてもどうこう出来る立場に無い。もうなるようにしかならないのだ。投げやりになっていない分だけ、まだ前向きと言える。
やがて、領主らしき若い紳士が謁見部屋に現れた。ラグマンと希美香は揃って椅子から立ち上がる。
カンバスタの街の領主、クルーエント伯爵は、行商人の隣にいる風変わりな恰好の少女をちらりと見た。少し訝し気な表情を浮かべつつ、一段高くなっている所の椅子に腰掛ける。
「よく来たな、渡りの行商人よ。何か売り込みたいものがあるそうだが?」
そう問い掛けられたラグマンは、まずは丁寧な礼をしながら挨拶の口上を述べ始めた。希美香は予め彼に教えられた通り、斜め後ろに控えて畏まっている。
「この度は私どもの面会を許可して頂き――」
「ああーよいよい、堅苦しい挨拶は抜きだ。して、何を売りたいのだ?」
早く商品を見せろと、せっつくように促す伯爵。普通、領主というのは売り込みに来た商人に足元を見られないよう、尊大に振る舞うものなのだが、伯爵にそのような態度は見られない。ラグマンは『珍しい事もあるものだ』などと思いながら、希美香の事を紹介した。
「彼女は昨夜、カンバスタ山脈の山奥で保護した『彷徨い人』でして、名はキミカと申します」
ラグマンの紹介を受けた希美香が頭を下げる。
「彷徨い人、だと?」
クルーエント伯爵は、前のめりだった姿勢を戻して椅子に深く腰掛け、溜め息を吐いた。何だかあからさまにテンションが下がっている。
実際、掘り出し物を期待していた伯爵は、思いっきり当てが外れて内心がっかりしていた。
長引く不況で街の財政は赤字続き。鉱山の採掘量は減る一方で、王都に納める年貢も期日に間に合うかどうかの瀬戸際。オマケに渡りの行商人が彷徨い人を売り込みに来た。
実は凶兆の象徴とも謂われる彷徨い人。好景気の時なら余興にもなるが、このどん底の不景気のさなかに現れるとは、トドメを刺しに来たとしか思えない。
「はぁ……もうどうにでもなれ」
投げやりになった領主はそう呟くと、何か特技は無いかと希美香に訊ねる。
「特技がなければ、異界の知識でも技術でも何でもいい」
そう促すクルーエント伯爵は、王宮に居る上級貴族達の気を引けるような珍しい要素があれば、ダメもとで王都に献上して年貢代わりにさせてもらおう、とか考えていた。しかし――
「うーん、急に言われても……」
特技はと聞かれても、希美香は何も思い付かなかった。ジュース代の一三〇円だけ握り締めて家を出て、着の身着のままこちらに飛ばされたので、自分の身体と衣服くらいしか無い。異界の知識と言われても、現代技術を語れるほど理解している訳でもなし。
「特に無いです」と答える希美香に、領主は「まあ、そうだろうな」とがっくりしていた。
この世界に稀に現れる異世界人。彼等がこの世界にもたらしたものといえば、未知の疫病だったり、異界の神話に基づく奇抜な価値観だったりで、あまり役に立った例は耳に入らない。
役に立った例を一つ挙げるとすれば、王都にある特別な区画『実りの大地』は『その昔、彷徨い人が作り出した』という説もあるが、これも眉唾モノとされている。
「もういっそ未知の恐ろしい病気でも持ち込んで、この街を壊滅に追いやってくれれば、王都に見捨てられて朽ち果てるよりはマシかも――」などとネガティブな思考に沈んでいる領主は、うっかり口に出してしまっている事にも気付いていない。
(だ、大丈夫なの? この人……)
すっごい後ろ向きだなぁという印象を持ちつつ、大汗マークなど浮かべている希美香。俯いてブツブツ言っていた領主は、はたと我に返って顔を上げると、おもむろに告げる。
「あい分かった。貴女を客人として我が街に受け入れよう。適当に世話人を付けるから、適当に街の見物でもして、適当に過ごしてくれ。謁見終わり終わり――ああ、年貢どうしよう……」
希美香の受け入れを、次第にテンションを下げながら表明したクルーエント伯爵は、また何事か呟きながら謁見部屋を出ていった。
残された希美香とラグマンは顔を見合わせる。
「何か、ものっそい適当に受け入れられた」
「ははは、まあ住む場所が出来て良かったじゃないか」
素直な感想を述べる希美香に、ラグマンは苦笑しながら返す。言われてみれば確かに、こんなにあっさり受け入れられたのは幸運であった。これでどうにか、明日からも生きていく事が出来る。
「うん……ありがとう。ラグマンさんが親切な人で良かった」
希美香は改めて渡りの行商人に礼を言う。実は希美香に『疎通の呪符』を売りつけた時にもらった黄色の粒々(なぜか希美香の手の平にくっついていた砂金)でしっかり儲けも出しているラグマンは、少し視線を逸らしつつ頭を掻いた。
「それじゃあな、嬢ちゃん。元気でやんな」
希美香の世話係がやってくる前に、ラグマンはそう言って謁見部屋を出ていった。そのまま領主の館を後にして、街で商品を仕入れたり、受注したりといった本来の仕事に戻るらしい。
自身の他は執事さんだけが残っているこの部屋で、希美香は世話係の人を待ちながら、これからの事を思う。
(まずはこの世界の常識とか色々聞かないと……)
意外に冷静でいられる自分の適応力にちょっと感心しつつ、昨日の今日で大きく変わってしまった環境に一息吐くと、改めて室内を見回す。
領主の館の謁見部屋というだけあって、この世界でも結構な上流階級なのであろう事が分かる。いわゆる貴族という種類の人達が住む家。
部屋一面に敷かれた赤い絨毯。縦長の窓枠と束ねられた重厚なカーテン。アンティークショップなどに見られる雰囲気とは少し違うけれど、何となく全体的に高級感がある。
(調度品が少なくて広々してるから、意外と質素に感じるのかも。ここまで広くなくていいんで、個室は欲しいなぁ)
細かい彫刻で飾られた椅子やテーブルを眺めながらそんな事を考えていると、扉がノックされた。執事さんの許可を得て、小綺麗な恰好の少年が入室してくる。
少年は、執事さんにお辞儀をした後、希美香の前にやってきて挨拶の口上を述べた。
「今日から貴女様のお世話を言い付かりました、ユニと申します。よろしくお願いします」
「あ、こ、こちらこそ、私は希美香といいます」
庶民には全く縁の無い『従者』的な存在に、希美香は思わず緊張しながら挨拶を返した。
金髪碧眼で整った顔立ちに、薄らと見えるソバカスが特徴的な、素朴な感じのする少年。希美香より身長も低く、年下っぽい雰囲気だ。
「では、お部屋に案内いたしますね」
「あ、よろしくお願いします」
領主の館を後にした希美香は、ユニ少年の案内で別の建物へ向かう。その道すがら、色々と話を聞いた。
ここカンバスタの街は、宝石の国と謳われるトレクルカーム国にある街の一つである。この国は、大昔に起きた大魔術戦争の影響で、作物が育たない不毛の土地と化していた。その代わり、これも大魔術戦争の影響か、色々な希少鉱石が地中に埋まっているという。
特に、魔力を含んだ特殊な鉱石類が比較的多く産出される。他所の国では滅多に採掘されない『魔法鉱石類』は、トレクルカームを大国たらしめる象徴であり、同時に他国からの侵略を招く災いの種でもあった。
不毛の土地故に、食糧は年中不足気味。だが王都にのみ、『実りの大地』と呼ばれる豊かな土地があり、沢山の作物が採れるらしい。
魔法で耕されたという言い伝えのある『実りの大地』。そこで生産された作物が、王都に納められる年貢に応じて各領主に分け与えられる。
街によって王都に納める年貢には種類があり、機械油や鉱物などの他、織物や工芸品などの原料となる品を納めている街もあるそうだ。
「そう言えば、領主の人が年貢どうしようって言ってたね」
様々な魔導具や加工品などの技術は全て王都に集中しており、他の領地には生産体制が全くない。年貢が納められず王都に見捨てられた街は、打ち捨てられた木の実の如く、野盗に喰い荒らされて朽ちていくしかないのだ。
「みんなで他所の街や王都に移住とかは?」
「領民は一生その領主の街に結び付けられるので、移住は出来ないんです」
領地が滅ぶ時は、領主も民も一緒。異界から来た『彷徨い人』や渡りの商人達だけが国内をある程度自由に往来できる。
とはいえ、渡りの商人は定住の権利を持たないので、一つの街には一定の期間しか居られない。
「ふーん、そんな風になってるのか……彷徨い人がある程度自由に往来できるのはどうして?」
「それは……大魔術戦争の名残で喚び寄せられた彷徨い人に対して、この国が加害者的な立場にあるから、というのが表向きの理由になっています」
でも――と少し声を潜めたユニ少年は、建前に対する本音的な理由も教えてくれた。
彷徨い人は、稀な存在ではあるが、割と人々に広く知られている。
この国の歴史が記された資料には、彷徨い人を冷遇した結果、その街が大きな被害を受けたとか、彷徨い人の知識から奇妙なブームが生まれ、結果的に収益に繋がったなどのエピソードが、いくつか綴られているらしい。
大抵の彷徨い人は、特に記録に残るような騒動も活躍も無く、静かに余生を過ごしてこの世界の大地に眠る。だが、ごく稀に大騒動を引き起こす事もあった。
その街では対処しきれないような事態が起きた場合、対応できそうな他所の街へ移ってもらう――彷徨い人にある程度自由な往来が許されている背景には、そんな事情があるという。
(要はババ抜きのジョーカーなのね……)
希美香は自分の立場をそんな風に理解しつつ、もう一つ引っ掛かる事を訊ねた。
「彷徨い人の扱いは何となく分かったけど、そんな厄介な存在はとっとと処分しちゃえーってならないのはどうして?」
「……それをやった街が、過去に壊滅したという記録が残っているんですよ」
その記録によれば、彷徨い人を処刑した直後から街に謎の疫病が蔓延。治癒魔術もほとんど効果が無く、領主一族は全員が死亡して、家系が途絶えた。だが、彷徨い人の処刑に関わった者全てが死に絶えた途端、疫病はピタリと治まったという。
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